先日のコンサートの最中に、ふと思い出した事があった。
もちろん、ドラムソロを演奏中だ。
熱で身体が思うように動かない、当然、スティックも走らない。
体力はゼロ、どうにもならない。
始まってから10分ほどの時だ。
何とか復活のキッカケを作ろうと、演奏を工夫したが、その身体はどうにもならなかった。
その時、中学3年生の時、自転車で大阪から白浜まで行った時の事を思い出したのだ。
大阪を深夜3時に出発し、1時間程走った所で、「もうあかん」と弱音が出たのだ。
暮れの押し迫った時期、冬休みに入った辺りだ。
寒さと、心細さが重なって弱音が出たのだ。
その時に「俺って、弱いんやな」と気付いたのだ。
それがあったから、その後「絶対に叩くのを止めない、絶対に諦めない」と、演奏に集中出来たのだ。
その気力が、終わってからの息子との共演まで、ちゃんと仕上げてくれたのだ。
身体も理屈や理論ではなく、気力が支えているという事を改めて体感させてくれた時間だった。
大体で良いから、出来た時に「解る」。
出来ない時は、何も分からない。
それが物事なのだが、残念なことに自分の頭の回転が早かったり、理解力が優れていると、出来ないのに「理解できる」という現象が起こってしまう。
何が残念なのかというと、「理解出来る→実際に出来る」という錯覚が起こることだ。
そして、その錯覚に振り回されるから、「どうして出来ないのだろう」となる。
これは、単純に「出来ない」と思っていることではない。
単純に「出来ない」と思ったのは、「どうすれば?」と自分自身の工夫が起こる。
しかし、出来ると無意識的に思い込んでいる「出来ない」では、自分自身の工夫は起こらないのだ。
それは、自分自身の持っている知識の中でしか頭が回転しないからだ。
そこを突き破っての工夫が生まれてこないのだ。
これは武道を稽古する人、身体を使って何かをする人を見ていて、何時も感じることだ。
そこで、「初めてのことをしているのだから、動作を大きく」という。
そこにどんな意味があるのかというと、大きな動作を繰り返すことで、頭に対して「これは新しい情報だ」と認識させる為だ。
頭が新しい情報だと理解したら、頭が自動的に働き、身体に対して的確な情報を伝達してくれるのだ。
そうなるまでは、大きな動きと、決して過去の頭で理解しないことだ。
新しい情報を元に、大体出来た時は、身体が変化しているから、当人も気付く。
そこの繰り返しが、身体を新しいシステムに入れ替えることになるのだ。
過去の頭と、新しいシステムの葛藤に気付けば、それは自分自身の大きな成長の核を手に入れたことにもなるのだ。
こんなことは、スティックのコントロールを訓練していても同じだ。
大きく動かす。
感じ取る。
小さくする。
力みに気付く。
また大きくゆったりとする。
こんなことの繰り返しが、感覚を育ててくれるのだ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