ガラス玉のような目という言い方をする。
もちろん、輝いているという意味ではない。
意志や思考が見えず、ペラペラの薄っぺらい目という意味だ。
洞穴のような目という場合もある。
これも同様だ。
目という器官は、「見る」という働きをするのだが、同時にその「見るの中身」つまり、「何を見たいのか」が第三者には見えるのだ。
つまり、「目」は、見ると同時に見られている器官ということだ。
「武禅」では、きちんと相手と向き合う事が基本のワークだ。
意志を向けている状態だ。
それは、犬でも猫でも、赤ちゃんでもやっている事だ。
それが、人間だけが成人になるにつれて、出来なくなっているのだ。
結果、ガラス玉のような洞穴のような目になるのだ。
きっとそれは、自分の外部に対して、何の興味も好奇心も湧きあがらなくなっているからだろう。
それは、趣味嗜好の範疇で片付ける問題ではない。
自分の外部、つまり、世間そのものの状態や他人に対して、一切関りがないという事になるからだ。
危機管理も出来ないという事にもなる。
「普段どれだけ、ただ言葉を喋っているだけなんだろうと思いました。本当にコミュニケーションが取れていないんだろうと痛感しています。」
これは、「武禅」でのワークの後の感想文の一つだ。
顔だけその人に向けているから、相手の人からは「私と話をしていない」と返されていた人のコメントだ。
10月29.30.31日「武禅一の行」
前回のレポートを読んで下さい
http://www.hino-budo.com/buzen5.html
宝物に気付くのは自分自身が問題を持った時だ。
問題解決を求めて過去を振り返ったり、知識を求めたりする。
知識で解決できるものならそれでよい。
しかし、自分自身が行為として行わなければ解決しない時、それでは役に立たない。
そんな時、過去を振り返り自分の行為を丁寧に探す。
そうすると、そのヒントになる出来事や行為が現れるものだ。
もし、無ければ、それこそ「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで行動を起こせば良い。
問題の解決は問題の中に潜んでいるが、直面した時には気付かないものだ。
これも体験の科学で、数をこなせば気付くようになるものだ。
息子は和太鼓奏者だ。
親に似て独学で今まで来た。
海外から招聘されたり、世界最大の大会に自力で出場したり、今では堂本光一さんの舞台に出ている。
そんな息子が高校時代、マーチングバンドの部長をしていた。
その経緯をブログで書いている。
「そんなことがあったんか?」と親である私も驚く。
この高校時代の部長体験が、現在の息子を支えている。
http://ikkihino.livedoor.blog/archives/27094633.html?s=04&fbclid=IwAR1u-em3k4AgkRVknFbw0m-BMlMLbCtODfRAzbUZFgTESoDXVC__4sJSPyQ
人とはそんなものだ。
宝物とはそんな事だ。
但し、昔は良かった、という話ではない。
そこでの頑張りと、現在の頑張りを比較したり出来る事だ。
つまり、自分を発奮させたり気合を入れたりだ。
「武禅」も、そんな場だ。
何かを習うのではなく、自分を引き出す時間なのだ。
だから、自分を振り返ったり、清水の舞台から飛び降りたりをする修行だ。
だから、日常が変化するのだ。
32,3歳の頃のライブ録音を引っ張り出して聴いた。
ライブを終わってから、何か物足りなさを感じたので、もう1ステージソロで行った分だ。
熱い、燃えている。
確かに物足らなかったのだろう。
「日野晃」だ。
確かに、観客やメンバーに向かっている。
自画自賛ではなく、客観的にそう聞こえるのだ。
大方の人は、ここが足りないのだ。
全ての人が「俺じゃぁ!」の筈だ。
生を受けて、この世に現われ、生きているのは間違いなく「俺」であって、他の誰かではない。
どうして、自分の「生」をまっとうしようとしないのか。
大声で「俺じゃぁ」と叫べないのか。
愚痴を言う暇が有ったら、自分を全うしよう。
それがなければ「関係」も何もあったものではない。
誰が誰と「関係」するのか。
間違いなく「自分が」だろう。
その自分が希薄なら、関係など起こる筈もない。
「武禅」では、ここがメインだ。
「生きているのは誰だ?」
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歯が出来上がった。
