新日本プロレスが復活というか生まれ変わっていた。
もちろん、私はジャイアント馬場選手の時代しかしらない。
飛行機で隣に座った大きな人。
藤波選手だった。
握手をして貰った。
その手の分厚さに、プロレスの過酷さを体感した。
10年も前にもなるだろうか、中邑選手と対談した。
彼の身体の柔らかさや、身体の優しさが秀逸だったのを思い出す。
新しいハロルド・メイ社長は、経営のエキスパートだ。
様々な日本の大手企業を歴任し、新日本プロレスの社長にと懇願され着任した。
どんどん新しいアイディアを出し、過去最高の収益を上げた。
しかし、その新しいアイディアについていけない日本人の社員達。
彼の苛立ちは隠せない。
苛立ちというよりも「どうして?」だ。
リスクの先にしか喜びも自信もない。
名言だ。
初めて東京ドームは2日間で7万人を動員した。
新しいファンを開拓する、ということでスタートした新生プロレスは、確かに新しいファンを獲得していた。
一人の女性は「感動出来るものって少ないじゃないですか」ということで、エンターテーメントとしてのプロレスに熱くなっていた。
○ワークショップ次は大阪4月3,4,5日・東京6月4,5,6,7日
久しぶりの熊野は1℃だ。
でも、奇跡的に水は出ていた。
昨年暮れから、一度も止まっていないのだ。
逆に「どうして?」と思ってしまう。
ラッキーなのだが、うそ〜と、それこそネガティブな言葉が出る。
しかし、私にとってネガティブと呼ばれている言葉は、本当にネガティブなのかと思う。
特にこういったレッテルの貼られている言葉は、感情やもっと希薄な気持ちから現れる。
あるいは、それらに影響を与えるとしている。
私の場合は、「うそ〜」は否定ではなく、「ほんまかいな、良かったやん」が1セットである。
「あかんがな」は「ほんならやったろか」と1セットであり、どちらかというと「やったろか」を喚起させる言葉でもある。
それは意識的にそうしたことではなく、子供の頃からの刷り込みだ。
基本的に前に進むしかない生命で、マイナスなど有る筈もないからだ。
その意味で、俗に言われるレッテルに対しては「何を遊んでいるのだろう」という認識しか持ち合わせていない。
それは、私は自分自身の生きて来ている実感からしか、言葉を身体認識化しないからだ。
その意味では、知識からだけの言葉を「言葉」とし、その言葉を自分自身に当てはめて育っている人は、レッテル的価値に振り回されても仕方が無い。
そこに、何の基準も無いからだ。
自分の身体から生み出される言葉を持たない。
体験や実感からの言語化が不足しすぎているからだ。
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