屋根を修理していて、「これは無駄かもしれない」と感じた。
前に考えたアイディアの方が、一手間増えるが有効だと判断した。
目先の楽は、実は後々とんでもないやり直しが出る場合があるのだ。
もちろん、とんでも無いやり直しが出ない場合もあるが、それはラッキーの一語だ。
今回、もう一手間かけよう、という切っ掛けになったのは、台風のおかげだ。
台風で、屋根が傷まなければ、こうは思わなかった。
面倒だがやっておくに越したことがない。
明日は桟木を注文しに行く。
ついでに、軽トラに乗るだけ野地板を積んで帰ろう。
1日で屋根一面は仕上げてやろう。
昨日久しぶりにバティ・リッチのドラムを聴いた。
彼ほど、元気の出るドラムはない。
スタイルとか技術とか、という問題ではなく、ドラムが好き、ジャズが好き、何よりも観客が喜ぶのが好きだからだろう。
だから、一寸疲れている時など、彼の演奏を聴くことにしている。
ワクワクと身体が騒ぎ出すのだ。
スティックを持ち出し、思わず練習を始めてしまうのだ。
そうなると、だんだん来年のコンサートが近づいて来ているが気になりだす。
そろそろ、チケットの準備もしなければ駄目だろう。
何となく焦ってくる。
あかん、咳、熱、頭ガンガン、百日咳が移ったのか?
でもタバコは美味しい。
折角の晴天、修理日和なのに、頭がボーっとして回転しない。
妻の薬で咳は一時止まる。
余程でないと、自分で治そうとはしないのは何でやろ。
「身体を信じているから」それにしておこう。
明日は、少しでも屋根修理をする。
でないと、冬になるとくっつきが悪くなって工事にはならないのだ。
ジャニスの「サマータイム」が流れている。
そういえば、その昔、この曲を得意としていたロッカーがいた。
ファルセット・ボイスで歌い上げていたのには驚いた。
で、すかさず「一緒にやろう」と声をかけ、何度か一緒にツアーをした。
アフロヘアーで、網のタンクトップ、何という名前か忘れたが…そうかロンドンブーツや。
全く畑は違うが、当時のロッカー達とは仲が良かった。
頭がボーッとしてきた寝る。
「見る」というのも、「勉強をする」というのも同じだ。
自分自身の目的が明確であればある程、目的に応じて絞り込まれ、自分自身に反映されるものだからだ。
そこまで、分かると「見ているもの」はそれぞれに違うということが腑に落ちる。
当然、それはその人自身の全てに適応されるものだ。
「触れる」にしろ「聴く」にしろ、自分自身の目的と比例するということになる。
つくづく、人という生物は「意識」というものを発達させたが故に、難しい生き物になったのだと思う。
もちろん、文化にしろ文明にしろ、その「意識」が作り出したものだ。
それを享受しているのが私達だ。
だから、良い悪いで語る事は出来ない。
ただ、好むと好まざるとにかかわらず、一人の人間が社会という集団で生活する為には、という本筋を抑えて整理する必要があるだけだ。
「見る」ということで、「明鏡塾」を受講する若い理学療法士が「皆を見ていると、どうも腰が引けている感じがする」と言う。
その事でしばらく話を進めた。
彼は「ということは、自分の思っている『目』で見ているだけで、実際の目ではないということですね」と来た。
そうなのだ。
レッテルとしての「目」を使っているのと、自分の「目」を使っているのとの違いだ。
それが腰が引けている、と彼には見えていたのだ。
もちろん、もっと別の捉え方もある。
こんなやりとりが、自分自身の整理に繋がるのだ。
しかし、こんなやりとりは一般的ではない。
彼は同窓生に会うと、話が合わなくて困ると言う。
それはそうだ。
「明鏡塾」では、こんな話が一般的であって、一般巷の会話は逆に特別だからだ。
生きている世界が違うのだ。
この間の日曜日、ハロウィンということで渋谷の街は、若者で一杯になったそうだ。
一夜明けると渋谷はゴミの山。
軽トラックをひっくり返して、大騒ぎしていた動画までアップされていた。
これもある種の一般だ。
そこに紛れ込むのか、一線を画すのか。
全ては自分次第である。
「大阪・明鏡塾」は、仕事で休んだ人が多く、こじんまりとして良いワークが出来た。
特に香川県から受講してくれている柔整師が、それこそ1馬身リードした。
「目で聴く」という定番で、その入り口を開けた。
続いて再受講の、やはり柔整師が入り口を開けた。
「顔って変わるんですね」と自分の変化に驚いていた。
そこに方法はない。確かに「聴くだけ」なのだ。
そこに辿り着いたのは素晴らしい。とくに香川からの彼は、「明鏡塾」2回目だ。
これは、もしかしたら記録かもしれない。
臨床でも、どんどん良い結果が出ていると、喜んでいた。
「大阪・明鏡塾」東京を追い越せ!
