自転車は、小学生だった私の行動範囲を大幅に変えてくれた。
遊び場は、歩ける範囲だったのが、一挙に40q50qに広がった。
世界観も変わっただろう。
生まれて初めて乗った自転車は、大人の真っ黒で重たい自転車だった。
もちろん10歳に満たないので身長も低い。
横ノリとか丁稚乗りという呼び名の乗り方で、近所の子供たちと何とか大人の自転車に挑戦した。
自転車は1台なので、交代ごうたいだ。
坂道を調子に乗って漕いでいて、家の塀に激突した事もある。
バイクにぶつけられたり、自動車を擦ったり。
怪我も沢山した。
当時は、自分の自転車を持った子供は少なかった。
私が自分の自転車を持ったのは小学4年生だったと思う。
義父の子供のお下がりだ。
それがどんなものであれ、子供の私としては無茶苦茶嬉しかった。
で、天王寺界隈から大和川へと足を伸ばしていった。
そして、京都までも自分の遊び場の一つにした。
中学生になり、距離は飛躍的に延びた。
和歌山まで泳ぎに行くのに自転車を使った事もある。
そして、白浜温泉へ。
これは当時の道で200qあった。
この子供の頃、3段変速とか5段変速の自転車に憧れた。
余程の金持ちの子供しか持っていなかった。
つい先日、小振りの7段変速の自転車を買った。
子供の頃の夢が、一つ実現した。
60年かかったことになる。
筋力系で、力任せに相手を倒す。
これは、普通に普通だ。
だから、倒した人の筋力の強さや、投げ方のうまさを殆どの人は評価できる。
ま、評価というよりも解釈といった方が良いかもしれない。
つまり、そこで起こった事象が、自分自身の持つ考え方の範疇にあれば納得する、と言う納得、つまり、自分を肯定する図式でもある。
ここが人にとって厄介なところだ。
自分自身を肯定出来るような事象でないと、受け入れるのが難しいのだ。
だから、新しい考え方に馴染めなかったり、取り組めないのだ。
そこから考えると「素直」というのは、事象そのものに対しての好奇心の方が、自分を肯定する為の事象よりも勝っている人とも言える。
俗には、「頭が柔らい」という言い方をする。
昨日も、披露宴でその言葉を、新郎新婦に対して使いながら、違和感を覚えていた。
もっと的確な言葉が無いか、と話を展開しながら頭をひねっていたのだ。
まだ、今日の解釈の方が、私にとっては分かり易い。
もちろん、分かり易いからといっても、それが正しい、それがその「素直」を言い表しているのでは無い。
その側面もあるだろう、というくらいのものだ。
しかし、昨日の結婚式で驚かされたのは、新郎新婦のご両親への言葉だ。
自分の言葉で、その場で作り出していた。
いわゆる、出来レース、TVのような浮いた言葉ではなく、そして、最初から考えて来たものでは無いのだ。
まだ25歳、32歳の若輩だ。
新婦は緩和ケア病棟の看護師だった。
新郎は理学療法士だ。
この新しい夫婦は、自分の周りで起こる出来事を自分として捉え、自分として悩み考えて生きて来ているのだろうと思う。
何時も、ここで紹介する「若い医療従事者」の中の2人だ。
こんな素晴らしい若者がいる、ということに感動を覚えると共に、日本はまだまだ捨てたものではないと改めて感じた時間だった。
ネットを徘徊していると、もっともらしい言葉が溢れているのに驚く。
どんな人が書いているのかと思い、プロフィールを見ると驚く程若い人の場合もある。
どうして、若い人がもっともらしいことをいうのか、そこのところがわからないのだ。
ここでいうもっともらしい言葉というのは、年寄り臭いという意味もある。
も一つ分からないのは、その言葉をどこから仕入れたのかだ。
それは直接的には、ネットであり本であり、誰かだろうが、その言葉と自分とは関係が無いとは気付かない事が分からないのだ。
プロフィールに写真でもある場合、その写真を見ると、そこにはまだまだ人生が刻まれていない。
表情筋が未発達でノッペリとしている顔が多い。
貧相で小汚い顔も多い。
もっともらしい言葉、分かった風な言葉でも何でもいいが、そんな退廃的な言葉を使っていると、自分自身のエンジンなどかからないようになってしまうことを知らないのだろうか。
それとも、単純に偉そうにしたいだけなのか。
何れにしても、そういった気持ちの悪い若い人達も増えているのだろう。
もっともらしい言葉を、自分の人生から紡ぎ出せるようになったとき、自動的に表情が豊かな顔になっているはずだ。
出来ることなら、そんな自分を目指して欲しいものだ。
何を見ているのか、何を聞いているのか、「何を」を何時も振り返る。
ジャズを聴く。
リズム、メロディー、ノリ等々。
もちろん、音楽と定義されたものの要素はそれらだ。
だからと言って、それを聴いているのではない。
その総体だろう。
あるいは、その総体に自分自身の思いや想い出を重ねているのかもしれない。
あるいは、それらは、その総体から想起されたのかもしれない。
こうなると、鶏と卵の関係になる。
リズムです、メロディですという分けられたものを聴いているのではない事は確かだ。
もちろん、リズムだけを切り取ったり、メロディだけを切り取って聴く場合もある。
この「何を」は、もう40年以上振り返っている。
しかし、一向に結論らしきものは見えてこない。
多分、音楽を聴いているのだろうが、その音楽に変わる言葉が浮かんで来ない限り、この探求は終わらないのだろう。
「何を」触っているのだろうか。
これも重要な問題だ。
こうしてmacに向かいキーボードを打つ。
この場合は、キーボードを触っている。
しかし、その行為はそんなレッテルでは解決出来ない。
例えば、特定のキーを打つのは、打ちたい言葉があるからだ。
と考えて行くと、単純に見えることも途方もない深さを持っている事に気づく。
それで頭が混乱する。
混乱するから整理をする。
そんな繰り返しが、頭を回転させるのだろう。
先日の日曜日に、前々から稽古の中に取り入れていた、「相手の力を感じ取る」を棒を使ってやって見た。
もちろん、それ程簡単ではない。
「力を感じ取る」というのは、実際に相手の力の強さと5分5分の力を相手に提供する事も入っている。
その事で、それ以上の力を相手から出させない為と、相手の何かしらの意識の変化を察知する為だ。
こういった「感覚」そのものの稽古には、身体操作は必要ではない。
しかし、これを使うということになれば、身体操作が必要になる。
しかも、かなり厳密な身体操作でなければ駄目だ。
だから、感覚そのものはそのまま育む事はできても、相手に使えるようになるのは、別の問題だとも言えるのだ。
それは、例えばダンサーが、身体を動かすのと、舞台で観客に観せるのは別の問題というのと同じだ。
自分自身の個人的な技術と、使える技術は別のものという事だ。
本来は、同時にある事だが、考える上では、別とした方が私としては分かり易いのだ。
もちろん、言葉としては誰でもわかっている事だろうが、では実際にはどう違うの?となれば、あまり的確な答えも、それぞれの方法も聞いた事がない。
みんな適当が良いのだろうと思っている。
本来は同時にある、というのは、言葉は自分を整理する為のものでもあるし、他人との関係の為のものでもある、という同時にあるという事だ。
ここでどちらを優位に置くか、あるいは、同時にあるという事を認識しているのかどうかが、それらの質や精度の差を生むのだ。