ヨーロッパから嬉しい便りが届いた。
来年の話だ。
実は2年前にオファーがあり、日程を決めようという段階でコロナが騒ぎ出し、据え置き状態になっていたものだ。
オランダが世界に誇るダンスカンパニーで、コンテンポラリーの世界では一番の、NDT1への指導が2月末からと決まったのだ。
私の身体へのアプローチが、フォーサイス・カンパニーに続き、NDTという最高峰のダンスカンパニーが導入するのだ。
これ程嬉しい事は無い。
異文化の人達に、日本的発想の「身体」に活路を求めたのだ。
フォーサイス・カンパニーに2005年初めて指導に行った時、フォーサイスが私のメソッドを「高級すぎて、他のカンパニーでは無理だ」と言っていたが、同時に私の理論を内密扱いにするように、ダンサー達に指示を出していたそうだ。
それは、後日ダンサー達から聞いて知り、「俺は秘密兵器?」と大笑いしたものだ。
今回のNDTへの指導は、フォーサイス・カンパニーが私から受けた影響を知っているので、そこに対してのオファーだ。
何れにしても、最高峰の人達が、私の理論でどれだけ伸びるのかを試しい。
来年が楽しみだ。
お昼前から、ダンスのレッスン。
日差しは「夏」。
舞台で大事な事を習ったのか?あるいは、気付いてレッスンをしたのか?等々を質問する。
海外も含めて、全くレッスンに入っていないのが、「止まる」「動く」という事の関係性だ。
もちろん、武道では必須の「一緒に動く」も、ダンスには大事だが、「そのように」はあっても「それ」はない。
私の身体が後何年動くのかは知らないが、20年という事はないだろう。
それまでにマスターしてくれるのかな?
説明すると、その重要性は理解しているのだから、出来そうなものなのだが。
明日からワークショップだ。
もちろん、コロナだから受講者も制限して少ない。
だから、集中して出来るチャンスだ。
常連の人達の進化、初受講の人達の心の扉が開けば嬉しい。
自意識が薄れる程に身体や身体の動きが際立って来る。
また、身体そのものが「一つ」になる。
この事に気づいたことが、例えば、シルビー・ギエム他の一流ダンサーの作品の良否が理解できた。
つまり、「なんやこれ」と感じた作品の時は、自意識が過度に働いている時で、「涙が出るほど感動した時」は、全く自意識が働いていない時ということだ。
つまり、同じ作品を踊っても、良い時と悪い時があり、それは調子の問題ではなく、自意識の問題なのだ。
もちろん、そのことはダンサーのメソッドの中には無いので、「体調」や「集中力」の問題として捉えられているのだ。
いずれにしても、鶏と卵の問題と同じなのだが、体調や集中力という問題ではなく、一つ下の層の問題だという切り口を持つことで、アプローチの仕方が変わるということだ。
私の武道の稽古の中にある、何気ない一つを掘り下げることで、やっと「自意識」という言葉を使っても良いという段階に入った事がすこぶる嬉しい。
ティルマンは「明鏡止水」という言葉をいたく気に入ったようだ。
それは、彼自身が年に何日か決めて、カナダまで座禅を修養しにいっているからでもある。
観客など、皆んなから見えている外側のダイナミックな動きの中にある、静寂を求めているからだ。
コンタクトの実際を教える為に一緒に動く。
そんな時、彼は私の内部を感じ取ろうとしているのが、彼の身体を通して伝わってくる。
「日野はどうして静かなのだ?」と質問をしてくる。
感情の話、中でも怒りについての質問が多い。
そうなると、武道を体験させるのが手っ取り早い。
武道のクラスに出て、腕力の強い人に相手をしてもらう。
そうすると感情が騒ぎ出す。
「で、どうすれば良いのか」の実際的訓練になるのだ。
彼のように疑問が漲っている場合、その体験で一挙に手掛かりを掴むことが多い。
こんな会話を日本人と交わしたいのだが、未だそういう人とは巡り会えない。
彼と一緒に動くのは、無条件で楽しい。
もちろん、何時も何も決めない、全面即興だ。
今回のワークショップを開いた理由の中に、そんなことも知って欲しかったというのもあった。
言葉で会話をするよりも、身体で語り合う方が、遥かに間違いが少ないし伝わりが早いのだ。
もちろん、その身体でなければ無理な話だが。
どうして無条件で楽しいのかというと、スリリングだからだ。
何がどうなるのかは全く分からない。
もちろん、ティルマンも私がどう切り返すかが分からない。
だから、関係の中に緊張感が自然と漲ってくるのだ。
それが見ている人たちを巻き込んでいく、一つの側面でもある。
ジャズドラムをやっている時、何百回とエンターテイメントのダンスやアクロバットの伴奏をして来た。
その人達の正確さに、最初は驚いたものだ。
譜面通りに何もかもが進行し、その中でもドラムの果たす役割は大きい。
