東日本大震災から2年が経ちました。
劇団では2月2日〜3日に「がんばろう東日本!アート支援助成事業」で宮城県支援公演を「カーリーの青春」で実施しました。企画当初からご協力をしていただいた石巻西高等学校の齋藤校長先生より、公演後に手記を送っていただきました。是非多くの方に読んでいただきたいと思い、ご紹介いたします。
手記
次の手紙は、避難所運営をしていて、自分の心の置き場所が見つからずに苦しんでいた時に書いた私信です。防災教育資料としてふさわしいものであるかどうかわかりませんが、所属する組織の管理職の立場で行動せざるをえない方のために参考になればと思いあえて掲載しました。
3月11日午後2時46分、高校入試業務に追われていました。生徒達は部活動や自習のために登校している者を除くとほとんどが帰宅している状況でした。今にして思えば、授業日にしておけば良かったと悔やんでいます。突然の地震と大きな揺れが学校を襲いました。職員は机の下に身を隠し、グラウンドの生徒達はその場に座り込みました。これまで経験したことのない大きな揺れと長い長い時間でした。揺れがおさまった後に職員をグラウンドに避難させたり、生徒達の安否確認のために校舎内を確認させたりしながら玄関の隣の事務室を対策本部にしました。東松島市役所からの津波警報は聞こえてきたのですが、津波の大きさと到達時間については私の想像をはるかに超えていました。学校周辺の道路の交通量はどんどん増えていき、それを追いかけるように黒い水がひたひたと押し寄せて来て、周辺の田んぼや道路が沼地のように変貌していきました。交通渋滞のため逃げまどう車と浸水してきた車の中から助けを求める人もいました。幸いにも水は校門のところで止まりましたが、学校が安全だとわかるやいなや、悪臭のきついドブ水をかきわけて多くの人達が駆け込んで来ました。ライフラインが途絶えた状況下においては、すべてが想像を絶するものでした。
石巻西高には大勢の避難者が駆け込んで来て、その日の夜から発電機を使っての避難所運営が始まりました。幸運にも学校の食堂のプロパンガスが使えたので、女子職員が懸命に炊き出しを行いながら避難所の飢えをしのぎ、学校の貯水槽に残っていた飲料水で急場をしのぎ、プールの水を発電機で汲んでトイレに利用し、どうにか日常の生活に近い状態を保つように必死でした。すべての人が家族との連絡も途絶えたまま、不安と焦りの中で数日を過ぎしました。後でわかったことですが、京都で暮らす娘は、私が津波に呑まれて死んだとばかり思っていたそうです。周囲の人達から見ると気丈に振る舞っていても、内心は不安でたまらなかったようです。
道路が少し復旧してから家族の安否確認のために一旦は帰宅しましたが、家族の無事を確認するやいなや学校にとんぼ返りし、再び避難所運営の日々が始まりました。長男が仙台新港の近くで車に乗ったまま津波に流されかけ、車を乗り捨ててようやく難を逃れて自衛隊のゴムボートで塩釜まで送ってもらったのを知ったのはその後のことでした。長男が懸命に逃げようとする時に、親の助けを求めながら流されていく子どもの姿を見たと聞いた時は胸の塞がる思いでした。避難所運営の最初の1週間は救援物資のあてがなかったので、食堂内の倉庫に蓄えてあった物資でまかないました。
次の週からは避難所同士で食事班、清掃班、給水班、ゴミ処理班、トイレ班などの役割分担を決め、お互いに助け合いながら効率的に運営しました。避難者は多いときで390人もいました。しかし、何よりつらかったのは、生徒の安否確認中に入ってくる訃報でした。西高では9名の尊い命が奪われました。また、33年前の初任校である飯野川高校の教え子達の訃報や被災情報を耳にすることにもなりました。とりわけ被害の大きかった大川小学校で殉職したひとりの教師は、私の大切な教え子でした。彼女は厳しい指導に最後までついてきて地区チャンピオンにまでなった努力家であり、昨年4月にその長女が西高に入学したことにより、しばらくぶりの再会を喜んでいたところでした。教え子の死がこんなにも受けとめがたく苦しいものだということを改めて実感しました。やがて、本校の体育館が遺体の安置所となり教室が検死所になるということで、言いようのない思いに追い込まれていきました。在校生のひとりが遺体になって体育館に帰ってきた時には、言葉を失い体が震えました。最大で700人近くの遺体が安置されたことにより、報道以上の悲惨さを実感しました。また、食事に向かう通路の右手が安置所で左手が食堂でしたので、避難者がうつむきながら無言で歩く姿を見るたびに、人間とは何か、生きるとは何かと自問自答せずにはいられませんでした。
