大阪「明鏡塾」6期も3回目。
初めての人が2人いるが、完全に「大阪明鏡塾」のノリに染まっている。
他の人は再受講組だから、どうしても同じカリキュラムでも高度な要求をする。
その高度なカリキュラムにも、食らいついてくるから頼もしい。
懇親会でも、そのままカリキュラムの話や、治療の本質の話で盛り上がる。
しかし、そこは大阪。
どんなオチが来るのかを楽しむ。
カリキュラムは多彩だが、その本質は同じだ。
カリキュラムという形式を取らなければ、目に見えないものを伝える事は出来ない。
だから、カリキュラムがあるだけだ。
ということを、真剣に認識していなければ、カリキュラム、つまり、方法を学ぶと思ってしまう。
方法に意味はない。
その方法を使わなければ伝えられないものに意味や価値があるのだ。
しかし、世の中は方法で止まっている。
それが現状だ。
だから、本当の意味で頭一つ抜け出る事は出来ないのだ。
大阪「明鏡塾」6期も3回目。
初めての人が2人いるが、完全に「大阪明鏡塾」のノリに染まっている。
他の人は再受講組だから、どうしても同じカリキュラムでも高度な要求をする。
その高度なカリキュラムにも、食らいついてくるから頼もしい。
懇親会でも、そのままカリキュラムの話や、治療の本質の話で盛り上がる。
しかし、そこは大阪。
どんなオチが来るのかを楽しむ。
カリキュラムは多彩だが、その本質は同じだ。
カリキュラムという形式を取らなければ、目に見えないものを伝える事は出来ない。
だから、カリキュラムがあるだけだ。
ということを、真剣に認識していなければ、カリキュラム、つまり、方法を学ぶと思ってしまう。
方法に意味はない。
その方法を使わなければ伝えられないものに意味や価値があるのだ。
しかし、世の中は方法で止まっている。
それが現状だ。
だから、本当の意味で頭一つ抜け出る事は出来ないのだ。
今、原稿を書く為に色々と調べ物をしている。
その事では、ネットは本当に便利だ。
「そういうことだったのか」と知る事が多いことに驚く。
それは、間違いなく私の興味不足のせいだ。
「知ってどうなる?」という考え方を持っているからだ。
大きく言えば、先に知る事よりも、先に行動するを選んでいるからでもある。
完全なアナログ人間なのだ。
しかし、その事が確実に、私自身を盤石のものにしてくれている。
いわゆる「不動心」というものだ。
不動心を別の視点からみれば強情という事でもある。
ただ、自分の気持ちや感情的に決めている事に対しての強情ではなく、自分が築き上げてきた考え方に対して強情なのだ。
しかし、この強情はあくまでも仮説であって、それよりも深い考え方、本質的な考え方に出会えば、一ころで変えてしまうという流動的なものだ。
それはきっと生命と思考がリンクされる迄続くだろうと思う。
もちろん、生命とは何か?ということではなく、生命そのものと思考、思考そのものと私が完全にリンクされるという事だ。
昨日の撮影は、滞りなく終わった。
私自身も「居合い」ということを改めて見つめ直す、考え直すきっかけになった。
「刀を抜かない」のが居合いの眼目だ。
であれば、「刀を抜く」というのはどういうことなのか、どういう意味合いがその背景にあるのか。
そんな事を時代を踏まえて考えてみた。
江戸時代は、それこそ天下泰平の世であり、幕府にたてつく者はそれこそ縛り首だ。
当然、刀を抜くことはご法度だ。
もちろん、現代においては銃刀法違反だし、使うなどとはもってのほかだ。
という中で、伝統を持つ各々流派は稽古に勤しんでいる。
つまり、同じ「刀剣」を使っていても、そこにある価値観は全く異なるものだ。
そういった事からも、改めて考えさせられた。
そこから見た時「武道」や「武術」の役目が明確になるのではないかと。
20代後半の若者が「精神修行」の為に武道を、と話していた。
そのものは大変素晴らしいと思う。
そういう視点を持つ人が若者にいる事も嬉しく思った。
しかし、ここからが問題だ。
では、どうすれば精神修行になるのか?だ。
ただ、何がしかの武道に取り組んでいても、自己満足は出来ても精神修行になる事はない。
