野地板を張り終えたのは夕方6時を回っていた。
仕方がない。
明日は朝から防水シートを張って終わりだ。
この防水シートまで進まなかったら、木が雨で濡れてしまうのだ。
この防水シートも材料が良くなり、シートだけでも屋根材の代わりになる程だ。
今日は、ここ一発のところで手鋸を使った。
肘の使い方と、鋸刃の感触を改めて感じ取る為だ。
また久し振りに玄翁を使った。
やはり、急ぐと力んでしまう。
それに気付く度に力みを抜く。
そんなことに注意が向いているから、作業が遅れてしまうのだが、それも仕方がない。
身体を考えられるのは、何かしらの作業の時しかないからだ。
身体操作としていくら練習を積んでも、実際の作業の中で、つまり、人生の中で使えなければ意味はない。
だから、作業の中で考える方が合理的なのだ。
そこで起こった問題なり、疑問は、後で引っ張り出し、それを練習する。
そうすると、「実際」があるので、練習もイメージトレーニングとなるのだ。
野地板張りにてこずっている。
直角ではない建物は、そこが厄介なのだ。
もちろん、材料も沢山必要だ。
何しろ、角度分切り落としが無駄になるからだ。
「誰が、こんな建物を考えたんや!」とボヤキながらの作業だ。
しかし、屋根の傾斜がきつい分疲れが倍だ。
一日作業を終えると、足首カチカチになっている。
気のせいか、動きが鈍くなっている。
単管の上を材料を持って歩く時、何故かビビりが入っているような感じがする。
年かな?
野球界のレジェンド落合博満選手。
昔の選手は、自分の肝心の練習は、人には見せなかったという。
その例として、落合選手は練習場でボールを配球してくれる人とカメラマンと3人になり、パンツ一丁で自分の打撃フォームを撮り研究していたそうだ。
その映像は相当あるという。
ホームランを狙う、三冠王を狙って取る。
どれもこれも、落合選手として理にかなっている。
ある時、真新しいバットを渡されて「これ太いよ」と感じたので、ノギスで測ってみると、いつも使うバットより0,1mmの太かったそうだ。
「感覚」は、目的に応じて果てしなく磨かれていくものだ。
また、「普通の練習は練習としてやるよ。それとは別に、自分の疑問や問題を解決する為に自分だけの練習をするんだよ」と、ごく当たり前のことを話していた。
それこそ、その世界の達人の話は示唆に富んでいるから好きだ。
ゴールデンウイークに外出禁止。
前代未聞だ。
その事は別にして、コロナ感染への国を挙げての対処だ。
もちろん、それは感染症の専門家からの提言なのだろう。
しかし、私はこの騒動の当初から不思議に思っている事がある。
感染症の対策は行き届いているのかもしれないが、誰の為の対策なのかが見えない。
つまり、レッテルとしての対策にしか見えないのだ。
で、何が抜けているのかを探した時、その「誰の為」の「誰という人」だ。
人が感染症から守る為に、ということで、最も大事な点は「免疫強化」だ。
今までのメディアの煽りは、とにかく「感染者が増えている」だけだ。
感染症の専門家からも、この「免疫」に関して、声を大にして呼びかけていない。
WHOにしても、呼びかけていないように思う。
何故だ?
薬やワクチンが治癒すると本気で思っているのか?
意味が分からない。
今は、免疫の専門家の出番だろう。
もちろん、口からウイルスが入るとすれば、歯科も重要な砦になる。
医療が細分化されるのは仕方がない。
しかし、こういったウイルス対策は、全医学的に取り組むべきことだろう。
医学にど素人私でさえ考え付くことだ。
一体医学って何だ?
