今日で今年も半分過ぎた。
武道とは直接関係のない事、例えば、今やっている屋根修理だ。
もちろん、厳密に言えば道具の使い方が役に立つが、そういうことではなくとにかく「屋根修理」に生を出すのだ。
この時、私は間違いなく腕の悪い職人になっている。
腕の悪い職人だから、どうすれば腕が良くなるか、どうすれば、段取りよく作業を進める事が出来るかで頭が一杯だ。
こんな時、大方の人は「武道に役立つ為に」と意識を働かせる。
そうすると、その時の自分が「役に立つ」と思った事だけしか、そこから盗み出すことが出来ない。
私は、とにかく本筋ではない事、例えば、現在武道家だから、それ以外の事は本筋ではない。
この本筋ではない事だが、それを本筋だと直ぐに切り替える。
そして、その事に徹底的に取り組む。
決して武道の役に立つから、というような意識を持たないのだ。
そして、修理が終われば、その事はケロっと忘れる。
そんなことの繰り返しが、ある時全体として相互に役立つ、役立たせる事ができる自分になっているのだ。
つまり、自分に足し算で何かを足していくのではなく、自分そのものを引き上げる事になる方を選んでいるという事になるのだ。
OSにソフトを足していくのではなく、OSのバージョンを上げたり、OSそのものを変えてしまうのだ。
私は、それを成長と呼んでいる。
「男冥利に尽きる」久しぶり、本当に久しぶりに耳にした。
マツダでロータリーエンジンを開発した技術者の言葉だ。
ジェンダーが差別でどうのこうのという意見を持っている人には、吐き気がする言葉だろう。
しかし、私としては非常にピンとくる言葉だ。
この言葉の背景には、広島に原爆が投下され焼け野原の中で、社屋が奇跡的に残った。
社長の松田さんは、広島の復興と会社の復興を、ロータリーエンジンに賭けた。
そして、そのエンジンを手掛ける役を、開発者に託した、という物語があるのだ。
そこでこの「男冥利に尽きる」が出たのだ。
この大きな志に47人の技術者が名乗りをあげ、苦心の末に開発に成功させたのだ。
成功した車をフランスで発表、ポルシェやベンツ他名だたる自動車メーカーが驚嘆した。
アメリカではカーオブザイヤーを与えた。
つまり、世界にショックを与えたのだ。
ロータリーエンジンは100年ほど開発の歴史があり、それをどのメーカーも成功させられなかったのだ。
そんな代物であり、広島復興、会社の復興、そう言ったとんでも無い重荷を引き受ける。
そこに「男冥利に尽きる」となるのだ。
かっこいいではないか。
刈り払い機に結束バンドを取り付けるという、草刈りの裏技を見つけた。
早速試したが、確かに簡単に取り替えられ切れ味も悪くない。
ただ、石の多い場所では一瞬で結束バンドはすり減る。
その意味で作業効率が悪い。
うちではやはり既製品の方が使い勝手が良かった。
その意味で、工夫をいうのは個人のもので、その工夫を抽象化するのは本当に難しい。
抽象化する為には、様々な条件を考えなければならない。
これは全てのことに当てはまる。
多種多様な条件を考えると、極端な例を考えるのが手っ取り早い事に気づく。
私の専門の武道で、そして「力の伝え方」で言えば、体重150キログラムの筋肉一杯の人、あんこ型の人、体重20キログラム程の力の弱い女の子、という極端な条件を満たすことから考え始めた。
そこから穴を見つけ出し、条件を作り出していくのだ。
これって、私は武道家ではなくやっぱり研究者なのかな、と思う。
今日は「大阪明鏡塾」の体験会だった。
体験会は、私にとっても学びの場となる。
それは、「明鏡塾」を知らない人に、どれだけ内容を伝えられるかの実践だからだ。
知らない人といっても、それぞれに違う背景を持っている。
もちろん、感性も違う。
どこに照準を合わせるかを、最初の一言二言で見つけ出す。
そういった事の訓練になるからだ。
また、私自身が「明鏡塾」をどう捉えているのかを、私が知る事になる。
それも含めて学びの場なのだ。
もちろん、多くの人に受講して欲しいと思っているが、多くの人とはどんな人達を希望しているのか?そういった事も赤裸々に現れる。
そういった私自身の反応を把握するというのも勉強だ。
本当に集合即興演奏だ。
昨日の晩から水が止まったので、朝から沢登りだ。
登っていくと途中でホースが抜けていた。
これが厄介なのだ。
一度水源まで登り、水を止めてから抜けた場所に戻り接続。
もう一度登って水を出す。
