「武禅」で皆が書いたレポートを読み返している。
総枚数180枚だ。
「出来た・出来ない・気付いた」という言葉が並ぶ。
これは素晴らしい事だ。
何しろ、自分自身を振り返った、あるいは、自分自身と曲がりなりにも向き合ったからだ。
しかし、大変なのはここからだ。
出来なかった事に、また、気付いたことに「どう取り組めば良いのか?」という問題が目の前にあるからだ。
しかし、本当のことから言えば、これらの気付きに対して「冷や汗を流したかどうか」そこを経過していれば、「どう取り組めば良いのか」は出て来ない。
つまり、自分自身が方法も気付いていくからだ。
逆にどうして、そう大変なのかというと、従来の自分、「武禅」を受けるまでの自分自身が、自分自身だからだ。
ある言い方をすれば、生活習慣病をどう克服するのか、というようなことだ。
自分自身の考え方の癖、感じ方の癖等々が、自分自身であって、その自分自身を「おかしい!」としたところで、その生活習慣が取り除けることも、修正していくことも出来ないからだ。
だから、ここからが大変だというのだ。
「冷や汗を流しのか」というのは、そこで切羽詰まったのか、本当に自分にとって切実な問題だと気付いたのか、と関わるからだ。
大分以前に「武禅」を受講してくれた方が、今回も受講してくれレポートの中に「初めて武禅に参加した時、先生からの手紙の中に『あなたはお勉強をしに来たのですね。あなたの話は誰も聴いていなかったでしょう』という内容のメッセージに、私はかなりショックだった。と記憶しているが、今朝からの人との関わりの中で、そしてこのセクションでその言葉が蘇って来た。あの頃の自分は、全くその意味を理解していなかったと気付き、同時にずっとその事は避けて、もっと自分の問題点を強固なものにした恐ろしいものになっていた。とても恥ずかしく、周囲の人との関係を無視した夢の中の人だった」
という事を書いていた。
この時点で、冷や汗が溢れ出てくれていたらと願わずにはいられない。
冷や汗は、生活習慣病を一挙に飛び越し、新たな自分を形成する特効薬だからだ。
人が気付き変化、あるいは、成長させるのは、「冷や汗」という特効薬以外にはないのだ。
それが人の仕組みだから仕方がない。
ワークショップは残り5名です。
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それこそ、使用前・使用後ではないが、「武禅」の最後に行後の写真を撮るが、その顔付きがまるで違う。
全員目が鋭く、つまり、精気を帯びているからだ。
生き返ったという感じだ。
その原因は何か?社会的な事だけに視線が向き、自分自身に目が向いていなかったからだ。
生命体としての自分が、息を吹き返し始めたのだ。
何時もながら、全員がお礼を言い合う最後の姿は美しい。
大方の人がそんな「ありがとうございます」を忘れていたのだ。
そこに込められた他人に対する感謝の心は、相互に反応しあって美しく見えるのだ。
「2泊3日、長い様で短かったが、とんでもない体験を出来た事を、大変嬉しく思います」「人と関係することは、とても気持ちの良いものであることを体感した」と感想がある。
共通しているのは「一体感を得た事が不思議だった」と感想を書いていることだ。
世の中の風潮で、大方の人は欠点の指摘は殆ど体験がないのだろう。
だから、指摘が出来ないし、言われたことの受け止めが出来ない。
それは自分自身の姿が、他人からどう見えているのか、自分の行為が他人に不快感を与えているのかを全く知らないということだ。
2泊3日、相互に駄目だしの連続だから、相当疲れる。
でも、単に一人の人から指摘を受けるのではなく、自分を除く全員が同じことを指摘するのだから、「そう見えていたのか」と自覚せざるを得ない。
その時に、では今までの人生では、他人に失礼な態度を取っていた、あるいは、全く自分の話を聞いて貰えていなかった、本気で生きていなかった等々と反省できるのだ。
それこそ、本当の意味での成長の一歩であり、変わる為の本当の入り口なのだ。
「武禅」メインのピラミッドまで、無事通過。
真剣の場だからこその涙あり笑いあり。
心置きなく最後の「関係」そのものの体感を得るワークへと進める。
では、最後の昼食へ。
「人生を快適に過ごす」誰しも思っていることだ。
でも、それが叶わない。
ということで、例えば、人間関係がうまく出来ない、引っ込み思案だから等々、自分で認識している原因を探る。
結果、人間関係を上手にする方法や、引っ込み思案克服セミナーや方法を模索する。
そういった人生関連の本を読むのも方法だ。
しかし、それで叶う人もいるだろうが、殆どは叶わない。
一言でいうと、人生を快適に過ごす為の「方法は無い」のだ。
当たり前だが、人生というレッテルはあるが、その実際は雑多な日々であり、その日々は今回のコロナ騒動が起こったのように、変化に満ちている。
という言葉の如く流動的であり、全てが気分と同様に変化しているのだ。
そして、人生を快適に過ごしたいのは誰だ?