地震発生当初は、ラジオからの情報が一番の頼りでしたが、日々伝えられる情報の酷さのために眠れない日々が続きました。庁務員室でフトンに入る時、自分の心の置き場所が見つかりませんでした。そんな中で、東名の叔父の訃報が妻から届きました。運命のいたずらなのでしょうか、叔父は私の勤務する西高の体育館に安置されていました。安置番号は205番でした。一番心配をかけた私に会いにきてくれたのだと思います。避難所運営の覚悟が定まったのはその時からでした。避難者を自分の身内だと思う感情が自然とあふれてきました。教師としての使命感を忘れまいとする自分と人道支援者として偽善的であってはならないという自分と人間としてただひたすら真っ直ぐな道を歩もうとする自分の心の底力だけを信じようとしました。
学校は3月11日から4月11日まで臨時休校となり、4月11日を在校生の出校日とし、追悼式と修了式と離任式をまとめて行いました。そして、14日に合格者予備登校日、21日に入学式を行うこととなりましたが、新入生のうち2名が津波の犠牲となり、悲しみの中での呼名となりました。避難所の宿泊運営は教職員の当番制にしたので、時機を見て2日に一度の宿泊から3日に一度の宿泊業務へと編成替えしながら4月23日まで続きましたが、マスコミで報道されるような人間関係のトラブルもなく、学校と避難者との信頼関係が保たれたまま終了しました。5月16日からは震災で校舎が使えなくなった石巻市女商の1年生87名を受け入れての学校運営が始まっています。その後、自宅からの通勤が可能になってから叔父が津波で流された鳴瀬町の東名運河を通ってみました。今ではこの地域が私の主たる通勤経路になっています。また、東名運河沿いの野蒜海岸駅周辺の亀岡という集落は、私が小学校6年生の時に他界した父の郷里でもあります。幼少の時に数回訪れたきりで長い間私の記憶の中から消えていましたが、今回の津波ですべてが消失したことにより、50年以上も前の風景に戻りました。時の流れと自然の脅威がもたらした人生の皮肉とでも言うべきなのでしょうか。私の生まれ故郷は松島湾内の離島の寒風沢というところで、父の郷里の鳴瀬町東名からもよく見えます。考えてみれば、こうして自分の心が折れずに生きていられるのは、大自然の中で育まれた生きる力がたくましく息づいているからだと思います。思い起こせば、50年ほど前の1960年(昭和35年5月24日)のチリ地震津波を経験した時の私は、小学校1年生でした。私の家は浸水し、隣の家は大きく損壊しました。小高い山の上から津波を見下ろした光景は今でも脳裏に焼きついています。その後、1978年(昭和53年6月12日)の宮城県沖地震を経験した時の私は、大学4年生でした。母校の浦戸小学校の後輩がブロック塀の下敷きになりました。それでも、まさか自分の人生でチリ地震津波以上のものはないだろうと思い込んでいました。今回犠牲になった多くの方々も同じだったろうと思います。1時間以内の津波の襲来に対しての心の準備が不足していたのは事実だと思いますが、政治家が「想定外」とか「1000年に一度」と口にするのを耳にするたびに、やり場のない苛立ちと言いようもない憤りを覚えます。今回の震災を通して、多くの被災者が家屋だけでなく土地を奪われることの絶望感と心の原風景がなくなるという喪失感を体験することになりました。生き残った者達は、このまま生きながらえていいのかどうか、座して何もしないでいいのかという後ろめたさまで感じています。人間の傲りに対して与えた自然界の忠告は、「すべてを問い直せ」ということだったのかもしれません。それにしてはあまりにも大きな犠牲を払うことになってしまいました。
ここ数カ月の私は、このまま生きていくべきなのか、もっとがんばらなければならないのかという苦悶の連続でした。時には、もしも死という避けられない現実が突然我が身を襲ったとしても甘んじて受け入れようとまで思いつめる瞬間もありました。しかしながら、多くの子ども達に「未来を生きるタスキ」を渡さなければならないという思いと失われた教え子達への鎮魂の思いが、教師として生きる気力を取り戻させてくれました。今は残された教職員と生徒達を守るために、直面する学校の課題を解決し、犠牲になった教え子達の鎮魂のために、使命感を振り絞っていこうと思っています。石巻西高に赴任してから、人間の運命と教育者の使命をあらためて実感しているこの頃です。
※手記と一緒に、多くの防災資料を送っていただきました。少しずつ、ブログでご紹介していきたいと思っています。