そんな段取りになるからだ。
仕方がないので水源へ。
やはり雨で相当土砂が溜まっていた。
それをシャベルでかき出し、石を積み替えた。
ホースを抜き往復。長靴に水は入るは、穴が開くわでびしょ濡れになった。
もちろん、腰も痛い。
補聴器は、もちろん付けていない。
鬱陶しいものが身体にくっついていると、何もかもが鬱陶しくなるからだ。
武道の稽古で倒れる動作がある。
もちろん転げるもある。
特に女性は転げ慣れしていないので、難しい。
咄嗟の時に上手に転げられたら、それだけで怪我を最小に抑える事が出来る。
男性でも固まる人がいる。
そういう人は、そのまま倒れるので、これも危ない。
こんな時に、子供の頃身体を使って遊んだかどうかが現れるのだ。
もう30年も前になるだろうか。
子供が倒れる時手を地面に付かないという話を聞いた事がある。
その時代の人は、もう30歳代だ。
もちろん、その年代に限らず、転げる練習くらいしておく必要はある。
昨日は、補聴器の調整に行った。
余りにも音が入ってくるので、やかましすぎる。
こんな音の中で生活しているのかと驚いた。
部屋の窓を閉め切っても、まるで土砂降りのような音が聞こえてくる。
窓の外を確認しても雨など降っていない。
車が道路を走る音、それだけだ。
年とともに聴覚も衰えるが、こんなうるさい音の中では生活できない、という防衛本能が聴覚を衰えさせているのだろうと、勝手に思う。
キーボードを叩く音もうるさい。
自分の声も大きくてうるさ過ぎる。
食事をしていても、噛む音がうるさい。
高音が聞こえにくいから、そこを調整してくれているのだろう。
だからか、機械的な音全てが耳障りだ。
これなら「何かの時」だけ付けるのが良いだろうと思う。
前に進めない人の共通項は、「真似をしない」なのだが、多分当人は真似をしていると思い込んでいる。
そこの実際と頭の中とのギャップが問題なのだ。
「運動をするのではなく、感覚を辿っているだけ」と話しても、運動だけをしている。
これも、多分当人は言われたことをやっている、と思い込んでいる。
この「思い込んでいる」という、当人にとっての現実と頭の中とのギャップは、何によって抜け出せるのか、あるいは、抜け出さなくても良いものなのか?ここが分からない。
言葉と現実が交差する地点が、人によって違うのだろうと思うが、それは何によって決定されているのか?
そんな事を考えずにはいられない。
それは、もはや病気かも。
昨日は聴覚検査にいった。
様々な検査を受け、その中に「言葉を聞き取る」というのがあった。
言葉と言っても「あ」とか「だ」とかの単体だ。
子音が聞き取りにくいという結果が出た。
医師が、その結果を説明してくれたが、私は「会話や話には流れがあるので、たとえその言葉が聞こえていなくても、理解出来るから返答出来る」というと、「あっそうか」という顔をした。
この検査に意味があるのか?
昨日は夏至。
もう夏至だ。
ふとこんなことが頭を過った。
数年前にフランスでの稽古で痛めた肩が、今年に入りまた痛めた。
そこが治らない。
色々と試し、大分故障個所は修正したが、まだ何かしたはずみで「痛っ」となる。
その分、稽古が大人しくなるしかない。
「死ぬ直前まで、この痛みがあるのか?」と過ったのだ。
そんな事を考えてしまう年になっているのだ。
「やり残し」とか言うが、「残したもの」はないが、「やりたいこと」はあり、そちらに少しずつ手を付けている。
「身体塾」のカリキュラムもその一つだ。
「身体関係」もある。
それらを通して「意識」や「同調」を体感して欲しいからで、それこそが「関係」だからであり、生物としての働きだからだ。
さすがに18歳、全日本レスリングフリースタイルのベスト10の常連との稽古は息が切れる。
体格差の圧が凄い。
武道とスポーツの違いを、大雑把に言えばルールが無い武道、ルールがきちんとあるスポーツという違いだ。
ルールがあるから、そのルール内の運動に制限される。
実際は、つまり、試合ではそれで良いのだが、例えば、腕で相手の腕を掴むとした時、単純にルール内での動きと筋トレしかしていない腕を掴むより、様々な動きをしている腕が腕を取るは、全く異なった質になる。
それが生きている身体の特徴でもある。
だから、競技と運動をする事が大事なのだ。
継手や龍法、体重移動、気配で動くといった、武道の特徴的な手法で遊んだ。
彼の糧になれば良いのだが。