間違いなくその人自身の筈だ。
であれば、その人自身が自分自身の「何か(問題)」に気付かなければ、そしてそれを乗り越えなければ無理なのだ。
また、人それぞれというくらい、自分自身も含めて人は皆違う。
そして、社会と一口でいっても、実は一口のものではない。
社会を構成する企業にしても、それぞれに違う。
その違う人達や社会と、うまく付き合っていくのに方法など作れる筈もない。
そこで考え方を変える事となる。
しかし、これも方法であれば駄目だ。
「そうしたい」という欲求が湧いている事が条件になる。
その「そうしたい」も、自分自身の問題に、自分自身の力で気付く、ということが、そこにある条件だ。
「武禅」は、その自分自身の力で自分自身に気付く事を目的としている行だ。
だから「一の行」と命名しているのだ。
丁度2004年11月にブログで「武禅」の事を書いていた。
「武禅」での正面向かい合いは難しい。
いや、物事と正対するのは難しい。
それはわざわざ正対しなくても過ぎ去ってしまうからだ。
台風が去るのを首を縮めて待っていればいずれ通り過ぎる。
まさにそうしていても、生活することに何の支障もないからだ。
しかし、もしも自分のことを誰かに分かって欲しいと思ったとしたら、自分の話すことを誰かに真剣に聞いて欲しいと思ったら、自分が親で子供に何かを伝えたいと思ったら、上司で部下から信頼を得たいと思ったら、そのことと正対するしか道はない。
決して、巷にあるマニュアル本では解決することはないのだ。
それは、パープーの野郎が、パープーの女が「ご注文は〜だったでしょうか」と訳の分からない日本語を使っているのと同じで、こちらは違和感や不快感そのものしか感じないのだ。
であれば、本当に正対するとはどういうことなのか、が分からなければ前には進めない。
東京の武禅でその糸口になるレポートがあった。
「今日もとことん駄目だしをされて、ようやく駄目な状態であることを少し認識できた。言葉を発する、声を出す、ということの効果がこんなに大きいとは思わなかった。『気持ちを出す』と言われても全く出来ない事を『声を出す』を媒介として多少出来るようになる、手掛かりになること実感した」
とあるように、「声を出す」というのは、重要なキーワードになるのだ。
何故か、それは声は気持ちや意志の表れだからだ。
その気持ちや意志が相手に向かって突き進んだ時、正対の側面が見えてくるのだ。
改めて声を出すのは難しい。
しかし、その声は声楽のような音、オペラ歌手のような発声の音ではない。
そこには「気持ち」というベースが必要なのだ。
音はやかましいだけだ。
何故なら、どこに向かって発しているのかが明確ではないからだ。
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何ら訂正する必要はない事を書いていた。
つまり、時代は流れ変化しても、人間そのものは何ら変わらないということだ。
もし変わるとしたら、劣化側しかない。
「武禅」の再開を何となく伝えたが、もう既に残席10名になってしまった。
「関係」そのものが難しいのではない。
それを分析したり説明する、自分の頭が迷走しているから難しくなるのだ。
本当の意味での関係は、人の思う社会的役割としてのものではない。
それぞれの「個」がそれぞれに自然発生的に関わるものだ。
だから、やけに親しくなるのでもない。
