「東京・明鏡塾」11期2回目の講座は、人数が少ないこともあり、また、再受講の人達ばかりということもあり、「より精密に」がテーマとなった。
上っ面から中身へ、という感じだ。
そうなると、それぞれに気付くことが当然深くなる。
それは患者さんとの関係に即還元される。
即還元される、というのは、「還元できる自分が作り上がっている」という事であり、ある言い方をすれば、自分の中にシステムが構築されたということでもある。
もちろん、そのシステム構築が終着駅なのではない。
システムを構築したのだから、次はそのシステムを検証し作り直す、あるいは、壊すという作業になる。
それは、現場を日々過ごしている事で、気付く事感覚される事のレベルが上がるからだ。
つまり、システムは流動的なものであって、固定化されるべきものではないのだ。
全ては、自分自身の本質へ向かう姿勢と、その為の技術や考え方が決めるからだ。
講座の中で一人が、「朝最初に背中を触れ、最後に改めて触れると全く違う感覚になっているけど、その感覚は現場では難しい」と言う。
「当たり前や、通常10年はオーバーかもしれないけど、それくらい時間のかかる事を6時間で体験しているのだから」と答えた。
講座は、それくらいの密度を持っているという事。
それは、多種多様なアプローチをする事が、思考を混乱させ、また、感覚を混乱させる。
その事が、6時間で全く違う感覚を生み出した、というその日の結果になっているのだ。
つまり、6時間の講座は、数年の間で体験すべきこと、体感すべきこと、問題視しなければならないことを、体感しているという事なのだ。
「知った、感じた、気付いた」その事を自分化する為には、相当の過程を必要とするのだ。
その過程がなければ、自分を創り出す、創り上げる事は出来ないのだ。
試しに、生ダコを買ってきて、包丁で切ってみればよい。
料理屋で出されるお金を取れる切れ味や、一朝一夕でその味になる事はない。
人はアナログなのだから。
大阪明鏡塾6期も始まった。
「この年末の忙しい時に」だ。
新しい人も交じり、熱い時間を過ごせた。
もちろん、新しい人達は、初めてのワークに目を白黒させていたが、先輩達の誘導が良くて、停滞なく進んだ。
「どう取り組み、どう検証するのか」という座学も、皆が言葉を出し合い一応の成果を出していたので、今期全部で試してみようと思う。
懇親会は、ワークの事などで盛り上がった。
再受講の人達のレポートを読むと、相当レベルの高い獲得をしている事が分かった。
そんな話も交じり先程まで続いた。
一人の質問に、ベテランの柔整師達が丁寧に答えていた。
「とにかくやり続ける以外には発見することも、気付くこともない」という至極真っ当な答えが光った。
今週は「大阪・明鏡塾」6期の開始だ。
東京とは違って、新しい人が入る。
新しい人が入ると再受講の人の刺激になるから双方にとって都合が良い。
再受講組が苦労をして探求したことを、さっと通過する人もいるし、全く理解できない人もいる。
そんな色々な人達に、どう対処できるのかも大きくは「関係」の稽古になる。
大方は、「自分の知っていること全部」を相手に伝えようとする。
これで知らない人はパンクする。
ここが難しい所なのだが、自分の知っている事を伝えるのは楽だ。
もちろん、この「伝える」というのは、文字通りの事で確認しながらの事ではない。
確認、つまり、相手の反応を見ながらというのは、相当の注意力が必要だ。
だが、それは人生を生きる上で必須だし、医療従事者であれば当然必須である。
私は常に「質問は?」と投げかける。
それは、相手の力量を知る事になるからだ。
その質問に応じて、反応しての対応が出来るからだ。
大方の会話を聞いていると、一方通行が交互に行われているだけの事が多い。
自分の言いたい事があるのは分かるが、それでは理解する行為にはならない。
安物のドクターがデーターだけを見て、患者さんを診ないのと同じだ。
全ての患者さんや利用者さんには、背景がある。
しかも、それぞれに異なる背景だ。
そこから汲み取る、あるいは、感じ取るという作業があるから、データーを有効活用出来るのだ。
冬至だ。
ここから春の兆しを体感する用意だ。
昨日から「東京・明鏡塾」11期が始まった。
年末ということコロナということ、それぞれの生活のタイミング等が重なって、過去最少の人数だった。
それはそれで良しで、日頃時間を割けない「捉え方」や「具体化の仕方」についての話合いをした。
