幕末の剣士白井亨が26.7歳の時、自分自身の修行のやり方が悪い、間違っているということに気付き涙した。
そして、子供の頃の師寺田宗有の元に改めて弟子入りした。
その時、寺田師は60歳だったとそうだ。
寺田師は白井と木刀で立ち会い、一度も斬り込ませずに抑えたという。
私は、こういった話が好きだ。
もちろん、これは白井亨の日記が残っていたから、このことを知ったのだが、ここで寺田師は何を感じどうしたのか?ということを知りたい、身に付けたいと思う、それが私にとっての武道の修行の動機でもある。
伊藤一刀斎が師の鐘巻自斎と三度立ち合って三度とも勝った。
そこのやりとりの中に、本質が見え隠れする。
無意識の働きについての話だ。
10年くらいは、その言葉を探求したものだ。
しかし、これらは決して「身体操作」の話ではない。
精神とかこころと言うと、精神論だとか根性論という解釈をする人が未だいる。
そして、それはある意味で絵空事のように捉える人も、これまた未だいる。
人とはそれほど単純ではない。
状況と相互関係、相互に影響しあっているのが人間なのだ。
そういう大前提がある事を見つけ出したのが、私の言う武道からだ。
「明鏡塾」体験セミナー8月31日東京・神田
大阪ワークショップ10月4,5,6日の詳細
一応今回の作業は終了。
腰が痛い。
最後の草刈がきいたのかな?
明日は東京へ戻る。
今年も一度も泳いでいない。
「夏」は知らない間に通り過ぎていく。
というよりも、時は知らない間に通り過ぎていく。
気が付けば、外ではコオロギや鈴虫、スイッチョン等が鳴いている。
そうか夏は過ぎたんや、だ。
それがどうした?という感じだが、一応世間並みに一瞬思う。
「自己肯定感」という言葉をよく耳にする。
意味は分かるが、自己を肯定しない人、出来ない人などいるのか?その意味が分からない。
但し、自分のやっていることとなると別だ。
「これじゃないやろ」と疑う。
でなければ前に進まないからだ。
まさか、その違いを分からない人がいるということなのか?
というよりも、どうしてそんな面倒なことを、わざわざ考えたり言葉化する必要があるのか、私には分からない。
それは、どんどん自分を混乱させる為の「言葉」に過ぎないと思えないのか?
もちろん、さっきの「これじゃないやろ」は、自分自身にも使う。
「こんなものじゃないやろ」と。
と思った時には、「どうする?」が働き、それらの言葉はどこかへ消えている。
そんなものだ。
「明鏡塾」体験セミナー8月31日東京・神田
大阪ワークショップ10月4,5,6日の詳細
結局、今回の熊野道場修理は、足場の設置とブルーシートの張り直しで終わった。
工事には有難くない雨が1週間も続いたからだ。
でも、仕方が無い。
そんなものだ。
作業小屋の屋根も穴が開き、雨がダダ洩れだからこれも補修しておかなければならない。
今から、夕方までに出来るか?それこそ突貫だ。
東京・大阪で武道セミナーを予定している。
東京9月16日(祝)、大阪9月29日(日)だ。
2時間3コマを予定している。
上達の為の考え方や稽古法。
そこに重要な要素の体重移動や運足。
西洋の運動とは異なった身体の使い方だから、それなりに難しい。
西洋の運動は、象徴的にいえば筋肉の収縮運動が基盤になる。
しかし、それでは「身体を活かしきれない」のだ。
私は武道を探求しているから、「古武道の動きで」と言いたいところだが、残念ながら古武道がどんなものかの実際を見るすべがないので、古武道の動きだとは言い切れないのだ。
古武道と称する形態はあるが、それらの中に「古武道特有の動き」を私には残念ながら見出せない。
つまり、西洋の運動や自然成長的に培った、現代に育つ私達の動きの原点とは異なる運動の仕組みがあるのかどうかを知る事が出来ないということだ。
そんなことを考えながら、身体に挑戦してきた。
だから「身体の仕組みや機能に沿った」という言い方になる。
そこから編み出して来た「力」を伝えたいと思っている。
「明鏡塾」体験セミナー8月31日東京・神田
大阪ワークショップ10月4,5,6日の詳細
武道で、例えば体重移動をする。
ワークショップなどの質問で「何時頃から体重移動が出来るようになったのか」と問われることがある。
その時に即答出来ない。
それは、私として明確に「よし、これだ」となったのではないからだ。
