「ゆっくりと」が稽古する順序だ。
これは古い人程守っている。
それは、年数が長い分、「ゆっくり」の重要性を身体で知っているからだ。
しかし、難しいのは「ゆっくり」を出来ない人がいる時だ。
というのは、自分のやっている事を、客観的に知らないから仕方のない事でもあるからだ。
ゆっくりの極端なのは、動いているのかいないのかが分からないくらいの速度だ。
どうして、それが良いかというと、自分のやるべきことに集中する密度が濃くなるからだ。
同時に、身体を鍛える事でもあるし、運動を正確に行えるからでもある。
意識が散漫にならないように、腰に構えた突きを突き切るのは難しいものだ。
僅かの雑音も拾えるようになると、頭が勝手に雑音を出しているのが分かるようになる。
もちろん、その雑音は放っておけば良いのだが、それに囚われる時もある。
それが意識が散漫な状態だ。
それに気付いていくのも稽古だ。
武道の約束稽古は「こうきたら、こうする」だ。
これを形にならないように練っていくのだ。
いわば、芝居の台詞やダンスの振り付けと同じだ。
どれだけ自然になるかだ。
ただ、芝居やダンスと違うところは、「そう見える」事が目的ではなく、実際に身体が反応する、というところだ。
だから、「こうこない」という状態も混ぜるのも練り上げる為の、一つの方法だ。
ここを稽古するのは本当に楽しい。
応じきれない自分が見えたりするからだ。
応じきれないのは、すでに相手の動きを予測しているからだ。
予期せぬ、というのは、本当に難しい。
だからこそ約束稽古が必要なのだ。
海外でも質問されるのが「気」だ。
私が行っているのを気だという。
私は違うという。
どうして違うのかというと、私は気を知らないからだ。
概念的には分かるが、実際として知らないし分からないからだ。
知らない、分からないものを「そうだ」という気はサラサラ無い。
だから、質問として「気とは何ですか」に答える事は出来ないし、興味もない。
この「気」に関して考え出したのは、44.5年前辺りからだ。
それ関連の多くの人に出会い、色々な事象を知った。
しかし、それが「気」という言葉に置き換えられるのかというとそうではなかった。
それは、大方の事は「意識の働き」という視点で解決・処理できたからだ。
私は基本的に理解できない言葉を使いたくないし、自分に対して物知り顔をしたくはない。
私は「実現」出来たら良いだけだ。
言葉や分析は、そこからが始まりだ。
もちろん「意識とは何か」を解説することは出来ない。
まだまだ霧に覆われているからだ。
ただ言えることは、私の行っていることは、意識の側面ではある、という確信がある。
その確信は、現代において使い古されている言葉で説明がつく、つまり、人間の営みの一部だと言えるからだ。
気という言葉が歴史上何時現れたのかは知らないが、相当古いだろうと思う。
その歴史という時間の中で、科学も哲学も誕生し言葉も深化している。
古い言葉が必ずしも正解だとは言えないし、新しく現れる言葉も正しいとは言えない。
要はその事象を解き明かす上で適切かどうかだ。
そして、誰でも取り組めるかどうかだ。
何よりも、曖昧が嫌いだという性分がそうさせているのだ。
しかし、曖昧な事が山ほどあり、また、曖昧が大事だとつくづく思う。
だからこそ、つまらない事での曖昧は嫌いだ。
曖昧を排除した先に曖昧があり、その曖昧こそが本質だからだ。
「体重移動」は、膝の緩み、膝への上半身の重さの負荷、胸骨と背骨、背中と後ろ足の一直線化、指先と膝の緩みの同時運動等々、まだまだ、身体への注意点は色々ある。
同時に握られて箇所から、相手の握る手の圧を感じ取る他、相手に対しての注意点も色々ある。
それらを全部クリアしていくことを、「体重移動の稽古」という。
だから、そういった要素の量稽古を重ね、質を上げそれらが円滑に連携できるようにしていくのだ。
先日、「出来ない時に、何をどう考えているのか?」と生徒達に質問した。
それぞれに、的確な返答があった。
しかし、それは「返答」であって、出来ない時に「やっている事」ではない。
