どうしても話の通じない人はいる。
多くの人は体験していることだろう。
そんな時、私はレベルの問題だろうと片付けていた。
つまり、レベルが同じになれば通じるだろう、という楽観的な見方をしていたのだ。
しかし、話の通じない人を沢山知っていくと、レベルではないことを気付かされる。
それこそ、歩いている道が違うのだ。
もちろん、全ての人はそれぞれに違うから、道は違って当たり前だ。
しかし、違う道でも何かしら好奇心が共通することがあったり、思考レベルが共通していたりすると話は通じる。
そういった事もなく、全く話が通じない人はいるのだ。
しかし、とはいうものの話の通じない人でも、日常生活というか社会生活は送っている。
もちろん、この視点は私の視点だから、向こうからすれば私が話しの通じない人なのだ。
もちろん、話は通じなくても良い。
通じなくても共に笑い会える事があれば良い。
だから、通じない人と、無理やり通じ会える必要もない。
ただ、私の周りに来るから、話が通じる人だと私が勝手に思っているだけ、つまり、私の持つ固定観念なのだ。
昨日は「明鏡塾8期」5回目の講座だった。
懇親会で、「言い慣れ、言われ慣れ」の話になった。
場所を提供してくれている内科医の原田先生も、いつものように同席されていた。
で、会話の話になった。
原田先生の育った地域や私の育った地域、この席にはおられないが、研修を重ねている特養の常務の育った地域は、共に下町でざっくばらんな気風だ。
だから、会話は子供の頃から無意識的に育っている。
よく考えると、会話というレッテルではなく、「その人との関係の中で」、での言葉使いだ。
それが達者でなければ、子供の世界では居場所は無い。
必然的に、どんな会話でも、つまり、年上の人や年下の人達入り混じっての会話でも、感情的になりながらも、すり抜けていく術を身に付けて行くのだ。
当然、力関係も見抜くので、まず無茶苦茶になることはない。
そんな話で盛り上がっていると、若手の理学療法士も入ってきて、「僕は子供の頃、着ているTシャツが気に入らないと、先輩に殴られた事がある」というので、全員大笑いした。
そのことで、彼はややこしそうな奴には気をつけなければ、と人を見分けられるようになったという。
何か、つまり、自分がリスクを追わなければ、本気にはならないのだ。
本気になるから、能力が開花するのであって、知識からは、この種類の能力は開花することはないのだ。
結局のところ、多くの人は言い慣れ(話慣れ)、言われなれ(聞き慣れ)の体感が少なすぎるから、いざという時に声もかけられないのだ。
子供同士の会話は、幅が広すぎる程広い。
話題が飛躍もするし、もつれて感情的にもなる。
しかし、それはその事自体、全体がコミュニケーションだからだ。
言い合いになったところで、直ぐに元に戻るし、そのことを根に持つことはない。
だから、その中で自然と培われるものがある。
つまり、会話のあり方やコミュニケーションと看板が付いたものではない要素だ。
ここが一番大事な関係性の肝になるのだ。
その幅の中で感情的になることから遠ざかっている人は、汚い言葉を大声で言うと、怒鳴っている、あるいは怒っているとなる。
いわば、ここに育った地域文化の違いがあるということだ。
職場という現場で、誰かが些細な間違いをしていたとする。
それをたまたまでも見付けたら「あっ、それ違うで、こうしたらええで」と一声かけるだけで、大きなミスを回避できる。
しかし、それを言わない。
意図的に言わないのか、人を非難しているように思われると思っているのか、あるいは、自分自身がそう思っているのか。
いずれにしても、それらの思いはどうでもよい。
その現場で、同僚が間違いかけている、あるいは間違っていたら「違うで」ですむ話だ。
叱るも怒るもない。
ただの会話で済むのだ。
ただ、言い慣れ言われ慣れしていなかったら、その事が特別な事になり、それこそ非難された、パワハラではないか、という馬鹿げた自体を引き起こすのだ。
こんなことを考えてみる。
それこそ人間研修場だ。
何かしらの利益を目的とした会社を作り、そこで関係を実習させるのだ。
大事なのはセミナーや講義を聴くことではなく、何かしらの実践でなければならないところだ。