空に浮かんでいる雲。
それは雲だが、ある人にとってはウサギの形だと喜ぶ、ある人は龍だと驚く。
人によって様々だ。
物事に対処するというのも同じだ。
それは間違いなく雲なのだが、そこにバイアスを掛けてしまうのが私達だ。
雲の例は他愛もない事だが、それが仕事や何かしらの研究、あるいは病気の治療なら、雲を共有出来なくなる。
その意味でも客観的な視点を持つ、というのは大事な事なのだ。
もちろん、自分の持つバイアスを知っているのなら、それを排除すればすむが、私も含めて殆どの人は気付き難い。
バイアスを知ることが、昨日の「殻」への他方の道かもしれない。
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沖縄2月8,9,10日
「自分の殻に閉じ籠っているよ」という。
真正面から向かい合う、そんな時に相手に対して気付く雰囲気だ。
「自分の殻」とは何か?その雰囲気は?
まず、雰囲気だからそこを掘り下げて分解したことはない。
では「自分の殻」そこから突っ込むとドツボにハマる。
だから外から攻めると、その人にとって他人は「思っている存在」であって、現実的な存在ではない。
現実的な存在ではないから、他人の言葉や行為に反応出来ない。
それらは目を観察するとよく分かる。
視線というか目の表情というか、真正面から観察すると、人には大きく分けて四種類の内面、あるいは、意識状態がある事に気付く。
一つは「眺めている」それは文字通り「景色を眺める」というような感じだ。
一つは「観察する」これもその通りで、「これはどうなっているのだろう?」という感じだ。
一つは「覗いている」自分はどこかに隠れて覗き見している、窓を少し開けて覗いている、そんな感じ。
そして、一つは真正面から対峙しているという本来の目、赤ちゃんの目、犬や猫の動物の目だ。
この目が、相手と関係している実際の目だ。
私は、そんな選り分けをしている。
最後の一つ以外を「自分の殻の中に閉じ籠っている」という言い方をしている。
つまり、自分の殻に閉じ籠っているというのは、相手と関わらないという状態のことだ。
「引いている」ともいう。
「腰がひけている」というのは、正にこれだ。
もちろん、それぞれの自由で、相手に関わりたくないのが間違いではない。
ただ、社会生活の中で、相手に反応出来ないという状態になるのは危険でもあるのだ。
極端な話をすれば、相手の人がナイフを出しても、「自分の身が危ない!」と反応し、咄嗟に逃げるとか大声を出す、という行為が起こらないということだ。
そんな目に遭う所にはいかない、自分はそんな目には遭わないと思うのは自由だが、他人を見分けられないということでもあるのだ。
この人は大事な人、この人はおしゃべりだけの人。それらを自分の判断で決めるのではなく、相手が自分の殻に閉じ籠っている人であれば、相手の人も関わろうとはしていない、そこを見極められないということだ。
難しいことではない。
赤ちゃんの時期には、目の不自由な人を除いて、殆どの人はその状態だったのだから。
「明鏡塾」でもワークショップでも、この事に気付く稽古をしますよ。
もちろん「武道」では必須です。
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頭の中にあることを外に出さなければ、自分自身の整理がつかないのは、何と不自由なことかと思う。
もちろん、外に出さなくても整理が行き届いている人もいる。
そんな人を羨ましく思う。
かといって、そうなりたいとは思わない。
それは、もし、私が若ければそれに取り組めるが、この年になると今やっていること以外に時間を回すことはできないと思うからだ。
しかし、もしかしたらその考え方、つまり、老い先短いから、という考え方は間違っているのかもしれないとも思う。
それは、私の思い込みだし、やらない為の言い訳かもしれない、とも思う。
私は私なりに、思い切り頭を回転させ、身体を使い目的の事に向かっているのだが、パラリンピックの選手達の取り組み方を見ていると、何だか無茶苦茶甘いような気もする。
もしかしたら、全てが「つもり」かもしれないとも思う。
思考や思うという精神的な働きは、常に揺れているのだと感じる。
身体を使って出来ることは、こういった思考や思うことの比では無い。
頭ほど立体的には使えないし動かない。
そこから考えると、「つもり」で良いのだろうと思う。
実際には、つまり、私のいう実際という身体での実現とは直接何の関係も無いからだ。
本当に、頭には混乱させられる。
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「大阪・明鏡塾」を終え、抜歯の為に歯科医へ。
しかし、手入れが良く抜歯せずに様子を見る事になった。
普段の手入れが重要だ。
もちろん、自分の身体だからだ。
何気なくメールをみた。
