今日は、縁があって地歌舞の家元と食事をした。
地歌と言う言葉は、母の口から良くきいていた。
「地歌舞は難しいで」というような話だった。
地歌舞というのは、地元の舞という意味だそうだ。
関西が発祥で、お弟子さんが関東に持ち込み、関西と関東を区別する為に、地歌舞の「歌」を関西「唄」を関東にしたそうだ。
京舞の吉村流の話も興味深かった。
伝統芸能の本筋の方の話は、まず巷の情報には出て無い事ばかりなので、唸ってしまった。
会話の中で、一寸した所作が当たり前の事だが美しく力強いかった。
当然、意志も私に向かって来る。
舞の話の中での所作は、まるで武道家の視線だった事に驚いた。
関西の方なので、大阪弁のニュアンスが出るので、お話がどんどん進んだ。
気付いたら3時間。
神田道場に見学に来られるとのこと。
どんな反応をしてくれるか楽しみである。
今日は、久しぶりに大阪で文楽をみた。
久しぶりなのは、人間国宝が4人も勢ぞろいしていた時期に見たのが最後だ。
ホールで弁当を食べる人、お菓子を頬張るおばちゃん。
よく見ていると、そんなお客さんは大衆演劇のファンの人に多い。
だから、何だかホッとする。
それだけ文楽が根付いている、ということだからだ。
お目当ての大夫が出ると掛け声が飛ぶ。
「ええやんけ!」だ。
そういえば、以前見た時はもっと舞台が良く見えた。
これは、ほんとに目が悪くなった、と突き付けられた感じがした。
も一つそういえば、外国の人が増えている。
文楽に興味を持っている人が増えているのだ。
その内、外国の人が黒子の一人なったり、義太夫を語る人が出てくるのかもしれない。
熱心な人は、驚くほど熱心なのかが外国の人だからだ。
前にも紹介したが、蹴りの足で、指の固め方をフランスで教えた。
1年もすると「これで良いですか」と見せてくれた。
もちろん、完璧だった。
日本でも当然教えてはいるが、出来た人を見たことは無い。
形の有る事に挑戦するのは、外国の人の方が優れているのではないかと思ってしまう。
中身になると、難しい。
とは言っても日本人にも難しいのだから仕方がない。
それは文楽とて同じだ。
黒子という事での意識の有り様をどこまで追求できるかは、日本という特殊性を身体に宿せなければ、考える事は出来ない。
そんな事を想像させてくれた、今日の舞台だった。
昨日は、ソロコンサートの会場セッティングの打ち合わせだった。
席数確保と、どう見せるかのせめぎ合いだ。
こんな調子で、どんどん当日に向かって走っていく。
そして当日、公演が終われば全ては消え、記憶の中の産物になる。
この盛り上がり曲線と日常に戻るギャップ感が面白い。
全てが消えるというのが、何とも言えなく好きだ。
「何も無かった」かのように、日常に視点が移る。
ドラマーを職業として数々のイベントやコンサート、キャバレーやナイトクラブにホテルで演奏をしてきたが、そこには何も残っていないのが良い。
それこそ、レコードも映像も何も残っていない。
写真はほんの数枚あるだろうか。
そんな状態を私は好きなのだろうと思う。
私を知る人にだけ、記憶の片隅に残っているかもしれない。
それこそ、社会一般的な価値観としての、地位や名誉や経済的成功など一切縁のない世界だ。
私の痕跡の「全てが消える」。
しかし、それは日々同じだし、刻一刻一刻と同じだ。
よく言われる比喩に、新幹線の車窓から見る景色のように、目に見えない速さで全ては消えていくのだ。
「消えてしまう・無くなる」現実や未来に対して全力で向かう。
その果てしない虚しさを全身全霊で体感する。
体感されている瞬間だけが「実」だと、私は生きている。
そんな感じがする。
もちろん、だからどうなんだ?は無い。
そんな感じで70年来た、それだけだ。
来年のコンサート。その瞬間の実感に向けてスパートだ。
「どんな時間を創ろうか」となった時、大方は「コンセプト」などの話になる。
もちろん、自分の中で、あるいは他人に対する表現としての「コンセプト」は大事だ。
特に現代は「理解の時代」で、頭でっかちの人が多いから、このコンセプトは、という考え方は大事だ。
しかし、その事と実際の演奏や舞台展開は、全く別物なのだ。
ここをよく分かっていない人が多すぎる。
ジャズ現役の時には、評論家と称する人達が、私達の演奏を聞きやたら小難しくまとめた評価を書いていた。
その人達にとって、音は自分の小難しさを引き出す為の材料に過ぎないのだと、その時知った。
つまり、低いレベルの自己満足に過ぎないのだ。
そう言った評論家達の影響で、フリージャズは小難しいものとなってしまった。
それこそコンセプトは〇〇という具合だ。
その後ダンスの世界を覗いた時も、このコンセプトなる言葉の多さに驚いた。
それと自分が舞台で見せているダンスと、どんな関係があるというのだ。
コンセプトを明確にすれば、舞台やダンスが良くなる、つまり、身体の動きの質が変わるとでも思っているのだろうか。
そんな事を、その時期、徹底的に突っ込んだ。
「一体、舞台で何を見せたかったのか?」そんな質問を繰り返した。
答えは決まって「私達のコンセプトは」となる。
「そんなことはどうでも良いよ、それより、どうしてそんな幼稚な動きで、幼稚な内容なのか、もしかしたら自分のやっている事が、自分のコンセプトと合致しているとでも思っているのか?」
2年前にも書いたが、フィンランドで演劇の公演をした。
演目が終わりアフタートークの時、観客から同じ事を質問された。
「この演劇のコンセプトは何ですか?」私はすかさず「あなたは、どう捉えましたか?」と質問し返すと、その観客は感想や意見などを混ぜて語ってくれた。
「その通りです」私は笑いながら答えた。
作品は提示された時点で、観客に委ねるしかないのだ。
どう捉えるか観客の自由だ。
という視点を持って作品を作っているのか、だ。
それは誰のどんな意見があろうが事実だ。
「どういう時間を創り出すか」というのは、実際的な時間軸の話だ。
これらの話は、企業でいうと「企業理念」と、実際の仕事との向き合い方の話だ。
高原伸子さん、元ノイズムのダンサーだ。
今日は、小さなサロンで公演があった。
妻と二人を招待してくれていた。
顔を出すと、ノイズムで指導する勇気くん始め、知った顔が何人もいた。
この公演は、高原さんの作・演出・出演という、大変な労力を使うものだった。
それに比例して、高原さんの頬はこけていた。
終演後、作品の作り方、ダイナミズムの出し方等々話し込んだ。
とはいっても皆のお目当ては高原さんなので、年明けに飲むことを約束して退散した。
フィンランド公演の打ち上げもすんでいないから、それも兼ねることになる。
「どうでした?」と聞かれても、答えは無い。
私としてはどうか、という答えはあるが、私としては「高原さんはどうしたかったのか?」を知りたいのだ。
つまり、作った人、踊った人の意図と、実際に舞台で展開されたこととの整合性を問いたいからだ。
それは、こういった公演ということではなく、誰にでも共通することだからだ。
どういう意図があって、そうしたのか、で、そうなったのか。
そこに溝は有るのか無いのかだ。
舞台だけで言えば、それは、例えば、話してしまったこと、行動してしまったこと、というのと同じだ。
いずれにしても、それはそれぞれが全力でやっていることだから、そこに良い悪いは無い。
見る側の趣向の問題や、思考の問題だからだ。
あるいは、演者のレベルの問題があるだけだ。