Tilmanとの話は面白い。
芸術の話、特にダンスになると面白い。
完全に行き詰まっているからだ。
それは、彼との約10年前の出会いからそうだったろう。
ただ、その頃は彼も若く、「動く」ということが、周りから認められていたことが原因だ。
しかし、そこに私が現れ、私の動きから「違う質」を見出した。
これは、当時のフォーサイスカンパニーの面々全員だ。
その頃は、皆んな若かった。
だから、深く考える事や、自身で壁を見出せなかったのだ。
そこからいち早く、私のメソッドが重要だと気づいたのはmartheだ。
そしてamy。
その後が今回来日しているTilmanだ。
西洋の文化としてのダンスなのだが、それ自体に取り組み方が間違っているから行き詰まっている。そのことに気づいたということだ。
これは相当深い内容を持っている。
その意味で昨日の「言葉」や理論の話と結びつくのだ。
より本質的なこと。
であれば、それは文化も国境も超えるということだ。
もちろん、深く問題を掘り下げられる人にとってはだが。
Timanが昨日日本に到着、今日は軽く打ち合わせをした。
軽くのつもりが、話はどんどん深く進行した。
言葉の違い、意味の違い、それらを含めた文化の違い等々。
だから、お互いにどう理解し合うのか、あるいは、相互理解は無理なのか。
そんな話で、あっという間に2時間経過した。
「理解し合う」ということなど必要ではない。
その言葉を使うと、何か言葉としての共通項や意味が必要になる。
Tilmanが素晴らしい話をした。
英語は「私」「あなた」という具合に全てを分解し、バラバラにする。そういう文化だから、日野のいう「感じる」などの深い状態や、本当の意味での関係や関係性などに辿り着かないと。
通訳に立ち会ってくれていた小倉さんに「ね、彼は素晴らしいでしょう」と顔を合わせた。
明日から、Tilmanの個人レッスンを始める。
一杯、お土産を持って帰って欲しいものだ。
「分かる人には分かる」と言うと、それでは駄目となる。
分からない人にも分かるように??が現在の風潮だ。
「分からないから」という、自分自身の知的好奇心を触発させたり、溢れさせる、いわゆる、自己教育とでもいうべき風潮はない。
極端にいうと「分かりにくいのは悪」なのだ。
とすると、私には理解できない数学の世界や科学の世界は、どれだけレベルを下げなければいけないのだろうか。
小学生にも分かる、という必要があるのか。
小学生に分かるのであれば、大学はいらないし高度な研究は要らないし出来ない。
どこまで、こういった馬鹿さ加減が広がるのだろう?
もちろん、良い面もある。
線引きが確実に出来上がってくるということだ。
「分からないから、自分の力で分かりたい」と知的好奇心を溢れさせる人が少数だが生まれてくるということだ。
時代は、そういった人達を生み出すために、この風潮を広めているのかもしれない。
「分かりやすい説明」で分かった気になり、しかもその分かりやすい説明は、自分自身が作り出したものではなく、誰かが作り出したものだ。
自分の頭を一切使わない、自分にとって耳障りの良い言葉だけを頼りに生きる人。
それって、自分が生きているのか?
その自分とは一体何だ?
