2019/7/2
私の説明や解説の少なさには理由がある。
一つは、何時も話すように「見た瞬間に何が起こっているのかを把握する」という能力の練磨だ。
一つは、見たまま真似る、ミラーニューロンの再開発だ。
幼児期までは全開していた能力が、言葉を覚えることや人間の関係性等を認識できることで、使わなくなっていった能力だ。
一つは、受講する人全員は、私と対等だと認めているからだ。
つまり、成人であり物事を考え工夫をする、というところで対等だとしているのだ。
対等だから、子供に話すような言葉の多さや解説の多さは、失礼だと思っているのだ。
次は夏ギラギラの沖縄ワークショップ
沖縄ワークショップ8月10.11.12日

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2019/7/2
「日野さん」あるいは「日野先生」日常的な会話だ。
しかし、昔からそう呼ばれた時に「あれっ?」と、自分自身の内的な気持ちか何かは分からないが、思い切りイラつく事があった。
その正体が分からない。
つまり、何にイラついているのかが分からない、何に反応したのか分からないということだ。
もちろん、それは顔には出さない。
社会の中だし、例えば、ワークショップや飲み会なら場が白けてしまうからだ。
とは、いうものの、その反応のまま出てしまうこともある。
今年2月の沖縄ワークショップの飲み会では、それが爆発して居酒屋が静まり返ってしまった。
それの正体が掴めないのだ。
反応された人も、間違いなく同じ社会で生活を送っている。
友達もいるだろうし、家族もあるだろう。
その意味では何の損傷もない筈だ。
だから一応は「違和感」だとしているが、そして、「心を閉ざしている人」としているが、本当にそうかどうかは分からない。
それは心の正体が分からないからだし、閉ざしているということも本当かどうかは分からないからだ。
一体何に反応してしまうのか?
私の持つ先入観からなのか、あるいは、私に対するイエスマンであることを望んでいるのか。
それは有り得ない。
逆にイエスマンにもキレるからだ。
今回の福岡ワークショップでも、その「あれっ?」と自分の反応に気づいた状況があったので、改めて「一体何にだろう」となったのだ。
ワークショップでは、「表現塾」で皆で歌を歌い合うという定番のワークをする。
「聴く」という事がテーマだ。
時間が経つに連れて「聴く」が、それなりに浸透していくと、全体の声がぶつからなくなる。
同時に、皆の内的な動きが静かになり、本当の意味での一体感が生じてくるのだ。
私が望んでいるのは、間違いなくそれだ。
だが、「聴く」を自力で考えられない人、理解できない人の声は「発声」しているだけだから、最後まで邪魔になり全体が騒々しい。
多分、その発声しているだけだから、「あれっ?」という違和感になるのだろう。
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沖縄ワークショップ8月10.11.12日

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