どちらかと言うと、それぞれが完全独立、完全自立した状態での関わりだ。
アマゾンのジャングルで、それぞれの木や草花が、それぞれに生育しているそれだ。
そこにある関係状態が、生命であり生物が遺伝子的に持つものだ。
自分の頭が迷走しているから難しい、ということに「武禅」では気付いていく。
感想文の中に秀逸なものがある「出来ない自分に泣くのではなく、出来ない自分にしてしまった自分自身に泣かないといけない。」と書いたのは、若い青年だ。
こういった高度な、あるいは深い気付きがあるのだ。
もちろん、習うものではない。
それは既に遺伝子に刻み込まれているものだからだ。
あがいて、もがいて気付いていくものだ。
そろそろ11月の「武禅」の準備を始めなければ。
2年の空白があるし、道場を使っていなかったから、大掃除も必要だ。
これは、皆に手伝って貰おうと思っている。
雨漏りが、これまでの修理で収まっていれば良いのだが、こればかりは分からない。
昨日、懇意にしてもらっている原田先生とお茶をした。
コロナの影響で、社会的距離なるものが暗黙の了解になっている。
それは医院であっても同じだ。
原田先生は12年勤めた診療所を先日退職した。
その最後の日、スタッフの人達と最後の挨拶で一人づつ握手をした。
その握手は、それこそ久々の「触れる」だったそうだ。
久々だからこそ「触れる」ことの大切さをしみじみと感じたという。
このコロナは終息しないだろう。
風邪やインフルエンザと同じ質のものだから、当然年がら年中その辺にあるという感じだ。
だから、政府は社会的距離の厳守を言い続けるだろう。
だからこそ、医療従事者にとって患者さんに「触れる」という行為が大切になるのだ。
もちろん、一般の人も同じだ。
しかし、「触れる」と言っても、大方の人の「そのまま」では駄目だ。
それは触れるとは言わない。
違和感を与えているからだ。
「武禅」は、一般の方向けに開発した「対人関係講座」だから、当然、この「触れる」も徹底的に稽古をする。
と書いていると、講座の光景が目に浮かんでくる。
私が待ち遠しくなっている。
「これで良いですか」
武道でもワークショップでも、時々でる質問であり、確認の言葉だ。
「何が?」と答える。
当然、質問した人は、自分のやっていることに対しての助言なり、正解だという答えを求めているのだ。
今年も、フランスから80人ほど武道をやっている人が来た。
私は2日程指導にいった。
そこで「出来ているよ、それで良いよ」と言う。
言われた人全部とは言わないが「うそ〜」という表情をする。
もちろん、単純に喜ぶ人もいる。
そこにある差は何かというと、当たり前のことだが「そんな短時間で出来る筈が無い」と思っている人は「うそ〜」という反応だ。
そして、単純に喜ぶ人は、やっていることに意味も価値、持っていない人だ。
日本で「何が?」と答えると、目を白黒させる。
そうなると、生きている世界の基準が違うとしか言いようが無い。
先生に褒められたいのか、自分は優秀だということを見せたいのか、あるいは、取り組んだテーマが深いということを、判断できているが身体感性が全く育っていないのか。
いずれにしても、自分は何をどうできているのか、あるいは、出来ていないのかを全く分かっていない、知らない、認識していないということだ。
次は夏ギラギラの沖縄ワークショップ
沖縄ワークショップ8月10.11.12日
明日は沖縄へ!!