「よっしゃ!」だ。
何が?
明日から今年最後になるワーク・ショップだからだ。
https://www.hino-workshop.com/workshop-1
もちろん、まだスタジオには空きがあるので、飛び込み大歓迎です。
この時期に開催するのには少し危惧があった。
師走ということ、2回目ということの2点だ。
ま、危惧は危惧として、始めてしまうのが、私の良いところでもあり悪いところでもある。
そういった人の良し悪しは紙の裏表で、上手く行くときもあれば、ままならぬ時もある。
だから、こちらに「勢い」が有るか無いかが大事なのだ。
来年からは、2日間丸々「身体塾」という日を作ろうと思っているから、この3種類のアプローチは今回限りになる。
先日、「考えるな、体に聞け」の編集者と飲んだ時、「教える」という話になった。
編集者にとっては「教える」という行為が存在するものだと思っているのだ。
私は、器械体操をやっていた中学の頃、ドラムをやっていた頃、そして現在と、かなりの人達と出会って、「教える」を仕事にしていた時期もある。
器械体操は中学生なので、それが仕事ではない。
ドラムは、ある大手の楽器店で頼まれて教えていたし、武道は30歳代の頃から教えている。
海外も含めると延何万人になるか分からない。
当初は「教える」という事は「有る」と思っていた。
しかし、私自身は「教えられた」という意識は無く「私が学んだ」と記憶している。
つまり、形に有るものは、提示できても形の無いことは提示も出来ないことに気付いたのだ。
もちろん、そこに「見る目」が養われると、形以前は見えるようになるし、形に含まれている、あるいは、見えるものを下支えしている見えないものが見えてくる。
そうすると、見えるものではなく、見えないことが重要だと考えられるようになってくるのだ。
そうなると、その見えないことを「どうやって教えるの?」ということになる。
それが伊藤一刀斎が気付いた「極意は自らが会得するものであって、教えられるものではない」なのだ。
もちろん、ここで言う「見えないもの」とは、感覚や感性、接触の機微という、見えるものと裏表のことであって、得体の知れないものの話ではない。
先日、外国で試合をした総合の選手がメールをくれた。
どんな心構えで相手と向かったかが書かれていた。
その選手は数年前に、今回の相手に負けているのでリベンジ・マッチだった。
「こんな簡単に簡単に攻撃が的確に相手にはまるとは」と驚いたという。
つまり、目に見えない部分を大事に試合に臨んだから、リベンジ出来たという素晴らしい結果に繋がったということだ。
「次の機会に」つまり、何らかの出来事が今回は行けないが、次は時間を作るから、という意味を持つ。
もちろん、面倒だからこの言葉で逃げる場合も多い。
しかし、実際に「次の機会には絶対に」と思っている人もいる。
「次の機会」は有るのだろうか?有るとも言えるし、無いとも言える。
こういう話もよく聞く。
それは「◯歳の時に、日野さんのワークを知っていたら違った」というようなものだ。
その場合は「今だから理解できるのであって、◯歳の時なら無理でしたよ」と答える。
「次の機会に」という人は、どうして「次も有る」思えるのだろうか。
その人が、人生を画一的に生きているから「次はある」と無条件で思えるのだろう。
「次が間違いなく有る、日常や社会生活」を送っているからだろう。
その感覚は、私には不思議でならない。
もちろん、私自身は「次もやろう・明日もやろう」と「今」は思っているが、それは分からない。
俗に言う「何時何時何が起こるか分からない」という標語の類ではない。
その事よりも大事なことを思いつくかも知れないし、逆にやっていることを阿呆らしく思って飽きてしまうかもしれない。
だから「次」と言われたら「そうですね」とは言うが、興味が無い人、あるいは、呑気な人なのだなと思う。
何時何時何が起こるか分からない、のはその通りだから、私はそのように生きている。
しかし、天災がくる確率よりも、私が何かを思いついたり、アホらしくなる確率の方が遥かに高い。
私自身も動いているからだ。
動いているというのは、頭をフル回転させているという意味だ。
だから、見えている日常は私の氷山の一角であって、氷山そのものではない。
もちろん、それは私だけのことではなく、全ての人は同じだ。
そういう何もかもが不確定な社会で「次の機会に」は無い。
例えば、先日100回で終えた「武禅」。
「次の機会に」と言っている間に終わった、とメールを来れた人がいた。
「残念でしたね」と返したが、人生そんなものなのだ。
他人は、決して間違っても「わたし」の都合で生きてくれているのではないからだ。
12月1日から東京ワーク・ショップです。
師走ですが、年末前に汗を流しましょう!
■東京ワーク・ショップ12月1.2.3.4日
アマゾン川流域の、いわゆるジャングルは土壌が豊かだ。
だからこそ、様々な木々が生い茂り生物が生きることが出来るのだ。
鳥が、種子を運び様々な木々を芽生えさせる。
ふと、思いついたイメージだ。
何のことかというと、その豊かな土壌という自分自身を作り出すことが、人生が豊かだということに気付いたのだ。
「豊かな土壌」という言葉をみつけたのだ。
それは、私自身が来年は古希なのだが、人生何をしてきたのかと振り返った時、結局この土壌を豊かにするという作業をしていたのか、と気付いたということだ。
そうなると、現象だけしか見ていない人には、「日野はあれもこれもやって散漫な人生だ」としか捉えられない。
しかし、私にとっては一貫している事がある。
それは「私を生きる」という生き方だ。
同時に、例えば「柔よく剛を制す」という言葉を、私の全てに適応させるという作業をやっているのだ。
「豊か」とは、間違いなく自分自身の力で考え、人生を生きることだ。
考えるための材料が「柔よく剛を制す」に当たるのだ。
そして、そこに同時に有る現象としての、例えば、今の私なら「武道家」という仕事があり、「明鏡塾」で医療関係者に教えるというのも有る。
これらはバラバラではない。
土壌から育った木のそれぞれなのだ。
ベランダで一服しながら、アマゾンのジャングルということが浮かんできた。
その事で一挙に、人生を括る事が出来たのだ。
「豊かな土壌」これは良い!
もちろん、私だけにとっては、だが。
こんな気付きは、「自分で考える」というクセの賜物なのだ。