大阪に早く着いたので、久しぶりに友人と「串カツで一杯」を天王寺で堪能した。
串カツ専門店は、殆どいった事が無い。
貧乏性で足が向かないのだ。
で、友人も何年かぶりというので行ってみた。
久しぶりなのだが、明日は「大阪・明鏡塾」なので早めに切り上げた。
「明鏡塾」の特徴は、一つのワークで何に気付いて欲しいかがあるが、その「何に」が、受講生のこなし方を見ていて変更していくことだ。
だから、ワークがどんどん高度になっていくのだ。
特に大阪は、自営の方が多く、それだけ色々な意味での経験が豊富という事だ。
だから、受講生が求めていること自体のレベルが高い。
だから、余計に「明鏡塾」でいう「関係」に興味を示すのだ。
明日は、相当高度な事を求めるワークに取り組んでみる。
多分、世界中でこんな要求はないだろう、というものだ。
今日は、大阪マラソンだった。
会場の目の前を走る。
そうなると、道路は全部閉鎖だ。目の前に会場があるのに渡れない。
マラソン選手の人達には悪いが、時間が無いから何とかせぇだった。
そのおかげで、マラソンの事を知らない地方からの受講者は、道の大回りを強いられた。
「大阪・明鏡塾」2期3回目の講座を終えた。
やっぱり大阪は凄い。
おっちゃんが2人寄ると、もう止められない。
一寸したエピソードワークも、とんでもないことになる。
大爆笑も止まらない。
それが集中された空間の中で、突如起こるのだ。
それこそ意識の切り替えだ。
これは東京では絶対に起こらないドラマである。
年齢が高いと、気持ちに余裕がある。
そうすると、出来ないワークがまず煮詰まらない。
だから、雰囲気は明るい。
ワークは進む。
そんな1日が「大阪・明鏡塾」である。
「東京・明鏡塾」7期5回目の講座を終えた。
みんなの成長に目を見張るものがある。
成長というのは、医療の現場で素晴らしい成果を上げている、ということだけでは無い。
どうして技術を覚える講座では無いのに、成果が上がるのかだ。
それは、それぞれが、極めて抽象度の高い問題提議を自分の課すようになって来ているからだ。
抽象度が高いということは、明確な答えがないということだ。
その答えは、自分のレベルと共に進化するからだ。
そこに医療の現場で気付き、それぞれがその問題に向き合っているからだ。
つまり、それは医療の現場で起こる様々な出来事に対して真摯に向き合う姿勢が出来ている、ということになるからだ。
それは、俗に言えば頭脳が柔らかくなっているということでもある。
こうなってくると、「明鏡塾」も考えなければならない。
これほど短期間で、それぞれがこのレベルになるとは、想像だにしていなかったからだ。
嬉しい悲鳴だ。
懇親会は、そんな話で盛り上がった。
今7期は来月で終わりだ。
受講生の一人が、「今回のワークはいきなりレベルが高いですね」と「うん、みんなに合わせたんや」という具合にワークは変化する。
そこが「明鏡塾」の特徴と言えば特徴だ。
「見る」というのも、「勉強をする」というのも同じだ。
自分自身の目的が明確であればある程、目的に応じて絞り込まれ、自分自身に反映されるものだからだ。
そこまで、分かると「見ているもの」はそれぞれに違うということが腑に落ちる。
当然、それはその人自身の全てに適応されるものだ。
「触れる」にしろ「聴く」にしろ、自分自身の目的と比例するということになる。
つくづく、人という生物は「意識」というものを発達させたが故に、難しい生き物になったのだと思う。
もちろん、文化にしろ文明にしろ、その「意識」が作り出したものだ。
それを享受しているのが私達だ。
だから、良い悪いで語る事は出来ない。
ただ、好むと好まざるとにかかわらず、一人の人間が社会という集団で生活する為には、という本筋を抑えて整理する必要があるだけだ。
「見る」ということで、「明鏡塾」を受講する若い理学療法士が「皆を見ていると、どうも腰が引けている感じがする」と言う。
その事でしばらく話を進めた。
彼は「ということは、自分の思っている『目』で見ているだけで、実際の目ではないということですね」と来た。
そうなのだ。
レッテルとしての「目」を使っているのと、自分の「目」を使っているのとの違いだ。
それが腰が引けている、と彼には見えていたのだ。
もちろん、もっと別の捉え方もある。
こんなやりとりが、自分自身の整理に繋がるのだ。
しかし、こんなやりとりは一般的ではない。
彼は同窓生に会うと、話が合わなくて困ると言う。
それはそうだ。
「明鏡塾」では、こんな話が一般的であって、一般巷の会話は逆に特別だからだ。
生きている世界が違うのだ。
この間の日曜日、ハロウィンということで渋谷の街は、若者で一杯になったそうだ。
一夜明けると渋谷はゴミの山。
軽トラックをひっくり返して、大騒ぎしていた動画までアップされていた。
これもある種の一般だ。
そこに紛れ込むのか、一線を画すのか。
全ては自分次第である。