あるいは、出来ない時に確かに頭を動かしてはいるかもしれないが、身体で「やっている事」ではない。
つまり、自分の身体が「やっている事」を知らない、言い換えれば、「やろうとしている事」→「やれている事」への一方通行だということだ。
大事なのは、この後に一つ「やれている事の検証」が必要なのだ。
稽古の仕方、と口に出すが、画一的な何かがあるのか?と考えてしまう。
つまり、それぞれの人の持つ背景が全て違うのだから、○○とは言えない。
当たり前のことだ。
例えば、武道を始めてするのですが、と問われる。
じゃあ、これからしましょう、とはならない。
まずは、どの程度武道に興味があるのか?だ。
運動不足の解消なのか、何か知らないけど楽しそうだから、刀を操ってみたいのか、力が弱いのを克服したいのか、スポーツをやっていて、もう少し身体を操るということを知りたいのか、武道とはどんなものかを知りたいのか、とにかく、人は多種多様にそれぞれの思いや希望を持っている。
そんなことを考えると、稽古の仕方??となる。
逆に、一つの形に挑戦していく、とすると、稽古法は見える。
それは、その一つの形の構造を分解し、分解されたもの一つ一つに取り組めば良い、ということだ。
私の道場では、大きく言えば、「武道=関係」という捉え方をしている。
だから、色々な形があっても基本的なものは皆同じだ。
一番分かりやすい稽古は、「押す・押される」という関係だ。
それだけで、相手の押す力の度合いや方向や、押されてひっくり返る、あるいははじかれるという自分の身体の反応を知る事が出来る。
これは、その都度行っている。
しかし、稽古をする人を見ていてどうもしっくり来ない。
それは、人を意図的に押す、ということをやったことが無い人がいるからだ。
そうなると、こちらは手も足も出ない。
つまり、教えようが無いのだ。
その場合、やったことがなければ「やれば良いだけ」だからだ。
しかし、ここでまた一つ問題が生まれる。
「やりました」となるのだ。
そうなるのは、「言われた→やった」と、自分にとっての根本的な問題「やったことがない」が抜け落ちている、または、忘れてしまっているからだ。
だから、その答えに???となる。
そして「やってどうする?」と、またこちらは答える。
つまり、「やりました」ではなく、人を押すという感覚、押したいという気持ち、そんなことが自分の中で沸き上がったかどうかが答えだからだ。
動作としての人を押すが出来ても全く意味がない。
動作は気持ちの現れだからだ。
そこを「やったことが無い→やってみる」という逆説的な方法で、気持ちが沸き上がる、あるいは気持ちが動くという自分自身を作っていく、そこが目的になるのだ。
武道の基本となる「体重移動」がある。
例えば、腕を使って、棒を使って、木刀を使って、という具合に色々なバリエーションで「体重移動」を体感していく。
同時に「体重移動を行える身体」を作っていく。
そこに終着点は無い。
終着点は自分が決めることだ。
「これで良い」と決めればそれでよいのだ。
ただ、入り口はある。
私の動きは、多くの人にとってその意味で入り口の手本にはならない。
熟練者にとっては入り口が見える。
それは仕方のない事だ。
入り口がある、というのは技術だからだ。
例えば、棒を使って体重を移動する、という状態を初めて見たとする。
その状態に???となる。
そこでヒントとして、膝の緩みと腕を同時に動かす、がある。
さらに、胸骨を前に出し引き上げ、骨盤と肋骨との間を引き伸ばしているような体感を持つこと。
絶対に「押そう」と思わない事。
これらが、体重移動の為の基礎的な要素であり、最終的な形でもある。
そうすると、どこから取り組まなければいけないのか?を、最初に考える必要がある。
大方はここをしない。
私にとっては「どうして?」だ。
要素を出し、しかも身体操作としてのヒントもある。
にもかかわらず、いきなりその全体をやろうとする。
身体を使って何かを実現させた体験が無い、というのは、そういうことなのかと想像する。
30数年武道を指導しているが、ちゃんとシミレーションをして取り組んだのは数えるくらいしかいない。
その人達はプロのアスリートだった。
