年内の仕事が終わった。
11時30分に道場に到着。送り出したのが15時30分。嵐のような稽古だった。
「線でとらえる」というテーマで、腕、刀、棒、と立て続けに2時間30分。
あれよあれよの流れだった。
私としては、やる度に新しい発見があるので、それはそれで面白い。
相手の力を瞬間的に感じる、そしてそれに見合う体重の移動を行う。
これも、そういう意味でマニュアル化は出来ているのだが、当然、一人一人力の入れ具合や体重は違う。
それに秤のように精密に力を合わせる。
だから、結局はマニュアル化は出来ないという事になる。
それは仕方がない。
それぞれが違う、当たり前のことだ。
もちろん、相手を倒すことが目的であったり、突くことが目的であるなら、こんなまどろっこしい稽古など必要ではない。
こういった感覚を練り上げることが、身体感覚をよくしたり、関係できる身体なのだから仕方がない。
という間に1年が終わった。
来年は、もっともっと精密にしていこうと思っている。
つまり、マニアックな世界を突き進むということだ。
それが私のやりたいことだから仕方がない。
今年も、マニアックなブログを読んで頂いてありがとうございます。
「意味分からん」ということも多々あるでしょうが、来年もよろしくお願いします。
来年は古希ですので、一つ褌を締め直してやろうと意気込んでいます。
「明鏡塾」やワークショップ、「武禅」のフォローアップ、そして教室。全力で突き進んでいく予定です。
京都を終え、熊野へ帰った。
道場修理を急がなくてはならない箇所が、新たに見つかった。
しかし、今回は出来ないのがまどろっこしい。
明日は、京都からフランス人が23人稽古に来るからだ。
明けて正月元旦には東京に移動だ。
後4日間撮影が残っている。
今日は「肘」の基本練習を撮った。
といっても、応用から見せる。
つまり、最終地点を見ていなければ、その稽古はどこへ行くのかが不明だから、稽古に工夫を加えられないのだ。
昨日は、京都で全員で食事会。
その席で質問があった。
「胸骨操作を、どう応用すればよいのか」だ。
しばらく考える。
「私はあなたではない、それは分かりますか、分かるのであれば、あなたの中で考えて下さい、小学生ではないのだから」と答えた。
フランスでも、「こうすれば、こうなる」という図式が主流らしい。
「こうしても、こうなるかどうかは分からない」という現実とは、完全に遊離した単細胞的な考え方だ。
もちろん、日本でもその質問は多い。
大きな時間軸で考えた時、人生で何が起こるか分からない。
だから、その起こったことを楽しむ、あるいは、起こった時に、違うことを考える。
それが「楽しい人生」の根源だ。
どうして、レールの上を走りたいのか、また、走れると思えるのか分からない。
京都は雪だった。
関が原など猛吹雪だったから、京都の雪は飾りみたいなものだ。
でも、それなりの寒さはある。
レオさんたちが取ってくれていた旅館に向かい、スーツケースを置き近辺を散策。
師走というより、暮れの雰囲気が十分に漂っていた。
それにしても、外国の人が多いのには驚いた。
外国も、日本と同じように生活のスタイルが変化して来たのか、とも思う。
先斗町をうろつき、昔を思い出すも、その面影は何もない。
ま、しやないけど。
お好み焼きを食べて旅館に戻る。
明日からの稽古の為に、もう少しで寝よう。
フランスから18人が到着。
でも3人ほど迷子になったので、その人たちは後30分ほどで着くそうだ。
フランス人は、ほんと糸の切れた凧のように、どこへ行くか分からない。
一寸風邪気味かな、だ。
先日から嬉しいニュースが届いていた。
本部に来る高校教師。
空手部の顧問からのものだ。
高校50校が参加する大きな大会でベスト8に入ったのだ。
もちろん、常勝校なら「はいはい」というものだろうが、ちょくちょく紹介しているように、創部7.8年のヒヨッコのチームだ。
だから快挙なのだ。
しかも、ここの主力選手は2年生。
しかも、高校に入ってから空手をやりだした、まさしくヒヨッコチームなのだ。
しかし、やり方と情熱が快挙を作り続けているのだ。それがこの大会を取材していた「JKFan(空手道マガジン)」に取り上げられた。
http://www.karatedo.co.jp/news/result/20171225/9539.html
当たり前のことを当たり前にやる。
但し「当たり前とは何か」を徹底的に考えた上で、ということだ。
明日から年末直前まで京都で撮影がある。
フランスの取材と、EUで発売されるDVDの為のものだ。
何でもEUのケーブルテレビに流されるらしい。
詳しくは、明日フランスからくる全員と会ってからだ。
いずれにしても、年末から年始はその撮影の為に大忙しになる。
何時もとは別の場所を借りて、本当の稽古納めだった。
一つのモチーフから組み立てて行く。
とはいうものの、このモチーフの一つ一つは、基本稽古で培われなければ出来ない。
新しい人が参加していたから、基本の歩法を訓練させてみた。
