13歳、中学1年生から器械体操を始めたことは、このブログで散々書いている。
自分でも不思議なのは、どうして独学でやれたのかだ。
もちろん、こうしてこうした、あるいは、疑問を持った、また、問題を追求した、と言う、いわゆる、後からの説明として理解は出来る。
しかし、私としては納得していない。
と言うのは、「誰でも、そのやり方で出きるのか?」と考えるからだ。
その前の年は小学6年生だ。
その時期は、自分で漫才の台本を作っていた。
同じクラスで、仲の良かった友達2人と、修学旅行の時全クラスの前で披露した。
同時に、漫画も書いていた。
これは、多分小学3年生あたりから書いていた。
また、メカニカルなもの、例えば、単車のエンジンの形が好きだった。
その絵を沢山描いた。
戦闘機や軍艦も好きで、それもやたらと描いた。
描いた絵を友人と交換していたのを覚えている。
そんな記憶を辿っていると、「像」に対して敏感だったのかもしれないと思える。
小学4年の頃は、ラジオで放送劇に出ていた。
そこでも思い出せば、セリフがあるシーンを鮮明に描きその中に入っていく事をしていた。
おかげで、ディレクターと言い合いをした事がある。
「そのキッカケでは、セリフを言えない」と。
そうか、そう思い出せば、やはり「像」が私の根っ子にあるものかもしれない。
そして、その像と実際の身体の動きを重ねる事が、その時代に工夫されたのだ。
であれば、現在の武道もドラムをやっていたことも理解出来る。
つまり、人は突然何かが出来る、というのは、よほど才能がある人を除いて有り得ないと言うことだ。
よっしゃ〜晴れるで、早速足場作りにかかった。
雨漏りは先日の大雨でも不思議と止まっている。
これがあるから分からなくなる。
多分、風向きだろうけど。
屋根材の選択に手間取っている。
何しろこちらはメーカーから直で買っているから、一般の店では値段が違って買えないのだ。
これもよし悪しだ。
昼までの作業は終わったら、もう汗でグチャグチャ。
屋根は、とりあえず水回りを、何でフォローするかだ。
最近は良い材料が沢山あるから、逆に選択に困る事にもなっている。
明日は曇りという事だから、草刈りやコールタール塗りでもやっておこう。
ドラムをやっていた関係かもしれないが、両手両腕の関係が大事だと気づく。
それは武道であろうが日常であろうがだ。
もちろん、両腕を関連させて動かさなくても、目的を達成する事が出来る事も沢山ある。
ただ、武道の場合は両腕を使わなくても、関連させる方が効率が良いのだ。
その意味で、道場では口を酸っぱくして、「その手が遊んでいるよ」と注意をする。
当人も、知らない間に忘れてしまうのだ。
そんな癖一つとっても改良するのは本当に根気のいる事なのだ。
やっと雨が上がりそうな気配だ。
今年は長梅雨だった感じだが、きっとそうでもないのだろう。
豪雨で被害が出ている地域もあるが、何よりも今年はコロナ騒ぎが、全てを止めている。
その意味では、本当に人間は弱いものだとつくづく思う。
しかし、一体人の何が弱いのか?だ。
それは間違いなく「頭」だ。
考え方や自分の持つ知識が、その弱さの原因だ。
何時も書いているように、変化に適応出来ない考え方を持っているからだ。
その意味で言うと、変化に適応する対応する、というのは、相当難しいと言う事だ。
しかし、変化に対応するのは、そう難しいことではない。
「郷にいれば郷に従え」の精神を持っているかどうかだけだ。
現代的に言えば、皆んなが大好きな言葉「今を、楽しめ」だ。
これは固定化された価値観を持つな、ともいえる。
どんなことでも「固定化された」ら駄目だということになる。
武道で言えば「居着くは死、居着かざるは生」だ。
なったらなったで、そこで一生懸命楽しめば良いだけだ。
これ人生の極意だ。
「この年になって『明鏡塾』に出会えたのは、ほんとラッキーだと思っています」
と自分でセミナー講師もするベテラン柔整師の言葉だ。
こういう言葉を聞くと、講座を開いて良かったとつくづく思う。
その彼は、治療に関して迷子になるところだったという。
治療が「関係」だとは全く気づかなかったから、その「関係」をキーワードにし自分の治療を振り返れば、全部腑に落ちたそうだ。
そんなものだ。
専門的になればなる程、見えなくなる世界も出てくるという事だ。
私自身が「関係」ということに辿り着いたのは、音楽ジャズ時代だ。
表面的な関係ということと、実際的な関係までかなりの層構造になっているという事に気づいた。
大方は「表面的な関係」を関係だと思っており、それよりも深い関係が有る等とは思い付かない。
音楽の場合は、体感的にはかなり深い関係まで認知している人はいるが、体感的だからそこへの道筋を考えない。
私は性分的に「突っ込み」だから、たまたま探り当てたのだ。
音楽時代に「関係」を問題視し、その答えを求める為に武道へと、完全に進路を変更した。
その事が今になれば良かったのだ。
その「今になれば」に辿り着くまでに20年は掛かっているのではないかと思う。
弘田三枝子さんが亡くなった。
と、今日知った。
10代前半の私のアイドルだった。
初めてコンサートへ行ったのはミコちゃんこと弘田三枝子が16才の時だった。
私よりも一つ上で、誕生日も1日違いだから、ガキには十分ファンになる下準備があったのだ。
もはや会場の名前は完全に忘れてしまった。
バックに宮間利之とニューハードオーケストラだったと思う。
幕が開き、真っ暗な会場にベースソロが響き、そこにミコちゃんの「マックザナイフ」が被ってきた。
