一昨日、久しぶりの電話をとった。
「もしもし」「立会いの準備は出来てるやろな」
しばらく、何の話か分からずに「?」となっていたが、そうか、そういえばそんな話があったと思いだした。
思い出したら電話がきれた。
ストーカーなのか、脅しにかかっているのか分からないが、数年前まで続いていた。
何かあったらいけないので、一応地元の警察や、行く先々で警察に知らせている。
しばらく、そういったことがなかったので忘れていたのだ。
そんなに熱心に電話をかけるくらいなら、ちゃんと働けば良い仕事が出来るのに。
と老婆心が働く。
いや、働いているのかもしれないが、それは分からない。
一度電話番号を辿って、場所を特定したことがある。
しかし、それは店だった。
で、その近所に知り合いがいないか調べたら、偶然いたので、その彼に写真を渡して探して貰ったこともある。
10数年前にも、そんなことがあったが、その時は、そのストーカーが逮捕された。
私にではなく、女性の有名人の家まで押しかけたそうだ。
それで逮捕となり、常習犯だったのでそのまま懲役をくらったのだ。
この時は、相当ドタバタした。
人の前に顔を晒すというのは、こういったリスクがあるということだ。
であれば、どんな手を打っておくかだ。
ブログでこんなことを書くのも手の一つだ。
日野はストーカーされているのだと、読者は知っている。
そんなことも、大事なことだ。
■医師も薦める、武道家日野晃が教える医療従事者の為の「明鏡塾」
「東京・明鏡塾」7期は7月15日、「大阪・明鏡塾」2期は8月26日共に開始です。
受講者の募集は始まりました。
共に定員残り5名になりました。
https://www.meikyojuku.com/
「他人の役に立ちたい」そういった動機で医療の世界、介護の世界、あるいは看護の世界に入る人は沢山いる。
素晴らしい動機だ。
そして、きっと気持ちが優しい人なのだろう。
あるいは、何もやることがなくて、とりあえず福祉の世界に入ろうか、と思う人もいるだろう。
その意味で、動機は千差万別・玉石混交だ。
それこそどんな動機を持っていようが自由だ。
専門学校や大学生活の内は良い。
しかし、それが実際の仕事になると、この差は患者さんや利用者さんに跳ね返るということを分かっているのだろうか。
稀に、施設でお年寄りが虐待され怪我を負ったり、死亡するという事件もある。
これが差の一つの現れだ。
とはいっても「他人の役に立ちたい」と思ってその世界に入った人は、こういった事件を起こさないとは限らない。
私が知的障碍者の作業所と関わっていた時、そこの施設長や一部の職員と話していて気づいた事がある。
それは、障害を持つ人に対する「同情」という差別意識を持つことで、施設長達が優位な立場にいると無意識的に思っていたことだ。
これには驚いた。
障害を持つ人と関わることで「癒される」ともいうのだ。
私にはそういった意識の持ち方は宇宙人のようにしか思えなかった。
が、時々、専門学校の学生や、専門大学の学生が研修ということで、施設に来ることがあった。
その学生たちを見ていると、入所している人と何が違うのかが、全く分からなかった。
施設に入るのはお前らやろ!