基本の歩法といっても難しい。
だから、相当必死で取り組んでいた。
もちろん、その難しさは、体重移動の基本、つまり、武道としての「力」になるからだ。
膝と膝の連関や連動。
思えば、愚息には小学1年生から、毎日数時間6年間はこういった稽古をやらせていた。
完全に身につけようとすると、それくらいは時間が必要だということだ。
もちろん、だからといって「やれば出来る」ものではない。
多分、私がどんどん深くなっているのは、深い稽古をする人を見つけ出すからだ。
例えば、文楽の人間国宝である竹本住大夫師。
ある番組で、演目を兄弟子に稽古を付けて貰っている場面があった。
そういった、日本の伝統芸能の世界は、亡き母が芸者だった関係で良く知っている。
こういった事をジックリと考えるほどに、このシステムの素晴らしさを実感する。
人間国宝の住大夫さんは「2回生まれ変わっても、義太夫は語れまへんわ」とインタビュアーを驚かしていた。
そうなのだ。
2回生まれ変わっても、というのは、住大夫さんが探求されたことで、2回生まれ変わらなければ出来ないことが「そこにあるのではない」のだ。
と、発見していったことが「いくらでも深くなる」ということの、私にとっての根拠になっている。
もちろん、人それぞれだから、私にとって正しいだけで、皆に当てはまるものではないし、当てはめる必要もない。
何時もの事だが、稽古をしている人を見ていると、「言葉はどのレベルでどう通じているのか?」が分からなくなる。
指示を出しても、全く違う結果、つまり、バラバラの稽古風景になるからだ。
それだけ、個人に蓄積されたものや、考え方、取り組み方が左右するのだ。
それが日野武道研究所の稽古だからだ。
その意味では、向き不向きが明確に見える。
基本的な事を基本的な事として捉え、そこから考え出していける人。
私の本を読んで「日野の考え方はこうではないか」と前もって仮に考えている人。
そういった人や、武道ということでの私の意見に共感している人。
でないと、日野武道研究所の稽古は無理だろうとつくづく思う。
もちろん、この無理は「向き不向き」という点での話だ。
間違って私の教室に来た人は、地獄だろうと思う。
その意味で、自分がどの教室へ行くのかをもっともっと吟味する方が良いと思う。
自分自身はどうしたいのか、は、大事なことだが、それはあくまでも、妄想も入り混じって「どうしたいか」が生まれていることを忘れてはならない。
稽古は、その妄想をどれだけ排除出来るのか、が本筋の一つになるのだが、妄想を妄想だとわからない人は妄想を大事にする。
だから、私の稽古は出来ないのだ。
身体を道具として使う、といったときに、身体を道具として使える自分と、身体を道具化する為の自分とが混在する。
その事を分別して考え、取り組めなければ、それは実現しない。
身体を動かすのではなく、道具化だ。
ここの理解は難しいだろうと思う。
その意味で、理解する必要など無いのだ。
向き不向きなのだ。
向いている人は、その事を一瞬で理解する。
逆に向いていない人は「理解しようとする」が結局理解出来ないのだ。
それは、自分の持つ知識の中に、あるいは思考の組み立ての中に、それが無いからだ。
しかし、ここにも面白い経過がある。
一瞬で理解する人は、一切の屁理屈を持たずに言われた事を取り組む。
その経過の結果、また一瞬で理解が深まる。
しかし、その逆の場合は、入口のところで理解しようとしているから、そこで足止めを食らって深くなることはない。
そんな「人というもの」を考えさせてくれるのが稽古だ。
高原伸子さん、元ノイズムのダンサーだ。
今日は、小さなサロンで公演があった。
妻と二人を招待してくれていた。
顔を出すと、ノイズムで指導する勇気くん始め、知った顔が何人もいた。
この公演は、高原さんの作・演出・出演という、大変な労力を使うものだった。
それに比例して、高原さんの頬はこけていた。
終演後、作品の作り方、ダイナミズムの出し方等々話し込んだ。
とはいっても皆のお目当ては高原さんなので、年明けに飲むことを約束して退散した。
フィンランド公演の打ち上げもすんでいないから、それも兼ねることになる。
「どうでした?」と聞かれても、答えは無い。
私としてはどうか、という答えはあるが、私としては「高原さんはどうしたかったのか?」を知りたいのだ。
つまり、作った人、踊った人の意図と、実際に舞台で展開されたこととの整合性を問いたいからだ。
それは、こういった公演ということではなく、誰にでも共通することだからだ。
どういう意図があって、そうしたのか、で、そうなったのか。
そこに溝は有るのか無いのかだ。
舞台だけで言えば、それは、例えば、話してしまったこと、行動してしまったこと、というのと同じだ。
いずれにしても、それはそれぞれが全力でやっていることだから、そこに良い悪いは無い。
見る側の趣向の問題や、思考の問題だからだ。
あるいは、演者のレベルの問題があるだけだ。