色々な事をやり、色々考え、挙句に「やっていた」からだ。
ここで書いているように、自分で考えて積み重ねているので、どの区切りで出来たのかは分からないのだ。
また、体重移動を稽古する時、単純な動きを色々編み出す。
他の武道・武術関係の人から見れば、それらは特定の技に見える。
しかし、私にとっては体重移動をマスターする為の一つの材料に過ぎない。
だから、名称は無い。
そして、その単純ではあるが異なった動きに共通項があり、それ体重移動なのだ。
という考え方を教えているのだ。
ある時は弟子たちに、どこでも良いから掴んで私を動けないようにさせる。
もちろん、3,4人で組み付いてくるのだ。
そこで体重移動だけで脱出する、というような事で私は稽古をする。
それを私が見せると、何時の頃か弟子たちも出来るようになっている。
もちろん、弟子たちは「どうして出来たのか」は分からない。
「出来た!」だ。
そこから、それを自分のものにしていくには、それなりに相当時間がかかる。
自分は何をどうしたのか?それは、こういった作用を相手に起こしたから出来たのだ、と、自分なりに考える必要があるのだ。
この作業を怠ると、永久に「それが出来た」「それだけが出来た」状態で終わるのだ。
もちろん、自分なりだからそれは日進月歩する。
でなければおかしいのだ。
おかしいというのは、日進月歩しないとしたらそれは「その時だけ考えた」だけだからだ。
そんなことから、武道は死ぬまで稽古だというのだ。
「明鏡塾」体験セミナー8月31日東京・神田
大阪ワークショップ10月4,5,6日の詳細
昼から雨という予報だったので、朝から足場の残りとブルーシートの張り直し作業をした。
単管の足場設置は、段取りよく進んだが、思いの外数が必要だった。
何とか手持ちで間に合わせようとしたが、手持ちで薪入れの小さな小屋を作ったので、思っていた程数がなくDIYに買い出しにいくはめになった。
単管など一般家庭では不必要なものだが、手作りの道場では必需品だ。
大阪ワークショップが復活だ。
元々そこを借りて道場をやっていたが、海外での仕事が増え大阪道場も一時中断していた。
道場は師範代の手で復活したが、ワークショップとなると大阪は意外と会場が少ないので、これもやったりやれなかったりだった。
会場は、谷町線で「中崎町」で降りて1〜2分です。
道場仕様になっているので畳だから足が疲れない。
10月4,5,6日(金土日)です。
「そういえば」と思い出した方、どうぞお越しください。
同級生の歯科医に行き、熊野に戻った。
歯科医で椅子に座り、器具が口に触れるだけで緊張する。
これをどうにか出来ないのかを、何時も試している。
意識を足に持っていったり、イメージの中で遊んだり。
しかし、痛みがあると即現実に戻される。
修行が足りない!
こんなことが、結果として色々な状況で役立つのだ。
もちろん、役立たせようと思って挑戦しているのではない。
「そのこと」をやっているだけだ。
そういえば、「明鏡塾」でのワークで、受講者同士の面白い会話があった。
どちらもベテランの柔整師だ。
「どうも違和感があるな、ワークの為の手になっていて、治療の時の手ではないよ」「そうや、ワークの手やで、それで極めてやろうと思っているから」そこへ私が割って入った。
「治療の手で、私のワークを極めなあかんで」と。
ワークの為の手、ということに気付く感性が素晴らしい。
こういったベテラン(20数年)の治療家が、ずっと再受講してくれるのが「明鏡塾」の底の深さだ。
その意味で、駆け出しの人には難しいかもしれない。
でも、そういったベテランの人と交じってワークをすると、学べることが山ほどある。
それをラッキーというのだ。
昨日紹介した介護士も駆け出しだ。
大阪明鏡塾3期は、今日終わった。
最後の最後で、一つ開眼した介護士が出た。
その事が、「触れる」を根本的に変化した。
つまり、レベルが上位に変化したということだ。
技術というのは、人間全体と深く関わっている、ということの実証だ。
それは「関係」ということのレベルも上げる。
懇親会を終え、コーヒータイムでその変化を皆に見せた。
全員拍手だった。
たった6ヶ月で、しかも一瞬で変化したのだが、実はそうではなく彼の「なにくそ」がそうさせたのだ。
「やる気」それだけが重要な要素だ。