先輩が後輩を指導する。
当たり前の事だと思っていたが、実は当たり前ではない事を知った。
むろん、今の話ではない。
何十年も前の事だ。
道場には、先輩と後輩がいる。
1日先に入っても先輩、1日遅れて入ったも後輩だ。
あるいは、年長者がそれよりも若い人を指導する場合もある。
これは、道場では通らない事が多い。
若くても古い人がいるからだ。
こういった序列は、社会では絶対に必要だ。
責任を学ぶ事に繋がるからだ。
もっと言えば、兄弟なら兄が弟の面倒を見る。
これも責任だ。
弟や妹が悪さをして親に叱れる。
その叱られるは、兄や姉の役目だ。
物事をフラットにしか見えない人には、理不尽だという事になる。
しかし、きっと動物は自然とそうしているのではないかと思う。
もちろん、それは種を絶やさない為の遺伝子の策略だ。
当たり前ではない、というのは、人の関係をフラットにしか見えない人の絶対量が増えて来ていることだ。
「どうして?」はどうでも良い。
間違いなく教育とメディアの垂れ流す、最もな情報の影響だ。
それが時代の移り変わりというものだろう。
でも、私が若い頃、ジーパンに長髪が世間を席巻した。
当時の大人達は一斉に眉をひそめた。
そんな事を思い出せば、別段時代は移り変わっていないとも思う。
しかし、確実に移り変わっている。
社会を構成する人と人の関係が、薄くなっている。
それこそビールが、ノンアルコールビールで満足、という様な薄さだ。
これでは、生物である必要はない。
武禅一の行 5月1.2.3日キャンセル待ちです!
武禅一の行・受講者の感想
先日ツイッターで、ふと目に付いたのが、拙著「考えるな体に聞け」が紀伊国屋のスポーツ関連の書籍で売り上げ1位らしい。
思わず「え〜〜」だ。
https://amasale.newif.net/ranking/kdetail/1384430
もちろん嬉しいのだが複雑だ。
私にとっては、この本の内容は殆ど20年前のものだからだ。
本が売れているのは、時代が20年前の私に追いついたということだろう。
もちろん、私は当時から言えば20年後を歩いている。
それこそ「そこにはいない」だ。
こればかりは仕方がない。
基本的に私は世間と一緒は嫌いだからだ。
気分も悪い。
だから、違う事、違う道ばかり探すということを、人生通してやっている。
時々、世間がリンクして来る時があるだけだ。
もちろん、違う道は手間がかかるし疲れる。
その分、私自身が鍛えられて来た。
だから、ちょっとやそっとではめげないし、文句も言わない。
それだけでも、愚痴を垂れながら会社にいったり、人付き合いをしているよりは楽しい人生を送っていると言える。
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武禅一の行・受講者の感想
東京も大阪も「まん延防止」が発令される?
全く持って能天気な顔で、能天気な声で知事が話す。
部会のおっさんもどれだけ能天気か。
よく、その顔を公衆の面前に晒すことが出来るな。
大阪では「どんな顔晒して生きてんねん」という。
それこそ、どんな世界を生きて来たのか不思議でならない。
「その顔」というのは、無機質で何の表情も無い、という意味だ。
顔は嘘をつけない。
つまり、顔は自分の人生を生きる中での喜怒哀楽他の葛藤の証だということだ。
それは、いみじくも「他人を理解する・他人と共感しあえる」ということの証明だ。
つまり、能天気な顔というのは、そういった人と人、あるいは自分自身の目に見えない部分の「気持ち」の蓄積が無いから、ということだ。
発令する前にする事があるだろう。
医師会の会長と呼ばれるおっさんも同じだ。
やる事があるだろう。
やれる事があるだろう。
その事が、私達には全く見えないから、能無しか?と思われるし、国民の事を何も考えていない、考えられないのだろうと見えてしまうのだ。
病床を増やせよ。
どこかのコロナ患者を受け入れている病院の院長が、「対策さえ取れば決して危険ではない。その対策を指導するから、病院の方、医師の方、相談してください」と発信しているそうだ。
ところが、それに反応した病院は一件しかないと嘆いていた。
それが医師会であり、公が積極的に介入しないところだ。
もちろん、ここには介入しない理由、出来ない理由があるだろう。
しかし、平時ではなく緊急事態なのだ。
笑い話ではないが、もしどこかの国が日本に攻撃をしかけたとすると、戦車を動かさなければいけない。
しかし、道路交通法で戦車は公道を走れないから、動かせないというのと同じだ。
緊急事態だというのなら、緊急発動すれば良いのに、それをしない。
それこそ、能天気な頭で指令をすれば良いのだ。
