「武禅おさらい会」は、「話す・聴く」に特化したものになる。
もちろん、巷にある「話し方」や「傾聴」ではない。
相手に伝えたいという、当たり前の欲求、聴きたいという当たり前の欲求が有るのか無いのかの話だ。
動物は、吠え方や聴き方をもっていない。
それは、既に備わっており、その働きを常に全開しているからだ。
人は、何故か「話し方や傾聴」という、上っ面の方法を好む。
もちろん、相手にとって聞きやすいことは重要だし、相手を聴くという態度も重要だ。
しかし、それはあくまでも「マナー・行儀作法」の範疇でしかない。
私たちに欠けているのは、そこではなく「本能」であり、動物同様既に備わっている「対象に」という働きを使っていないところだ。
しかし、何時も書いているように、それは生後間もなく言葉を覚えるまでは、確実に働いている。
その働きが退化していくのは、言葉を覚えるのと反比例している。
ここを徹底的に鍛え直すのが「話す・聴く」という稽古だ。
この「話す・聴く」が、関係そのものだからである。
「わたしに話してくれているのか」「単にその人が音を出しているだけなのか」そんなところを、体感しながら講座は進んでいく。
もちろん、これも知識として自分自身に足し算していくのではない。
上っ面を取り払って、野生が顔を出すように引き算なのだ。
この「声」に気付いたのは、武道の稽古だ。
武道には「気合術」というものがある。
もちろん、その気合術を見たことは無い。
例えば、剣道では掛け声というか、奇声を発する。
それは、多分、自分自身を鼓舞する為のものであって、相手に作用させるものではない。
気合は、相手の身体に作用する。
その事で気付いたのだ。
相手という明確な対象があれば、声は相手に届き身体に作用するのだ。
そこから「相手に話す」ということで、相手の身体に変化が起こっていなければおかしい。
「相手を聴く」ことでも、相手の身体に変化が起こるという事に気付いたものだ。
それを「武禅」では稽古しているのだ。
他人が自分の話を聞いてくれない。
リーダーシップを取れない等々。
それは、話の中身の問題ではなく、あなた自身が「誰に話しているのか明確ではない」という事が原因だ。
そして、意識としての「相手」だからだ。
本当に目の前にいる人に話かけているのではない事が原因だ。
「そんな馬鹿な?」ではない。
指摘されていないだけなのだ。
「武禅おさらい会」
http://www.hino-budo.com/buzen4.html
「明鏡塾」であれ、教室であれ、ワーク・ショップであれ、ワークそのものを単純化している。
そうすることで、取り組みやすくなるからだ。
しかし、だからといって簡単なのではない。
要素を稽古したいから絞ったワークにしているだけだ。
それは、逆に言うと「表面的には誰にでも出来る」ようにすることで、取り組む入口でつまずかない為だ。
そして、その中身の稽古に集中して貰うためだ。
また、その中身の「あなたの知らない身体が有る」ということを知ってもらう為でもある。
要素には、殆ど自意識が絡んでくる。
だから、一朝一夕では出来ない。
もちろん、技術として自分の上に足し算は出来ない。
むしろ、引き算である。
要素の中の一番重要なものは、自意識との対面であり、その成長に有る。
それは、ストレスがかかった時に、あるいは、大きなプレッシャーが有る時に顔を出す。
そのストレスは、多種多様だ。
それこそ人によって、ストレスは異なる。
そこに大きなストレスを意図的に持ち込む事で、顔を出すのを待つ。
そして、対面しそれは自意識が幼いから、ストレスと感じるということを認識させるのだ。
そういった狙いがあり、ワーク・ショップであり明鏡塾なのだ。
だから、そこに自分勝手な手法を持ち込むと、この現象は起こらない。
自分勝手な手法というのは、私の指示通りではなく、ということだ。
自分勝手な手法で出来たところで、何の意味も持たない。
しかし、その事を理解できない人は、自分勝手にする。
そして、それを例えば、ワーク・ショップで組んだ相手に押し付ける。
人間は国籍を問わず争いが嫌いだということは、この時に分かる。
つまり、いくら私の指示とは違うことをやっていても、絶対にその事を指摘しない。
影で笑うのみだ。
自分勝手な人にはそのことを分からない。
だから、自分の言うことを聞いてくれたら、「聞いてくれた、私は偉い」となるのだ。
大笑いだ。
酒の肴にこそなれ、糧にはならないということを知らないのだ。
いわゆる能天気という奴だ。
「明鏡塾・大阪」は、順調な滑り出しをみせた。