精神修行というからには、精神がどうなれば良いのか、そもそも精神とは何なのか?そんな事を明確にする必要が出て来る。
そうなると、そこに幻想が蔓延し折角の高尚な思いを霧散させてしまう。
実は精神修行も、精神の鍛練も、その人の何がしかの武道や、何かに対する取り組みの結果であって、それが目的なのではないのだ。
しかし、現代はそれこそ情報社会と言われるように、例えば、悟りの境地であるとか、精神の状態を表す言葉が並び、さもそれがあるかの如く扱われている。
だから、その「言葉」を目指す。
それこそ、幻想への旅立ちだ。
何かに対する取り組み方の結果は、当然その人が過程を経て出したものだ。
その過程の中での取り組みに対する様々な葛藤が、精神なるものの状態を変化させていく。
それこそ、自意識の在り様を変えるのだ。
それは、自意識が思春期のままだと、取り組んでいる事が上達しない事に気付くからだ。
もちろん、そこでも「では、自意識を成長させよう」が目的ではない。
あくまでも取り組んでいる事を実現させる事が目的なのだ。
逆に言えば、取り組むことの質が低ければ、自意識の成長は必要ではない。
しかししかし、もう一つ穴がある。
「玉乗り名人」という言葉が象徴するものだ。
つまり、玉に乗っている時は、名人の状態だが、玉から降りた時はただの人、というものだ。
そこが面白くもあり情けなくもあるのだ。
人の仕組みの妙でもある。
だから、死ぬまで修行だというのだ。
昨年の「武禅一の行」の感想に
「向かっていない・遠くにいる・形だけ・全体がちぐはぐ・ふんわりしている、全て、自分が取り組み行動している事とは、異なった形として出ている。やはりか。何回やっても同じ反応だった。日常の中で、組織の一員として人と関わっていた時も、これと同じ事だと思う。伝えても伝えても伝えられない、悔しかった。」
があった。
これを書いた人は、決して日常破綻者でもなければ、社会不適合者でもない。
ちゃんとした仕事を持ち、責任をもって仕事に取り組んでいる人だ。
しかし、本気で向き合う相手から見れば、こういう具合に見えているのだ。
そして、この感想の中にも「ちぐはぐ」を表す言葉があるので、この感想を書いた事で、この人はヒントを得ている。
「ちぐはぐ」が見えるのは、最後にある「伝えても伝えても、伝えられない」という言葉だ。
自分としては「伝えている」のだが、それが伝わらない。
それは何故か?
「自分として」だけ、つまり、相手に相応しい言葉、相手が理解するであろう言葉、という具合に、照準が相手を向かずに自分だけに向いているのだ。
これは、この人に限った事ではない。
大なり小なり大方の人はこれだ。
そこを真正面から突っ込み合いをするのが「武禅一の行」だ。
本来、こういった事の芽は幼児から子供時代、そして思春期の頃には育っていなければならない。
ところが、こういったやりとりは「いじめ」だと決めつけている社会や人達が、「他人から見た自分の姿」を見れなくしてしまっているのだ。
物事を考える、それは、もちろん思考であり、意識内の働きであり働かせている事だ。
それは身体操作にも当てはまる。
しかし、ここに矛盾がある。
身体は間違いなく意識で操作させて、身体に覚え込ませる。
しかし、いざ身体を何かに対して働かせる時、直接的な身体操作や思いは身体を緊張させ、滑らかな動作にはならない。
力みが入るのだ。
いわゆる無意識的に使える、無意識的に使っているという状態にならなければ滑らかにはならないのだ。
それは言葉とて同じで、意識や思いが入ると、違和感が生まれる。
これも無意識的にならなければ駄目だ。
矛盾はここだ。
無意識的にとはいうが、「滑らかに」動作、あるいは話しているという状態を管理しているのは何だ?これも意識なのではないか?
一つ突拍子もない仮説だが、神経系と同じで、脊椎反射と大脳を経由する反応と同じような仕組みがあるのではないか、というものだ。
意識はそういった層構造になっており、その無意識的と言われるような層を使う事が、滑らかな、になるのではないかと考えている。