緊急なのだから。
原田医師との会話は面白い。
面白いというのは、話題が多岐に渡るということ、そして深くなるという事だ。
「会話とは?」そのものだからだ。
会話というのは、池に石を投げ込むようなものだ。
小さな波紋が広がったり、大きな水しぶきが上がったり、つまり、一つの話題を基に発展・創造していく、それが会話だ。
知っている事を並べるのでも、報告するのでもなく、言葉を用いた創造作業だ。
それが自動的に行われる事を会話と呼ぶのだ。
昨日は、「関係」に終始した。
結局、全ては相互関係だという結論になる。
全てというのは、森羅万象だ。
もちろん、関係ということを常に考えているから、必然的にそちらに向かうのだが。
それこそ医療で言えば、患者さんの治り具合、薬の効き具合も含めて関係だ。
つまり、それ程、色々なモノ、コトが影響したり、影響し合ったりするのだ。
但し、この事は西洋的な思考からは生まれない。
それは、目に見えないから、大きく言えば数値化出来ないことだからだ。
ドーナツは穴が大事だ、と分かってもいるし、目に見えているが、数値化出来る筈もない。
数値化出来ないものは、大事ではないという発想だから、生まれないのだ。
会話も、言葉だけを並べたとすると、創造にも限界が来る。
そこで大きく関与しているのは、その人の空気感であったり感情だ。
その事に相互に影響し合い、反応し合うのだ。
それらは全て数値化できないのだ。
大事な事は、目に見えないところにある、とするのが一番良いのだ。
深く考える事が出来るからだ。
枝垂れ桜は、次に来る時は散っている。
去年の今頃は、まさかこの時期までコロナ騒ぎがあるとは思っていなかった。
能天気と言えばそれまでだが、政府が的確な判断を下し、良い方向に持っていくと思っていたのだ。
だが、この時期まで来て専門委員会は、ずっとずっと同じことを言っている。
それを専門家というのか?
私達は、それこそ不要不急の外出を避ける、をある程度守っている。
しかし、専門家は何をどうして来たというのか?
感染症の専門家であれば、取り敢えずの対策、根本的な対策と二重の行動を起こしていたのかを問いたい。
対策とは、一つは病院、病床の確保、医療関係者の確保、ワクチンではなく既存の薬に有効性のあるものは無いのかどうかの検討、そして根本的にはワクチンの開発だ。
私達への呼びかけは、自己免疫力を上げること、口から感染するのだから、口内環境の整備だ。
政府は、コロナに関わる医療従事者の給料を2倍にし、出来るだけ日常生活に支障が来ないようにすれば良いのだ。
しかし、発熱外来は嫌だという医師もいると聞く。
何よりも、こんな世界中が騒いでいる事態に、「まかせ、俺が治してやる」という医師がいくらでも出て来ておかしくない筈だ。
だが、「人の生命を守る」あるいは、「治療する」という目的を持って医師になっている筈なのに、コロナから逃げるとはどういうことなのか?意味が分からん。
意味が分からん日本になりつつある、または、もうなっているということなのだろうか?
切り口は大事だ。
「青色」というテーマで、ピカソを論じていた。
ストーリーがあると、見ていたものが変わると実感した。
しかし、そのストーリーを知らない時に見ていたものは、一体何だというのだ。
もちろん、私自身の感性であり、私自身の知識の集積だ。
いずれにしても、「そのもの」は見えていない事になる。
ここで問題になるのは、「感性」だ。
私は、ジャズの時代から、この感性に興味があり、それを確かめていた。
むろん、私の感性は私自身のものだ。
と言い切れるのか、ということと、言い切りたくないという背反した考えがあった。
言い切りたくない、というのは、普遍的な何かがあり、それは人類、あるいは、動物全般と共通しているもの、という期待だ。
だから、感性の質を常に確かめていたのだ。
例えば、マイルスの演奏で、アットフィルモアがある。
これを良しとした時、何がどう良いのか、を探り出し、他のミュージシャンやアーチストの作品とを比べていた。
つまり、深い一点で繋がらないかと探していたのだ。
これは同時に、自分の感性をより確かなものにする作業だったと、今になって気付く。
そうなると、その逆に「気付いてどうするの?」という、私の意見が顔を覗かせる。
そういった堂々巡りが私の人生のような気がする。
ただ、単純な堂々巡りではなく、それは螺旋状で昇華しているものだ。
と考えたい。人とは厄介なもので、否定すると同時に肯定もしてしまうのだ。
もちろん、厄介なのはこの「思考する」という作業を持ってしまうからだ。
これさえなければ、否定も肯定も螺旋状もない。
どうすれば、思考の無い世界に行けるのか?