昼食後、予定していたカリキュラムを止め、3講座目あたりでする難易度の高いワークを提示した。
脱力して寝ている人を、腕を引っ張って起こすものだ。
腕にトリックというか、仕掛けを作り出す作業があるのだが、最初はそれを教えずに、まず取り組んで貰った。
受講者は恐ろしく真面目に、そして真摯に取り組んでくれた。
「今、何をどうしていたのですか?」と質問すると、午前中のワークで重要だと稽古したことを通して取り組んでくれていた。
その意味では、「明鏡塾・東京」よりも、ガップリ四ツで取り組んでいた気がした。
歯科医も含め医師が4人も受講していた事も影響しているのかもしれないが。
いずれにしても、順調な滑り出しだ。
東京から受講してくれている整体師の方が「東京とは全く違う取り組み方だし、受取り方なので驚いてます」と言っていた。
私としても、どうしても地元感があるので、皆と距離感が近い気がした。
終了後の懇親会も和気あいあいで、次回の受講を楽しみにと別れた。
大阪の人達の成長が楽しみだ。
人の持つ働きの中に「五感」と呼んでいる感覚器官と感覚がある。
もちろん、それが本当にそうかどうかは曖昧だ。
曖昧というのは、感覚というものは互いに影響し合っており、定かなものではないということだ。
その意味で「五感」と呼ぶこと自体に無理があるということだ。
突出した事、例えば、それぞれを取り出したら、五感ということに落ち着くだろうが、取り出せなければ、相当曖昧なものだ。
目の前に好物のお酒や食べ物があったとしても、目を閉じて食べれば、また鼻を摘み匂いを嗅げない状態にすれば、味覚は変わってしまう。
熱いものに触れた時、熱いのか冷たいのか痛いのかを判別できない。
こういった事に限らず、時間の感覚、距離に対する感覚、方向に対する感覚他、感覚と呼ばれるものは全て、互いに影響し合ったり、心理や生理的な働き、情緒などの影響を直接受けるので、頼りないのだ。
そして、例えば40℃のお風呂を心地よいという人もおれば、温いから頼りない、という人もいる。
つまり、感覚には個人差が有りすぎるものでもあるのだ。
その意味では、つまり、鍛えられていない感覚は、共有することは出来ないものなのだ。
それは、鍛えていない五感であれば、ということで、一般の人の五感ということだ。
逆に、音楽家の耳や、職人さんの触覚、料理人の味覚等々、その業種に特化し鍛えられたものであれば、初めて五感と呼べる働き、つまり、「感覚」と呼べるものになっているのだ。
だから、巷で「五感を使って」とか「感覚を使って」という言葉があった時、どの程度鍛えているのかまず知りたくなる。
鍛えられていない場合は、自分の都合の「感覚」であって、そこに客観性、あるいは、共有する為の「何か」は無い。
だから、どの感覚のどのレベルなら正しいのか、あるいは間違っているのかを判定できる筈もないのだ。
その意味で「感覚を共有する」というのは、相当難しいことだということだ。
難しくする原因は、鍛えられていないという事の他に、言語化の問題も同時に付きまとってくる。
感覚されていることを、どんな言葉に置き換えるのか、という問題もある。
共有する為には、そういったこと全体を練り上げていかなければならない。
とはいうものの「明鏡塾」や「武道」では、この「感覚」を中心に据えていると言っても過言ではない。
だから、徹底的にこの「感覚」を鍛えるのだ。
明日は、「明鏡塾・大阪」だ。
それこそ、一日中感覚と向き合う事になる。
だから、鍛えられていくのだ。
来月に入ると沖縄ワーク・ショップ(2月10〜12日)だ。
待ち遠しいのだが、この時期泳げないことだけが、唯一残念な事だ。
でも、「沖縄」ということだけで、何故か気持ちが上向く。
自分の持っているイメージがそうなのだろう。
植え付けられたのか、植え付けたのか分からないが、確かにこころにあるイメージがそうさせている。
もちろん、それがこころにあるのか、あるいは、意識という世界にあるのかは分からない。
ただ、沖縄と思っただけで、同時に身体に何かしらの影響があるのは確かだ。
そんな事を考え出すと止まらなくなる。
もちろん、何一つ解明されていないことだけに、自分自身で整理していかなければならない。
そんな事も、楽しい作業の一つだ。
そう言えば、ワーク・ショップで何かしらのワークをするとする。
それぞれが、自分なりに取り組んでいき、何時間か後にそれなりの結果が出る。
そうした時、何時も書いている「出来た・出来ない」という判定も同時に現れる。
問題はここだ。
出来たか出来ていないかではなく、それは何が出来て、何が出来ないのか?を、自分自身が言葉化して整理しなければならない。
