コロナで何人が死亡した。
〇〇が感染した、と有名人やアスリートの名前が上がる。
そのことで、知名度が高いほど「あの人も!怖い!」となる。
何を基準にそんなことになるのか?
そんなことというのは、恐怖や不安だ。
感染なのか、その後重症化して死亡するということか?まだ、世界では治療法が確立されていないからか。
では、自動車事故での死亡率はどうなのか?2019年で過去最少で3215人とある。
自動車事故に対して、それこそ安全にという法はある。
医療で言えば予防法と呼べる。
それは世界的にある。
しかし、依然として無くならない。
一般的な肺炎では、日本では25.000人が年間亡くなっているそうだ。
そういった「死」という数字を洗い出していくと、コロナなど取るに足りない数字ということになる。
私達を守る医療は、片側の車輪しか回していない。
人にとっての医療・医学の両輪とは「生と死」だ。
その「生」への限りなき挑戦は目まぐるしいものがある。
再生医療しかり、健康志向しかりだ。
そして、その風潮は当たり前で正しいと、どこかに刷り込まれてしまっている。
つまり、片側にある「死」という全ての人類に取り、確かな人生の終わりがうやむやになり抜け落ちてしまっているのだ。
最近になってやっと、「安楽死」が問題として取り沙汰されてはいるが、「生きる」と比べれば依然として、「死」は人生の蚊帳の外だ。
コロナであろうが、自動車事故であろうが、はたまた健康であろうが、私達は例外なく「死」を迎えるのだ。
日本の昔には「潔く」という言葉があり、それをよしとする美学があった。
だからどうなのか、というと、「生を全うする」という思想、それが確立されるのは、その対極にある「死」が間違いなくあるからだ。
そういった精神的基盤がしっかりしていれば、パニックになることもヒステリーになることもない。
それこそ心の安定があり、免疫という働きも正常に行われるのだ。
ウイルスは差別をしない。
誰かれなく、条件がそろえば感染する。
その防御は、これまた例外なく人には備わっている免疫であり抗体を作りだす働きだ。
つまり、感染すれば抗体が出来るのだ。
それで万全だ。
500数10年前、武道の達人伊藤一刀斎は「人に備わる機能を十分に働かせることが剣の妙」と説いている。
人に備わる機能は、生命誕生と共に、現在に生きる全ての人に「備わっている」のだ。
「ドクター原田のコロナフルネス」
https://oneloveclinic.tokyo/blog/oneloveclinic/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9?fbclid=IwAR3rVOPXJfPyZPnm9483UDLKRtFl3PJwS7zPeWwlqYiMnnGZTTwmV42UFqM
前にも書いたが、人類はどうして現在まで生き延びているのか?
現在でも絶滅危惧種の生物は万とあるなかでだ。
しかも、ウイルスや様々な病原菌に晒されながらだ。
有名なペストやコレラ、スペイン風邪など世界を席巻したが、現在の私たちは生き延びている。
それ以前、医療の医の字もなかった時代には、そういった事が無かったのではなく、名前が無いだけ、原因が分からないだけで色々あった筈だ。
地震等の天変地変も体験しているだろう。
しかし、現在生き延びている。
しかも、現在は医療や薬も昔の比ではなく発達進歩している。
そんな良い条件下で、パニックというかヒステリー現象を起こしていること自体がおかしい。
何も歴史から学んでいないのか?
それはコロナウイルスというウイルスが未知のものだからなのだろうか。
しかし、常に新種のウイルスや変異したウイルスが猛威をふるっているのだから、未知のものだから、というのは言い訳にはならない。
では、人間が愚かになっているだけなのか。
愚かであろうが、私達人間には免疫抗体を作るという働きがある。
それによって、スペイン風邪は収束したのだ。
医療や医学、科学の発達は、実は人間そのものを発達させたのではなく、「学や機械」を発達させただけだったのか?
