それこそ、40数年ぶりにポップスのドラムを叩く。大阪でアクションクラブを主宰するマット奥井さんからのリクエストだ。アクションクラブの映画のエンディングテーマのドラムを頼まれたのだ。スタンダードジャズや、いわゆる歌謡曲は形式があり、譜面をみなくても一寸聞けばパターンが分かる。しかし、ニューミュージックやシンガーソングライター、フォークといったジャンルが出てきてからは、歌詞そのものが個人的になり、また、何かしらのメッセージ性を持ったものになった。もちろん、形式的なパターンはある。それが良いか悪いかではない。時代の流れ、変化だ。もちろん、スタンダードも歌謡曲もメッセージ性はある。しかし、歌詞の裏に秘められており、大手を振って正面には出ていなかった。だからこそ、多くの人が楽しめたのだ。もう一つ肝心なのが、歌手そのものの人生が歌詞だったという時代性があった。スタジオミュージシャンも兼ねていた頃は、歌謡曲の演奏も伴奏も沢山した。その当時の懐メロ歌手からアイドルまでだ。本当に久しぶりに、ポップスの音源を聴いた。私の耳には新鮮だ。新鮮なのだが、新鮮すぎて「え〜〜〜」だ。こういった譜面で演奏するもので、一番手を焼いたのが変拍子だった。もちろん、当初は知らない事もあったが、やたらと高速の変拍子には手も足も出なかった。と同じくらい「え〜〜〜」なのだ。今日は大阪の稽古とセミナー。明日、午前中から録音だ。この「え〜〜〜」が「え」くらいに馴染むかな?
「嫌な仕事」とか「職場で嫌な奴」という話を聞くと不思議に思う。
嫌じゃない仕事、嫌いではない奴などいるのか?という思いもあるからだ。
それら「嫌な」というのは、単に自分と馬が合わないとか、苦手とかだろう。
あるいは、もっと自分を正当化する理屈は出て来るかもしれない。
何故、社会や職場で「嫌な」が出るのかだ。
そこには「自分は仕事をする人」という自覚が無いからだ。
自分の一日の時間の割り振りを見れば分かる筈だ。
目を覚ましている時間の大半は、仕事なり学校という生活だ。
つまり、自分は「仕事をしている」「学校に行っている」という自覚が全く無いからだ。
就職をして現在の仕事をしている。
それは、余程の事でないと、いわゆる就活の結果だ。
嫌々であろうが、他に良い仕事が無かったから等々、様々な理由があるだろうが、「選んだのは自分」という自覚すら無いのかもしれない。
つまり、「潔くない」からだ。
日常において「潔さ」が育っていないのだ。
「決めたのならやれ」当たり前の事だ。
そうすることで、我慢も根気強さも、決断力も、とにかく生きていく能力の殆どが育っていくし、それ以外に育つ方法は皆無ではないかと思う。
嫌ならやめても良いよ、もちろん一理ある。
我慢しなくても良いよ、それも一理ある。
しかしだ、そこから何が育つのかだ。
こんなに変化する現代を生き延びるのは並大抵ではないのだ。
武禅一の行 5月1.2.3日残り3席です!
武禅一の行・受講者の感想
「そういえば」どうして、このシーンで緊張しないのか?
昨日、高校野球を見ていて気付いた原田先生との会話だ。
先生の時代の球児であれば、例外なく緊張し、失敗も生まれ、もちろん、成功も生まれた。
しかし、TVをよく見ていると、淡々と自分のやるべきことをやっているというのだ。
そんなこと高校生が出来るのか?という疑問だ。
もちろん、選手のレベルが上がっているというのはあるだろう。
しかし、多分、その選手は「個人」であって、チームだとか場所、その試合の価値、そういった事を認識はしているが体感としてないからだろう、と推測した。
これは、実際としては奇妙な言葉になる。
実際としては、もっと小さな子供の頃からチームで試合をして来た筈だからだ。
昔は、チームに溶け込めない、という言い方があったが、現代では、多分そうではないのだろう。
チームに溶け込むというのは死語で、何の感情的繋がりを持たない個が、チームという形式を保持している、ということなのではないか。とも思う。
極論でいうと、サイボーグチームだ。
つまり、個人が個人に対して、何の関りも持てない子供達のチームだということだ。
これは怖いことだ。
生命体として、相互に反応し合っている筈なのに、その機能を壊している何かがある、ということだからだ。
コロナも危ないかもしれないが、本当の危機はこれだ。
もちろん、それは医療の世界に入る子もいるだろう事もある。
それでなくても、昨年はコロナで、医療関係の実習が行われていない。
実習で実力を付けるのに、それが無い人達が、医療の現場に入るのだ。
その子たちも可哀そうだが、現場が大混乱になるだろう。
曲がりなりにも戦力だと思われている子たちが、戦力どころか足を引っ張る存在なのだから。
『「そうか」と写真を見て気付いたのは、自分は人には本当に関心が無く、全く無視していたことです。「自分が決めたことを、自分がうまくやる」ということにしか意識が向かず、とても人に失礼な態度をとっていたと思います。』
自分自身を見る、知るということだし、それが「セルフ・セラピー」の入り口でもある。
そこから、その「人に失礼な態度をとっていた」というその自分をどうするのか?になる。
その自分自身を「嫌だ」とは思うが、その程度ならどうにもならない。
単純に「気付いただけ」で終わる。
どうするのか?は、方法を探す事ではない。
「嫌だ」を「絶対に嫌だ」というレベルに、自分を見詰める、追い込む必要があるのだ。
そうすると、そこに沸き起こる感情が、自分自身を後押しするのだ。
つまり、自分に対して沸き起こる、湧き上がる感情になるまでに、方法を探してはいけないのだ。
そうすると、まだ自分自身そのもの迄、自分の問題は達していないので、方法があったとしても、1年もすれば相変わらずの自分を見る事になるのだ。
もちろん、この1年もすれば、というのは長い方で、数ヶ月、数週間の自分を見れば相変わらずだと分かるのだ。
そうするとどうなるか?
