「座禅」でも、「ヨガ」でも何でも良いのだが、どの程度の効果を得たいのか?というのは、そのメソッドの良否ではなく、当人に全て関わっているのだ。
だから、自分に見合った効果しか手に入らないということだ。
良否ではなく、というのは、自分の欲する効果に応じて、メソッドを判断する目、見る目があるということだ。
どのメソッドが良いのか分からない人は、欲する効果が曖昧なので、一応どれかをやってみるのが良い。
私は、色々なプロのアスリートを教える。
そこで結果が出る。
アマチュアでも結果がでる。
それは、それに取り組んだ人の力だ。
私の一寸したアドバイスを、自分の身体で考えて、それを使えるように練習をした。
結果、レースでそれを試しながら結果を出したのだ。
もちろん、私のアドバイスが的中したというのもあるだろうが、当人の視点が広がり、もっと多角的に考えるようになり結果を出したと考える方が合理的だ。
ここで大事なのは、当人たちが身体で考える能力を持っていたことだ。
頭で理屈をこねくり回すのではなく、身体そのものの体感で考える力を持っているのだ。
だから、一般の人には理解できないアドバイスで、フォームから出る力が変化する。
「サドルに当たる骨盤の下に紙一枚ひいて」というような、「何じゃそれ」というようなことだ。
紙一枚を身体が感じ取っているということを分かり、その紙一枚で変化した事も分かる当人だからの会話だ。
ここのレベルの会話は、本当に楽しい。
どんどん新しいアイディアが、会話により生まれるからだ。
また、もう一つ楽しいのは、私自身の身体感覚と、アスリート達の持つ身体感覚を比較することが出来ることだ。
その事で、私が新たに訓練しなければならないことを発見できたりする。
それが楽しいのだ。
そして、そのアイディアに責任も当然付いてくる。
だからこそ、アイディアが生まれるのだ。
もちろん、責任という実際は無い。
しかし、こちらの意識として責任という自覚がある。
私は、その自覚が探究心を育てる一因だと考える。
よく有名人が〇〇をやったから、そこからのヒントでこうなった、というのがある。
代表的なのが、お亡くなりになった、スティブ・ジョブズは「禅」をたしなんでおり、そこからのヒントでデザインをシンプルにした。
というものがある。
もちろん、その通りだ。
私も彼の本を読んだ。
で、多くの経営者は「禅」を学び、沢山の気づきを得ているという。
しかし、それはそうだろうか?
もちろん、「禅」を否定することでも、ジョブズを否定しているのでもない。
両方共肯定しているのだ。
しかし、そのことと、それが一般的な事と同じかどうか、というところで「そうだろうか?」と言っているのだ。
一般の人の何十倍もの「やる気」と「苦悩」を持っているから、「禅」をジョブズがものしデザインのアイディアに繋がった。
と言いたかっただけである。
つまり、Aさんは◯を学んだから、一流になった、というエピソードは、公式にはならないという話だ。
公式、つまり、誰でも活用できる方法にする為には、そこに前提条件が必要だ。
ジョブズのような才能とやる気や闘争心を持っている必要があるということだ。
つまり、逆説的に言えば、どんなことでも公式に成り得る。
全ては自分次第である、ということだ。
そこを抜かすと、全くどうにもならないのだ。
「明鏡塾」が成果を出しているのは、受講者が「全力」だからだ。
その意味では、全力ではない人はどんな場面でも成果を出せないのだ。
これは、間違いなく公式である。
「触れる」というテーマは、「明鏡塾」でも武道でも、私にとっては一番重要な要素だ。
もちろん、単純な話ではない。
触れるというのは、自分と自分以外のモノや人との接点だからだ。
ここが「関係」にとっての、最重要点だと考えている。
その「触れる」がどれほど、自分に惑わされずに「触れる」であるかどうかが、自分と自分以外のモノや人とのパイプになるかならないかに関わるからだ。
つまり、対立するか、対立しないかが決まるということだ。
例えば、自分の思いや考えを相手に押し付けるのは対立だ。
それよりも、相手の話を聴く方が対立を避けることが出来るし、相手を理解することが出来る。