担当の歯科衛生士が「自然な白ですよ」と仕上がりを見て言った。
「ほんまかいな?笑えるやろ」「笑えます」「死ぬまで笑われたらええわ」
この白を維持すのに、相当な努力が必要だ。
何しろホワイトニングの天敵である、コーヒーや煙草を嗜むからだ。
ま、それもしやない。
歯の大修理をしてくれたのは、同級生の歯科医の息子だ。
二代目院長で、歯科医院を盛り上げている。
同級生も凝り性だったが、息子もそれに劣らず凝り性だ。
その意味で治療も、こういった修理も得意だ。
もし、大阪、東大阪方面の方で、歯でお困りの方にお勧めする。
「なかむら歯科医院」
http://www.nakamura-shika.net/
昨日は「大阪・明鏡塾7期」3講座目だった。
ベテランの柔整師の話で、私を見つけ一番ピンと来たのはプロのジャズドラマーだった事だそうだ。
「何で?」と聞くと、「音楽でプロで食べてたのは、相当なものだから」と言う。
多分、その柔整師はギターを弾くからではないかと思った。
何でもそうだが、アマチュアとプロには目に見えない壁がある。
その事を、自分のギターを通して体感していたのだろうと思う。
彼が私を紹介したもう一人の柔整師は、「治療に対する考え方が完全に変わった」と言っていた。
彼曰く「明鏡塾は、達人養成所ですね」と感じるそうだ。
何れにしても、ちゃんと仕事をしている人出来ている人の感覚は面白い。
だから、「明鏡塾」を再受講しているのだ。
武道の中身は、基本的に自分自身との葛藤だ。
自分自身の葛藤は、自分自身の何かに気付かなければ起こらない。
中でも、幼い自意識に気付いた時、その葛藤は頂点を迎える。
一番肝の葛藤だ。
肝というのは、多分死ぬまで続くものだからであり、自分自身の中身が複雑に現れて来るからだ。
昔日、武芸者達の中で感性の鋭い人達は、ここに気付き、ここを乗り越えようとした。
それは常に「生死」を賭けているからだ。自分自身の幼さが命取りになるからだ。
もちろん、その事に気付かなければそのまま亡くなっている事になる。
だから、そこを乗り越えた人が「達人・名人」と、後世に名を遺しているのだ。
しかしそれは、気付かなければならないものではない。
知らず知らずに、「結局はそこか」になるものだ。
「自分を知る」をどの道から、どの経路から入るか。
多種多様にある。
それが、私のワークショップであり「武禅」「明鏡塾」であっても良い。
私は、「武道の極意」の中身を単純な形にして稽古をしたり、一つのワークに取り込んでいるからだ。
そして、その事、つまり、自分自身に問いかけるという作業を盛り込んでいるからだ。
ふとそんな事を考える。
「武禅」10月28,29,30日 http://www.hino-budo.com/buzen5.html
ワークショップ12月3,4,5日 https://www.hino-workshop.com/
「明鏡塾」13期募集 https://www.meikyojuku.com/
昨晩、深夜までの土砂降りと打って変わって快晴だ。
作業をする屋根のブルーシートを外す。
とりあえず、湿った野地板を乾かしてからだ。
丁度、お昼からドローンを使った撮影がある。
大慌てで道場の掃除だ。
来月末は「武禅」だ。
急に日程を決めた。
もう少し後でも良かったのだが、道場が冷え込み過ぎるので、限界前に決めたのだ。
そうなると、11月なら行けたのに、という人も現れる。
人生そんなものだ。
自分の都合で世間が動いているのではないからだ。
そこで、自分の都合を壊すか、都合を優先するか。
人生は殆どこの二者択一で成り立っている。何時もの方を選ぶか、それとも一歩変えてみるか。
もちろん、殆どは無意識的に選んでいる。
でも中には「どうしようか」と立ち止まる時もある。そんな時、「こっちをやってみたらどうなるのだろう?」と動いてみることだ。
そうすると、意外と悪くない事が多いものだ。
しかし、何時もの頭で道を変えても余り意味はない。
新鮮な感じを持てなければ一緒だ。
その意味でも新鮮なのだ。
日頃、聞くことの出来ない自分への感想が、たらふく聞けるのが「武禅」だ。
自分の思っている自分、自分が自覚している自分と、他人が感じる自分との違いを知る事。
大事な事は、間違いなく「人は世間の人の中で生きている」という事だ。
であれば、「他人は自分をどう見ているのか」を知る事が、最大の武器であり、修正する、あるいは成長させるカギになるのだ。