1コーラスはベースとのデュオだった。
「かっこいい!!」でも拍手はない。
私達満員の観客は、圧倒的なパフォーマンスに押されて拍手すら出来なかったのだと思う。
いわゆるヒット曲は殆ど歌わずに、米軍のキャンプ周りで培われたジャズを披露したのだ。
私がジャズの世界に入ったのは、もしかしたらこの体験が刷り込まれていたのかもしれない、と今気付いた。
この時、大人の世界と子供の世界という感覚を味わった気がした。
時が流れ、度々登場する義弟と、弘田三枝子の話で盛り上がった事がある。
この時、義弟に指摘されたのが「凄いとか上手と言われても、知らない人には何も通じない」だった。
なるほど、言われてみればその通りだ。
頭に来るから弘田三枝子のCDを買い聞き直した。
そして言語化に挑戦して行った。
もちろん、言葉で音楽そのものを語ることは出来ない。
しかし、こういった出来事が、私の言葉を選ぶ土台になっているのだ。
パンチの効いた歌声、というのが当時のキャッチだった。
その通りで、声のアタックをコントロールするのが絶妙なのだ。
リズムに対してアタックの場所を変える事で、ノリを変化させるのだ。
声量も半端ではない。
とにかく、その弘田三枝子さんが死んだ。
私達、団塊の世代を楽しませてくれた一つの星に、「ありがとう」を捧げます。
奈良・田原本町、和歌山から近いと思ったが、「ナビ通り」を通ったから遠かった。
よくある話だ。
ま、セミナーには間に合ったので良しとする。
一泊し大阪に行のにナビを使うと別の良い道がでた。
これに繋いだら、和歌山からずっと近い。
機械も人と同じで、グレー部分が多くある場合はうまくいかない。
懇親会では色々な話題で盛り上がった。
「死」を想像し怖くなったと女性。
で、私の死生観を問われた。
「死生観、そんな大層なものはないで、リアルに自分という存在が無くなるだけや、だから、今やっていることを一生懸命するだけやで」と答えた。
極論を言えば「死生観」というものは幻想だ。
つまり、「死」という自分自身が辿り切れない現実を、どう解釈しているか、という問題だからだ。
「死」というのは事実でしかない。
そこに人それぞれの思いが乗っかっているだけだ。
死に対しての装飾だ。
それは、それぞれ自由に思えばよいだけで、そこに正誤はない。
ただ、装飾だと認識しているのかどうか、装飾を持ちすぎると、その実際が覆い隠されてしまう。
大方は、それが目的なのだろう。
「死」は受け入れるものではなく事実だ。
だから、それを考える必要はない。
考えたり思い悩む暇があれば、目の前にある仕事をしろ、だ。
それが死の正反対の生きているということなのだから。
「遊び」がどんどんエスカレートしていくと、全く別のアイディアが浮かんで来ることがある。
きっと、行動を縛っている要素がないからだ。
「遊ぶ」とはそういうものだ。
ベーシストに言われた「日野君、もっと遊んで」は、後々考えると、ピアノトリオのパターンやそのベーシストが持つ遊びのパターンを、私が演奏しなかったからだろうと思った。
それを考えると、それはすでに遊びでもなければ即興でもない。
ただの「知っている事」「引き出しに入っている事」だ。
ある時、トラの仕事でアルトがボスのクァルテットだった。
そのアルトは、私のボーヤ時代から「凄いアルトや!」とある種憧れていた人だった。
さらに、ピアノは若手ではピカ一と言われていた奴だ。
面子を見て思わず身震いした。
もちろん、嬉しくてだ。
1回目のステージが始まった。
その辺りの詳しい事は忘れてしまったが、今でも覚えている事がある。
憧れのアルトのアドリブが終わりピアノに繋いだ。
そこから始まった。ピアノが難解なフレーズで攻めて来たのだ。
「おっと、いきなりかい」という感じで、単純だが数えにくいフレーズで応酬した。
ピアノも負けじとそこから展開、私もどんどんエスカレートしていった。
結局、最後はピアノと顔を見合わせて、「今、どこ?」とニヤリ。
そこにアルトが絡んで来て事なきをえた。
このやり取りは、コンサートなら観客が盛り上がるところだが、お酒を飲むナイトクラブでは何も起こらない。
でも、演奏が終わってからバンドのメンバーと盛り上がった。
これがジャズの武者修行だ。
「日野君、もっと遊んで」と有名なベーシストに言われた事がある。
もちろん、ステージでの演奏中だ
。そのベーシストがボスのピアノトリオにオーディションで入った。
言われたのは、ステージ初日、一曲目の演奏だった。
当時、譜面を勉強しようとフルバンドや9ピース等の、オーケストラを渡り歩いていた。
でも、こじゃれたピアノトリオを演りたくなり、オーディションを受けて入った。
演奏での遊びというのは、おかずやフィールインという呼び方もしている、文字通りの遊びだ。
味付けだ。
遊び過ぎると叱られ、遊ばないと叱られる。
当初はそんな毎日だった。
そこで疑問が頭をもたげた。
「このおっさんは、俺を分かっているのか?」と。
で、賭けに出た。
一番強烈な遊びは、曲のリズムを狂わせてしまうことだ。
これで壊れなかったら大したものだ。
もちろん、壊れた。
ボスが俺にすり寄って来たのだ。
「遊び」の幅は無限だ。
どこからどこまでを遊びとして許容できるかだ。
そこを見極めるのが勝負だ。
ジャズの即興とは、そういった要素も入っているのだ。
単純だ。
例えば、「サマータイム」という曲をすると、いきなり「枯葉」をやるようなものだ。
それを許容できる演奏力や、展開力が勝負なのだ。