「自分の分からない事を質問するな」とよく言う。
当たり前だが、分からないことというのは、その人にとって分からないことだ。
もし、それが自分にとって重要なことであれば有るほど、「質問するな」になる。
つまり、「答えを求めるな」ということだ。
答えは自分が探し出すもの、見つけ出すもの、生み出すものであって、誰かの口から話させるものではない。
誰かの答えを耳にしても、それが一体自分の何かになると思っているのだろうか。
この場合の分からないは、「出来ない」を含んでいる。
だから出来るようになれば「分かる」ということだ。
その逆は、まず無いのだ。
是非、大阪・東京のワーク・ショップに足を運んで下さい。
知らない間に作っている、自分の垣根が外れていきますよ。
そうすると、知らない間に「出来る」ようになっていますから。
http://hinobudo.wixsite.com/workshop
真面目な人の特徴は何かを考えてみた。
徹底的に我が道を行く、そして自分の理想を追求している人。
そういった人とお話をしたり、エピソードを振り返ってみると、総じて「おおらか」なことだ。
何よりも笑顔が屈託なく美しいのだ。
笑顔なのだ。
どこか卑屈な感じが見える笑いではなく、笑顔なのだ。
自分で真面目だと思っている人、世間で言う真面目な人の笑顔は汚い。
あるいは、笑顔になっていない。
その笑顔の原因は何かということ、何も企てがない、卑屈ではない、物事とちゃんと向き合っている、そして、何よりもそこに余裕を持たずに全身全霊で笑っている、そういったことが言えるのではないかと思う。
そんな笑顔が溢れるワーク・ショップが、私の理想だと気づいた。
気付かせて来れたのは沖縄の人達だ。
当初2.3年は、私の視点が「教えよう」になっていた。
それから、「人に教えることは出来ない」と改めて認識した。
人は「学び取る」しか無いのだ。
その為の材料を提示する。それに徹しようとしたのが沖縄のワーク・ショップだ。
それに連れて笑顔が増えだした。
「これがええやん」なのだ。
何よりも心地よい。
誰もが笑顔だからだ。
真面目くさったのは、本当に腐ったものなのだ。
是非、大阪・東京のワーク・ショップに足を運んで下さい。
知らない間に作っている、自分の垣根を外してみましょう。
そうすると、知らない間に「出来る」ようになっていますから。
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今日は台風。
にも関わらず、新しい人が受講してくれた。
新しい人が来ると一から説明ということになる。
胸骨操作から、背骨への連結、そして連動となるが、上っ面の言葉は理解できても、身体は理解しない。
そこにギャップがあることを、新しい人には分からない。
そして、実際的な動きに入る。
例えば、「胸骨操作」だとすると、例外なく肩を動かす。
「いやいや、肩が動いていますよ」「はい、分かりました」と、ここから漫才になっていく。
「分かったと言ったでしょう」「はい」「でも肩が動いていますよ」という調子だ。
頭、つまり、理解した、理解するということと、実際に身体が感覚されていく、というのは全くの別の問題だ。
もしかしたら、全く次元の異なることなのかもしれない。
新しい人は、どんどんパンク寸前になっていく。
「合理的を作り出すのは、むちゃくちゃ難しいでしょう」「はい」
もはや目はうつろだ。
しかし、しかし、パッと出来る人もいるのだ。
だから、無茶苦茶難しいとは一概に言えないのだ。
その新しい人の隣で、教室2回めの男性がやっていた。
彼は少々動くようになっているし、「肘のコントロール」は、2人が持っても、そのストレスにめげずにやれていた。
「という具合に出来る人もいるのですよ、さて、何が難しいのでしょうか?」という具合に、教室では進行する。
もちろん、ワーク・ショップも同じだ。
今日は、またまた「身体が動く」ということでの、新しいバージョンを見つけた。
脇腹のストレッチとねじれを混ぜたものだ。
そして、それは全身運動になる。
2.3回やるだけで、脇腹はバキバキだ。
新しい動きは面白いが、身体が動かなくなるほど筋肉痛が起こる。
武道のクラスは、久しぶりに総合の選手が、試合前の一汗を流しにきた。
色々な状況からの優位なポジションへのアプローチをやった。
こうも出来る、こうも出来る、という具合にアイディアが浮かぶ。
それでは練習にならないので、絞り込んで現実的な動きに汗を流した。
身体を使えるようになると、どんなことにでも応用がきくようになる。
そこが、運動が出来る、身体が動く、という事とは違うところだ。
肝心要とは良く言ったものだ。
枝葉末節をするのは楽しいが、肝心要は難しい。
だから、楽しいのだ。
是非、大阪・東京のワーク・ショップに足を運んで下さい。
知らない間に作っている、自分の垣根を外してみましょう。
そうすると、知らない間に「出来る」ようになっていますから。
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大阪でも10年になるワーク・ショップ。
正確には、大阪・神戸・京都と会場が変わっているので、大阪は昨年が久しぶりに、ということになる。
