少し前、プロバスケットボールチームで活躍する高校生と題した番組を見た。
河村勇輝選手、私と同じくらい小柄な身体で抜群の身体能力を持ち、高速ドリブルだという。
Youtubeで見ると確かに凄い。
特別指定枠だそうだ。
スタジオで、その高速ドリブルを披露していたが、「どうしてそんなに速いのか」の問いに、「ボールに合わせて動いています」との答えだった。
ボールを先に行かせ、それに追い付くという感じだという。
成程だ。
「私が速く」ではないというところに驚いた。
自分のペースでやるというのが主流なのに、どうしてこの考えになったのか?好奇心をかき立ててくれた。
こういった若い人の素晴らしい活躍は嬉しくなる。
しかも、考え方を編み出しているから凄い。
自分のペースではない事に合わせられる、ということこそ、チームプレイの神髄だし、自分を活かせる最大の方法だ。
もちろん、身体操作でも同じだ。
一人でやる身体操作と、誰かを相手にする身体操作は異なる。
誰かを相手にする身体操作には方法はない。
相手は、私ではないからだし、相手は全て違うからだ。
相手に合えば良いだけだから方法が無いのだ。
「身体の使い方」という言葉を使っているから、スポーツの方面からの質問も多い。
確かに身体の使い方なのだが、その前に必要な前提がある。
自分が出すべき結果に対して、どれ程貪欲なのかだ。
つまり、気持ちが「絶対に・何が何でも」が溢れているのかどうかだ。
そして、その結果に対して、実際的にどれ程実行しているのかだ。
この二つがあった上で、「何か調整することが必要なのか」という段階で初めて身体の使い方が必要な場合もあるのだ。
大方は、前提の二つが足りない事が多い。
つまり、身体の使い方を覚えれば結果が出せる、と思っている人が多いのだ。
例えば、バスケットボールのシュートだとすると、毎日100本連続でシュートを入れる迄練習を止めない、とか、それがクリアしたら200本、500本と量を増やす。
その事が、シュートに適した身体の使い方が出来上がらせるのだ。
但し、それをゲーム感覚で取り組めるかどうかだ。
義務感や責任感他の、一見真面目腐った考えを持つと、それらは全てストレスになる。
そうなると、身体も壊すし一切身に付かない。
折角の訓練が水泡に帰す。
つまり、「遊べる」かどうかが数稽古の鍵だ。
とにかく実践の量が一番なのだ。
と、そんなことは当たり前だから言うまでもないし、それは全ての事柄に共通する事だ。
そういう答えを出すと決まって「もし間違った使い方をしていたらいけないから」と切り返す。
間違っていようが正しかろうが、シュートが決まれば良いのだから、やれば良いだけだし、間違っていても量をこなすことで、自分の身体の違和感を感じ取れるようになるものだ。
ニュースで知った。
小学生の頃からお父さんに連れられ、熊野の道場に通って来たレスリングの高田煕(ヒカル)君、2019年には高校生ながら全日本2位になっていた。
そして、今日大学生で臨む全日本レスリング。
朝からの試合で準決勝進出を決めた。
お父さんの話を聞くと、レスリングもすそ野が広がり、小さな試合も全国的に沢山あるそうだ。
しかし、そうなると審判不足になり、にわか審判も増える。
素人にも分かる事なら良いが、微妙な判定となると相当誤審があるそうだ。
そりゃそうだ。
審判になる研修を受けて出来るなら、これほど楽な事はない。
選手たちは、全日本、あるいは、ワールドカップやオリンピックを夢見て試合に臨んでいる。
それが誤審で負ければ、悔やんでも悔やみきれない事はないだろう。
ヒカル君も小学生の時、誤審で全日本で2位に甘んじた事がある。
ま、それも含めての試合だと言えばそうなのだが、審判のレベルを上げる策も協会は考える必要がある。
でも、きっとそれも考えて策があるのだろうが、問題はそれを実行しどんな結果が出ているのか?という検証が有るのかだろう。
きっと、ここが曖昧なのだ。
ここが日本の特徴だ。
こればかりは、私のお得意の「ま、ええやん」では駄目だ。
https://www.japan-wrestling.jp/2020/12/11/165964/?fbclid=IwAR2dPW38xOq9OE2n0UfDCjESjIY_t2zyQPcp_vD3tfyQSoyI7Zla7yC8now
さっきカナダで行われていた、フィギアスケートグランプリシリーズを見ていた。
日本の田中刑事選手がフリーで自己ベストを更新する出来栄えだった。
思わず拍手。
しかし、点数が出るまで座っている席に同席しているコーチなのかトレーナーなのか知らないが、愛想もくそもない。
田中選手も同じようなものだ。
もちろん、態度をどうするべきか、は無い。
それぞれがそれぞれで良いのだ。
でも、海外の選手でも伸びている選手は、隣に座る人との関係がすこぶる良いように見える。
羽生選手の両隣りに座る、ごっつい感じのおじさん二人。
おじさんだが羽生選手の点数に、目を丸くして大喜びをしていた。
ちょっとしたことだが、無表情というのは、観客が見るという前提に立つパフォーマンスでは最悪だ。
もちろん、気分もふさぐ事もあるだろう。
しかし、一緒に喜ぶ、それが誰にでも共通する伸びる関係だ。
辛気臭い顔をしている人は、人を不快には出来ても伸ばすということは出来ないが、それも関係なのだ。
フィギアスケートの羽生選手が、グランプリファイナルの出場権を2連勝で勝ち取った。
しかし、今日の朝の公式練習で転倒し足を捻挫していたそうだ。
それでこの結果を残すのだから、本当にどんな人間なのだろうと、思わずにはいられない。
その朝の捻挫以降、決勝戦まで練習をしていない。
この練習をしていないというのは、やるべきフリーの演技の練習をしていないというのでは無い。
右足を捻挫したことによって、どの程度足をかばえるか、あるいは、かばえないか。
解説によると、羽生選手の着氷は全て右足だそうだ。
ジャンプをする時の足は、左が多いが右もある。
その右を無しにするとしても、演技のラインが全部変わるそうだ。
つまり、フリーでの羽生選手は即興で、ぶっつけ本番で優勝を勝ち取ったということだ。
インタビューで「一度も練習していないのに、これだけ出来たというのは自信に繋がる」と言っていた。
一体彼は何者なのだろう???
