間違いなく世界はAIの方向に進んでいる。
便利になると同時に不便になる。
また、同時に人の何かが退化していく。
一番顕著なのが会話だろう。
肉声の持つ「生」を感じ取れなくなる事だし、生を生きられなくなる。
文字通りサイボーグ化されていくのだろうと感じる。
そんなロボット化された人もどきが、生きていても意味も価値も無いだろうと思う。
つまり、人類は、人として滅亡する方向に加速度的に進んでいるのだろうという事だし、それを我々人類が望んでいることだからだ。
人生は、山あり谷ありだと認識できる感性も、良い事も悪い事もひっくるめて人生だと思える感性も、喜びも怒りも感動も消えてしまった人間は人間だろうか。
そんなことがふと頭をよぎった。
「明鏡塾」を終え、懇親会でブラックジョークで大爆笑をする。
その笑顔を見る事で、その人のこころの模様が見えてくる。
そんな、人の微妙なニュアンスが生、つまり、生きている人の特徴だ。
他愛もないこと。
そこに人生がある。
「人」「生」だ。
「大阪・明鏡塾」6期4講座目は今日だった。
何でも話せ、躊躇することなく否定もする。
曖昧な受け答えは無い。
それが全員のレベルを上げている秘訣だ。
その加減で、自動的に高度なワークに発展する。
基本的なカリキュラムは同じだが、受講者のリクエストによってそのレベルは上がる。
当然、初受講者もそれを受ける。
そのことで、混乱もするが高度なワークを目にし、自分のレベルが間違いなく上がると確信するのだ。
高度なワークというのは、人の特徴を知る事だ。
感覚や意識への影響だ。
もちろん、その核になるのは「触れる」だ。
最初は肉体部位への作用(接触部)でOKだが、それが全身へと進む。
ベテランの柔整師や医師まで知らない事だから驚くのだ。
運動系の動きでは、「身体に馴染ませる」という言葉がある。
「身に付く」の前段階だ。
それを、別の角度から言えば、「新たな癖を付ける」新たな習慣を付ける、と同意語だ。
その意味では、人はいくらでも変化し得るということになる。
とはいうものの、馴染ませるには相当の時間を必要とするものだ。
「力んだらあかんで」と口が酸っぱくなるくらい言う。
それでも「力みは取れない」ものだ。
つまり、根気が無ければ、自分の習慣に新たな習慣を付けるのは時間がかかるものだ。
それは、自分への挑戦だから仕方がない。
武道は人との関係の中で成立するものだ。
だから、相当の守り事がある。
全て関係に伴うものだ。
それこそ、人間関係を円滑にする為の宝庫だ。
もちろん、武道にそれがあるのではなく、それがあるから武道だと、私は考えている。
武道の良いところは、理解したところで意味がない、実際として出来ないところだ。
実際に出来た時に、本当の意味での理解があるのだ。
それを実際に体感するから、「本当の意味で」になるのだ。
何かしら一つ「出来た」、つまり、何時でもどんな局面でも「出来た」であれば、自分自身の何かが変化している。
つまり、新しい習慣が身に付いているということだ。
武禅一の行 5月1.2.3日残り2席です!
武禅一の行・受講者の感想
お昼前からスタジオに入り、綿密な打ち合わせをした。
何しろ、全く知らない分野(現在のヒット曲)だからだ。
しかし、私が知るスタジオから比べると、機材の発達が果てしなく感じる。
2トラック2チャンネルという時代から、隔世の感がある。
全てPCでキーボード操作だけで出来てしまう。
唸るばかりだ。
何度か元音を流してもらい、「ああだこうだ、ああでもない、こうでもない」と、アイディアや意見を出し合う。
主役は映像だから、それに対して「これで、その映像は引き立つのか」を考える。
映像編集の人も立ち合い、音が流れる部分の映像の説明をうけながらの作業だ。
「一寸、俺流でやってみるわ」と1テイク録った。
それは、全員が喜んだ。
でも、見る観客は喜ぶかどうかは別だ。
どんなことにしても「共同作業」は楽しい。
「仲良く」とはこういうことだ。
何かしらの役割を果たせる人同士でなければ仲良くは無い。
仲良くする必要も、必然もないからだ。
もちろん、喧嘩をする必要も、無視する必要もなく、単に知り合い、それだけだしそれで良いのだ。
園児の頃から「皆仲良く」と押し付けられたら、感性も壊れるだろうに。
それこそ、40数年ぶりにポップスのドラムを叩く。大阪でアクションクラブを主宰するマット奥井さんからのリクエストだ。アクションクラブの映画のエンディングテーマのドラムを頼まれたのだ。スタンダードジャズや、いわゆる歌謡曲は形式があり、譜面をみなくても一寸聞けばパターンが分かる。しかし、ニューミュージックやシンガーソングライター、フォークといったジャンルが出てきてからは、歌詞そのものが個人的になり、また、何かしらのメッセージ性を持ったものになった。もちろん、形式的なパターンはある。それが良いか悪いかではない。時代の流れ、変化だ。もちろん、スタンダードも歌謡曲もメッセージ性はある。しかし、歌詞の裏に秘められており、大手を振って正面には出ていなかった。だからこそ、多くの人が楽しめたのだ。もう一つ肝心なのが、歌手そのものの人生が歌詞だったという時代性があった。スタジオミュージシャンも兼ねていた頃は、歌謡曲の演奏も伴奏も沢山した。その当時の懐メロ歌手からアイドルまでだ。本当に久しぶりに、ポップスの音源を聴いた。私の耳には新鮮だ。新鮮なのだが、新鮮すぎて「え〜〜〜」だ。こういった譜面で演奏するもので、一番手を焼いたのが変拍子だった。もちろん、当初は知らない事もあったが、やたらと高速の変拍子には手も足も出なかった。と同じくらい「え〜〜〜」なのだ。今日は大阪の稽古とセミナー。明日、午前中から録音だ。この「え〜〜〜」が「え」くらいに馴染むかな?