人間はどこまで行ってもアナログである。
であれば、免疫抗体を作り出せる筈だ。
ダイヤモンド・プリンセス号の乗員乗客3711人中1.043人の感染者、退院603人集中治療11人死亡10人という数字がある。
そして、劣悪の環境の中での感染状況であり、乗客も高年齢の人が多かった。
この状況や数字から、都市封鎖他の現行規制が適当かどうかを判断できるだろうに、一体専門家というのは何を目安に、そして、どうなったら収束だとしているのかだ。
私達は基本的に強い人間だ。
ただ、情報に振り回されて「不安」を持つことが「弱い」を作り出すのだ。
今大事な事は、守らなければならない人を守ることだ。
https://www.designstoriesinc.com/panorama/lapeste/ ペストやスペイン風邪
昔、おたふく風邪で大笑いしたことがあった。
ある時、顎のあたりが熱を持ち腫れて来た。
何かな?と思って、医者に診てもらった。
「お子さんはいますか?」といきなり言われ「はい、一人います」と答えた。
「おたふく風邪かもしれないので、もしそうならお子さんを産めなくなりますから」と言われた。
早速、母親に電話を入れ、子供の時におたふく風邪を患ったかどうかを聞いた。
「多分、患ったと思うで」と母の頼りない返事があった。
私は、ええ歳をしておたふく風邪か?と思ったが、ちょっと待てよ、ともう一度顎の調子が悪くなった原因があるのではないか、と振り返った。
思い当たった。
風邪ではない、原因はパンだ。
バケットが好きで、そのバケットのサンドイッチを食べた。
そのサンドが太すぎて、口を最大に開いても頬張れないくらいだった。
でも、分けて食べるのが嫌で、思い切り口を開いて食べた。
その時、顎で音が鳴ったようなことを思い出した。
「これや!」
おたふく風邪だと診断され、薬を出してもらっていたが飲まなかった。
結局、顎の炎症が収まった時、腫れが引いて顎の違和感も無くなっていた。
一体あの医者は何を診たのか、あいつは、アホか!で、大笑いした。
笑える誤診なので良かったが、逆もある。
医師も神様ではなく人間だ。
絶対は無いのだ。
「その時」に書いた文章を振り返ってみる。
例えば、原稿などだ。
「そうか、ここはこう書けば良かった」と思う。
時間というのは、そういう効果を引き出してくれるものだ。
だから、その時のそれは間違っていたのではなく、「その時」なのだ。
自分の演奏を観る、「あかんわ、これ」
この「その時」と、その後の視点の違いは、多分より客観になっているということだろう。
今日、古希のコンサートから9か月。
DVDが上がって来た。
昨年6月東京コンサートだ。
昼夜2回公演の2回目だったので、何とはなしに疲れているかな?という感じがした。
10年前還暦コンサートの時よりも「私」という感じがした。
年月がそうさせているのか、武道の稽古がそうさせたのか、その辺りは定かではないが、確かに違う。
もちろん、コンサート当日の私の自覚としても、10年前とは違う私だった。
演奏に関しては、コンサートを決めてから課題を設けた。
もちろん、その課題はハードルが高すぎて実際には消化していない。
時間が足りなさ過ぎだ、しかし、それがイラつく。
「あかんわ、これ」だ。
しかし、演奏の実際、コンサート会場では250名のお客さんは、大盛り上がりを見せてくれた。
還暦コンサートを見た人からは、「今日の方が良かったです」と感想を貰った。
○ 初めての体験で驚いています。ドラムの音一つ一つが、こんなに自分の身体に突き刺さる
ような感覚は初めてです。単純にこんなに凄くドラムを叩き続ける日野さんは何者?ドラム
でこんなに表現ができるなんて全てが驚きです!
