あかん。
西へ行く時、最初に寝て後は起きておくを試したが、4時間ほどで目が覚めてしまった。
何とか寝てやろうとしたが諦めた。
今回のフライトで、隣に福岡からスイスのチューリッヒに行く、私よりも少し下のご夫婦と一緒した。
奥さんは、若い頃からアチコチ旅をしていて、旅慣れた感じだ。
ご主人は2年前の還暦の折、夫婦で旅行を企画したのだが、色々忙しくて実行出来なかったそうだ。
で、この10連休がチャンスだと思い、思い切って旅に出たという。
奥さんは一人で旅行するのが好きで、行く先々で色々な人と出会い、また助けて貰って旅を楽しんだそうだ。
日本で仕事ばかりするご主人に、海外の人達の生活ぶりを知ってもらいたくて、無理やり引っ張りだしたという。
奥さんは何故か、外国の人達の方が日本人よりも、余裕があるように感じているそうだ。
それは、私も同感だ。
何が違うのだろうか、そんな話で盛り上がった。
最後は姿勢の話になり、歳と共に背中が曲がってくるから、体幹トレーニングもしているという。
で私が「そんなことやっても一緒やで」と言うと「ええ〜?」と。
「大事なのは気持ちですよ、こうしよう、という気持ちが身体に影響するほど強くないからですよ」というと「初めて聞きました」と驚いていた。
今は、どんなことでも「方法」はネットで直ぐに見つかる。
だから手を出す。
もちろん、それはそれで楽しんだら良いのだが、実際のところは「自分を動かす気持ち、気持ちそのものが弱い」ということに視点が言っていない。
だから、いくらやっても「そこそこ」なのだ。
方法を知らないのに出来るのは、自分の取り組む事に対しての気持ちが大きい、あるいは強いから編み出してしまうからだ。
ある意味で、方法などそんなことだ。
どうしてそれが良いのかというと、一般化された方法が自分に合うとは限らないからだ。
自分に適して事は、自分で見つけるしかないのだ。
もちろん、時間も労力もかかる。
しかし、自分のことなのだから、そんなものを考慮する必要などないのだ。
大事なのはその事が自分を支える基盤になるからだ。
多分、私は武道でも音楽でも、自分の取り組んでいる事は、誰よりも練習量が多いと思う。
それは「練習量を多くする」という考えた方ではなく、「自分はこれを出来るように」という欲求が強いから、そしてその気持ちが強いからだ。
歩いている時は、体重移動や足の底をどう感じようか等々、手は掛け手や緊張の作り方、スティックの指使い、本当に色々な練習をしている。
それが自分の欲求だからだ。
羽田は意外と空いていた。
この日のパリへのフライトは、殆ど満席で通常の倍以上の運賃だ。
席がなくエールフランスで1席だけ空いていたので、それを取った。
だから、空港は満員ではないかと、勝手に思い込んでいた。
手荷物検査も空いていた。
朝早く起きて、荷物のチェックをすませ、「忘れ物はなし」としたのだが、モノレールに乗る頃に「しまった」と思いだした。
何時ものことで、仕方が無い。
そう重要なものではないから忘れたのだが。
今から12時間後にはパリ。
一泊してブリュッセルは昼前からのワークだ。
昨年は5月5日に飛んでいる。
この時期、ヨーロッパも短いバカンスの時期だから、人が集まりやすいのだ。
飛んだらすぐに寝る。
そして目が覚めたら、現地まで寝ない。
これが時差ぼけ解消だと、前回学んだ。
西へ行くのと、東へ行くのでは多分違うだろうから、その検証も兼ねて試してみる。
早朝から大阪明鏡塾へ。
トンボ帰りで東京でパッキング、明日はブリュッセルに。
東京公演の宣伝をしなければ、、、、。
頭はグチャグチャや。
自分のやっている、私で言えば例えばドラム、例えば武道がある。
その事で何かヒントがないかを探す。
しかし、「どんな役に立てたいのか」という具体的な何かが明確でなければ、ヒントを見付けようがない。
よく例に出す「強くなりたい」というような漠然としたことでは、本当に役に立つことを探せない。
それは、まず、自分にとって「強いとはどういうことなのか」を、明確にすることだ。
明確にすると、何が必要なのかが見えてくる。
ここに相当の時間と労力をかけなければいけない。
おおよそのまま、漠然としたまま一歩進むと回遊魚状態になってしまう。
それは自分自身が混乱している証拠でもある。
例えば、何か着るものが欲しいと思って、店に入る。