それも単純に、「私は何をやっても出来ない」という自己嫌悪になる、それが山手線状態でグルグル回っているだけの人生になるのだ。
「セルフ・セラピー」何のことは無い、自分で自分を治してしまう、ということだ。
「武禅」は、まさにこれである。
まず、自分自身に気付く。
「まず」と書いたが、まずになるのか「どうすれば」になるのか、大きくは二通りの選択肢を持っており、大多数は「どうすれば」となる。
つまり、「まず」になった人は、自分自身の過去や、現在を振り返る。
「どうすれば」の人は、自分自身を置いておいて、そこを切り抜ける方法を考える。
その方向の人達は、やっている事、例えば、人との向かい合い他を「理解できない」と言う。
その方向に行くと、セルフ・セラピーにはならない。
「まず」の人は、本当の意味で自分が自分のセラピストになっていくのだ。
しかし、時間が進むにつれ「どうすれば」といくら方法を考えついてもクリアしないので、「もしかしたら自分に問題があるのかもしれない」となる人も出て来る。
他人と2泊3日も目を合わせて過ごす事など、今の日本では殆どあり得ない。
しかも、コロナ禍ということで、余計に「関係」が希薄になり、その関係を希薄でもよいのだと思い込んでいる人も沢山いるだろう。
それは絶対にない!
どれだけ社会のシステムがデジタル化されようが、人は間違いなく生物だ。
つまり、生物である限り、生物と反応し合い関係しあう、そこに幸福感なり充実感なりを得るものだ。
どんなことにも共通する事がある。
それは、うまく行った時のコピーをしてしまう事がある、事だ。
うまく行った時は、うまく行くまでの過程があり、その結果、という事だ。
しかし、コピーとなると、その結果だけを頼りにする事になる。
だから失敗するし、自分自身の「うまく行った」に不信を持ったり、ある意味での自信を失う事になるのだ。
コピーが間違いなのではない。
コピーをする場所が違っているだけだ。
結果という現れではなく、その時の心理状態気分の状態をコピーすれば良いのだ。
といっても、これは難しい。
常に自分自身の雰囲気に対して敏感になっている必要があるからだ。
もちろん、それは訓練で出来るようになる。
それと同時に、結果までのプロセスを辿る事だ。
そしてそのプロセスを、映像化し気分を再現するようにする。
そうすると、気分が同じような状態になるので「うまく行く」が再現できる確率が高くなるということだ。
その繰り返しが、常に「うまく行く自分」を創り出すということだ。
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武禅一の行・受講者の感想
またまた、知人の訃報があった。
ドラマーのポンタこと、村上秀一だ。
無茶苦茶仲が良かったとかではないが、若い頃よく知るドラマーだ。
私にとっては、リキヤこと東原力哉と並ぶ若手の(私より)素晴らしいドラマーだ。
当時、深夜はサパークラブの花盛りだった。
北新地や南に乱立していて、それだけミュージシャンが沢山いたということだ。
良い音を出すバンドが入っているサパークラブは満員になる。
そんな時代だった。
当然、海外からも多数バンドやミュージシャンが入って来ていた。
そんな深夜が活動の場だった時、私も北新地の有名なサパークラブで演奏をしていた。
そんな時、対バンのピアノトリオのドラマーが変わった。
作曲家故宮川泰さんの弟さんで、通称お宮のおっさんから、若いドラマーになった。
どう聞いてもロック系のドラマーで、4ビートジャズを練習中という感じだった。
それがポンタとの出会いだ。
それから時間が経ち、私が所属するバンドを抜け、次のドラマー決まる迄の間ポンタがトラで叩いていた。
そんな繋がりだ。
その後、私はフリージャズの世界に進んだので、全く疎遠になっていった。
何れにしても、知った人の訃報で、しかも年齢が私よりも若いと、私自身の事のように感じる。
つまり、「死」が朝が来るが如く日常としての現実味を増す。
だから「死が怖い」ではない。
誰も朝が怖いとは思わないのと同じで、そのこと自体はどうでも良いのだ。
いずれ間違いなく来るのだから。
大事なのは、「だから生き抜く」だ。
まっしぐらに生き抜くしか無いのだ。
今日も、終わってみれば「あっという間」だった。
今日は子供達が3人いた。
有名バレエカンパニーにいたバレエダンサーもいた。
「5番は全体を動かして、その形になるプロセスを身体で作らなければ、強い5番にはならないよ」と、かなり専門的なワークも交えた。
「流れに乗る」全てに共通する要素だ。
「流れって一体なんだ?」
もちろん、そんな疑問も湧く。
答えは、私の見本が示している。
「動きは言語化してはいけない」と指示するが、理解してしまう。
理解しても意味がない。
出来ないからだ。
とにかく体感すること、でないと、それ風にはなるが、「それ」にはならないし、「流れに乗る」を理解できない。
自分自身が体感し出来た暁には言語化は浮かんでくるものだ。
そんな話も交えながら、2日目は終了した。
子供達は出来ないから苛立つ。
それも勉強だ。
それでも終了する頃には、一つ二つ手掛かりを掴んだようだ。
絶対に先回りして言葉を使わない結果だ。
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