ということすら、考えられなくなっている。
やはり、時代は線を確実に引いているということだ。
もちろん、それは誰も意図していない。
それが「場」である。
女子柔道52kg級だったか金メダルをとった選手が、試合後のインタビューで「ああ、私はやっぱり柔道が好きだったんだな、と感じて戦っていた」というようなコメントをしていた。
この選手のリズムというか、動きが他の選手とは完全に違っていた。
こういう「他の選手とは違う」というのを見るのが好きだ。
もちろん、競技だから勝って欲しい。
しかし、それよりも「どうするのだろう」という見方をしている。
何でもその選手は柔術が得意らしい。
だから、どんな状況になっても寝技になったり関節技になったり出来る。
そういった持ち味が、もしかしたら「他の選手とは違う何か」を出しているのかもしれない。
そんな意味でも、スポーツ競技を見るのは勉強になる。
男子200mで金をとった選手も、高校から陸上競技を始めたそうだ。
スポーツの世界でも、ある意味での上達の公式が崩れているように思う。
もちろん、それは良い意味での崩れだ。
体操競技でも、パワハラでコーチが一人飛ばされた。
しかし、パワハラを受けたとされる選手にとって、それをパワハラだと思った事がないと反論記者会見まで開いていた。
しかし、協会は「暴力は絶対にいけない」として、コーチを飛ばした。
パワハラだと見る人、それをそうは受け取らない人、平手で叩いたのを暴力だと決めつけている協会。
何が抜け落ちているのだろうか。
分かる人には分かることだが。
昨日は東京への出発をキャンセルし、熊野に戻った。
先日の19号が気になったからだ。
近くの川湯温泉が、川の氾濫で床上浸水した。
これは、数年前の台風で、川底が上がってしまっていたからだろう。
地元の新聞を読むと、私の道場辺りは500o以上降ったようだ。
修理中の屋根が気懸かりで帰ったのだ。
迷うことなく突っ走れ!とは言うが、これは中々難しい。
私自身突っ走っているようだが、迷い多い人間だ。
ただ、とどのつまりになった時、「いったれ〜!」となるだけだ。
ある意味で、慎重だともいえる。
先日の「明鏡塾」で、受講者の人達に「どうすれば広がるのか」と尋ねた。
色々な案は出るが、受講している人にとっては、今のままが良い、つまり、巷にあるような宣伝文句を使わないで欲しい、ということだ。
もちろん、私自身はそう思っている。
ここが私の「とどのつまり」だ。
結局は、私のやりたいようにしかやらないのだ。
広く浅い人が「明鏡塾」には関わって欲しくないのだ。
折角カリキュラムも充実し、それぞれの成果がどんどん出ているからだ。
そこに場違いの人が入ると、士気が弱まるし雰囲気が悪くなる。
それこそ「何も教えてくれなかった」というような書き込みをする人は要らないし、申し込んで欲しくはないのだ。
ベテランの治療家の人達は「一生学べるもの」と、意気込んでくれている。
そんな人たちと、お酒を飲み治療の話、感覚の話、武道の話をするのは、この上なく楽しい。
それは、それこそ確実に未来に向かっているという実感があるからだ。
医師の有り様、柔整師の有り様、理学療法士の有り様。
とにかく、医療従事者の有り様を飛躍的に進化させよう。
これが合言葉の一つでもある。
私が属する世界を変えてやろう、という野望は、実は患者さんの為でありそのご家族の為のものだ。
その一つに、10年間関わってきている特養があるが、ここは完全に独り相撲になった。
というのは、私が思い描いた医療従事者が一人もいなかったからだ。
ここで、一度仕切り直しに入る。
特養の常務と「お互いに歳だから、さっさとやろう」と、昨日誓い合った。
もちろん、問題は山積されている。
問題を解決するのは簡単なことだ。
難しいのは、問題を解決できる人材を育てることだ。
その特養をみていると、いかに「明鏡塾」に来てくれている人は優秀なのかが分かる。
そこに年齢は関係ない。
若い優秀な人、ベテランで深く考えている人、こういった人たちが交じり合うことで、新たな発想が生まれたり、新たな事業が生まれたりするからだ。
そんな人たちを育てることなど出来るのだろうか?
