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波、搏動──クラーゲス『リズムの本質』 »
2017/6/13
「『夢去りぬ』 文明観を提示した詩群」
【府川雅明】
詩人井川博年は、市井の人間模様を主要なモチーフとし、珠玉の短編映画のような作品を創作し続けてきた本格的な抒情詩人というのが、定まった評価ではないだろうか。
私はそれを全面的に首肯しようとしたが、しかし、そのようなくくりで済ましてよいのかと自問した。作品に入り込むうちに、私の読みが足らない事に気づいた。井川博年の詩は決してそれだけでは済まないスケール感を蔵していたからだ。
最新詩集の『夢去りぬ』(思潮社)に収められた作品の多くは、自身の過去を振り返ったものであるが、同時に作者のこれまでの七十余年の人生に丸ごとぴったりと密着した日本社会のありさまが、抒情の奔流に従い、圧倒的な実感を伴って、読者の胸に迫って来る。
日本社会は、この期間、「文明」的に垂直進化してきた。現代詩は「文化」への関心と親しく、殊に「欧米文化」との比較対照が詩人に深い影響を与えてきたことは疑いようがないが、「文明」という視点では、どうだったか。
井川は設計士(それもたたきあげの)としての長いキャリアを持っている。建築設計は、まさしく文化と文明両面への視点が欠かせない。その職業的な視線が、作品の中に結晶されている。
父は汽車が好きだった。
一代で船会社を興した父は
明治人らしく新し物好きで
汽車に乗るのが大好きだった。
(中略)
母は飛行機が好きだった。
父と一緒の時は汽車に乗ったが
父が死んだ後は飛行機に乗った。
「好きな乗り物」(『夢去りぬ』)
汽車、飛行機という文明の産物に対する両親の嗜好が、簡潔に描写されている。結語で作者自身は船が好きであることを明らかにするので、上の詩行は、そのための前段として読み落としやすいが、両親の乗り物への愛着は、同時に我々日本人全般の文明享受の経験が描出されているのだ。こうした文明への目は、決して近作だけに現れるものではなく、初期詩集の中にもすでに散見される。
プラスチックで作られた普通の水道の蛇口の
二十倍も大きな蛇口が
「かすみ草」(『花屋の花 鳥屋の鳥』)
この正確な観察眼は、文明と“無私”に対峙する井川の姿勢を如実に示している。さらに、
公園にたどり着くと広大な敷地の中に
昔の民家を移築した「江戸東京たてもの園」というのが
あって
私は入園料三百円を払い財閥の三井八郎右衛門邸を見
「山林に自由存す」(『そして船は行く』)
何かが起きるかもしれない。
で、昼に吉野屋の夏の季節限定の
「うな丼」六八〇円を食べたのだが
何も起きなかった
「うな丼」(『夢去りぬ』)
なぜ、“入園料三百円”と書くのか。“「うな丼」六八〇円”などと下世話なことをわざわざ入れるのか。この解釈として、「生活派の詩人だから」というのは半分しか答えてはいない。これらの価格は、文明の記録なのである。詩人には文明を記述する責任があるのだ。井川は、決して自らが経験を結んだ通俗事象に淫して自然主義的に再現しているのではない。詩的技法や比喩では決して置き換えることができない現時点の我々の文明水準の実相を的確に汲み上げているのだ。そこには抒情的な一行も入る余地がない。
古い農家など一軒もない。
ソーラーパネルを屋根に置いた
ガレージ付の家があったり
バンガロー風の家があったり
「明るい帰郷者」(『夢去りぬ』)
帰郷者が久しぶりに見る風景に、“抒情詩人”の井川は感情移入しない。ただ文明の様態をクールに叙述するだけである。これが例えば清水昶の詩では、
いのちを吸う泥田の深みから腰をあげ
髭にまつわる陽射しをぬぐい
影の顔でふりむいた若い父
風土病から手をのばしまだ青いトマトを食べながら
声をたてずに笑っていた若い母
「少年」(『少年』)
のような、メタフォリカルに再現された故郷へのホットな抒情となる。文化を撃つ詩人の傾斜と見事な対照を成している。井川のこうした表出は、詩というよりもむしろ行替えされた散文ではないかという皮肉の声が聞こえてくる。
違うと思う。
散文においては、風景描写は物語を展開するための道具立てである。しかし、詩は一語一語がそれ自体、目的である。何の目的か。詩の実現である。だから、入園料三百円は情報ではないのだ。市井の描写だけではないのだ。
生得の抒情性と職業が要請する文明を見る眼の彫琢を以て、いつからか井川博年は、時代を狂いなく検証する詩人として、我々に現代詩の可能性を提起し続けている。
その集大成が『夢去りぬ』であることは言を俟たない。
※井川博年著『夢去りぬ』・思潮社刊・16.10.15
四六判・128頁・本体2200円
5
投稿者: 府川雅明
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