武道でもワークショップでも、2人3人と組んで行う。
そうすると、その時のやること、例えば2人組で攻めが突きを出し、受けがそれを流すとすると、攻めの人が「突きを出す」はやるが、相手に突きを出すにはなっていない、というような事が多い。
もちろん、見た目には相手に突きを出している様に見える。
しかし、意思が相手に向かっていないから、受けがどんな状態になっていても同じ事を繰り返しているだけだ。
そこを注意すると、殆どの人が「???」になる。
相手に突く、こんな単純な事が出来ないのだ。
もちろん、受けの人も同じだ。
受けという動作をしているだけで、突かれて来るから流すにはなっていない。
だから、突きの動作と受けの動作だけが繰り返されているだけだ。
それでは上達のしようが無い。
というよりも、上達させる要素が何も無いという事だ。
言えば、動作は熟練してくる。
それだけだ。
女優竹内結子さんがお亡くなりになった。
自殺だそうだ。
こればかりは、他人には絶対に計り知れない。
私の戦友も自殺した。
戦友というのは、何も本当に戦争に行ったのではない。
音楽の世界で、共に勝負した唯一の仲間だったからだ。
「燃え尽きた」と言って40年前に、音楽を止め電気工事の丁稚に入った。
人生は紆余曲折があったが、最終的に精神病院のお世話になっていた。
その後、独り住まいをしていた。
月に一度は顔を見に行っていたが、そこで交わす言葉も出なかった。
それは、彼の気持ちが痛い程分かるからだ。
「生きていたら何とかなるで」と当初話ていたが、そんな状態ではないことが手に取るように分かるから、その言葉も封印した。
喫茶店で、1時間程二人でタバコを燻らしているだけだった。
そんなある日、警察から電話が入り彼の死を知った。
人は、本当の意味で誰かの役に立つことは出来ない。
風邪引きですら、身代わりになる事が出来ないのだ。
だからこそ、「出来ること」は全部やるべきだ。
竹内結子さんのご冥福をお祈りします。
「感触」という感覚は、「手応え」とも解釈出来る。
これは感覚よりも、共有するのが難しい。
しかし、武道など人に触れるジャンルでは、必須のものだ。
それは、相手に対するものだからだ。
自分が「どうするとか、こうしたい」という意識だけで、相手に接していたらこの感触は育たない。
それこそ、あなたの触れ方は、気持ち悪い、強引、荒っぽい等と思われるのがオチだ。
色々なボディワークや方法が出回っているが、この実際の「接点」に対して考えられているセミナーは皆無だ。
「どうして?」
それは、誰も直球で否定されたくないからだ。
しかし、大阪の下町は、そうではない。
一番痛いところを突っつくのが礼儀なのだ。
だから、大人になった時、そういった視点がきちんと身に付いているのだ。
「違和感を与えてはいけない」と私はいう。
それを聞いた人は「成る程」あるいは「本当ですね」と了解をする。
がしかし、それは出来ない。
そんな事に気遣った事がないからだ。
ましてや「感触」という事になると、相当の神経の細やかさが必要だ。
つまり、鍛錬というか訓練というか稽古が必要になるのだ。
もちろん、それを直接稽古することはできない。
自分の日常で工夫をするしかないのだ。ということを知っているのか知らないのかで、大きく差が出るのだ。
「武禅一の行」は、まだ、1ヶ月以上2ヶ月近くを残しているので、残り7席になってしまった。
現在、常連組と初めての人とが半々近くだ。
私が武道の研究対象にしている一人、幕末の達人白井亨。
いみじくも、今、雑誌秘伝の原稿で白井亨を例に書いている途中だ。
調べていると、白井亨のお墓が、なんとなんと台東区蔵前にあるそうだ。
熊野から東京に帰ったらすぐにお墓参りに行こうと思っている。
そういえば、15歳の頃家を出て巣鴨の青果市場で働いていたことがあった。
そこはどうなっているのか見に行った時、裏手にお墓を見つけた。
本当に何気なく歩いていると、なんと北辰一刀流の千葉周作のお墓と対面したことがあった。
武道でも自分の流派にしか興味の無い人は「何の話?」となるだろうが、私にとってはどちらも先生なのだ。
特に白井亨は、日記を残してくれているので、どんな経緯でそこへ、つまり、達人という境地に辿り着いたのかが書かれているので、それが指針の一つでもあるのだ。
私はそれが誰であろうが、神棚にまつり上げるのは嫌いだ。
それは、逆にその先人の必死の苦労を無にすることになるからだ。
だから、とにかく下界におろし、分析したり解析したくなるのだ。
もちろん、その事が誰かの役、何かの役に立つかもしれないからだ。
どこを見るのか、何を見るのか、という自分自身の視点が、自分が見ているものを作り出している。
だから、それぞれ見ているものが違うということだし、考えていることも違うということだ。
武道に取り組み出した頃、「私はこうしたい」ということだけしか見えていなかった。
だから、「こうしている」という視点で、動きを見ていた。
しかし、そこには壁が直ぐに訪れた。
こうしたくても出来ない相手がいる、という当たり前の壁だ。
実は、この壁が多くのことを考えさせてくれる非常に重要な壁なのだ。
私のやっていることを見て「全く皆と違いますね」と、たまに言われる。