「明鏡塾」体験セミナーは「関係とは」から始めた。
一般に言われ、また認知されている関係というのは、例えば、親子の関係、夫婦の関係、職場での人間関係、同僚、友人・知人の、という具合に用いられ、その事に何の違和感も持たずに使っている。
もちろん、それが間違っている、というのではない。
それは社会が認知している、単なる記号であってその実際ではない。
当たり前だが、実際というところが核になるのだ。
だから、それら関係という後には関係を「築く」と続き、その事が実際への架け橋となっている。
それが世間の認識だ。
私は関係というのは、そうは捉えていない。
どこにでもあるようなもの、世間で認知されていないレベルだ。
それは、一番想像し易い例で言えば「すき焼きや煮物」だ。
すき焼きであれば、そこに肉、豆腐、白滝、ねぎ等が入る。
それぞれは、それぞれに完全に自己主張をしている。
豆腐の味が、まさか肉て似ているということはない。
食べた感じもまるで違う。
何よりも原料がまるで違う。
という具合に、明確に自己主張している、という大前提がある。
そこに、関東であれば「割り下」という緩衝材が入ることで、それぞれ主張していた肉や豆腐が、そこに溶け出し新たな味を醸し出す。
それを私は「関係」と呼んでいる。
つまり、相互に影響しあって、全く別のものを創造した状態のことである。
人間の場合は、その割り下に当たるものが、会話であったり、触れるであったりする。
但し、その会話や触れるを「感覚している」という状態だ。
つまり、会話を判断し理解するという状態ではなく、感覚という機能を通して実感することである。
今日は「東京・明鏡塾」の体験セミナーの日だ。
いつもの事ながら、「何を?」と改めて考えてしまう。
それは、こちらの情報が変化していたり、感覚そのものが進化しているからだ。
定型のワークしかないのであれば、改めて考える必要もないのだが、残念ながら私そのものが生き物なので、優先順位も変化する。
それは、本講座の受講生の流れやレベルに応じて変化する。
そこからも考えるからだ。
今、最良のものは、である。
しかし、残念ながらこれも「どう受け取るか」があるので、こちらが限定する事、断定することは出来ない。
それこそ「お金が儲かりますよ」とか「一流の治療師になれますよ」的なレッテルなら誤解も少ない。
こちらとしては、一体それは何?そんなもの有る訳ない、という立場だから難しいのだ。
ここでたまに紹介するように、「明鏡塾」には素晴らしい人達が集まってくれている。
受講してくれる人達も、自然淘汰されていく感じだ。
そんな感じで、自然と「仲間」という意識が出来上がり、それはまた違う形を生んでいる。
違う形というのは、それぞれの現場で新たな取り組みを始めたり、現場を変わったりと進化しているのだ。
今回も、そんな心ある人達と巡り会えたら嬉しい。
以前、少し書いた北海道にお住いの植松さん。
たまたま、その植松さんのブログを見つけた。
それを読んで、氷塊した事がある。
常々不思議に思っていたのは、「どうして他人の言葉を自分の言葉に変換する人がいるのだろう」だ。
植松さんは「他者評価に依存せず、自己評価が出来たので、自分の自信を失わないですんだのかもしれません」と平易な言葉で書いてくれている。
この中の「他者評価に依存せず」の中身が大事なのだ。
自分として自分を評価できる、という事がなければならないのだ。
そして、自己評価に値する自分自身で取り組んでいる事があり、ある種の結果を出している事が必要なのだ。
植松さんは、「他者評価の得られないもの」に取り組んでいたのだ。
「登山が好きだから、山に登りました。体力が増えました。〜〜飛行機やロケットが好きだから、さんざん勉強しました。それはやがて仕事になりました」と書かれておられる。
私と植松さんを比較することは出来ないし、そんな失礼なことは出来ないが、私自身も同じ道筋を通っている。
「こうしよう・こうしたい」と思ったことを、自分勝手にどんどんやっていっただけだ。
例えば、それがオリンピックの強化選手に選ばれた、ということになっただけだ。
もちろん、ここに来れば他者評価は付く。
しかし、そんなものは私とは全く関係ないので、私はその評価を「体操はしません」といった。
あくまでも、自己評価だけで生きていくと決めたからだ。
つまり、自分自身が自分自身で決めたことをやり通し、何かしらの結果を持っている、という取り組みをしている人は、「他者評価に依存しない」のだろうと考える。
で、どうして言葉を変換するかということになる。
もちろん、一つは自分として理解しやすくする為に、変換するというのはある。
もちろん、本質を損なわずに。
しかし、私のいう変換は、すれ違いと同じ、責任転嫁と同じで、全く別物にしてしまう変換のことだ。
それは、この「自分で決めて自分で取り組んでいる」という実際が少なく、にも関わらず分析された言葉数を沢山知っていることに由来する。
そして、自分で取り組んでいる事が少ないから、書かれている文章からその人の実態を読み取れない。
だから、書いた人の言葉面だけに反応して、自分勝手に疑問を持ち、自分の知る言葉に置き換えるからだ。
もちろん、自分の知る言葉といっても、またそこにその言葉はどういうことかを、自分自身の実態に置き換える事をしないから、幻想の世界を幻想を持ったまま生きている、つまり、迷路を自分で作り出しその迷路で迷子になっているのだろうと考える。
「暇」なのだ。