私なら「膝を緩める?」となり、ああでもない、こうでもないと膝を使ってみる。
緩めるなのだから、曲げるのではないだろうと仮説を立て、「曲げる」をやり、その体感を覚える。
それは間違っていることだ。
ここが重要なのだ。
間違ったことを体感していなければ、正解の体感を体感出来る筈もないからだ。
「間違わなければ駄目」というのは、こんなことでもある。
間違いを知っていれば、正解でなくてもそれに近くなる筈だからだ。
ということを「取り組み」というのだ。
ただただ、「それは違う」だの、やみくもに量をこなすことが取り組んでいるのではないのだ。
武道セミナーを日本では、あまりやらない。
それは、社会性の問題があるからだ。
そして、実際として身体を使ってやるから、あまりにも受講する人に開きがあると稽古が困難になるからだ。
例えば、ボクシングをする人と、伝統武術の剣をする人が組んだ場合、それぞれの持つ背景が全く違う。
そうすると、一つの約束を提示しても、それを実際に行う時、まるで噛み合わないからだ。
また、武道に造詣が深い人と、全く知らない人とでも噛み合わない。
仲間だけで趣味で練習をしている人と、先生に付きちゃんと練習をしている人でも噛み合わない。
しかし、もっと根本的な問題がある。
それは、組んだ相手と稽古をしているということを、実際として分かっていない人だ。
これは、言葉を変えれば社会性が育っていない人だ。
いくら注意をしても、稽古のルールが出来ないのだ。
稽古のルールというのは、難しいものではない。
組んだ相手とお互いに課題をクリアさせる、というだけのものだ。
つまり、共同作業が出来ないということだ。
これでは、仕事も出来ないだろう、ということだ。
海外でも、もちろん無茶苦茶な人もいる。
しかし、それはルールを理解していないだけだから、それを理解させると努力をする。
共同作業が出来ないというのは、努力をしない、出来ないということだ。
そんな人が日本にいるのか、と思ってしまうが、意外と多いのだ。
日本人の場合は、言葉は理解するが、実際として出来ないし、全く努力が見えないから、こちらとしては「お前、舐めてるのか?」になる。
もちろん、組んだ相手の人の稽古にはならない。
組んだ相手の人も、そのことを注意しない。
「私の稽古になりません」と言えないのだ。
こういった社会性が育っていない人が多いのが日本人だ。
だから、面倒なのだ。
人は他人のこととなると、かなり客観的に語る事ができる。
その中で、それを話す自分自身の言葉に「そうか」と気づくことも多い。
その「そうか」は、自分自身の事に取り込もうという「そうか」だ。
だが、自分自身の事になると、途端に気持ちが動く。
もちろん、何でもかんでも気持ちが動くのではない。
「このボケが」と思っていること、あるいは人に対して動くのだ。
その正体が自分では見えない。
「負けず嫌い」という性分がそうさせているのか、とも考えた。
という具合に、日常は修行だ。
修行ということが必要なのであれば、日常に変化を求めることだ。
そうすると、波風が立つ。
その波風に自分がどう立ち向かうかが修行だ。
つまり、日常以外に修行できる場はないのだ。
しかし、気持ちは動く。
どうするか?自分の何を攻めようか?
武道で相手との対峙する中で、まず相手との位置関係を考えた。
よく考えると、相手から見て左右、前後しか位置関係は無いと、ごく当たり前のことに気づいた。
もちろん、微妙な角度は無限にある。
それは、実際での相互の反射や反応により決まるものだ。
だから、その前後左右に体重を動かせる事が、位置関係における稽古になる。
という具合に、位置取りも抽象化すれば、何をどう稽古すれば良いのかが見えてくるものだ。
ここを気持ち等の情緒的に捉えると、話はややこしくなり、稽古も曖昧なものになる。
もう少し深くいうと、人は情緒的であるからこそ、抽象的な考え方を用いる必要があるのだ。
そのことが思いや気持ち等情緒を実現させる鍵になるのだ。
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