これは理学療法士の尾森君の発案で、ワークを現場で具体化させる為に「考え方が必要だが、それをそれぞれに任せているから、もしかしたら迷子になっている人もいるのではないか?」というところからの案である。
それは実際にどうなるものか分からなかったから、取り敢えず試してみる事にした。
人数が少ない分、それだけ一人の言葉数が増える。
その事で、「そこが分からなかったのか」あるいは、「全く誤解している」というようなことが赤裸々に見えてくる。
有意義な時間だった。
ワークは、初回の講座なのだが、再受講の人ばかりなので、どんどん質を上げて試していく。
「どこまでいくんや」だ。
ワークとしての終点近く、つまり、「関係」という事で影響される「人」があり、それを利用して治療や回復改善にどう役立てられるかのネタの終点近辺だ。
「でも、今はそれを使ったらあかんで、それよりも、体感や手の感触を錬磨して」と注意点を話した。
今日は「明鏡塾」10期最後の講座だ。
再受講の人達は、「感覚」ということと真正面から向かい合い、その実体と取り組んでいるから、その分深くなっている。
深くなるというのは、ノイズや雑念に惑わされなくなって来ているということだ。
その分「感覚」が自分の中で明確になっているということで、それは相手との関係を、明確に体感出来るようになって来ているということでもある。
結果、患者さんや利用者さんとの、無意識的なつながり、つまり、信頼関係が築けるということだ。
ある意味での「思い」というノイズ雑念に惑わされないというのは、「思い」は相手に影響を与え、もちろん自分にも影響する。
例えば、俗にいう「相手を嫌いだと思えば、自分も相手から嫌われている」という様な事だ。
そういった呪縛を整理出来る自分になっているということだ。
それは、どんどんスッキリした顔立ちになっている事が明確な成長の証である。
「明鏡塾」もコロナの影響もあり、受講者が少ない。
それはそれで、かなり密な稽古が出来た。
また、脱線した話も多くなる。
話題はそこから発展し、社会や教育、時代の違い等々と弾む。
女性の場合は、こういった世間話は得意だ。
社会性が育っているからだ。
医療従事者の場合、この社会性は必須の能力だ。
患者さんや利用者さんとの会話が、治療効果と正比例するからだ。
ところが、自分で「不得手・苦手」という人がかなりの割合でいる。
そんな時「どうしてその職業を選んだのか」と質問する事にしている。
医療の専門技術は、もちろん大事だし、そこが基本だ。
だが一方の基本は、この社会性だ。
その事を学校側が教えない事が問題だ。
それは、学校側が問題視していない、それに教師陣がそれに気づく感性が無いからだ。
しかし、その意味では、社会性は医療従事者に限ったことではない。
誰にとっても必須だ。
人は全てサービス業を背負っているのだ。
スマホに釘付けになっている限り、それは望めない。
https://www.meikyojuku.com/
「それは違うで、『自分=私』は目だけ、顔だけじゃなくて、全身が自分やろ」先日の大阪明鏡塾での注意だ。
相手の言葉を「聴きに行く」という訓練、距離を詰める事で、どの距離が違和感を与えるか、あるいは、信頼感を与えるかの体感を得るという内容だ。
しかし、ここには条件がある。
お互いに、あるいは、「聴きに行く側」がきちんと相手に対して意思が向かっていることだ。
だから、普段の「そのまま」の状態でいくら距離を縮めようとしても、相手に取っては違和感でしかない。
普段の「そのまま」というのは、きちんと自分の話す相手を認識していない状態だ。
相手を改めて認識していなくても、日常はお互いの忖度で成立しているからだ。
真剣な場では、木偶の坊が突っ立っている、あるいは、何か気持ちの悪いオブジェがある、というようにしか感じ取れない状態だ。
私が注意をしたのはベテランの柔整師だ。
だからこそ、「あっ!ほんまですね」と即反応してくれた。
これが若い人なら「どうすれば良いでしょう?」になる。
「アホか、自分で考えや」と即答する。
もちろん、若い人とベテラン、という区分けでは無い。
若くても「そうか!」となる人もいる。
その違いは、「自分自身を問題視」しているのか、「知識を得たいだけなのか」の違いだ。
この違いは人生の違い、つまり、現象に囚われず充実した時間の中で生きて行くのか、現象だけしか追いかけられずに、つまり、現象に振り回されて生きるのかの違いだ。
今でいう「コロナ脳」の人達が振り回されている人達だ。
医療従事者の為の「明鏡塾」