これが沖縄ワークショップ!
人と人の距離感が近いということが、良い方向に影響を出している。
ワークはもちろん難しい。
「出来ない」「理解できない」の二重苦だ。
それが何を生むか?
それが関係を生むのだ??
互いに工夫を重ねる、他の組と工夫をする。
つまり、出来ないからこそ、そこに関係が生じていくのだ。
「人間関係」のワークを、知識にしても、理解しても意味が無い。
その事を「実践」してこそ、体感が生まれるのだ。
もちろん、実践的に学ぶということであれば、そこに実践は生まれない。
「学ぶ」という枠にはまるからだ。
お互いに、工夫を重ねている時何が起こっているのか。
知的好奇心を満足させているのではなく、関係性の実際がそこに出来、つまり、関係が生じて、何かが生まれるのだ。
今回は、お土産付きの夏の沖縄ワークショップ。
渡嘉敷島への海水浴だ、慶良間ブルーが本当に美しかった。
海は台風の影響もあり、適度にうねり砂が巻き上げられ、海そのものの粘度がある、という感じだ。
僅かな時間だったが、今年初の海は素晴らしかった。
ついでに、バーベキューパーティ。
これも、よく考えると生まれて初めての体験だ。
「俺、これ始めてや」と言うとみんなが「え〜!」それくらい普通の事なのだろうと、今日、初めて知った。
沖縄の最終日に、最高の盛り上がりがあった。
全員が一丸となり、拍手の嵐。
こればかりは、会場にいた人にしか分からない。
私の「達成感の無いワークショップへようこそ」は、その通りなのに、本当に沢山の人が受講してくれ、しかも最後にとてつもない盛り上がりを見せた。
達成感が無いというのは、たかだか2時間で達成できるものではない、というワークだということだ。
受講者は、その事を承知している。
とはいうものの、何か手応えが欲しい、それが人情というものだ。
しかし、それもない。
というよりも、手応えという事を決めるのは自分だ。
だから、自分がどんな方向性を持って取り組んでいるのかが大事なのだ。
「分かりません」と声がかかる。
「何が?」と私は聞き返す。
「見たままですよ」と続ける。
つまり、「見たまま」という事が、身体に根付いていないのだ。
それよりも「納得」「理解」を優先するし、そちらに価値を置いているからだ。
「分かるのですが出来ません」「いや、分かるから出来ないのですよ」と答える。
ここを乗り越えなければ、変化の激しい現実に対応できないのだ。
明日は大阪へ、そして道場の修理。
「何時まで道場を修理するんや?」大阪の知人の言葉だ。
「先生ね、私はね『感謝』という言葉は持っていません。そりゃね、人さまから何か頂いたり、何かしてもらったら感謝しますよ。でもね、何か分からないものに感謝などしたことも無いし、出来ませんよ」
これだけ明確に「感謝を持っていない」という言葉を、公の電波から聞いたのは初めてだ。
画面の前で思わず大笑いをした。
書家の篠田桃江さんと、お亡くなりになられた医師の日野原先生との対談の一コマだ。
日野原先生が「生きているということに感謝」というようなことのお話を受けてだ。
お二人とも、20歳代で肺結核を患っておられた。
そして、お二人とも「死ぬのだな」と感じたそうだ。
当時の医療では、肺結核は死の病だ。
私が小学生の時でも、死の病だった。
学校の先生が肺結核で入院された時、「死」ということを想像したものだ。
それこそ、共通の出来事なのだが、捉え方の違いが浮き彫りになっているのが、相当面白かった。
敬虔なクリスチャンである日野原先生の口から出る言葉は、その宗教に由来している事がよく分かった。
そうお話になった篠田さんをフォローするように、「私と共通しているものがありますね」とおっしゃった。
即「いいえ、私と日野原先生に共通点などこれっぽっちも有りませんよ。先生はどちらかというと、神に近い存在です」
あくまでも、「自分」という世界を貫いている姿には、私如きが言葉を出せない。
そういえば、私自身の中に「感謝」という言葉はあるのか、と改めて問うてみた。
実は無いのだ。
というより、「生かされている事に感謝」には、何を血迷っているのかと嫌悪感さえ持つ。
何のことやら分からない事、分からない言葉は持ち合わせないようにしているからだ。
篠田さんのお話を聞き、自分の甘さに気付かせて貰った。
沖縄の初日が始まった。
おっと、珍しい顔があった。
思えば、私が初めて沖縄でワークショップを頼まれた時に、出会ったダンサーだ。
だから10年前になる。