「嫌な仕事」とか「職場で嫌な奴」という話を聞くと不思議に思う。
嫌じゃない仕事、嫌いではない奴などいるのか?という思いもあるからだ。
それら「嫌な」というのは、単に自分と馬が合わないとか、苦手とかだろう。
あるいは、もっと自分を正当化する理屈は出て来るかもしれない。
何故、社会や職場で「嫌な」が出るのかだ。
そこには「自分は仕事をする人」という自覚が無いからだ。
自分の一日の時間の割り振りを見れば分かる筈だ。
目を覚ましている時間の大半は、仕事なり学校という生活だ。
つまり、自分は「仕事をしている」「学校に行っている」という自覚が全く無いからだ。
就職をして現在の仕事をしている。
それは、余程の事でないと、いわゆる就活の結果だ。
嫌々であろうが、他に良い仕事が無かったから等々、様々な理由があるだろうが、「選んだのは自分」という自覚すら無いのかもしれない。
つまり、「潔くない」からだ。
日常において「潔さ」が育っていないのだ。
「決めたのならやれ」当たり前の事だ。
そうすることで、我慢も根気強さも、決断力も、とにかく生きていく能力の殆どが育っていくし、それ以外に育つ方法は皆無ではないかと思う。
嫌ならやめても良いよ、もちろん一理ある。
我慢しなくても良いよ、それも一理ある。
しかしだ、そこから何が育つのかだ。
こんなに変化する現代を生き延びるのは並大抵ではないのだ。
武禅一の行 5月1.2.3日残り3席です!
武禅一の行・受講者の感想
「そういえば」どうして、このシーンで緊張しないのか?
昨日、高校野球を見ていて気付いた原田先生との会話だ。
先生の時代の球児であれば、例外なく緊張し、失敗も生まれ、もちろん、成功も生まれた。
しかし、TVをよく見ていると、淡々と自分のやるべきことをやっているというのだ。
そんなこと高校生が出来るのか?という疑問だ。
もちろん、選手のレベルが上がっているというのはあるだろう。
しかし、多分、その選手は「個人」であって、チームだとか場所、その試合の価値、そういった事を認識はしているが体感としてないからだろう、と推測した。
これは、実際としては奇妙な言葉になる。
実際としては、もっと小さな子供の頃からチームで試合をして来た筈だからだ。
昔は、チームに溶け込めない、という言い方があったが、現代では、多分そうではないのだろう。
チームに溶け込むというのは死語で、何の感情的繋がりを持たない個が、チームという形式を保持している、ということなのではないか。とも思う。
極論でいうと、サイボーグチームだ。
つまり、個人が個人に対して、何の関りも持てない子供達のチームだということだ。
これは怖いことだ。
生命体として、相互に反応し合っている筈なのに、その機能を壊している何かがある、ということだからだ。
コロナも危ないかもしれないが、本当の危機はこれだ。
もちろん、それは医療の世界に入る子もいるだろう事もある。
それでなくても、昨年はコロナで、医療関係の実習が行われていない。
実習で実力を付けるのに、それが無い人達が、医療の現場に入るのだ。
その子たちも可哀そうだが、現場が大混乱になるだろう。
曲がりなりにも戦力だと思われている子たちが、戦力どころか足を引っ張る存在なのだから。
『「そうか」と写真を見て気付いたのは、自分は人には本当に関心が無く、全く無視していたことです。「自分が決めたことを、自分がうまくやる」ということにしか意識が向かず、とても人に失礼な態度をとっていたと思います。』
自分自身を見る、知るということだし、それが「セルフ・セラピー」の入り口でもある。
そこから、その「人に失礼な態度をとっていた」というその自分をどうするのか?になる。
その自分自身を「嫌だ」とは思うが、その程度ならどうにもならない。
単純に「気付いただけ」で終わる。
どうするのか?は、方法を探す事ではない。
「嫌だ」を「絶対に嫌だ」というレベルに、自分を見詰める、追い込む必要があるのだ。
そうすると、そこに沸き起こる感情が、自分自身を後押しするのだ。
つまり、自分に対して沸き起こる、湧き上がる感情になるまでに、方法を探してはいけないのだ。
そうすると、まだ自分自身そのもの迄、自分の問題は達していないので、方法があったとしても、1年もすれば相変わらずの自分を見る事になるのだ。
もちろん、この1年もすれば、というのは長い方で、数ヶ月、数週間の自分を見れば相変わらずだと分かるのだ。
そうするとどうなるか?
それも単純に、「私は何をやっても出来ない」という自己嫌悪になる、それが山手線状態でグルグル回っているだけの人生になるのだ。