ギックリ腰をする事で得た教訓は、「絶対に止まるな」だ。
ドラムの時も、そのまま仕事を続けたし、身体を駆使しなければならないような動きを要求される舞台でも穴を空けた事がない。
それは「プロ根性」とでもいうべきこころが定まっているから、そちらを優先するからだ。
もちろん、動く時はサラシで腰を固定したり、自転車のチューブで補助をしている。
そうすると、結果として治りが早い事に気付いたのだ。
「痛い、痛い」と寝ていると、痛い箇所に注意が行き、余計に痛いと気付いたからだ。
「人もサメと一緒で、止まったら死ぬで」と言う。
正しい治療法は、きっと無い筈だ。
それは人によって全く違うからでもある。
だから、〇〇の整体では治ったが▽の整体では治らなかった。
だから▽は藪だ。
と、まことしやかに噂は流れるのだ。
人は違うし、治療も人によって違うのだ。
そんな事も、このギックリ腰は教えてくれたのだ。
20代に入った直後、いわゆるギックリ腰になった事があった。
丁度今頃だったと思う。
有名なラテンコーラスバンドに所属していた。
この時期クリスマスの催しが多く、そんなイベントの目玉として仕事が沢山あった。
仕事が終わり、ドラムを片付けようとかがんだ時、「ウッ」身体を動かせなくなったのだ。
これには焦った。
次の仕事が待っているからだ。
バンドの仲間も手伝ってくれて、無事次の仕事には間に合った。
動けないから、肩をかしてもらいステージに上がり、ドラムに辿り着く。
演奏には支障が無かったので、演奏が終わるとまた肩をかりて降りる。
そんな体験がある。
それから、3階の階段を滑り落ちむち打ちにもなっている。
という身体の故障を抱えているから、常に動きには注意をしている。
しかし、72歳にもなれば、疲れるという状態が起こる。
そうなると、注意も細心にしないと「おかしい」という兆候が表れる。
「大丈夫かな?」と、一瞬考える事も起こる。
そういった身体だから、身体への発想が違うのかもしれない。
素直な身体、というか、素直な運動能力というのは何だ?
息子には、小学生の頃から武道を教えていた。
ややこしい手順や、相手との関係で動かす手の時は、後ろに回り私が息子の手を持って教えた。
息子は、腕に力を入れず私の動かすママに動いていた。
だからかどうかは断言できないが、大人が首を傾げる難しい動きでも出来るようになるのが早かった。
畑違いのダンスで、素直な動きが出来る若いダンサーがいた。
当時は学生だ。
プロのダンサー達よりも、遥かに自由で伸び伸びと動いていたので驚いたものだ。
こういった人達は、それが出来ない人達と何が違うのだろう。
そんな事を何時も考える。
特殊なことであれば別だが、武道の動きでもダンスでも、アクロバティックなものでなければ、そうそう難しい動きはない。
もちろん、中身は難しいが。
一つ言えるとしたら、変な思考回路を持っているからだろう。
その「変な」というのは、自意識の異常発達だろうと思う。
それが邪魔をして、「そのもの」を考えるのではなく、「自分自身」に焦点を当ててしまうからだ。
だから、身体の動きそのものが余りにもぎこちないのだ。
取り組んでいる「そのもの」を考えられなければ、一体何が出来るようになるのか。
自分を成長させる鍵を、みすみす見逃している事になるのだが。
道場での稽古を見ていると「人」そのものの勉強になる。
「なるほど」が沢山転がっているからだ。
例えば、動作を行う時「1.2.3.4」というカウントの癖が強固についている人は、どれだけ流れるような動きを要求しても出来ない。
流れるようではあるが、そこに「1.2.3.4」が見え、結局出来ない。
これは以前、フォーサイスカンパニーでワークショップをやっている時に知ったことだ。
世界屈指のダンサーの集団だが、カウントが取れない動きに対応できなかったのだ。
私が単純な動きを見せても、全員が途方にくれた状態になった。
それに私は心底驚き「どうして?皆ダンサーだろう?しかも超一流の」というと笑うばかりだった。
その時は、さほど気にも留めていなかったのだが、道場でそのことに注意して皆の動きを見ていると「1.2.3.4」で鍛えられて来た人は流れない。
いくらその事を理解出来ても、身体に対しての指示の出し方が分からないから、その場しのぎ的には出来た風にはなるが、根本的には出来ない。
もちろん、「1.2.3.4」という考え方と、「動作の全てが1」という考え方は全く相容れないものだからだ。
大きくは「癖」という性質、それを克服する為には、という事を考える、私にとっては良い手本になっているのだ。
自分は「今何をしているのか?」どんな事にでも重要な事だ。
日常なら、どれほど曖昧でも自動的に時間は流れていく。
つまり、習慣が全てを熟してくれるからだ。
そして、そこに厳密性を求められることは無い。
大きくは、例えば、食事の用意、掃除、入浴、とにかくあらゆる所作や行為は、その習慣がやっている。
そういった無意識的な所作や行為が自分自身の日常を消化しているのだ。
つまり、「今、何をしている?」という問いには、「いや、食事の用意をしていますけど、何か?」と答えるしかないし、それは間違いではない。
しかし、身体をどう動かしてなにをしているのか?の答えにはなっていない。
それが自分自身だ。
だから、武道の稽古でもワークショップでも、明鏡塾であっても、その自分自身は何ら変わることは無い。
だからこそ、意識的な行為を徹底し、しかも、そこに客観性を持ち込まなければ、成長させるものが見えて来ない。
その為に、動画や写真を多用するのだ。
自分の姿を見て愕然としなければ成長は無い。
しかし、もちろん、愕然としても成長は無い。
「だから、どうするのだ」があり、「何をどうする」という実際が始まるのだ。
段階的に稽古。
徐々に難度を高くすることなのだが、本来は個人が考えるべきことだ。
それは、何かしらの稽古は、その個人が興味を持ちそれを実現、あるいは取り組みたいと思ったものだからだ。
しかし、取り組みたいと思っても、また実現したいと思っても「段階的に」を考えつかない。
となると、稽古で気付いていくしかない。
道場では、年に数回集中稽古という時間を持つ。
日頃は2時間くらいの稽古だから、本質を探る事もできない。
稽古をする人が、一日中武道に時間を費やせるのであれば問題ないのだが、そんな条件を持ち合わせている人はまずいない。
そうなると、段階を示すことで、それを全てに応用できるようにするしかない。
「連動」は、身体操作の中では基本であり、全部の動作に共通させられる要素だ。
この連動を一日中やればどうなるか。
運動としては、大方の人は相当高度な力の出し方まで出来るようになる。
そういう状態を見ると、「時間=量」がいかに必要か、段階的稽古がいかに必要かを実感する。
今日は朝から後楽園まで往復歩いてみた。
それは、一昨日まで傾斜角度30度程のところで屋根修理をし、足腰の使い方が偏っていたからだ。
やはり歩き出すと、右足ふくらはぎ上部に違和感を感じた。
痛みだ。
膝を放り出す。
足裏に乗る体重の移動を体感するということに集中して歩いた。
足の裏の感覚は大事だ。
30分も歩くと、元通りに戻っていた。
歩いていて面白いのは、上り坂が苦にならないことだ。
もちろん、階段も同様だ。
それは姿勢と体重移動がスムーズに行っているからだ。
しかし、調子に乗り過ぎると心臓がパンクしてくる。
身体運動と心臓がリンクしていないからだ。
それは、歩くことで徐々に馴染むだろう。