そうかもう30日か、しかも年末。
分かってはいるけど、全く体感はない。
体感する為に浅草にでも行こうかと思う。
何だかんだで、コンサートの絡みに忙殺されている。
「何でや?」
ドラムの練習や息子との創作の為にではない。
10年前はどうだったかな?思い出せない。
ただ、チケットを買ってくれる人をどう見つけるのかで、四苦八苦したのは覚えている。
しかし、蓋を開ければ入場出来なかった人が出てしまった。
それは大阪も東京も同じだ。
両会場で1,000人足らずも来てくれた。
これには自分でも驚いた。
当時(10年前)、25年前に活動を停止していたにも関わらずだからだ。
で、今年は35年前ということだから、大阪は満席250名の会場にした。
10年前の半分だ。
覚えてくれているかな???という感じで今回は始まっているからだ。
こういったイベントは、祭りと同じで作るのが面白い。
祭りが始まるまでが面白いのだ。
現役時代、私よりも若いが名物プロデューサーがいた。
私達も、その彼に売り込んだ。
彼が気に入れば、全力でコンサートの成功へ向かうからだ。
当時の若手のロックバンドやフォークの人達も、彼の周りに群がっていた。
誰の紹介だったか忘れたが、意気投合し常に私のトリオをメインにしたコンサートを企画してくれた。
「おい、アキラ◯◯をスポンサーにしたから、経費は全部でるで」と精力的に駆け回っていた。
会場の手配からチラシやポスターの製作、写真など気鋭の若手を使い、前衛的な舞台作りは群を抜いていた。
それこそ舞踏から演劇、そして音楽と幅広く活動していた。
もちろん、無茶苦茶な企画をすることもあるから大喧嘩になることもしばしばだ。
そんな関東煮的な中で、私たちの音は磨かれていったものだ。
その間に、学生運動がまだ頻繁にあったので、ゲバ棒を持った学生達がコンサートを壊しに来たこともある。
勢いのある、強烈な音。
それはこの時代だから培われたのだ。
1階の屋根が4棟壊れている。
そこにブルーシートをかけてあったのだが、風に煽られて破れていた。
そこに応急処置を施したが、これからどんどん北風が強くなる。
熊野の道場は、台風の風よりも冬の北風の方が強いから応急処置では間に合わないので心配だ。
そう言えば、その応急処置も色々と考え、最良の方法だと思った手筈で修理にかかった。
しかし、ブルーシートを見て、どうなっているのが最良かと考え直した。
そうすると、一番簡易で素早くできる方法を閃いた。
考えて行動に移る。
その時に頭で何かが起こるのか、何時もそんな具合に、実際にやる段になると閃く事が多い。
色々と後付けで解釈出来るだろうが、最後の最後まで「いや、まだ方法は有るやろ・これは違うだろう」と思っているからだ。
つまり、自分で考え出したことは、最後まで疑っているということだ。
だからこそ、どんなことでも掘り下げていく事が出来るのだろうと思う。
「見る目が変わる」のは、そこに新しい情報が入ったからだ。
しかし、だからこそその情報をどう処理するのか、という問題が起こるのだ。
処理をというのは判断だ。
だが、ここで起こる問題は、自分自身が気付くのかどうかにかかってくる。
つまり、今までの目と変わった目に気付き、それはどう違うのかを徹底的に考え、自分の元々の目を粉砕する必要があるということだ。
ここを放っておくと、その目は元の目に戻る。
残るのは、その時の印象だけだ。
つまり、新しい情報を入れる前の自分、過去の自分のままだということだ。
年齢と共に、そんなことを考える。
そんなことというのは、生きる時間は限られているから、という生命の前提から考えるということだ。
「見る目」ということを考えるようになったのは、私自身が見ているものは何か?と、ふと思ったことから始まる。
例えば、街を歩いていてショーケースが目に留まる。
その時、カッコいいスーツを見ているとする。
その何を見ているのだろう。