この「相手を聴く」というところが「触れる」である。
相手の腕を握る。
これは、明鏡塾でも武道でも共通する。
「何の為に」→相手を知る為にだ。
この「相手を知るため」が抜けると、目的を見失い、自分を押し付けるになるのだ。
相手の何を、というのは、その状況で、あるいは、自分や相手の立場上でだ。
ここが大きく人が勘違いを起こし、問題を混乱させる点でもある。
状況や立場を通り越し、「人として」とか、「いや私は」と、概念や観念、思い込みを持ち出すから混乱してしまうのだ。
だから、その場では触れる事が出来ていない、と言うのだ。
思考は、このように常に飛躍させる事が出来る。
それが良い場合もあれば、悪い場合もある。
想像というのは良い場合だ。
悪い場合は、それを目の前の実際の時に、紛れ込んでしまう場合だ。
この触れるを「純粋化」してしまおうとしているのが、明鏡塾や武道だ。
もちろん、それはそのままでは不可能だ。
だから「感覚」を使うのだ。
しかし、この感覚とて純粋ではない。
感覚そのものは純粋なのだが、その感覚された情報を選択するのは自分だからだ。
例えば、春になり陽気がポカポカとしてくる。
その時、暖かくなった、という人もおれば、まだ寒い、早く暖かくなれば良いのに、と思う人もいる。
状況としては同じでも、そういう違いがある。
それを純粋化していくというものだ。
もちろん、それぞれの人が感覚し出て来ている言葉が間違っているというのではない。
違いを「知る」ということだ。
知ることで、他の感覚を体感する回路を持つという作業をする、ということである。
「ゴチャゴチャ考えずにやること」考えるというのは、当たり前のことだが自分自身の中の出来事だ。
そうする内に、記憶に残った像は消滅していく。
と同時に、自分の思考や癖が像を歪めていく。
それは記憶が塗り替えられていくのと同じ原理だ。
自分の見たいように見る、自分の見たいようにしか見ないからだ。
今日の「大阪・明鏡塾」も、どんどん集中度の高まりを見せた。
要素も色々混ぜ、集中されなければ出来ないようなカリキュラムにした。
どういう訳か、予想を反する嬉しい結果が出るのだ。
うまくいくのだ。
多分、受講者全員が良い関係になっているから、良い場になっているからだろう。
「見たままに」というのは、慣れない人にとっては相当難しい筈だ。
分析癖、つまり、先に頭を使うからだ。頭を使うのは大事なことなのだが、見たものをそのまま保存する方が大事だ。
どんどん新しい感覚を手に入れていく。
もちろん、それを使えるのかどうかは、その人次第だが。
微熱が続いて、気がつけばしんどい。
「何でや?」だ。
人に対して「敬意を払う」のは当たり前だ。
私は仕事を通してこの事は自然と身に付いた。
それは「身の程」ということを、仕事という中で嫌というほど知っていったということだ。
それは、自分自身の実力はどれ程のものかを、仕事が教えてくれ続けたからだ。
技術職というのは、そういう意味で大変優れた職業だと思う。
事務職なら余りここは見えてこないだろうと思う。
実力差というところから、人の背景を考えるようになった。
例えば、私が1日6時間ドラムの練習をしていたとしたら、実力の上の人は「どれほど練習をしてきたのだろう」という、その人の努力や工夫に敬意を払うという方向に進んでいったのだ。
そういった事から、広げて考えていった時に、「人はそれぞれに違う」ということが身に沁みてきたのだ。
もちろん、概念としては誰でも「人はそれぞれに違う」と知っているだろう。
しかし、人をどう見ていても、その事を知っているだけで、何一つ行動や態度としては現れていない。
つまり、実際は「人はそれぞれに違う」を知らないのだ。
当然、「敬意を払う」という事も知っているだろうが、そんな姿を見たことが無い。
私に対して丁寧語や敬語を使ってくれる人は沢山いる。
しかし、その裏にある「敬意」を感じられる人は稀だ。
当たり前のことだが、私に敬意を払え、敬意を払って欲しい等とは、これっぽっちも思ったことがないし、そんな存在だとは夢にも思ってはいない。
何しろただの「不良」だからだ。