子供も喜んではしゃいだり、逆に私を息を凝らして凝視していたそうだ。
大音量で聞くと、相当楽しめる。
コロナで一寸塞ぎ気味のみなさん。
DVDで古希のおっさんのぶっ叩き、堂本光一さんの舞台に出ている和太鼓奏者、息子の日野一輝との共演も相当楽しめますよ。
ぜひ、この機会に一枚どうぞ。
ただし、100枚限定ですので、、、、
「WHO幹部のマリア・ファンケルクホーフェ氏は23日の記者会見で、日本の検査数の少なさを問われ、『インフルエンザなど既存の疾患発見の仕組み」が機能しており、新型ウイルス検査の前に別の疾患が判明する場合もあると回答。』
やっと、普通の見解が出て来た。
常に人類はウイルスと戦っている。
私の短い人生の中でも、何度となくインフルエンザに脅かされている。
それは世界とて同じだと思う。
その度に「こうしよう」という対策が取られ、次に備えている筈だ。
しかし、実際はそうではなかったのかも知れない。
そうは言っても、医療の体制や保険の制度が国によって違うからかもしれない。
その事と、ある意味で、日本人の几帳面さが違いに出ているのかもしれない。
日本以外の国々の対策で、一つ分からないことがある。
それは「コロナを封じ込める」という、完全にコロウイルスを消し去ることを目的としていることだ。
そんなことが出来るのか?目に見えるものならいざ知らず、また、どれだけ拡散されていくものかも分からないものを封じ込めるという発想。
ここに、西洋文化の、対立の根源が見える。同時に人間の傲慢さも見える。
どんなことでも、封じ込めるとなると無理が生じる。
その無理は、全く違う側面に影響を及ぼす。
今回なら目に見えているのは経済だ。
それよりも免疫機能に任せる側にどうしていかないのか、そこが分からない。
●明鏡塾体験会は◆東京:4/18神田 大阪:4/25新大阪他
詳しくはhttps://www.meikyojuku.com/
今日は、一応屋根の下地を完成させた。
とは言っても、この上に桟木を打ち野地板を貼り、その上にもう一重上に本屋根を作るという計画だ。
どうして、それ程手の込んだ作りにしなければいけないのかというと、現在の屋根を剥がすという作業に、とここまで書いていて、作業を見直すヒントが浮かんだ。
ヒントが浮かんでから、どうして最初にそれが浮かばなかったのかと考える。
最初に方向性が決まると、その方向での色々な手法を考えるから、それ以外に頭が切り替わらないのだ。
では、どうして今浮かんだのか?
実際に作業をやり、作業中にも「これで良いか?」と考えている。
その蓄積の為の時間が新しい方向性を生み出す為の時間だったということだ。
もちろん、それは私にとっての時間であって、他の人なら、そして知識を持っている人なら、もっと早く気付いただろうと思う。
知識を持っているというのは、そういうことだ。
私は、あくまでも私が人生を歩いている中で気付いたことと、少量の知識だけで私を賄っている。
だから、どれもが私にとっては役に立つことばかりだ。
ただ、遅い。
しかし、人の働きはアナログだからこれで良いのだ。
武道の基本となる「体重移動」がある。
例えば、腕を使って、棒を使って、木刀を使って、という具合に色々なバリエーションで「体重移動」を体感していく。
同時に「体重移動を行える身体」を作っていく。
そこに終着点は無い。
終着点は自分が決めることだ。
「これで良い」と決めればそれでよいのだ。
ただ、入り口はある。
私の動きは、多くの人にとってその意味で入り口の手本にはならない。
熟練者にとっては入り口が見える。
それは仕方のない事だ。
入り口がある、というのは技術だからだ。
例えば、棒を使って体重を移動する、という状態を初めて見たとする。
その状態に???となる。
そこでヒントとして、膝の緩みと腕を同時に動かす、がある。
さらに、胸骨を前に出し引き上げ、骨盤と肋骨との間を引き伸ばしているような体感を持つこと。
絶対に「押そう」と思わない事。
これらが、体重移動の為の基礎的な要素であり、最終的な形でもある。