もちろん、「死」でしかないのだろうが、それも思考の産物だ。
よく、臨死体験をした人の死後の世界の話がある。
もちろん、死んでいないからこの世にいるのだ。
つまり、臨死体験というのは、医学的な死、科学的な死、つまり、文化的な死であって、生物的な死ではないのだ。
では、切り口やストーリーとは、一体何なんだ?
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武禅一の行・受講者の感想
0,1mmの誤差が出るから、この製品は駄目だとメーカーにクレームを付けた。
懇意にしている宮大工さんの話だ。
それは大工道具の差し金で測れないからだそうだ。
そんな精密な仕事が宮大工と呼ばれる人の手技だ。
年に3,4回身体のメンテナンスに来てくれる。
その身体を触る私は、もしかしたら宮大工さんよりも精密かもしれないと思う。
筋肉、筋、健、体液等々、具体的には分からないが、手が違和感のあるところを探り出す(明鏡塾で教える「触れる」だ)。
今回は、足元がおぼつかない状態で来られた。
先程のクレームの話や、会っていなかった時間のエピソードを話してくれる。
「ああ〜、ここへ来て話を聴いて貰ったら、それだけで回復する」とおっしゃる。
お互いに70歳を超えているのだから、注意しましょう、てな言葉をかけるが、お互いにそんなことは微塵も思っていない。
宮大工さんのおっしゃる「ここに来て」は、重要なところだ。
「ここ」とはどこか?
もちろん、この場合は私の道場だ。
しかし、「道場」という箱の事ではない。
私の意識が充満した空間ということだ。
箱はそれぞれの人の意識が充満して、固有の家になる。
だから居心地の悪い家も場所もあるのだ。
この「居心地」という感覚も大事だ。
危機管理能力の一つだからだ。
そしてAIには感じ取れない異質の世界だ。
そんな感覚が備わっていれば、箱も居心地の良いもになる。
宮大工さんは、顔色もよくなりしっかりとした足取りで帰っていった。
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武禅一の行・受講者の感想
間違いなく世界はAIの方向に進んでいる。
便利になると同時に不便になる。
また、同時に人の何かが退化していく。
一番顕著なのが会話だろう。
肉声の持つ「生」を感じ取れなくなる事だし、生を生きられなくなる。
文字通りサイボーグ化されていくのだろうと感じる。
そんなロボット化された人もどきが、生きていても意味も価値も無いだろうと思う。
つまり、人類は、人として滅亡する方向に加速度的に進んでいるのだろうという事だし、それを我々人類が望んでいることだからだ。
人生は、山あり谷ありだと認識できる感性も、良い事も悪い事もひっくるめて人生だと思える感性も、喜びも怒りも感動も消えてしまった人間は人間だろうか。
そんなことがふと頭をよぎった。
「明鏡塾」を終え、懇親会でブラックジョークで大爆笑をする。
その笑顔を見る事で、その人のこころの模様が見えてくる。
そんな、人の微妙なニュアンスが生、つまり、生きている人の特徴だ。
他愛もないこと。
そこに人生がある。
「人」「生」だ。
お昼前からスタジオに入り、綿密な打ち合わせをした。
何しろ、全く知らない分野(現在のヒット曲)だからだ。
しかし、私が知るスタジオから比べると、機材の発達が果てしなく感じる。
2トラック2チャンネルという時代から、隔世の感がある。
全てPCでキーボード操作だけで出来てしまう。
唸るばかりだ。
何度か元音を流してもらい、「ああだこうだ、ああでもない、こうでもない」と、アイディアや意見を出し合う。
主役は映像だから、それに対して「これで、その映像は引き立つのか」を考える。
映像編集の人も立ち合い、音が流れる部分の映像の説明をうけながらの作業だ。
「一寸、俺流でやってみるわ」と1テイク録った。
それは、全員が喜んだ。
でも、見る観客は喜ぶかどうかは別だ。
どんなことにしても「共同作業」は楽しい。
「仲良く」とはこういうことだ。
何かしらの役割を果たせる人同士でなければ仲良くは無い。
仲良くする必要も、必然もないからだ。
もちろん、喧嘩をする必要も、無視する必要もなく、単に知り合い、それだけだしそれで良いのだ。
園児の頃から「皆仲良く」と押し付けられたら、感性も壊れるだろうに。