そうか、大晦日か。今年はどうだったかな?
と、思い出したように振り返っても、さほど何も出て来ない。
収穫?
身体操作、そうだ、身体と意識の関係は間違いなく深化した。
自意識が動きに余り干渉しなくなっている。
「純粋身体運動」と命名し、そこに向けて歩いていたのが、出口が見えた感じだ。
昨日、東京の師範代や黒帯と飲んだが、今までで一番しっくりとした飲み会だった。
武道の深い話から基本的な話が出来たからだ。
日野武道研究所は、どこへ向かっているのか?
それは、一寸分からない。
結局、何一つ目標を持っていないから仕方がない。
グダグダで1年過ぎた、そんな感じだろう。
来年は?
きっと同じだ。
ただ違っているのは、私に関わってくれている人達が、確実に成長している事だろう。
それが私の刺激になり、「よっしゃ〜」となった1年だとも言える。
「武禅」や「明鏡塾」の感想やレポートが届く。
自分自身の内面に気付いている人の感想を読むと嬉しくなる。
逆に、上っ面なこと、方法に囚われている事を書いているのを読むと寂しくなる。
もっというと、こうも人というのは違うのか、と再確認になるとも言える。
こんな感想が「明鏡塾」に届く。
「『自分基準で生きることを辞めて生きる』講座中に何処まで、基準を壊せるか挑戦します」新しく今期から受講してくれている、ベテランの柔整師からだ。
どの世界にも、自分と向き合っている人がいる事を知ると無性に嬉しくなる。
そんな人の役に立てば、これほど嬉しい事はないし、「明鏡塾」を起ち上げて良かったと感じる瞬間でもある。
「自分に対する忖度の無い駄目だしの言葉が心地よかったと同時に、その手で患者さんに触れていたのかと思うとショックだった」と書いてくれた、これも今期初受講の整体師だ。
今年の終わり間際に、嬉しいメールは、来年への展開に希望を持たせてくれた。
今週は、2回も熊野から大阪へ車で行っている。
軽だと3時間がベストだ。
「大阪・明鏡塾」6期は、予想以上の内容になった。
それは、再受講の方々の成長が著しいからだ。
懇親会でもワークの話や、治療の話で盛り上がった。昨日も書いたが「上達」という話になった時、ベテランの柔道整復師が「家に帰っても、何をしている時も身体に触れて工夫を繰り返している」と若い受講生に話していた。
1日中訓練しなければ、というよりも、1日中訓練したくならないくらいの職業意識なら、患者さんや利用者さんが気の毒だ。
私は、そう思う。
人だから、やりたくない時もあるだろうし、時間がない時もあるだろうが、そこは職業意識が浅いか深いかだ。
当然、そこで差があきらかに付く。
それが現実だ。
ベテランの人達でさえ、それくらい頑張っているのに?と思う。
これは「比較してはいけない」と教えられてきた弊害だ。
比較することで闘志に火が付くのだが、その点火が出来なくなっているのだ。
ほどほどにしか出来ない人など、信頼出来ない。
ましてや医療の分野となると当たり前だ。
今期初受講の整体師は、興奮の中一日目を終え、早速今日報告があった。
もちろん、自分も患者さんも驚く回復ブリを見せたからだ。熱心な人は、見ていても気持ちが良い。
それは、何に限らずだ。
大阪明鏡塾6期も始まった。
「この年末の忙しい時に」だ。
新しい人も交じり、熱い時間を過ごせた。
もちろん、新しい人達は、初めてのワークに目を白黒させていたが、先輩達の誘導が良くて、停滞なく進んだ。
「どう取り組み、どう検証するのか」という座学も、皆が言葉を出し合い一応の成果を出していたので、今期全部で試してみようと思う。
懇親会は、ワークの事などで盛り上がった。
再受講の人達のレポートを読むと、相当レベルの高い獲得をしている事が分かった。
そんな話も交じり先程まで続いた。
一人の質問に、ベテランの柔整師達が丁寧に答えていた。
「とにかくやり続ける以外には発見することも、気付くこともない」という至極真っ当な答えが光った。
「どこまで行きたいのか」人を観察していて思う事だ。
もちろん、武道や明鏡塾での話だ。
それの実際は、目先の目標を持っているのかどうかだ。
これはものにしてやろう、が有るか無いかだ。
大きな意味で、武道をマスターしたい、となれば、私ならどうするだろう。
というのは、そういう言葉を聞く事があるからだ。
私はそんな事を考えた事があるのか?と記憶を辿る。
いや、それは無いな、となる。
それよりも、例えば「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というような言葉から、その術理を解明していく、という実際にしか興味が湧かない。
当然、その事を「私が」実現したいと思う。
それだけのことで、目的も目標も持っていない。
自分が何をどうして行くのか、行けば良いのかは、興味の向く側に自動的に進んでいる、としか言いようがないのだ。
「こうしなければいけない」という言葉も持っていない。
それは「こうしなければいけない」という実際を具体的に行為として行い、その中で修正しているからだ。
言葉を持つと、行為ががんじがらめになるし、行為そのものが限定されてしまうからだ。
言葉が行為を切り取ってしまうからだ。
「ゆっくりと」が稽古する順序だ。
これは古い人程守っている。
それは、年数が長い分、「ゆっくり」の重要性を身体で知っているからだ。