「飛行機は欠航」という通知だ。
強風の為に運行中止らしい。
仕方なく、久しぶりに新幹線に乗って帰京した。
「明鏡塾」の懇親会は、再生医療や介助ロボットが進化している中での、自分たちのやるべき事、やらなければいけない事、やれる事等の話題で盛り上がった。
もちろん、この話題は「明鏡塾」を起ち上げた当初から常にあった。
それは「治療法」を教える講座ではなく、医療そのものも考え何か行動を起こそう、という人が育って欲しいという思いからの講座だからだ。
ここを見据えていないと、取り残されるとかというものではなく、落ちこぼれてしまうのが落ちだ。
何か新しいことをするのではなく、自分の実力を伸ばす以外にはない。
その最重要項目が「触れる」だ。
理学療法士や柔整師、医師他誰に聞いても「そんなことは習っていない、学校でも教えてもらっていない。師匠にも習っていない」という。
「何でやねん?」と思うが、誰も触れているし、余りにも当たり前だから、そこに気づかないだけだ。
もちろん、気づいたからといっても、そこから正解を導き出すことは至難の業だ。
私は、この「触れる」に関する検証方法としての武道がある。
それが秀でていないと相手には通用しないという実際を常に体感しているから明確に分かるのだ。
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「応用する」は、私達の日常的な生活だったり仕事を支えている。
子供の頃や学校で覚えたこと他、目に見えない、覚えていないような事まで、様々な出来事からの延長でもある。
しかし、今まで出会ったことのない出来事に出会った時、頭の回転が遅ければ、何に当てはめれば良いのかが分からない。
それを焦ると、パニックを起こしてしまうのだ。
応用するというのを言い換えれば「即興性」ともいえる。
日常や仕事で最も必要な能力だ。
武道の稽古では、基礎稽古や基本の型稽古、組み稽古がある。
そして、その組み稽古を発展させ応用になる。
更に応用の中で即興的に対処する遊びをやる。
即興的にやるものは、当たり前だがそれまで稽古をして、身に付いていることの延長だ。
そこで頭を悩ます人が殆どだ。
日常生活や仕事では応用が効いても、武道では効かない。
としたら、もしかしたら、日常でも応用出来ていないのではないか?
もちろん、基礎稽古や型稽古の量が足りないから、身体に染み付いていないというのもある。
それはどちらでも良いが、そんなことも考える事が出来るようになるのが武道の良いところだ。
即興されたものを考えても意味がない。
それはジャズの時に気づいたことだ。
しかし、「何から?」を見付け出す為に、即興された演奏をコピーした。
そこを徹底的に解析し、私なりにここから、を見つけ出した。
そういった訓練も、武道を考える要素になっているのだろうと思う。
つまり、その人が生きている全てが基本であり、その基本は過去の応用された姿でもあるということだ。
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道場での稽古で、単純動作を繰り返すことがある。
もちろん、その単純動作の繰り返しには基本的な意味がある。
一つは大きく身体の働きとして、そして一つは武道として、という具合だ。
しかしその意味は、その単純動作を身体が難なく出来、そして武道に端を発し身体の働きというところまで考えが及んだ時に、自分にとっての意味になるものだ。
自分のものだから、その意味や価値を簡単に捨てることが出来るのだ。
しかし、その道を通らない時、その単純動作は永久に「単純動作」だ。
道を通らないというのは、単純動作の繰り返しをしない場合だ。
単純動作だから、その場の工夫で「出来た」風にはなる。
しかし、あくまでも出来た風だ。
その場だけの「出来た」だからだ。
だから、武道での組み稽古や型の中に、その単純動作の成果は出ないし、やっている事全てが振り付けのレベルに終わる。
単純動作の繰り返しは「出来る」を目指していることに間違いはないが、身体を作ったり、その機能を身に付けることでもある。
そして、その稽古の意味を身体で気づいていく為のものだ。
永久に単純動作を繰り返している時、ふと「一体これにどんな意味があるのだろう?」と疑問が沸けばしめたものだ。
そこが入り口になるからだ。
しかし、そんな疑問が湧く程繰り返しはしない人が殆どだ。
それは、その前に意味を知るからだ。
現代は、それをしなければ、つまり、先に意味を知っていなければ行動をしないという癖が染み付いているからでもある。
だから「自分のもの」にはならないのだ。
であれば、自分の人生で「自分のもの」とは、お金で買ったものだけ、人の話や情報を知っているだけ、という寂しいものになるとは思わないのだろうか。
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