「裸の王様」言わずと知れた、自分のことは他人の方がよく知っている、という意味だ。
と私は解釈する。
これは、殆どの人に当てはまる。
もちろん、私自身も含めてだ。
もっと考えれば、他人が自分の何を見ているのか管理できない、ということでもあり、他人の頭の中は覗けないということにもなる。
社会とは、そんな世界のことだ。
そこから道は二つに分かれる。
一つは、他人がどう見るのかを、ある程度管理出来るようにする。
一つは、社会との繋がり、人との繋がりを一切気にしない生き方をする。
という二つだ。
当然、最初の一つは「表現」に関わってくる。
後のは、社会的には成立しない。
それは、どんな些細なことも社会との関わりで成立しているからだ。
無人島で自給自足するしかない。
上司と部下、医療従事者と患者、店と客、色々な立場があり、この「裸の王様」は相互にある。
だから、誤解も生まれるのだ。
その誤解は間違いではないし、誤解されるのも間違いではない。
ただ、それらの立場がある中で発生する誤解は、仕事や場を円滑にはさせないという欠点が生まれる。
誤解が解けないままで、何かを訂正しても、それはパッチワークのように継ぎ接ぎになり、整合性の取れた全体にはならない。
「裸の王様」は厄介な代物なのだが、終生それが消えることはない。
だから、「裸の王様である」という自覚が必要なのだ。
そうすると、最初から「誤解はある」として、相手の反応から対処を考える事ができるのだ。
自分は「今何をしているのか?」どんな事にでも重要な事だ。
日常なら、どれほど曖昧でも自動的に時間は流れていく。
つまり、習慣が全てを熟してくれるからだ。
そして、そこに厳密性を求められることは無い。
大きくは、例えば、食事の用意、掃除、入浴、とにかくあらゆる所作や行為は、その習慣がやっている。
そういった無意識的な所作や行為が自分自身の日常を消化しているのだ。
つまり、「今、何をしている?」という問いには、「いや、食事の用意をしていますけど、何か?」と答えるしかないし、それは間違いではない。
しかし、身体をどう動かしてなにをしているのか?の答えにはなっていない。
それが自分自身だ。
だから、武道の稽古でもワークショップでも、明鏡塾であっても、その自分自身は何ら変わることは無い。
だからこそ、意識的な行為を徹底し、しかも、そこに客観性を持ち込まなければ、成長させるものが見えて来ない。
その為に、動画や写真を多用するのだ。
自分の姿を見て愕然としなければ成長は無い。
しかし、もちろん、愕然としても成長は無い。
「だから、どうするのだ」があり、「何をどうする」という実際が始まるのだ。
「思う・意識する・注意する」これらは、それを口にする人の使い方にかかっている。
つまり、第三者からは、その事を想像できないということだ。
特に武道の稽古では、こういった言葉を口に出す人には「どういうことか?」と問い直す。
「思う」というのは、あくまでも脳の中だけの作業だから、それ程問題は起こらない。
しかし、意識する・注意するに関しては、すれ違いが起こりやすい。
意識するも注意するも、「思った」と同じ意味で使っている人が多いからだ。
その意味で、意識しようが注意しようが、全く意味を為さないのだ。
意味をなさないというのは、具体的に身体運動が変化する事がないからだ。
人の身体は、「その事」に対して的確な刺激や行為を蓄積しなければ、思った通り言葉通りの運動を起こさないからだ。
人は、どうも「思う」という漠然とした幻と、現実とを混同させている節があるように思う。
そして、「思う」に主きを置き、具体的な行為を省いているように感じる。
つまり、思ったら出来る、あるいは出来ていると「思っている」のだ。
もちろん、アスリートはこのようなことはない。
それは、具体的な運動競技だからだ。
つまり、身体を可能な限り、そのタイムや距離を伸ばしたり縮めたりする為にトレーニングをするからだ。
身体の運動や行為は、練習の量と比例するものであって、決して単純な「思っている」程度の働きで何とかなるものではないのだ。
お箸を器用に使えるのに、どれほどの時間を費やしているかを思い出せば分かるのだが。
そこから言えば、最近の人達は、想像力があまりにも乏しくなっているということだ。
曇りでも雨だろう。
今日は水源地に登る。
入り口が急勾配だから、何時もここが手間取る。
粘土質の山肌や木の根っ子で滑るからだ。
一度滑り出すと、もしかしたら10m近く落ちてしまう。
その意味でスリル満点だ。
だが、ゆっくり慎重に、をしない性分が勝るので、パッパと登って息切れで休憩だ。
水源は、きっと土砂で埋まり浅くなっているから、スコップを使っての掘り起こし作業が待っている。
これが相当きつい。
一体幾つになるまで出来るのだろうと心配する。
ま、これも体力維持には適当な運動ではある。
そして沢登りがある。雨で水量が増えていると、全身ドブネズミのようになる。
今回はまだマシだろうと思っている。
「ごちゃごちゃ書かずに、さっさとやれや!」だ。
炎天下の屋根は、きっと40℃を超えていたと思う。
「熱中症になるで」と思いながら、水分補給をタップリしながら屋根修理にかかった。
水は爪楊枝くらいの細さだが出ている。
これは驚異的なことだ。
熊野に住んで40年近くなるが、6ヶ月以上水源地に行かなくても良い、というのは初体験だ。
もう雨が続くから今日が勝負という感じで、雨が降っても良いところまで仕上げた。
東京10期「明鏡塾」講座Uを終えた。
まだ、休んでいる人もおり10人程度の、よい感じの集まりだった。
社会的距離を守っている人も、患者さん利用者さんの中にも沢山おられるとおもうので、意識的に会話を多くし寄り添える立ち位置になることと指示をした。
仲間の医師は、お年寄りの患者さんの中には、認知症が進んでいるのではないが、会話が噛み合わなくなっている人が多いという。
多分それは、会話不足が原因だ。
どうでも良いようなことが、色々なところに影響を与えている今回のコロナ騒動だ。