やっと桟木の組み合わせを終えた。
といっても、一本残しているが。
でも、明日から野地板を打てる。
ミリ単位だが若干の誤差がある。
これは丸鋸の使い方、つまり、墨打ちと切り方のミスだ。
ま、仕方がない。
これだから修理、つまり、やり直しは手間がかかり、時間がかかるのだ。
これは癖や躾直しと同じだ。
癖を付けるのは繰り返すことで出来るが、癖を直すのは難しい。
癖になっていると、それは「動作を直す」ことではなく、考え方や感じ方を変える事になるので相当難しいのだ。
動作の源は、結局は考え方だからだ。
しかし、癖を直すという考え方ではなく、別の考え方がある。
それは、新しい癖を付けて行く、という考え方だ。
私は、こちらを優先している。
新しい癖として、自分にとって新しい考え方を導入すること、そしてそれを繰り返すことで新しい癖にするのだ。
このやり方は、武道でもドラムでも、工事でも使っている。
明日も晴れるらしい。
予定通りに工事が進むだろう。
一つ目の屋根修理がやっと佳境を迎えた。
取り合いで考え抜いた。
これにはこれ、という対処処理でも良いのだが、私は性分的に嫌いだ。
全体と呼応する、全体の考え方と同じで無いと部分では無い。
その考え方で今回はやろうと思った。
対処的に考えると、全体が仕上がった時、いや、仕上がるとしたらバラバラになる。
そうすると、結局は仕上がらないということになる。
気分が治らないのだ。
違和感が残るということだ。
また、何かあった時、やりようがない事が起こるし、相当時間がかかることにもなる。
このコロナ騒ぎも同じだ。
取り敢えずは対処的に進めるしかない。
しかし、同時にシステムを考えていかなければ駄目だ。
でなければ、第二波に対処出来ない。
あるいは、同時にもし大きな地震が来たり、大雨が降り被害が出た時に対処出来ない。
何よりも、現在入院されている方、中でも余命幾ばくも無い方をどうするのか?緊急で入院されて来る方をどうするのか、という大きな問題をとりこぼしてしまう危険性もあるからだ。
緊急事態宣言が最良の方法かどうかは分からない。
しかし、試してみる価値はある。
ドイツのやり方やイギリス、スエーデンのやり方、色々ある。
良いところは、取り敢えず試す価値はある。
但し、同時に日本人に適したシステムを早急に考える必要はある。
私達はアメリカ人でもドイツ人でも無い。
間違いなく日本人だ。
その昔、といっても、150年程前のことだが、世界が驚く独自の世界を形成していた。
今こそ、独自のシステムを考えるチャンスだ。
この期を逃す手はない。
「この年になって、やっと仕事が好きになりました」京都・西陣つづら織りの匠の言葉だ。
御年81歳だ。
「やっと、これからです」と続けておられた。
私は、こういう人が好きだ。
もちろん、私もこういう言葉を発せられるようになりたい、絶対になってやると、それこそこの年になって思っている。
人は、世界のどこという例外なく年を取る。
私は、人が年を取るというのは、そういうことだと思っている。
同時に「仕事が好きになる」というレベルもこういうことだと思っている。
若い頃の「好き・嫌い」というのとレベルの違うものだ。
そうなると、言葉そのものが違って来る。
もちろん、それは共有できる人としか共有できない。
私はそれを目指している。
それは、もしかしたら「感性」というのもの正体を発見できるかもしれないと思うからだ。
同時にAIでは踏み込めない、「人間だからこそ」を探しているのだ。
やっと屋根の目途がついた。
といっても、実際に作業に入らなければ分からない。
何があるか分からないからだ。
優秀な大工さんには、全部見えるのだろうな?と自分自身の実力のなさを笑うしかない。
こうして自分自身を客観的に見えるものに取り組むのが好きなのだろうと思う。
「好きだろうと思う」のは、別段意識的にやっているのではないからだ。
自分自身を振り返ってみた時に、こういった「見える事」に取り組み、それを職業としていた。
究極のナルシストなのかもしれない。
そういえば、「ナルシストの権化」と20歳くらいの時に、言われていた。
それは、当時の流行で長髪が主流だったから、ご多分にもれず私も長髪にしていた。
しかし、悲しいかな天パーだったので、風呂上りに髪の毛を伸ばすのに、鏡の前でドライヤーを1時間も使っていたからだ。
髪の毛が焦げた匂いが何度したことか。
結局、自分自身を客観的に見えるのが好きなのかと言えば、そこに「こんちくしょう」という気持ちが湧くからだ。
この「こんちくしょう」が私の前に進む動機の一つだからだ。
こんちくしょうが起こらない時、私は本当にスカスカだ。
だから、考えれば、10代から今日まで「こんちくしょう」人生だった。