当時は、フランス・リヨンのコンセルヴァトワールの学生で、フランス語の通訳の為に沖縄に帰っていた。
私とそのコンセルヴァトワールでバレエを教えているドミニク先生が、時間をずらしてのワークショップだった。
その時と、その明くる年に会い、パリでダンスを仕事としてから1回出会ったキリだ。
だから、今回はそのフランスから帰国したダンサー、カナダ・トロントから帰国したダンサーと海外組が二人いた。
後、常連のバレエの先生達や、その生徒達も集まっていたので、そこだけ見るとダンスワークショップのようだった。
また、県外組も今日、明日と8人程集まる。
今日は、思ったほど沖縄らしさが出なかった。
つまり、静かだったのだ。
明日は気合を入れて盛り上げよう。
打ち上げは、楽しく厳しく盛り上がった。
103歳の書家篠田桃江さんと、先日お亡くなりになった日野原医師の対談を見た。
「私には謙虚さを持ち合わせていない。一本線を引くでしょう、その線を見た時、私はもっと素晴らしい線を引ける筈だ、と考えるのです」
「私は一切進歩はしていないですよ、未だにそそっかしくて、この間もひっくり返ってこちらに入院したのですよ。無駄に生きたものだと思いますよ」
それらの言葉の裏には、本当に何もない。
あるのは確たる篠田さんだ。
「素晴らしい」等という言葉を掛けられる程、篠田さんは軟じゃない。
何人も寄せ付けない凛とした強さがそこにあった。
明日は13時スタートだ。
これを引き摺るか否か。
明日にならなければ分からない。
沖縄の初日は、ダンスワーク。
今回は、トロントで踊るめぐみちゃんも帰国していたので、そちらにシフトしたワークとなった。
デュオ、意識の同調など、舞台では必要不可欠な要素を練習した。
もちろん、今すぐに出来る事ではないが、「そうする」ということを知っているのと、知らないのとでは時間の中で、確実に差が生まれる。
最後は、リーダーの流れに乗る、そして創り上げる。
即興の基本となる稽古だ。
即興だからなんでも良いのではない。
即興だからこそ、こうならなければいけない、があるのだ。
単なる動きなのかダンスなのか。
見られているだけなのか、見せているのか。
見せているとしたら「何を」そんな、当たり前のことのワークで汗を流した。
昨年の夏は、これで熱中症気味になったので、水分の補給を忘れずに。
明日から本土組が乗り込んでくる。
暑い沖縄で、熱くなれるかな?
「沖縄ぜんざい」
本土のぜんざいは大豆だが、こちらは金時豆。
そのぜんざいの上に蜜もミルクもない、そのままのかき氷。
食べ終わると、口の中はさわやかな感じ。
夏と言えば毎年旅だ。
バレンシアがあり、福岡・沖縄と続いていた。
今年は、バレンシアや福岡が変更になり8月盆過ぎになった。
おかげで、数年ぶりに日本で夏を満喫している。
今から沖縄へ向かうので、伊丹空港で出発待ちだ。
人間は直ぐに順応する。
特に私は順応しやすい。
もしかしたら、それは特技かもしれない。
ただ、「あかん」と思った事や場所では順応しないばかりか、完全に反発する。
困ったものだ。
毎年の流れに順応してしまっているから、そこが変わったら少し戸惑う。
今回の事で言えば、書いているように季節感を感じないのだから不思議だ。
でも、来年になると、この変化に順応してしまっているかもしれない。
先日は「人は一瞬で変化する」がどこかへ行ってしまった。
これも私の特徴だ。
だから、自分でもどこへ行くのか分からないのだ。
「日野さんの目指すものは何ですか」と、杓子定規な質問が一番困る。
質問した人は、何を期待してその質問をしたのかがさっぱり分からないからだ。
そして、どこを目指しているのかは、自分でもさっぱり分からないからだ。
むしろ、どこを目指して泳いでいるのかを知りたいくらいだ。
ただ、泳いでいるのは確かだ。
遥か彼方に幾つか島があるのかもしれない、その程度の目指すものだ。
ただ、今、泳いでいる事には全力だ。
だから、当然前に進む速さや力は並ではないだろうと自負している。
「人は一瞬で変化する」というのは、体験的な認識だ。
自分の思考や感覚が、昨日とは完全に違う、それを実感した時は、「どうなっているのか?」と自分自身の病気を疑った。
いわゆる精神病だ。
しかし、「どうなっているのか?」という自分を客観的に見ている視点を持っている。
だから、完全な精神病ではないだろうとは思った。
それくらい変わってしまうのだ。
だから、昨日の続きに今日なのだが、それはどこかで飛躍する事もあるし、飛躍するのが成長なのだろう、という私の解釈だ。
沖縄出発まで、後30分。