つまり、やった事を、運動としてだけ捉えるのではなく、自分自身を分析する為の材料として捉えるのだ。
例えば、胸骨操作をしたとする。
であれば、胸骨の一点に焦点を合わせるのだが、それが出来なかった。
どうして出来なかったのか?それは焦点を合わせる部位に対して意識が明確ではなかったからだ。
あるいは、そういった事を考えずに、「胸骨を動かすことだけに集中していたから」という具合に分析するのだ。
そうすると、与えられたテーマとしての胸骨操作で、一点に焦点を合わせる、という作業をしていなかった自分に気付く事が出来る。
これらは、「やった事」を言語化していくから出来るのだ。
その意味で、考える力が必要なのだ。
それがなければ、自分を成長させることは出来ない。
運動が、それこそ出来ただけ、出来るようになっただけだ。
当然、応用性は全くない。
自分を成長させる鍵は、この考える力だ。
大阪「明鏡塾」まだ空きがありますよ。
https://www.meikyojuku.com/
昨日帰国したが、何時もは2時間で目が覚めてしまうのが、今日は7時前まで、6時間ほどは寝むれたようだ。
いわゆる時差ボケだが、これも必ずこうだとは言えない。
数日で解消することもあれば、1週間以上かかる時もあるからだ。
その度に「どうして?」と考え込んでも意味がないし、その事が理解できても、何一つ実際の時差ボケに対処出来る身体にはなっていないからだ。
これも「考えなくても良いこと」の一つだ。
時差ボケ状態を楽しんでいれば、その内に忘れる。
その時には、時差ボケが解消されている。
そんなものだ。
それは、どんなことにも当てはまる。
全ては「その内に」なのだ。
その「その内に」は、意識されていることを忘れてしまった頃だ。
その内という時期が来るまで続けているかどうかで、その内を体験できるかどうかだ。
しかし、時差ボケを楽しめていなくて、「時差ボケを治そう」とすればするほど、一寸したことも「時差ボケかも」と結び付けてしまい、時差ボケからの脱出は難しくなるのだ。
もちろん、これもどんな事にも共通する。
良い方向というか、何かをやろうとしている時は、何でも良い方向に結びつければ、良くなるのが早くなるのだ。
大阪「明鏡塾」まだ空きがありますよ。
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シャルルドゴール空港で搭乗待ちだ。
何だか知らないが満員だ。
今日の昼食は、レオさん夫妻が「ホテル・リッツ」のレストランへ連れて行ってくれた。
リッツホテルは5ツ星の上だそうだ。
限りなく豪華。
パンが美味しい。
そんなことを言えば失礼極まりないが、食べなれたものでしか「美味しい」は分からない。
ヒラメ、ホロホロ鳥、白ワインは絶妙な選択をしてくれる。
私たち3人の客に、8人がサービスしてくれるのだから、豪華としか言いようがない。
しかし、多分、二度と入ることはないだろうと、確信できる空間だった。
帰国後は、大阪の「明鏡塾」第一回目が待っている。
早く体調を整えなければいけない。
昨日の続きや復讐を含め、パリの稽古はみっちりだった。
初受講の人達も、固定観念がひっくり返されて目をパチクリ。
夕方5時、朝10時からの2コマは終わった。
日本人らしい兄妹がいたが、良く分からないので何となく英語を話すと「日本語分かりますよ、母が日本人なので」「あっそう、日本人かごめんごめん」という事で3人、声楽の女性が1人、太極拳をする女性が1人、彫刻家が1人。
計6人の日本人がいた。
これだけ日本人がいると、通訳は捗る。
どこにいても、誰かがいるのでワークがスムーズに流れる。
しかし、世界共通しているのは、よく話す人は稽古をしないことだ。
若い空手の男性は、もしかしたら1日中話をしているかもしれない、と思うほど話していた。
当然、何もできない。「こう習った、ああ習った」という話が多い。
今回から、ワークの初めに、それぞれのやっていることを全部忘れて下さい、ということにした。
そして、力比べや我慢会ではなく、身体の稽古だから乱暴にしないこと、という注意も入れた。
日本でもこんなことを言うことがあるが、「稽古」という事を言葉で知っていても、どうするのかを知らない人が多いのだ。
ちゃんと説明しているのだが、文字通り理解しただけで、それが行動には繋がらない。
もちろん、それぞれに悪気はない。
それを繋げるという作業をやっていないだけだ。
今からディナーに行き、明日の夜にはパリを発つ。
今回は、風邪と疲れで体調が絶不調だった。