「武禅」の準備も佳境に入っている。
妻が慌ただしく台所を動き回り、献立を確認、あるいは、仕込みにとんがっている。
今回は、急に日程を決めたので、受講者が何時もより少ない。
少ないといっても、それは仕込みの量が少ないだけで、やる事は同じだ。
「来年はこうしよう」毎回この話になるが、予定が決まらない世界で生きていると、何時の間にか「来年はこうしよう」は、どこかに消えてしまう。
予定が決まらない世界は、何時から始まったのか?
それはきっと、15歳からだったのではないかと思う。
「人に使われるのは嫌だ」という発想からだ。
となると、独立していなければならない。
そんな思いが、自分で商売を、になったのだろう。
良く言えば、独立心を持っていたという事だ。
仕事が無ければ食べられない。
この単純な生活が好きだ。
そこは全うしている自分を嬉しく思う。
また、全う出来るものだと感心もする。
そんな生き方でも「生きている」という事を、若い人達に話す。
「何をビビッてるんや、誰でも自分を生きる事は出来るんやで」と。
一つの事を「どうすれば出来るのか?」を考える。
本当に考えているのだろうか?
他人の頭の中を覗く事が出来ないので分からないが、やっている事を見ていると「考えていない」事が分かる。
しかし、それを「考えてるか?」と質問すると、「考えている」と答える。
この答えは一体なんだろうと思う。
思考と発言とやっている事が分裂しているのだ。
大方の人は、そんな幻の世界で生きているのだろうか?
そんな事も、つらつら考える。
この分裂を復旧させる事は出来るのか?
何時から分裂したのか?
あるいは、元から分裂していて、それに気付いていないだけなのか?
しかし、一様に現代教育を受けている。
一体、学校教育というのは、どんな人間を作り出そうとしていたのか?
大阪「明鏡塾」は、年齢が高い分それぞれの人の問題点も明確だ。
だから、一つのワークを発展させる事が多い。
発展させるのは、それぞれの人の持つ問題のヒントになるようにだ。
終了後、その日のワークをどう現場で活かすか、の話し合いをする。
その時間は非常に貴重だ。
大阪なら、内科医・歯科医・歯科衛生士・柔整師・鍼灸師・理学療法士と職種がバラバラだ。
だから当然視点が異なる。
当然、印象に残るワークが違う。
その話は、日常で聞くことは出来ないからだ。
懇親会になると、少しくだけた話題になるが、結局は「触れる・届ける」の話になる。
「どうすれば?」となる人もいる。
しかし、答えは私が誰かを相手に見せる。
誰かが真似をする。
「それではあかんわ」と全員が爆笑となる。
「ちゃうわ(違うわ)、今のやり方だと従来の自分の頭がやっているから、癖の上塗りや。だから『出来ない』でええねん(良いのだ)。俺が話している事を紡ぎ合わせていかなでけへん(出来ない)で。」
そこから、また「では、私はどうしてきたか」の話になり、地道な稽古の体験を話す。
「俺は、間違いなく50年は工夫をしてきた結果やで」
だから、今すぐ、ではなく、今すぐどんな糸口を見つけるかだ。
柔整師の一人が「一つの事を、こんなに徹底的に訓練するセミナーはありませんよ」と笑いながら話す。
彼も5回目の再受講だ。
自分自身の変化、成長が面白くてたまらないのだ。
人の奥深くを成長させるのは、目に見える探検よりも面白い。
それも自分自身そのものの事だからだ。
スキルでは絶対に辿り着かない世界だ。
「対立してはいけない」は「皆仲良く」で育った人達には、意味が分からないだろう。
こんな事があった。
ある集会で「人は一人ずつ違うから」と話をすると、キョトンとした顔があった。
それに気付いて、その人に聞いてみた。
皆仲良く、皆で一緒に、運動会で一等賞がない、全員白雪姫というような、奇妙な教育を受けて育った人達なのか?と。
その通りだった。
「人はそれぞれに違う」という事、また人はそれぞれに違うので「あれば」というような疑問を持った事が無いのだ。
「どういうこっちゃ?」こんな弊害、というより、根本的な事を考えられない人を作っていたのだ。
その親達は、基本的な「人はそれぞれに違う」という事を知らなかったのかもしれない。
でないと、「皆仲良く」等という発想は持たないだろう。
もちろん、普遍的な意味での「皆、仲良く暮せばよい」という、人それぞれを内包した上での考え方ではない。
全員白雪姫のような、一律横並びで仲良しなのだからおかしいだろう。
でも、それが日本の側面でもあるのだ。
これ、普通に考えて滅びるだろう。
この集会の時は、まさに「あかん、日本は滅びるわ」と叫んだ。
快晴!にもかかわらず、今から大阪だ。
ほんと天気はままならない。
これだけ冷えて来るとは思わなかったから、慌ててストーブの用意をしている。
本来ならギリギリストーブはいらないのだが。
それを期待して「武禅」を10月にしたのが間違いだった。
ま、そんなものだ。
思うようにいかないものだ。
だから、こちらの身勝手な考え方に気付けるし、思うようにいかなかった時の対処が敏速になるのだ。
その意味では、自分勝手な「思うようになる」と、思っている事も大事な事だ。
それが無い人には、「思うようにはいかない」という考え方も対処も不必要だし、別世界の出来事だ。
これは、「力を抜け」だの「力むな」、「力を入れてはいけない」も同様だ。
そうなる人にしか、このアドバイスは無用のものだ。
もちろん、「対立してはいけない」も同様で、対立する人にしかいらない。
「何を見てるんや」息子が子供の頃に、よく怒鳴った言葉だ。
子供にすれば、何を怒鳴られているのかは分からない。
パニックになる。
でも怒鳴られるから色々と考える。
つまり、自分で自分の状況を認識し、そこで何をしなければいけないのかを行動する。
この事を、体感的に知っていく為のものだ。
これが「自分で考える」という事の基になる。
「現実味が無い」というのはどういう感じか。
自分で書いて、改めて「どういうことだろう」と思った。
いわば、生きているのか死んでいるのかがハッキリしない感じ、といっても、「生きてまっせ」と帰って来るだろう。
では、「生きている」とはどういう感じだろう。
これは単純だ。
「死」という終着点を認識した上で、日々を過ごしている事だ。
終着点へ向かっているからこそ、日々を大事に出来るのであって、終着点を持たない人、認識していない人が日々を大事には出来ない。
「死」というものが、日常から遠のいて久しい。
遠のいて、というのは、家で老衰を迎えて死ぬ人が少なくなった、つまり、病院で亡くなる人が多くなり、その事で身内の死というものに接する機会が少なくなったからだ。
生から死への時間的経過を体感出来ないのだ。
そんな日常が「死」という誰もが迎える最期を、認識出来なくしたのだ。
だから、例えば、コロナでの死者が約2年で18.000余人にも関わらず、コロナ感染を最悪の状態だと思う人が多い。
年間112.000余人の肺炎、344.000余人の悪性腫瘍、28.000余人の自殺者、52.000余人の老衰死、そして、全体は1.250.000余人の方が毎年亡くなっている。
そんな実際から見て、コロナは最悪なのか?
何に怯えているのか?
自分は何に怯えているのかを考えた事があるのか?
数字を見れば、メディアの報道は不安煽りでしかない、と自分自身で結論付けられる筈なのだが、それが出来ないのは一体何故か?
怯えるのは自由だが、そんなくだらない事にグダグダ時間をつぶしている間にも、自分自身の人生は終焉に向かっているのだが。
自分を見詰める「武禅」
「武禅」10月28,29,30日
http://www.hino-budo.com/buzen5.html