だったのにも驚かされた。
こんな人たちは、何を思ってその世界に入ろうと思ったのか、聞いてみたいと思ったものだ。
しかし、もし質問したなら「他人の役に立ちたくて」と返ってくるだろう。
この場合の、彼らの実際と役に立っているのは、専門学校や専門大学からの研修を受け入れることで、その施設に何がしかの金銭が入るだろうから、その事では確かに約にたっている。
また、それぞれの学校には入学金を含め、相当の金額が入る。
これもその事では、間違いなく役に立っている。
その程度の「他人の役に立つ」だ。
ということを分かっているのか?だ。
というよりも、そんなことを考えたこと、考えるところに至らなくても頭をかすめた事があるのか?だ。
「他人の役に立つ」という金科玉条の如く言葉は、何の免罪符ににもならないのだ。
「他人の役に立ちたい」とすれば、福祉や医療でなくてもいくらでもある。
しかし、その世界を選んで入ってくる。
その世界も舐められたものだ。
「他人の役にたちたい」とする前に、「自分の役に立つこと」をやっているのか、やってきたのかを問う必要がある。
自分自身の役にも立てない自分が他人の役に立つ筈もないのだ。
もちろん、「他人の役に立つ」事ほど高級なことはないからだ。
という設定を持っていない事が、舐められた世界になっている原因の一つでもある。
「感覚」を使う、あるいは、「感覚」で探る、というような目に見えない代物を使いだすと、途端に世界が変わる。
もちろん、目から見える世界ではなく、自分自身の持つ世界観の話だ。
自分の持つ世界観という抽象的な言葉を使うが、私にとっては具体的な世界だ。
何時から、感覚ということを探り出しだしたのか、憶えていないが、きっと中学生の頃の器械体操の頃からではないかと思う。
私自身の体操を練習している写真を見て、その時の身体はどうなっているのかを感覚することを始めた頃からだろう。
それが、ドラムになり武道へと繋がって行くほどに深化していったのだ。
同時に、他人の持つ「感覚」という言葉と、私の使う「感覚」は丸っきり違う事に気付いていった。
もちろん、感覚は個人のモノだから、共有することは出来ない。
だから、「違う」ということは、そこからは分からない。
が、現れを見ていたり、言葉の端々から推測すると、他人とは質的にも違うと分かるのだ。
ここを追い求めていくと、際限がないということだ。
これは、別の見方をすれば、世の中の価値観に振り回されることなく、自分の世界を歩くことが出来るということでもあるのだ。
自分にとって大事なこと。
そして、その大事なことは、他の人の役に立つ、という実際に還元されていくのだ。
「私の中では」とか「私なりに」という言葉がある。
そういう切り出しを聞くと「一体何を話しているんや」と反応してしまう。
しかし、全てはこれしかない。
「私なりに」しか考えることが出来ないし、感じられないからだ。
しかし、その言葉から妙に違和感を感じる人もいる。
幼稚に聞こえてしまうのだ。
その理由は、「結果どうなった」が無い、あるいは、検証された客観的結果が無いからだ。
つまり、その人は、「自分の思っている事」だけが大事なのであって、結果としての、あるいは、自分の行為が及ぼす影響という、外部の出来事に興味が無い、ということだからだ。
もちろん、真意はそうではなかもしれない。
ただ、その言葉だけしか聞かなければ、そういう具合に他人からは見えるということだ。
この「私の中では」という言葉も、どんなことでも「私なりにしか考えることは出来ない」と、自分で掘り下げた裏付けがあるのなら、幼稚には聞こえない。
40歳という年齢を超えても、尚こういった裏付けのない言葉を使うのを聞くのは情けない。
これも、自分自身で物事を考える、という事がクセ化されていないからだ。
■医師も薦める、武道家日野晃が教える医療従事者の為の「明鏡塾」
「東京・明鏡塾」7期は7月15日、「大阪・明鏡塾」2期は8月26日共に開始です。
受講者の募集は始まりました。
共に定員10名です。
https://www.meikyojuku.com/
大阪・明鏡塾だ。
こういうセミナーというか講座というか、何かを教えるという形式は、それこそ石を投げれば講師にあたる、というくらい沢山あるのではないかと思う。
「人の役に立ちたい」と、何かを学ぶ為にセミナーのはしごをした人を知っている。
それこそ、家が2軒は建つというくらい、お金を使ったという。
もちろん、それだけお金を使える余裕があるのだから、それは経済に貢献している、という大きな見方では、既にそれだけで人の役に立っている。
日本人は、それだけ「習いたい」という気持ちが強いのだろう。
しかし、同時に思うのはどうして「習えばできる」と思えるのかだ。
自分の力で学び取らなければ、自分の力が育たないし、ものにもならないのが実際であり現実だ。
習うと学ぶは、当たり前だが似て非なるものだ。
教えるという事が好きな人もいる。
それは、一つに人に教えるという立場を作ることで、教えられる人よりも偉いと単純に思っている人だ。
実際的には教えられることは、何一つないにも関わらずだ。