しかし、「どんなものを」が決まっていなければ、目移りして決められない。
それと同じだ。
私は、往々にして日常生活ではこれだ。
その理由はいたって簡単だ。
「どれでも良い」と思っているからだ。
そのことで労力を使うよりも、考えていることやっていることに労力を使いたいから、どうだって良い、にしているのだ。
とはいっても、店で売っているものは気に食わないから、どうだって良い、になっていることも多い。
店では、流行りのものしか置いていない、売れるものしか置いていないからだ。
その店独自の、という姿勢が、本当に少なくなっている。
「売れたらなんでも良い」という姿勢しか見えないのだ。
売れなくても、私の店はこのスタイルでいく、という気骨のある姿勢が無くなっているのだ。
もちろん、売れなければ店は潰れる。
これは当たり前のことだが、ここで「潰れないように」が目的になってしまった時に「売れたらなんでも良い」に日和ってしまうのだ。
逆に、自分のスタイルを絶対に維持する、貫くという気概が大事なのだ。
その事がお客さんに伝わった時、つまり、情熱が伝わった時、そのスタイルに特定のお客さんがついてくるのだ。
どんなことでも、自分の姿勢を作り出す事が大事なのだ。
自分の人生なのだから。
人気者というか、魚研究の第一人者である、通称おさかな君。
彼のブログがリンクされており、そこには「いじめ」の事が書かれてあった。
メジナという魚は海の中では、仲良く群で泳いでいるが、狭い水槽に入れると、一匹を仲間外れにして攻撃を始めるという。
その一匹を取り出すと、残ったメジナは別の一匹を攻撃するそうだ。
逆に攻撃しているメジナを取り出しても、別のメジナが攻撃を加えるという。
この視点は、おさかな君ならではの視点だ。
ここから考えると、海の中では群で仲良く、というのは、捕食者から身を守る為に、という全体の目的が明確だから、つまり、生存するという目的が群を生み出し、捕食者から身を守っているのだ。
だが、水槽に入れると、捕食者はいない。
そうなると本能の誤作動が起こるのではないか、と私は考える。
一つに敵がいない、一つは、そのことによるストレス、一つに、環境の変化によるストレス。
それらの相互作用が、一匹を攻撃するという行為になっているのではないか、と考える。
そこから「いじめ」を考えると、日本など先進国ではまず敵はいない。
という事は、自分の生存を確かなものとして実感できる「何か」がない。
ここを考えるのは、世界に紛争地域があるが、ここではきっと「いじめ」という陰湿な行為は無いのではないか、と考えるのだ。
というのは、そんな馬鹿みたいな事をやっている暇も余裕もないだろうからだ。
何しろ、自分の生命が危険にさらされているからだ。
海外では荒っぽい遊びや、スポーツが盛んだが、それはこういった危険に対する代償行為だと考える。
日本では、そういったことも封じ込まれているので、生命の危機に対して、という本能が素直に発動しないだろう。
子供は基本的に危険な遊びが好きだ。
それは、この生命の危機に対する本能を育てるための「本能」だろう。
そこに潜在的にストレスが蓄積されている、という大前提を多くの子供達は抱えているのだろう。
という状態での家庭教育、そして学校。
メジナにおける、狭い水槽以上の複合的なストレスを抱えている事から、暴発としての行為、という考え方もあるだろう。
もちろん、「いじめ」は良くない。
しかし、良くないというお題目だけで、何とかなる筈もない。
しかし、視点を変えてみると、何かしら取り組めることもある筈だ。
それで効果がなければ、また考えれば良いだけだ。
間違いなく子供はみんなの宝の筈だからだ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ
昔から「腰の低い人には用心しろ」という。
当時は、商売人を指して言った言葉だろうと思う。
これも「相手に舐められる」と同様の手口だ。
言葉を変えれば「低姿勢」だ。
これは、世の中を渡る為の最高の武器でもある。
もちろん、世の中を渡る武器を細かく言えば、「大きな声で返事や挨拶が出来る」「お尻が軽い(すぐ行動に移れる)」等がある。
この「腰の低い人には〜」は、社会に出てから何時も頭にあった。