そんな時「皆んなは、こうしたいが出来るようになるというところをスタート地点にしているが、私はこうしたいと思っている事が出来ないというところがスタートで、その違いが、この年になって目に見える形になって来ている」と答える。
もっというと、皆んなは強くなれる、がスタートだが、私は強くなれないがスタートだから違うとも言う。
この辺りは表裏一体なのだが、そこが違う事が大きい。
昔からそうだったのかもしれない事がある。
単に私に興味が無く知らなかっただけだけだ。
それは、何かしらの集まりやセミナー等の、集め方の言い回しの事だ。
「わかりやすい・耳障りの良い言葉」が並んでいる。
そしてそれは「精神的にも身体的にもリスクがなさそう・自分でも簡単に直ぐに出来そう・優越感を持てそう(自分を特別だと思える)・お金に関しての常識観を覆しているよう・お金儲けのシステムが新しそう」というような事が共通している事に気が付いた。
見抜いている人には「今頃、何を言うてんねん」という話だ。
こういった言い回しのコピーがあると、人は集まってくる。
どうしてこれを今頃になって考えたのかというと、時間潰しや、考え事をする為にカフェに行くと、何やらの契約をする人達、何やら商品の説明をする人達、仲間集めを呼びかけている人達の姿が、やたらと目に付くからだ。
コロナのせいではないが、世の中が不透明になると、また、不安になると、こういった類のものが増える。
一まとめにいうとネットワークビジネス、あるいは、それに類似するものだ。
それが良いとか悪いとかでは無い。
ただ、そのネットワークの目的は何か?を見極める力を持って欲しいと思うだけだ。
「わかりやすい」と言うのは大事な事だ。
分かりやすい言葉に言い換える力は必要だ。
それは、私自身つくづく思う。
しかし、分かりやすいと言うのは、一般的には分かりにくく専門的、あるいは、複雑な構造を持つ、また、深遠な哲学を持つと言うような事柄を「分かりやすく」置き換えて、と言うことだ。
ネットに溢れる、こういった集客の言葉を拾っていくと、分かりやすい言葉を並べてはいるが、本質がないので何のことか分からないものが多い。
本質がないからこそ、分かりやすい言葉を使えるとも言えるのだ。
そこから見ると、日野武道研究所を「分かりやすく」すると、逆にさっぱり分からなくなる。
それは、一見分かりやすい言葉、例えば、「武道」だとしたら、そこにそれぞれの人が持つ、それぞれの想像が解釈するから、一体何?となる。
となると、武道を説明する必要がある。
で説明すると、また分からなくなるので、それをまた説明しなければならなくなる。
で、「解ろうとする人だけ」で良い、となってしまうのだ。
朝から草刈りをしていたら、台風の影響か雨がポトンポツンと来た。
「ユニセフ(国連児童基金)は、日本の子どもの精神的幸福度は、先進38カ国中37位、つまりワースト2位であるというデータを公表した。
この背景には、日本の極端で独特な集団主義の学校教育がある。
日本の学校を観察した日本以外の国の人は、その集団主義教育のありかたが、軍隊に似ているという印象を受ける。」とあった。
他の文化から見ればそう見えるだろう。
だから、日本人が外国の学校を見れば、同じように色々と見えるだろう。
もちろん、どちらが良いか悪いかではない。
その文化特有のものだからだ。
ただ一つ気になるのは、「精神的幸福度がワースト2位」という点だ。
但し、これにしても、精神的幸福度として何がしかの基準を引き、それに応じての判定だし、その何がしかの基準も日本人ではない文化の人が決めたものだ。
だから、どうでもよいのだ。
だが、そうはいっても気にはなる。
気になるのは、ワースト2位というところだ。
そこから考えて、確かに生き生きとした子供たちが少ない。
自発的な子供が少ないということだ。
それに加担しているのが学校だろう。
では、どうすれば良いのか。その事に気づいている校長もいるし、先生方もいる。
日本独自の新しい学校が生まれて来るのだろう。
日本人は、外国から見るほど馬鹿ではないからだ。
「明鏡塾」もコロナの影響もあり、受講者が少ない。
それはそれで、かなり密な稽古が出来た。
また、脱線した話も多くなる。
話題はそこから発展し、社会や教育、時代の違い等々と弾む。
女性の場合は、こういった世間話は得意だ。
社会性が育っているからだ。
医療従事者の場合、この社会性は必須の能力だ。
患者さんや利用者さんとの会話が、治療効果と正比例するからだ。
ところが、自分で「不得手・苦手」という人がかなりの割合でいる。
そんな時「どうしてその職業を選んだのか」と質問する事にしている。
医療の専門技術は、もちろん大事だし、そこが基本だ。
だが一方の基本は、この社会性だ。
その事を学校側が教えない事が問題だ。
それは、学校側が問題視していない、それに教師陣がそれに気づく感性が無いからだ。
しかし、その意味では、社会性は医療従事者に限ったことではない。
誰にとっても必須だ。
人は全てサービス業を背負っているのだ。
スマホに釘付けになっている限り、それは望めない。
https://www.meikyojuku.com/