どんな場合でも、キッカケを作るのはドラムのアクセントか、あるいはテンポチェンジかだった。
そんな体験が、主役をどうすれば引き立たせる事ができるのか、という事を考えるようになり、それが身体に染み付いてしまっているのだ。
もちろん、コンボスタイルの小編成のバンドでも、フルバンドでも同じだ。
その意味で、脇役ほど楽しい役割は無い事を知った。
主役を生かすも殺すも脇役次第だからだ。
そういった役割をやり切る事が、ギャラが上がる事だし、レベルの高いバンドのオーディションも受けられることに繋がっていった。
もちろん、そんな話を現代の人に話しても仕方がないことだ。
そんな世界など、消滅してしまったからだ。
そう考えると、その時代、その時代で、培われる事があり、それはその時代にしかないものだから、徹底的に獲得しなければ面白くない。
その体験は、ティルマンへの指導や、舞台での組んだ人たちとの関係を教えるのに役に立っている。
私が体験した事は、言葉としては「主役を際立たせるには」ということになるのだが、その為にはどうするか、という点は、机の上で学ぶ事ができない事だ。
本当にそうなのか、が実証できないからだ。
明日から、コンテンポラリー・ダンスのワークショップとなる。
今日までのティルマンに教えた事を、一つ残らずみんなに紹介する予定だ。
もちろん、受け取れるのかどうかは、私には分からない。
あなた次第だ。
今日は、疲れが溜まって来たので、午後から始めた。
Tilmanも時差ボケがあるので、身体を休めながらするのが一番効率的なのだ。
日本からヨーロッパへの場合の時差ボケは、相当楽だ。
しかし、逆のヨーロッパから日本への場合は、時間がかかる。
もちろん、そうでない人もいるだろうが、私の場合は何時もこの調子だ。
今日は、「空間を作る」という事をテーマにした。
これは、Tilmanが最も知りたかった事の一つだ。
まずは床を本当に感じなければ出来ないから、そこからスタートした。
大分以前に、ダンス評で、あるダンサーは「床を感じていた」というのが有り、その写真があったが、その批評家は一体何を見ているのか、と思わせるダンサーの姿だった。
もし、床を感じ取れていたら、たったそれだけのことで、本当に見えている姿は変わるのだ。
それと、空間を感じることで、意識の膨張が起こる。
それを相互に感じ取ることで、本当のコンタクトが目の前に現れるのだ。
「どうしてこんな事を知らないのか?」とTilmanに尋ねると、「動きだけになっているから、しかも、どんどん身体を分解し、人から離れていっている」といっていた。
今回は、ポルトガルに留学しているダンサーが、ダンスの補助で来てくれているのと、通訳としてダンサーがもう一人来てくれている。
その二人を相手に、コンタクトを体感しながらダンスを作っていく姿は実に美しかった。
Tilmanとの話は面白い。
芸術の話、特にダンスになると面白い。
完全に行き詰まっているからだ。
それは、彼との約10年前の出会いからそうだったろう。
ただ、その頃は彼も若く、「動く」ということが、周りから認められていたことが原因だ。
しかし、そこに私が現れ、私の動きから「違う質」を見出した。
これは、当時のフォーサイスカンパニーの面々全員だ。
その頃は、皆んな若かった。
だから、深く考える事や、自身で壁を見出せなかったのだ。
そこからいち早く、私のメソッドが重要だと気づいたのはmartheだ。
そしてamy。
その後が今回来日しているTilmanだ。
西洋の文化としてのダンスなのだが、それ自体に取り組み方が間違っているから行き詰まっている。そのことに気づいたということだ。
これは相当深い内容を持っている。
その意味で昨日の「言葉」や理論の話と結びつくのだ。
より本質的なこと。
であれば、それは文化も国境も超えるということだ。
もちろん、深く問題を掘り下げられる人にとってはだが。
Timanが昨日日本に到着、今日は軽く打ち合わせをした。
軽くのつもりが、話はどんどん深く進行した。
言葉の違い、意味の違い、それらを含めた文化の違い等々。
だから、お互いにどう理解し合うのか、あるいは、相互理解は無理なのか。
そんな話で、あっという間に2時間経過した。
「理解し合う」ということなど必要ではない。
その言葉を使うと、何か言葉としての共通項や意味が必要になる。
Tilmanが素晴らしい話をした。
英語は「私」「あなた」という具合に全てを分解し、バラバラにする。そういう文化だから、日野のいう「感じる」などの深い状態や、本当の意味での関係や関係性などに辿り着かないと。
通訳に立ち会ってくれていた小倉さんに「ね、彼は素晴らしいでしょう」と顔を合わせた。
明日から、Tilmanの個人レッスンを始める。
一杯、お土産を持って帰って欲しいものだ。