しかし、ガキの頃は、コロッとこの手に乗ってしまい、言わなくても良いことを話したり、偉そうに話した事があった。
それを思い出し、後日「しまった!」と思ったものだ。
そう言ったことを沢山体験しているから、20歳代に入ってからは、絶対にどんな相手にでも「下から出る」ようにしていった。
同時に、程度の低い人の「低姿勢」は見破れるようになった。
人は偉そうにしたい、あるいは肯定して欲しいものなのだ、ということを、体験的に知っていけたから、逆にむやみに肯定するレベルの低さも見えるようになった。
音楽の世界は分からないが、武道の世界で素晴らしい先生の共通点は腰が低いことだ。
それは、決して手段では無く、その人のお人柄なのだと感じる。
今でこそ、私は71歳になり、武道での年長の人とのお付き合いは、数える程しかいない。
その数少ないお一人は武神館の初見宗家だ。
私は先生の弟子ではないにも関わらず、本当に垣根を超えて接して下さっている。
私が初見宗家から学んだのはこれだ。
20数年前に初めてお会いする機会を得た。
そこから5,6年は、海外でのワークショップへ自費で押しかけた。
どんな時でも、初見宗家は私への態度を変えない。
決して慣れて疎かになるという事はないのだ。
これは私が絶対に見習はないといけないと思った事だ。
死ぬまで「低姿勢」でいこう。
という具合に、人生で学べる事はいくらでもある。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ
権利を主張する前に、義務を遂行しろ、なのだが、その権利の主張は妥当かどうかを考えた事があるのか、と思われるような主張が多い。
その昔、アメリカで大学側の教え方が悪いから、卒業出来なかったと、大学を提訴した事件が報じられていた。
どんな判決が出たのか忘れてしまったが、言葉面だけを見ると一理あるようだ、とも受け取れるし、逆に自分の実力のせいだろう、とも取れる。
だから、一概にはその提訴に乗る事は出来ない。
多分、日本でも提訴には至らないが、こういった思考はどこにでも転がっているのではないかと思う。
例えば、料理人の見習いで就職し、板長が何も教えてくれなかったから、とか、高額の授業料を払ったが、教材が悪すぎるとか、色々あるだろう。
そこのバランスが、行き過ぎると詐欺という事にもなる。
詐欺は別にして、現代なら、自分の勝手な思い込みを、対象のものに押し付けていないか、と自問する必要がある。
どうして現代ならなのかというと、50年60年前は、対象のもの、例えば会社、例えば学校、例えばアルバイト先の条件や状態をまず丸呑みした。
その上で、言語化していない事柄や、人間関係などを見切っていく、という作業をした。
もちろん、ここでは「言語化」だの「人間関係・見切って」と書き出しているが、そういった分別して絞り込み、ということではなく、全て体感で、ということだ。
そういった事を数ヶ月もすると見えてくる。
と同時に、その職場に相応しい姿勢を身に付けていった。
つまり、こちらが何も主張しないから、その職場であれ、職場の人間の在りようを見透せ、尚且つ、その職場に適応した姿勢を身につける事が出来たという事だ。
しかし、これは少し角度を変えれば、「舐められる」という状況を作り出しているともいえる。
しかし、それで良いのだ。
相手に舐められるという事は、相手の弱点やレベル、その組織のレベルを知る事が出来るという事だからだ。
そうなれば、いくらでも自由に泳ぐ事が出来る。
「彼を知り、己を知れば百戦危うからず」だ。
「関係」が見える稽古。
もちろん、真剣向かい合い以外にはない。
上段に構えた剣と向かい合い、相手の気持ちが動くと同時に相手の中に入る。
タイミングではない。タイミングは狂う時もある。
それでは武道では死だ。
そこの設定が難しい。
だから稽古になるのだが。
ここで質問が出る。
もちろん「どのように?」だ。
真剣に向かい合えば良いだけ、いたってシンプルだ。
しかし、人はここをこねくり回す。
だから、どんどんドツボにはまる。
動物は種に関係なく出来る。
人も子供の頃は出来る。
多分、小学6年生が限度かもしれないが。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ
天邪鬼転じて「全てを疑え」という考え方を持てた。
