この頃、東京の稽古で連関部位の精密化を稽古している。
例えば、定番の胸骨と肘という具合だ。
それを動きを伴った形ですると、それは「身体から力を出す」になる。
結局、そういった身体の連関だとか連動は「身体から力を出す」であり「有機的で美しい動き」そのものだ。
つまり、その為の「身体の体系(システム)」だということだ。
一度、何に対して有効かをまとめてみよう。
それこそ、一本釣りの漁師さんに教えたように。
「全体を捉えて」という全体とは何を指しているのか?
例えば、武道の技だとすると、その技の全容なのか?
技として切り取った型全体なのか?
型を生み出した考え方なのか?
型を生み出す切っ掛けとなった感性なのか?
と考える。
しかし、構造的に言えば、その技の中の一つの動作を全体だと考える必要もある。
それを全体として動作一つの構造を考える。
そうすると、その次の動作を先程の構造の一部として捉える事で、連関性が生まれる。
という組み立ても必要だ。
つまり、机上では色々な展開は出来るが、実際はたった一つの動作をするには、組み立てが必要だという事だ。
もちろん、それは「流れ」や「相手との関係」を成立させる為のものだ。
身体は神経を通して繋がっている。
また腱や筋を通して連関している。
が、しかし、実際に繋げるのは意識だ。
意識の指示によって身体は、どこまでも繋がる。
そうなると、運動生理学や解剖図が見せる通りではなくなる。
また、運動論というものも通用しなくなる。
実は、ここが「人間身体」と「解剖された身体」との分かれ道だ。
解剖された身体から物事を考えた時代に、抜け落ちていたもの、そして今日でも抜け落ちているもの、それは「意識の働き」だ。
きっと、目に見えないから、それこそ陽の目を見ないのだろう。
そこが視点の貧困であり、「自分という身体」をそれこそ分析しないからだ。
解剖された身体からの時代であっても、解剖したのは間違いなく人だ。
その人には感情もあれば意識もある。
どうしてそこを抜かしたのか。
自分の事、人の事を棚に上げたのだ。
馬鹿もここまでくると、開いた口が塞がらない。
東京ワークショップ6月4.5.6日
申し込み開始しました。
ギックリ腰をする事で得た教訓は、「絶対に止まるな」だ。
ドラムの時も、そのまま仕事を続けたし、身体を駆使しなければならないような動きを要求される舞台でも穴を空けた事がない。
それは「プロ根性」とでもいうべきこころが定まっているから、そちらを優先するからだ。
もちろん、動く時はサラシで腰を固定したり、自転車のチューブで補助をしている。
そうすると、結果として治りが早い事に気付いたのだ。
「痛い、痛い」と寝ていると、痛い箇所に注意が行き、余計に痛いと気付いたからだ。
「人もサメと一緒で、止まったら死ぬで」と言う。
正しい治療法は、きっと無い筈だ。
それは人によって全く違うからでもある。
だから、〇〇の整体では治ったが▽の整体では治らなかった。
だから▽は藪だ。
と、まことしやかに噂は流れるのだ。
人は違うし、治療も人によって違うのだ。
そんな事も、このギックリ腰は教えてくれたのだ。
20代に入った直後、いわゆるギックリ腰になった事があった。
丁度今頃だったと思う。
有名なラテンコーラスバンドに所属していた。
この時期クリスマスの催しが多く、そんなイベントの目玉として仕事が沢山あった。
仕事が終わり、ドラムを片付けようとかがんだ時、「ウッ」身体を動かせなくなったのだ。
これには焦った。
次の仕事が待っているからだ。
バンドの仲間も手伝ってくれて、無事次の仕事には間に合った。
動けないから、肩をかしてもらいステージに上がり、ドラムに辿り着く。
演奏には支障が無かったので、演奏が終わるとまた肩をかりて降りる。
そんな体験がある。
それから、3階の階段を滑り落ちむち打ちにもなっている。
という身体の故障を抱えているから、常に動きには注意をしている。
しかし、72歳にもなれば、疲れるという状態が起こる。
そうなると、注意も細心にしないと「おかしい」という兆候が表れる。
「大丈夫かな?」と、一瞬考える事も起こる。
そういった身体だから、身体への発想が違うのかもしれない。
素直な身体、というか、素直な運動能力というのは何だ?
息子には、小学生の頃から武道を教えていた。
ややこしい手順や、相手との関係で動かす手の時は、後ろに回り私が息子の手を持って教えた。
息子は、腕に力を入れず私の動かすママに動いていた。
だからかどうかは断言できないが、大人が首を傾げる難しい動きでも出来るようになるのが早かった。
畑違いのダンスで、素直な動きが出来る若いダンサーがいた。
当時は学生だ。
プロのダンサー達よりも、遥かに自由で伸び伸びと動いていたので驚いたものだ。
こういった人達は、それが出来ない人達と何が違うのだろう。
そんな事を何時も考える。
特殊なことであれば別だが、武道の動きでもダンスでも、アクロバティックなものでなければ、そうそう難しい動きはない。
もちろん、中身は難しいが。
一つ言えるとしたら、変な思考回路を持っているからだろう。
その「変な」というのは、自意識の異常発達だろうと思う。
それが邪魔をして、「そのもの」を考えるのではなく、「自分自身」に焦点を当ててしまうからだ。
だから、身体の動きそのものが余りにもぎこちないのだ。
取り組んでいる「そのもの」を考えられなければ、一体何が出来るようになるのか。
自分を成長させる鍵を、みすみす見逃している事になるのだが。
道場での稽古を見ていると「人」そのものの勉強になる。
「なるほど」が沢山転がっているからだ。
例えば、動作を行う時「1.2.3.4」というカウントの癖が強固についている人は、どれだけ流れるような動きを要求しても出来ない。
流れるようではあるが、そこに「1.2.3.4」が見え、結局出来ない。
これは以前、フォーサイスカンパニーでワークショップをやっている時に知ったことだ。
世界屈指のダンサーの集団だが、カウントが取れない動きに対応できなかったのだ。
私が単純な動きを見せても、全員が途方にくれた状態になった。
それに私は心底驚き「どうして?皆ダンサーだろう?しかも超一流の」というと笑うばかりだった。
その時は、さほど気にも留めていなかったのだが、道場でそのことに注意して皆の動きを見ていると「1.2.3.4」で鍛えられて来た人は流れない。
いくらその事を理解出来ても、身体に対しての指示の出し方が分からないから、その場しのぎ的には出来た風にはなるが、根本的には出来ない。
もちろん、「1.2.3.4」という考え方と、「動作の全てが1」という考え方は全く相容れないものだからだ。
大きくは「癖」という性質、それを克服する為には、という事を考える、私にとっては良い手本になっているのだ。