そうすると、どこから取り組まなければいけないのか?を、最初に考える必要がある。
大方はここをしない。
私にとっては「どうして?」だ。
要素を出し、しかも身体操作としてのヒントもある。
にもかかわらず、いきなりその全体をやろうとする。
身体を使って何かを実現させた体験が無い、というのは、そういうことなのかと想像する。
30数年武道を指導しているが、ちゃんとシミレーションをして取り組んだのは数えるくらいしかいない。
その人達はプロのアスリートだった。
私なら「膝を緩める?」となり、ああでもない、こうでもないと膝を使ってみる。
緩めるなのだから、曲げるのではないだろうと仮説を立て、「曲げる」をやり、その体感を覚える。
それは間違っていることだ。
ここが重要なのだ。
間違ったことを体感していなければ、正解の体感を体感出来る筈もないからだ。
「間違わなければ駄目」というのは、こんなことでもある。
間違いを知っていれば、正解でなくてもそれに近くなる筈だからだ。
ということを「取り組み」というのだ。
ただただ、「それは違う」だの、やみくもに量をこなすことが取り組んでいるのではないのだ。
今日は大阪明鏡塾の体験会だった。
キャンセルもあり、マンツーマンになった。
若い歯科医が、「関係」に自分自身の弱点を見出し、その事に特化している「明鏡塾」ということで受講してくれた。
なにしろマンツーマンなので、実質的な体験が難しい。
しかし、定番の「寝ている人を起こす」では、相手を感じて、ということを勘良く、初めて一発で起き上げた。
これにはこちらが目が白黒となった。
それでは、ということで相当高度なワークを体験してもらった。
言葉も使わない、相手の身体にも触れないという形で、自分自身が「今なら起き上がれる」という瞬間を感じ取った瞬間に起こすというものだ。
私が見本をみせ、例によって「こんな感じや」ということでやってもらった。
何と一発で起き上がらせたのだ。
「凄い!」だ。
この感性は何なんだろう。
もちろん、「素直」という言葉で事足りる。
では素直ではないというのはどういうことか?
あるいは、出来ない人は何をどう捉え違ったから出来なかったのか。
そんな事を改めて考えさせられた体験会になった。
明日は、大阪明鏡塾4期、最後の講座になる。
4期では、初受講でベテランの柔整師の方や、やはり初受講で逆の若手の柔整師が多くの気付きを得ている。
このメンバーの中に、この歯科医が混じったら、相当面白い変化が起こるだろうと嬉しい予感だ。
○ワークショップ次は大阪4月4,5日・東京6月4,5,6,7日
コロナのワクチンを世界中が研究している。
それが開発できた時、コロナはただのインフルエンザとなって忘れ去られているかもしれない。
毎年のインフルエンザの例の如くだ。
ウイルスの変異スピードに追い付かないのだ。
それくらい、ウイルスに対抗するのは難しいということなのだろう。
しかし、毎年変異するウイルスだが、それは私達も毎年免疫が付いて来ているということでもある。
一つの体験が、その後の出来事に対処できるようになる、という私達そのものの日常と同じだ。
しかし、今回は各国はこぞって、それこそ隔離政策を施行している。
そうなると、その免疫も出来ないということだ。
となると、その隔離を解放した時、爆発的に感染者が増えるということになりかねない事も想像できる。
もちろん、私は専門家ではない。
だから、あくまでも想像だ。
皮肉にも、現在の経済活動の停止状態は、環境を一変させているというニュースもある。
ベネチアの水に透明感が戻ったり、環境汚染が激減し何百万人の人の生命が救われたそうだ。
その意味では、この騒動は良かったのかもしれない。
という具合に、何が良くて何が間違っているのか、の判断は、「何に価値を置くのか」で変わるということだ。
どこまでいっても、大局的に「正しい」ということは無い、ということなのだ。
○ワークショップ次は大阪4月3,4,5日・東京6月4,5,6,7日