しかし、難しいのは「ゆっくり」を出来ない人がいる時だ。
というのは、自分のやっている事を、客観的に知らないから仕方のない事でもあるからだ。
ゆっくりの極端なのは、動いているのかいないのかが分からないくらいの速度だ。
どうして、それが良いかというと、自分のやるべきことに集中する密度が濃くなるからだ。
同時に、身体を鍛える事でもあるし、運動を正確に行えるからでもある。
意識が散漫にならないように、腰に構えた突きを突き切るのは難しいものだ。
僅かの雑音も拾えるようになると、頭が勝手に雑音を出しているのが分かるようになる。
もちろん、その雑音は放っておけば良いのだが、それに囚われる時もある。
それが意識が散漫な状態だ。
それに気付いていくのも稽古だ。
熊野は冷たい、寒いではなく冷たい!道場も何もかもが冷え切っている。
ここ10年は「誰がこんなところに道場を建てたんや」と、冬になると炬燵の中からわめいている。
大体が寒さに弱いから、年を取るとなおさらだ。
大阪の私の稽古も終わり忘年会も終わった。
飲み屋は超満員。
どんどんお客さんが入って来ていた。
忘年会で、また何時もの「やっている事が分からない」という話になった。
「分かってどうすんねん」が何時もの答えだが、今回は「やっている俺がどうなってんのか分からないんやから、分かる筈がないやろ」と答えた。
実際そうだ。
単純なものは、推論出来るが、パッと見分からないことは、分からないのだ。
でも、出来る、出来るだけだ。
ただ、人間とは「そんなものだろう」とは分かる。
「そんなもの」つまり、こちらの意識が身体に伝わる、という事だ。
結果、様々な現象が生まれるのだ。
但し、そこには「連動・体重移動・感覚」が有り、である。
ロボットがやっている事ではなく、ロボットが受けをとっているのではない。
つまり、単純な物理などで解析できる話ではない、ということだ。
来年は、どこまで広がるのか深まるのか分からないが、とにかく前に進むしかない。
今週は「大阪・明鏡塾」6期の開始だ。
東京とは違って、新しい人が入る。
新しい人が入ると再受講の人の刺激になるから双方にとって都合が良い。
再受講組が苦労をして探求したことを、さっと通過する人もいるし、全く理解できない人もいる。
そんな色々な人達に、どう対処できるのかも大きくは「関係」の稽古になる。
大方は、「自分の知っていること全部」を相手に伝えようとする。
これで知らない人はパンクする。
ここが難しい所なのだが、自分の知っている事を伝えるのは楽だ。
もちろん、この「伝える」というのは、文字通りの事で確認しながらの事ではない。
確認、つまり、相手の反応を見ながらというのは、相当の注意力が必要だ。
だが、それは人生を生きる上で必須だし、医療従事者であれば当然必須である。
私は常に「質問は?」と投げかける。
それは、相手の力量を知る事になるからだ。
その質問に応じて、反応しての対応が出来るからだ。
大方の会話を聞いていると、一方通行が交互に行われているだけの事が多い。
自分の言いたい事があるのは分かるが、それでは理解する行為にはならない。
安物のドクターがデーターだけを見て、患者さんを診ないのと同じだ。
全ての患者さんや利用者さんには、背景がある。
しかも、それぞれに異なる背景だ。
そこから汲み取る、あるいは、感じ取るという作業があるから、データーを有効活用出来るのだ。
冬至だ。
ここから春の兆しを体感する用意だ。
昨日から「東京・明鏡塾」11期が始まった。
年末ということコロナということ、それぞれの生活のタイミング等が重なって、過去最少の人数だった。
それはそれで良しで、日頃時間を割けない「捉え方」や「具体化の仕方」についての話合いをした。
これは理学療法士の尾森君の発案で、ワークを現場で具体化させる為に「考え方が必要だが、それをそれぞれに任せているから、もしかしたら迷子になっている人もいるのではないか?」というところからの案である。
それは実際にどうなるものか分からなかったから、取り敢えず試してみる事にした。
人数が少ない分、それだけ一人の言葉数が増える。
その事で、「そこが分からなかったのか」あるいは、「全く誤解している」というようなことが赤裸々に見えてくる。
有意義な時間だった。
ワークは、初回の講座なのだが、再受講の人ばかりなので、どんどん質を上げて試していく。
「どこまでいくんや」だ。
ワークとしての終点近く、つまり、「関係」という事で影響される「人」があり、それを利用して治療や回復改善にどう役立てられるかのネタの終点近辺だ。
「でも、今はそれを使ったらあかんで、それよりも、体感や手の感触を錬磨して」と注意点を話した。
「日野さんのドラム演奏の動画を使っても良いですか?」「良いですよ、いくらでも」との電話は、
来年1月15日に放映されるNHKプレミアム「BSプレミアム」レギュラー番組への道「明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜」
@(2021年1月8日金曜23時15分から23時44分)・
A(2021年1月15日金曜23時15分から23時44分)からだった。
岡田准一さんの話に、ケンドーコバヤシさんが絶妙の突っ込みを入れる。