開催する度に、「目的は」と自問する。
受講してくれる人の目的ではなく、私が開く目的の事だ。
あれもこれも、書き出せばキリがない。
今年は、すでに2回行った沖縄のワーク・ショップ。
その沖縄での、今年の2回が目的を明確にしてくれた感がある。
もちろん、私としては、というのは別にして、ワーク・ショップで起こっている事を体感した時に、ということで明確に「してくれた」事があるのだ。
受講してくれる人は、それぞれに違う。
もちろん、主催してくれる人、それをサポートしてくれている人達、確認はしていないがそれぞれに違うだろうと思う。
しかし、会場で時間になり「それでは、今からワーク・ショップを始めます」と主催者の方が挨拶をした瞬間から、無意識的な目的は一つになる。
いや、一つになっているのを感じた。
それが3日間の終了時にかけて、クライマックスを迎え終わらなくなってしまうという、嬉しいアクシデントに繋がっていったのだ。
それが私のワーク・ショップの実体だ。
もちろん、体験したことの無い人にとっては「????」だろうと思う。
その「体験」こそが、私のワーク・ショップなのだと感じたのだ。
会場という場で起こる出来事が、その場をどんどん盛り上げて行き、場が一つになっていく。
出来事というのは、もちろん、それぞれコマのそれぞれのワークだ。
どうして、そのワークが盛り上がるのだろうと思えるだろう。
盛り上がるのだ。
出来ないから。
出来ないから、組んでいる人と工夫をする。
お互いの工夫が、関係を生み出していくのだ。
お互いの垣根が崩れていくからだ。
組んだ人とは、全く見ず知らずの人かもしれない。
そういった人が入り乱れて、アドバイスをしあうようになる。
常連の人がアドバイスをする。
全く頓珍漢な方向に進んで行く。
そんな時、大爆笑が起こる。
真剣に取り組めば取り組むほど、爆笑の度合いが高くなるのだ。
「これを知りたい」「これを出来るようになりたい」人によってそれぞれあるだろうが、まず会場に足を運んで、皆と交わって見る。
これが私のワーク・ショップの正体だと気付いた。
もちろん、それぞれの目的を果たせる人もいるし、そうでない人もいる。
目的を果たすために何が必要か。
それは気持ちが開くこと、感情が噴出すること、この2点が結果として、目的を果たすのだ。
「真面目くさった」左脳的には、何も成すことは出来ない。
出来た気にはなれる。
しかし、本当に何かを成そうとすれば、目的を忘れ「真面目くさった」を忘れてしまった時だ。
「真面目くさった」は、周りを暗くする、陰気にする。
もちろん、本人は「真面目」のつもりだ。
断言しよう、それは「真面目ではない」と。
是非、大阪・東京のワーク・ショップに足を運んで下さい。
知らない間に作っている、自分の垣根を外してみましょう。
そうすると、知らない間に「出来る」ようになっていますから。
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先日「明鏡塾」の5期が終了した。
その打ち上げ会場に向かう時、ずっと手伝ってくれている理学療法士が、「今日、はじめての感覚がありました」と、そのエピソードを話してくれた。
もちろん、それは彼の感覚だから、私に分かる筈もない。
彼の言葉と状況から想像するしかないのだ。
しばらく、彼の言葉を考えるのと、感覚とは何かを改めて頭を駆け巡らせてみた。
感覚そのものは、パラボラアンテナで拾っているようなものだから、それを解析する精度が上がったということだ。
つまり、彼の視点や思考が、深くなったのか広くなったのか、によって、その新しい感覚として、実際を体感したということだ。
「感覚を鋭くしたい」と思う人は色々なジャンルで、色々居られるだろう。
もちろん、感覚を直接鋭くすることは出来ない。
自分の視点や視野を変化させれば、感覚はそれに応じて鋭くもなれば、鈍くもなるものだ。
そういったことは、色々な業種の熟練した人を見れば一目瞭然だ。
例えば、よく取り上げられている町工場のおっちゃん。
旋盤技術が世界のトップクラスだから、NASAから発注されたりする。
そういったおっちゃん達の感覚は、時間の中で、そして、おっちゃんの意志や想いが作り上げたものだ。
単に旋盤を経験しているからといって、磨き上げられたものではない。
あるいは、宮大工の棟梁、匠や職人と言われる人達。
そういった人達の磨かれた感覚は、一朝一夕で創り上げられたものではないということは誰にでも分かる。
私は、感覚とはそういったものだと考える。
つまり、自然に備わったものではなく、磨き上げられて行くもの、創り上げられて行くものということだ。
そして、身体の持つ感覚は、際限ないのではないとさえ思えるのだ。
つまり、その人が望めば望むほど、感覚は鋭くなっていくからだ。
しかし、そこには「実際の」という作業や行為が必要だ。
決して「思う・想像」だけでは獲得出来ないし、その匠というレベルには行かないものだ。
身体を「感覚していく」
大阪のワークショップは11月18日からです。
http://hinobudo.wixsite.com/workshop/workshop