もちろん、その「全てを」というのは、自分自身も含めての話だ。
例えば、道場で稽古をする。そこで難しい技をする。
その場合、私は道場に来る人達の先生という立場だ。
だから、無意識的に「先生と生徒」あるいは「師匠と弟子」という関係性が出来ているという事だ。
つまり、生徒や弟子側には、暗黙の内の気遣いが芽生えているという事だ。
もちろん、稽古はそこを通り越すように注意はしている。
しかし、どこまでいっても関係性が消える事はない。
だから、その関係性が悪い、間違っているということではない。
そこをしっかりと抑えておかなければ、知らない間に自分自身が裸の王様になっているからだ。
例えば、人から褒められるとする。
私は、「その人は、私のことをそう感じてくれただけ」と解釈している。
つまり、その人が褒めたことと、私とは一切関係がありません、という立場だ。
関係があるのは、私の何がしかの行為や行動と、褒めた人がそれを見た、あるいは体感した何かであって、私そのものではないのだ。
ドラムを叩きまくる。それを見てくれた人、聞いてくれた人が「良かった」と言ってくれる。
それは単純に嬉しい。
がしかし、聞いて見た人が何らかの反応を示してくれた事が嬉しいのであって、ドラムの演奏が良かったから、と思うのではないという事だ。
「疑う」という考え方は、決してニヒリズムではない。
「疑う」からこそ、探求の姿勢を持つ事が出来るのだ。
「ほんまかいな」「それは違うやろ」私にとっては宝の言葉なのだ。
私は時代に迎合しないししたくない。
時代を超えたいだけだ。
「守る」という側面は、戦いにおいては重要な事だ。
だが、本筋で「守る」となれば、負ける可能性が高くなる。
戦国時代などの戦を参考にすれば、一目瞭然だ。
そこには「攻める」も同時にあるから、「守る」は有効なのだ。
「私は、このままで良い」という言葉を、その言葉なりに考えると、時間が進んでも自分はその場に留まっている、という状態のことだ。
という事は、過去に生きるというのと、さほど変わらない。
だから、時間と共に生きるというのは、別に普通のことだ。
人生は戦争では無いから、何を攻めるのか?となる。
逆に、では何を守るのか?も考えなければいけない。
私は一応「生命」だと考えている。
決して仕事や、生活やその他の諸々では無い。
生命だとした時に、では病気からも守らなければならないのでは、となるかもしれない。
もちろん、病気にならないに越した事はない。
しかし、病気になっても良い。
そんなことよりも、自分は何が出来るのか、何をしなければならないのかが大事だ。
そこから考えれば、それ以外の事はどうだって良い事だ。
もちろん、老化もする。
71歳だから老人だ。
老人手帳も持っているし、僅かだが年金も貰っている。
しかし、そのことと、私の何が出来るのかは別の事だ。
その何が出来るのか、何をしなければならないのか、というところが攻めるところだ。
老化という言葉も、老人という言葉、アンチエージングという言葉も嫌いだ。
その言葉を持つ事で、甘んじてしまうからだ。
死ぬまで攻めたるで!
6月1日は、東京コンサート新宿ルミネ・ゼロだ。
東京では昼夜2回公演に挑戦する。
全力で2回を乗り切れるか?だが、実際に怖いのは体力ではなく、体力を支える新鮮なイメージや気持ちを、2回も持つことが出来るのか、だ。
こればかりは、やってみなければ、舞台上のドラムセットの前に座らなければ分からないのだ。
その意味でのプレッシャーがかかる。
体力や技術は訓練である程度はどうにかなる。
しかし、目に見えないことがした支えしていなければ、スカスカの音になる。
不思議といえば不思議なことだ。
息子との共演は、もっと密度が濃くなるように思うので、そこを見出そうと思っている。
大阪の公演の後、一人の男性が「関係を目で見えたのは、生まれて初めてです」と嬉しいコメントを頂いた。
その場面も、もっと緊迫感が出るようにしたい。
書いているように「凍てつく空間」を作り出したいのだ。
その為には、私自身の緊張感をもっと上げなければいけない。
これは流れの作り方で、可能性はある。
泣いても笑っても、後2回公演で今後10年は叩かない。
その意味での一発勝負だ。
もちろん、10年経った時、私が「叩きたい」と思わなければ、これが最後だ。