躾は簡単だが、躾直しは難しい。
イギリスにある言葉だが、その通りだ。
「ここの時間はどうなってっていた?」時系列がハッキリしない記憶。
そりゃそうだ、50年前の話だから。
昔話は、現在の自分はどう形成されたかを、改めて教えてくれる。
「そうか、あの時ピンちゃんにあの音を出して貰わなかったら、今の俺は無かったな」そんな回想は、今の自分を奮い立たせる。
ジャズ、バンド、仕事、コンサート、自分の進む道、そんなことが、この時代の節々で形成されてきたのだろう。
その時々には、そんなことを考えもしなかったが。
「目的?」そんなもんがあるわけない。
刻一刻一刻と、目まぐるしく変化する自分自身であり、その環境において目的というような悠長なものがはい入る隙間などなかった。
何だか古く感じる、今でも新しい。
この二つの見え方がある。
他の人は知らないが、私にはそう映る。
私は、何もかもをそう見ているということだ。
自動車だったり音楽だったり、ダンスだったり、ファッションだったり、身の回りのもの全部だ。
その二つの見え方は何が原因か、とずっと気になっていた。
先日FBにビートルズの動画が出ていた。
それを見て「そうか」と気づいた。
古かったのだ。
私の記憶から言えば、何時も新しく感じていた。
それはいわゆる「ビートルズ世代」だからというのが大きい。
その色眼鏡が働き「何時も新しい」と強制的に聞いていたのだ。
しかし、見た動画は確かに古かったのだ。
もちろん、60年代の動画だから実際として古い。
もちろん、そういう話ではない。
ジャニスの動画の中にも古く見えるのと、今でも新しい、もしかしたら、永遠に新しいのかもしれないというのがある。
もちろん、ビートルズもそうだった。
新しく見えるものと、古く見えるものがあった。
その新しいを掘り下げて行くと、それは、新しい古いという括りでは駄目だということを教えてくれた。
結論を言うと、古く見える動画には当人ではない作為がある。
つまり、プロデューサーの意向で作られたものだ。
時代そのものに迎合している、あるいは、「売る」ということだけを目的としているからだ。
それを超えたものとは、、、、
見えている事と見えない事と、分けて考える。
見える事というのは、見えないことの現れだ。
見えない事が実際として見えた状態だ。
つまり、私達が考えた事、思った事、生理的に反応した事、他、意識に上っていることや、意識を通さない反射が、形(動きや行為)として現れるということだ。
武道でも「見えている事としての形」から入る。
それは、見えないこと、つまり先達の考え方や同時にある、境地というものを体感して行く為のものだ。
しかし、多くの人は「見えている事」から入るのだが、そこに「意味付け」をし、自分のレベルで結論づけることに終始する。
そうすると、見えている事は、意味付けした人のレベル以上のモノにはならない。
似て非なるものとして終わるのだ。
もちろん、とことん追求したところで先達にはなれない。
それは、人はそれぞれに違う、という公式通りだ。
しかし、ここが大事なところだ。
先達になるのではなく、自分自身をとことん追求するということになるのだ。
人の可能性は無限である。
と巷でも言われている。
それを実際として生きて行くのが、「出来ないからこそ面白い」なのだ。
検証することが大事だ。
これは鉄則だ。
でなければ、自分勝手な思い込み、あるいは、仲間内だけでの「馴れ合いだから出来ているように見える」になるからだ。
もちろん、それを一概に否定は出来ない。
それが楽しい人は、それで良いからだ。
どんな事でも、自分自身の求め方が自分にとって正しいのだ。
その意味で、私は私の求め方が正しいので、検証が必要になるのだ。
しかし、この検証がまた難しい。
例えば、「しっかり身体に力を入れて転げないように頑張って」という指示を出し、そこで検証したとする。
しかし、この「しっかり」を体現出来る人は少ない。
更には「身体に力を入れて」も難しい。
結局、検証する為には、受けを正確に取れる人でなければ、出来ないということになってくる。
もちろん、その「しっかり」の中には、「変化することが出来る」が含まれている。
武道の場合、この変化が出来ることが、受けとして最重要要素だ。
変化をする、という前提がなければ検証にはならない。
それは武道であり、関係性だからだ。
「力はいらない」と言う。
もちろん、私もそう話す。
そこを掘り下げると「極端な腕力は駄目だ」ということに尽きる。
あるいは「力一杯頑張ろう」という思いが駄目ということだ。
もちろん、頑張らないといけないが、そこに「何を・どう頑張るのか」が必要なのであって、単なる思いとしての「力一杯頑張ろう」という漠然としているのが駄目ということだ。
だから「力はいらない」というのは、文字通りのものでは無いのだ。
普通に考えて、刀を持つのも棒を持つのも、それらを振り回すにも、現実的に日常生活の中でも力は必要だ。
その道具に応じた力は必要だ。
しかしこの「力はいらない」という言葉を、言葉なりにしか受け取れない人がいる。
この「極端な腕力は駄目」というルールは難しい。
それは、自分自身が「目的に対して」どれ程力を入れているのか、あるいは、出しているのかが明確に分からないからだ。
そこで一挙に力を緩め、そこから徐々に力を込めるように作り上げて行くのだ。
それが「極端な腕力を使わない」為の稽古だ。
しかし、徐々に力を込めるにしても、徐々にが難しい。
徐々になっているのかどうかが分からないからだ。
とにかく、自分の行為を言葉と同じにするのは至難の業だ。
「分からない」だらけだからだ。