フィギュアスケートで、若干16歳の紀平選手が飛んでもない得点を叩き出し優勝した。
とにもかくにも「おめでとう!」だ。
もちろん、演技が素晴らしいから優勝したのだが、私はこういったアスリート達を見ていて、そのことよりも「精一杯」ということに目がいく。
もちろん、当人にすれば「まだまだ」とか、何かしらの反省や気付きはあるだろう。
しかし、ただの一観客、一ファンとして見るしかない私としては、こういった演技をする人たちの「精一杯」が励みになる。
それも含めて「ありがとう!」なのだ。
その精一杯の裏には、それを支える自分自身の頑張りがある。
そういった事を想像した時に「私は?」と問題提議をするしかなくなる。
そして次に「何時まで私は?と言うとんねん」となる。
精一杯の人を見るとファイトが湧くと同時に落ち込む。
もちろん、落ち込んでも仕方がないので、直ぐに持ち直すか忘れてしまう。
このええ加減さが、私の特技かもしれない。
しかし、若いアスリート達の活躍が、昔と比べて確かに増えている。
老害といわれるボケたおっさん達も沢山いるが、若い優秀な人がどんどん出て来て「おっさん、何言うてんねん」とガンガン攻めて欲しいものだ。
テニスの大坂選手が優勝した。
日本人初ということだ。
インタビューで「我慢」という言葉を使っていた。
我慢など、現代の日本、しかも若者の間にあるのだろうかと疑う。
もちろん、我慢という実際があるから、大坂選手のようなとんでもない快挙を成し遂げているのだが。
我慢をして、何かを成し遂げた人でないと、我慢の重要性は分からない、というのも確かだ。
現代は、我慢の前に、チクルことで逃げたり、向いていないと逃げ出したりする事が、ある意味で当たり前のような風潮が日本にあるからだ。
当然、気持ちの弱い人間しか育ってこない。
子供の頃、よく母親から「辛抱しなさい」と言われて育った。
子供だから、何が辛抱で、何を辛抱するのかは分からなかった。
分からなかった、というのは、大人のいうことや、学校は私にとって楽しいものではなかったから、辛抱や我慢は当たり前のことだったからだ。
但し、それらに不信感を持っていたのでは無い。
「そんなものだろう」と無意識的に思っていたからだ。
これをしたい、と思って就職しても、それではなく洗い物や掃除、芋の皮むきばかりさせられた。
しかし、そこをクリアしなければ次に進めないのは、職場を見ていると分かってくる。
だから辛抱した。
ではなく「当たり前やろ」だった。
それは、母親の「辛抱しなさい」という言葉が、もしかしたら身体に浸透していたから、知らない間にそうしていたのかもしれないが。
当たり前のことだが、どんなことでも我慢、辛抱の先にしか、思い通りの事は無いのだ。
女子柔道52kg級だったか金メダルをとった選手が、試合後のインタビューで「ああ、私はやっぱり柔道が好きだったんだな、と感じて戦っていた」というようなコメントをしていた。
この選手のリズムというか、動きが他の選手とは完全に違っていた。
こういう「他の選手とは違う」というのを見るのが好きだ。
もちろん、競技だから勝って欲しい。
しかし、それよりも「どうするのだろう」という見方をしている。
何でもその選手は柔術が得意らしい。
だから、どんな状況になっても寝技になったり関節技になったり出来る。
そういった持ち味が、もしかしたら「他の選手とは違う何か」を出しているのかもしれない。
そんな意味でも、スポーツ競技を見るのは勉強になる。
男子200mで金をとった選手も、高校から陸上競技を始めたそうだ。
スポーツの世界でも、ある意味での上達の公式が崩れているように思う。
もちろん、それは良い意味での崩れだ。
体操競技でも、パワハラでコーチが一人飛ばされた。
しかし、パワハラを受けたとされる選手にとって、それをパワハラだと思った事がないと反論記者会見まで開いていた。
しかし、協会は「暴力は絶対にいけない」として、コーチを飛ばした。
パワハラだと見る人、それをそうは受け取らない人、平手で叩いたのを暴力だと決めつけている協会。
何が抜け落ちているのだろうか。
分かる人には分かることだが。