そんな疑問が入り口だった。
ちょくちょく書く事だが、同じスティックで、同じ練習台を使って、同じように音を出した時、明らかに次元の違う音がした。
これは、私が体験したことだ。
ドラムをやり出して3年目辺りで、有名なトランペッターが新しいバンドを組む時、私は別のバンドから引き抜かれた。
その新しいバンドが所属するキャバレーの部長が、次元の違う音を出した本人槌野一郎さんだ(もちろん故人)。
その時に「音」に魅せられたのだ。
これは私の、「形ではなく中身の探求」への入り口になった。
それまでは、ドラムを叩くスタイル(形や姿勢)に目がいき、そこを工夫する事で音を出すことをしていたのだ。
その数年前、小さなスナックを経営していたが、その業界でも体験していた事がある。
有名なバーテンダーのいるBarに飲みに行き、シンプルな水割りを飲んだ。
それは今まで飲んだ事が無い味がした。
もちろん、美味しかったのだ。
そこで、バーテンダーにウイスキーの銘柄を聞くと、何のことはないどこにでもあるホワイト・ラベルだった。
「水は?」と聞くと、これもどの店でも使っているミネラルウオーターのバッタもんだ。
氷も、南の店の氷を一手に引き受けている店だった。
何もかも一緒なのに、どうして味が違うのか。
これがもっと複雑なカクテルなら、まだ分量の微妙な違いということで納得できた。
しかし、ウイスキーを水で割っただけのものだ。
その時にバーテンダーの「腕」という得体のしれないものに興味が湧いた事があった。
その興味の方向が、このスティックの音で、完全に決まったのかもしれない。
形からその中身へ、それは、その逆にその中身だから、その形になる、という処へと発展した。
22歳の頃だ。
クリスマス・イブ、ロマンチックな思い出はない。
それは、10代の頃から50代辺りまで、このシーズンはずっと仕事をしていたからだ。
むろん、好きでやっているので、何の文句もない。
そんな時「皆遊んでいるのに、大変やな」と昔言われた事があるが、何を言っているのか分からなかった。
どうして人は、自分の価値観、あるいは世間の価値観に合わせたがるのか。
だから、そのあたりで話す人の言葉は、私にとっては何を言われているのか分からないのだ。
また、皆の言う「楽しい」だの「幸せ」だのという言葉に縁が無いからだ。
それらは一体何なのか、と問いたくなる。
「何?それ、それを持っていたら何かいい事があるの?」と。
「あなたは幸せですか?」「知るかそんな事!知ってどうするんや?俺の勝手やろ」となる。
そう言えば、子供が生まれてから一度か二度ほど、クリスマスをやった事がある。
そうだ、思い出した。
クリスマスケーキを、サンタの国から空輸して貰ったこともある。
サンタクロースの夢を子供にも持って欲しかったから、かもしれない。
大阪教室の忘年会だった。
「大阪もの」だけを扱った、美味しい料理屋での宴だ。
「マスターはどこ?」「東大阪の弥刀です」「長瀬の次や」「平野の隣や」ローカルな話題で盛り上がる。
土佐の一本釣りの漁師さんも参加。
ひとしきり、連動の話で盛り上がった。
新しく船に乗る人に、しきたりを丁寧に教えるという。
「教えても出来ないやろ」
「体験していくしかないです」
何でも同じだ。
教えられて出来ると思う事が分からない。
そんな事ばかり言い続けた1年、いや何十年だ。
来年はどうする?
言い続けるのか、言うのを止めて言い回しを変えるか。
と考えても意味が無い。
大阪で色帯を作ろうという話でも盛り上がった。
「色粉買ってきて好きな色に染めたらええで」ということで大爆笑。
本論からいうと、黒帯からスタートして、最高を白帯にするのが良い。
しかし、もはや固定観念化している黒帯は、変更がきかない。
大阪コンサートのチラシを分け、コンサートに向けて、これも盛り上がった。
最後は、師範代の「来年は〜」の一本締めでお開きだ。
明日は、本年最後の「大阪・明鏡塾」だ。