早朝東京を発ち、熊野の道場に帰った。
金木犀の甘い香り、野菜の瑞々しさが、人の住むところだと再確認させてくれた。
台風があったにも関わらず、水は嬉しい事にちゃんと出ている。
掃除を終え、一寸一服。
ここに来て重たい話を沢山聞く。
その度に思うのが「本気で生きろよ」だ。
岡山の高校生は、ある意味で元気は良い。
しかし、どこか現実離れしていた。
リクエストで正面向かい会いをしたが、誰も私の前にはいなかった。
赤ちゃんは、ちゃんといるのにどうしてだろう?
もちろん、それは改まるからだ。
しかし、改まったところで自分は自分でしかない。
どうして、赤ちゃんの時期を過ぎると、人はいなくなるのか。
いなくなるというのは、文字通りの事ではない。
「わたし」が何かを「意識する」から、「わたし」が希薄になり、当然対象者としての「あなた」は姿を消すということだ。
つまり、私の前にいなかったのではなく、皆の前に立つ私が対象ではなく、自分の「意識と意識の中」という脳内わたしが対象だということだ。
来週は「武禅」だ。ここのところを徹底的に突っ込み合う。
「いません」「気持ち悪いです」と。
それでも脳内わたしから這い出て来ない。
つまり、「本気」とは一番縁遠いところにいるのが大方の人だ。
さて、自分でどう修羅場を作り出せるか。
今日は、高校生のダンス部が受講していた。
その先生たちは、岡山WSの補佐的役目を担ってくれている。
そんな関係の中での高校生の受講だ。
今年の高校2年生は、出来が良いと先生は言う。
そういえば、本部に来る空手部の顧問の先生も、2年生は出来が良く、そのチームで団体戦で全国大会に出場を果たしている。
しかも、大半が空手の経験は無い。
そういった年回りがあるから不思議だ。
何がどう関係しているのかは知らないが、とにかく今年の高校2年生は出来が良いそうだ。
明日は相撲部の高校生が来る。
明日でワーク・ショップは終わりだ。
今日は、走り回ったので身体がバキバキだ。
そういえば、今日面白い質問があった。
私が日頃走っているのか?という質問だ。
「どうして?」と聞くと、その走り回った姿を見ていたからだ。
屁理屈ではなく私は、走ってはいない。
その場から次の場へ速くという目的である。
もちろん、現象としては走り回っている。
その姿をどう捉えたかが、例えば、質問の「走る練習をしているのか?」になるのだ。
そこへ焦点をあてると、やっていることの目的が見えてこなくなる。
高校生という年齢の子供たちは、たまには人の紹介で来ることがあるが稀だ。
だから、今回はその意味で興味があった。
私が指示を出し、その事が行われる。
そうすると、彼や彼女たちは何をやっているのか分からなくなる。
それは何故か?と考えて見る。
当たり前の答えとして、高校生達は「言われたこと」をやっているだけだからだ。
言われた事→自分で考える→そして実行する、という図式がまだ刷り込まれていないということだ。
多分、そこが年齢として最下層部だろうと思う。
そこから年齢を重ねて行くと、益々自分で考えて、という重要な部分が抜け落ちて行くのだ。
さあ、明日は最終日、身体のバキバキさを何で誤魔化すかだ。
飛び込みも大丈夫ですよ。
明日からは岡山ワークショップです。
http://tarkovskii1932.wixsite.com/hino-workshop
岡山初日。
昨日の稽古が祟って足腰がバキバキ。
とはいっても、私はさほど転げていない。
「転んでは起き」を1時間30分も続けると、さすがにバテる。
晴れの国に似合わず、どんよりとした曇り空に、時折小雨がちらつく。
だから、さすがに冷える。
今日から福島や高知、沖縄、東京等の遠方組が参加する。
思いがけず、広島から競輪の西岡選手が顔を見せてくれた。
「ペタルのキック、これをコンマ1秒くらい入れれたらええんと違うかな」「明日からレースですけど、早速やってみます」
感覚の鋭さと呑み込みの良さ。
それだから、フォーム作りのコラボは面白いのだ。
指示を出す→やってみる→結果が出る。
この図式程、効率の良い方法はないだろう。
ワークは、例により「胸骨」からだ。
背骨に移り、相手の背骨を感じ取ることで、相手を起き上がらせる。
これは相当難しいのだが、何となくこなしてしまうのが素晴らしい。
正面向かい合いは、刀を構えてみた。
そうすると、やはり全員の「やるべき事」が統一され、意識がクリアになる。
そうすると、全体の集中力が増す。
相当難しいワークになったが、全員めげずに黙々とこなす。
集中力の賜物だ。
明日は、高校のダンス部が団体で受講する。
それはそれで楽しみだ。
明日は晴れそうです。
岡山へ足を伸ばしてみませんか!
http://rcokayama.nomaki.jp/
「捕らわれては水に浮く木の身をもてし浪にまかせつ風にまかせつ」という古流柔術に残る謡。
正に関係だ。
絶対にここだと確信を持ったのは、25年程前だろうか。
もちろん、「ここだ」というのは、私の歩いている方向ということだ。
しかし、全体を捉えるのではなく、まだ部分に拘っていた。
それは「感じる」である。
もちろん、これらは、もっと遡るのだが、全体がモヤッとしていたのだ。
という時間があり「関係」と明言出来るようになったのだ。
つまり、言葉一つにどれほどの時間を費やさなければ、自分自身の手には届かないかだ。
もちろん、人それぞれだから、そうでなければならないことは無い。
ただ、私は拘っているということだ。
私にとっては、拘っていかなければ、それ自身が私として現れて来ないのが嫌だからだ。
但し、そこを掴んだら、もうそれは私にとっては不要のものだ。
だから、次に行く。
その意味で、居着いてはいないのだ。
先ほど、岡山のスタッフ達と食事をした。
ワークショップも10年になるという話で盛り上がった。
10年の間に主催してくれている藍ちゃんは、この数日の内に2児の母になる。
時間は確実に前に進んでいる。
明日からは岡山ワークショップです。
http://tarkovskii1932.wixsite.com/hino-workshop
福岡ワークショップは終わりました。
打ち上げも密度が濃かった。
充実した話題ばかりだから、必然的に濃くなる。
最後の日なので、徹底的にやった。
徹底的にやったのは、自分に対してもっと関心を持て、そして現れたことにもっと感動しろ、だ。
「表現塾」では、グループに分かれた競技形式にした。
良いと思うものを選ぶ、という形式だ。
「見る・選ぶ」というのも、大事な稽古だ。
初参加でも出来る人は出来る。常連でも出来ない人は出来ない。
という当たり前の世界が私のワークショップだ。
「どうすれば」は、方法論としてはない。
しかし、方法が無いのではない。
そこを考えるのが稽古だ。
自分で見つけた、あるいは発見した方法こそが、自分に適した方法なのだ。
今回は、何年かぶりの人も数人参加してくれていた。
須貝先生のバレエ教室の生徒さんで、マルセイユのBallet学校に留学していた子も参加してくれた。
その意味でも、充実した日になった。
昨年から参加してくれている武術系の男性は、殊の外「表現塾」が気に入ったという。
それは、子供の頃から感情や喜びを外に出すのが苦手だったから、今回取り組んでみて、これほど面白いとは思わなかったという。
「次からは、絶対に『表現塾』を外しませんから」と言いながら博多駅で別れた。
コメ焼酎が程よく回り、ほろ酔いの夜風は気持ちが良い。
今週は岡山ワークショップです。
http://tarkovskii1932.wixsite.com/hino-workshop