もちろん、形式としては「教える」があるが、そこには同時に、学び取るという行為がある。
そしてそれが主導権を持っているのだ。
教え方が良かったから、良い生徒がたくさん生まれた。
というのは、逆で学び取る力のある人が、沢山いたということだ。
また、学び取る力を身に付けることを教える、というのはある。
そこにある学びには「答えは無い」。
本質があるだけだ。
明鏡塾や、私の教える武道・ワークショップは全てこれだ。
だから、習おうと思っている人には不向きだ。
もちろん、私の教室や道場には、他の道場や教室と掛け持ちの人もいる。
もちろん、それはその人の自由だ。
しかし、何時も思うのは、私のワークをやっていて、他の同じように見えるワークをどうして受けるのか分からない。
そんな時にいつも考えるのは、その人の思考はどうなっているのかだ。
私のワークも、お金もうけだのワークも同じに見えるという、ことが分からない。
それこそ、家が2軒建つくらい、溝にお金を捨てるのよいだろう。
つくづく、自分で物事を考えられなければ、プランクトンの如く、小魚に食われるだけだ。
研修の中でも、企業研修では学ぶ側にかなりのレベル差がある。
私が「武禅」や、ワークショップをやるようになったのは、企業研修や学校教育の中では無理だと感じたからだ。
何が無理かというと、その学ぶ姿勢に差が有り過ぎて、一般化された研修は無理ということだ。
当人に切迫感というかその研修を受ける必要性が育っている場合と、育っていない場合があり、育っていない場合は、それこそただの時間つぶしになるだけで、学ぶなどとは程遠いという無理だ。
客観的にそういった企業研修に代表される、会社や団体が経費を払うのだから、これ程学ぶ側にとっては有難い事は無いと思う。
しかし、それは向上心のある人だけにとって有難いことであって、向上心のない人にとってはただの時間潰しにしかならない。
もちろん、向上心がなければいけないのではない。
しかし、その職場で仕事をしようとしている筈が、仕事が出来ないのだから、知識なり何なりと、仕事が出来るように考えなければいけない筈だ。
そんな自覚が全く育っていない人が上役でいる職場は最悪だ。
自覚のない人の特徴は、それこそ、自分に対する過大評価だ。
「私がやっていた頃はこうだった」に類似する言葉を多用する輩だ。
もちろん、百歩譲って確かにその人が平でやっていた頃には、仕事の質が良かったとしよう。
そうであれば、現在の職場はそうはなっていない、なぜならば、質の良い仕事を受け継いで行く筈だからだ。
こういった自己評価の高い人の特徴は、言葉を多用するところだ。
もちろん、言葉を沢山使わなければいけない仕事もあるだろう。
しかし、大方は「仕事のやり方を態度で見せていく」というのが一番合理的だ。
言葉はその解釈にレベル差があるので、行き違いが沢山現れる。
しかし、態度や行動には「即、結果」というものが見える。
これを出来ない人が自己評価の高い人ということになる。
◆東京・夏のワーク・ショップは6月7.8.9.10日
神田道場で行います。
場所の都合で1コマ定員30名です。
屋根修理は、着々と進んでいる。
しかし、今回の修理は間違った。
寸法の勘違いからだが、しかし、そのおかげで別のアイディアが浮かんだ。
だから、次の屋根はそのアイディアを使ってやる。
間違ったことでも、そのままやり続け何とか辻褄を合わせてしまう。
それが私のやり方だ。
そのことで、違う考え方が生まれる事が多いからだ。
こういう修理の場合、一番やっかいなのは、修理の必要のない箇所との取り合いだ。
ここをどう上手に持っていくかで、修理が上手くいくかどうかが決まる。
もちろん、時間の短縮とも繋がるのだ。
どんなことでも「取り合い」が一番大事なところだ。
武道でも相手と組んで次に移る時、これも取り合いだ。
どんな場面にも取り合いがある。
取り合いの中にも取り合いがある。
作業というのは、そういった事にも気づかせてくれる。
蝉の声だ。
朝目が覚めて、しばらくすると蝉の声が聞こえる。
「夏」だ!
屋根に上がり修理をしていると汗がボタボタと落ちて来る。
この時期を過ぎると梅雨に入るので、屋根修理は無理になる。
何でも時期、時期があるものだ。
それは旬のモノと同じだ。
ただ、こういった天候は時期が分かり易い。
しかし、人の行動で時期を見つけるのは難しい。
それは、「自分の考え」を優先させるから、周りが見えなくなってしまうからだ。
本当に自分のことを考えるのは難しい。
今、自分はどんな時期なのか?
そこで占いや運命等に頼るようになる。
それはそれで中々面白いものだ。
私も若い頃はよく占って貰ったものだ。
その中で、良い事だけは「そうやろな」と記憶に残すようにした。
今は、成るようになるしかないと、生きている。
成るようになるは、成るようにすればよいだけだ。
もちろん、成ることもあれば成らないこともある。
成らないことは、何かが足りないか、何かが過剰だからだ。
あるいは、その時期ではないからだ。
だから、成らない事には執着しないようにしているのだ。