2020/5/13
★☆萩原朔太郎「青猫」「海鳥」「日本への回帰」
堀の初期を堀多恵子『堀辰雄の周辺』中の「堀辰雄の生涯─年譜風に」を中心に、追っていこう。1921=T10、飛び級で第一高等学校に入学。一高寮で生涯の友、神西清と出会う。同年、神西らの同人誌「蒼穹」に発表した『清く寂しく』は、conte風作品。──来年高校受験を控えた主人公とその友は、同じ少女を愛してしまう。で、愛をGetしたのは主人公。が、少女は親の転勤で大阪へ。駅のプラットフォーム、主人公は悲しく見送るも、友は姿をみせず。一年後、一高に進学した友がやってきた(主人公は不合格)、しかも少女の訃報を携え。友は、口では「これからもズッと仲良く」と主人公の手を強く握りしめながらも、主人公へ向ける目つきは《恋を得なかつた自分より、恋人に亡くなられた君はどんなに苦しい悲しいことだらう!》、と語っていた。辰雄少年のWit。文末に「1921年18歳の記念に」とある。
この年の8月、「千葉竹岡村にあった内海弘三(国文学者、上條家とは近所付合いの関係)の別荘に遊ぶ。後の作品『麦藁帽子』の舞台となった」とあるが、『麦藁帽子』の前駆体は『甘栗』、つまり『甘栗』の舞台である。
翌々年(1923=T12)、萩原朔太郎の第二詩集『青猫』に触発された。往時を振り返り──《その冬、まだ一高の寄宿舎に入つてゐた私は、夕がたになるといつもその黄いろい本をかかへて二階の寝室に上がつていつてはそこで一人でマントにくるまりながら、もう暗くなつて何も読めなくなるまで、それを読んでゐたものだつた。》(『「青猫」について』小学館版萩原朔太郎全集第二巻付録、昭和19年1月の日付)。さらに詩「海鳥」を引用し、《この「海鳥」一篇ほど、そのころの私のこの詩人への故しれぬ思慕のやうなものを切実に語つてゐるものはないだろう。》と結んでいる。参考までに「海鳥」の尻の部分──《……ああ かの海鳥はどこへ行つたか。/運命の暗い月夜を翔けさり/夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが/ああ遠く飛翔し去つてかへらず。》
『青猫』も、序文を少し紹介しよう──《かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神祕でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。/生活の沼地に鳴く青鷺の聲であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。》──表現へ向かおうとする若者達を引きつけてやまない、強烈なメッセージである。
朔太郎が登場したので、昭和13年に発表された『日本への回帰──我が独り歌へるうた』も紹介しておく。昭和初期の日本の思想家・文人に共通した心的状況を端的に示した重要な論考で、この時期に活躍した堀辰雄の心性をも覆っていたはずである。今なぜ堀辰雄か、の答えにもなる。
列強の脅威に晒された日本は、《聡明にも》《東洋的自尊心》をかなぐり捨てて《東洋の一孤島を守る》ために《敵の武器を以て敵と戦ふ術を学んだ》。が、和魂洋才、心と頭が簡単に振り分けできるわけがない。一計を案じた伊藤博文は《自ら率先して鹿鳴會にダンスを踊り》、果てはかわいいベコの乳を吸い肉をも喰らい、西欧崇拝を煽りつつ曲がりなりにも列強の尻尾につくところとなった。ところが、鯛や鮃の舞い踊りの酔いからさめた浦島太郎は、欧州にとってオノレが単なるエトランゼ、ストレンジャーに過ぎないことに気づかされた。かなぐり捨てた和魂≠煢ス処に行ったのか──
《日本的なものへの回帰! それは僕等の詩人にとつて、よるべなき魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。誰か軍隊と共に、勇ましい進軍喇叭で歌はれようか。かの声を大きくして、僕等に国粋主義の号令をかけるものよ、暫らく我が静かなる周囲を去れ》。
堀とほぼ同世代の中原中也の言葉も紹介しておく。最愛の息子を亡くして、破綻をきたした中也が、入院中に日誌に記述したもので、発掘された日誌の内容を朝日新聞2000/02/06が記事掲載した──《子供が息切れました瞬間、今迄十数年間勉強して来ました文学がすつかりイヤになり、──何故ならば、自我をふりかざす近代文学は、絶えず山登りでもしてゐるやうに熱つぽいものでございますので、それがイヤになり……》──亡くなる9か月前に書かれたものとされる。
誰だってこんな事態になれば全てを投げ出したくなるだろうが、近代文学が「絶えず山登りでもしてゐるやう」という中也の言葉は、近代≠ニいう魔物と格闘する、当時の文人達の共通した脅迫観念のようなものを表わしてはいないか。
堀辰雄もまた、よるべなき魂の悲しい漂泊者≠フ一員として時代に対峙していたのであり、堀の出した答えが、この論考の結末である。
★☆軽井沢で舞い上がってはいなかった
話を大正12年に戻す。堀と神西は二人で本の海を泳いでいた。堀の神西宛手紙1923/03/17=T12──《神西清! 仏蘭西の匂ひ高い詩人よ!》《けれども、君よ、けつして日本語を棄てて呉れるな、この美しい日本語を》《「異端の詩人」と呼ばれようと、嘲笑されようと、僕は意に介しない。私のすべての憧憬と矜(ほこ)りは、美BEAUTÉのうちに在る。道徳、不道徳は無論のこと、真理、哲学等からは暫らく遠く離れて(、、、、、)居よう。日本語がどれほど僕達によつて、美しく音楽的絵画的になるか、〜〜》《言葉の妖怪よ(美しい女性(、、)の)おお お前はなんてきつく私を抱きしめてゐるのだ! いやもつとつよく(、、、)! 私は美しいお前の抱擁のために(毒もあらうから)死んで行くのなら、いとはないよ!》
仏文への傾倒は神西の方が激しかった! 日本語の美に対するこの熱っぽい論述は、仏文傾倒の堀のイメージからすると驚きというよりほかはない。この年(T12)5月、東京府立三中(現・両国高校)校長広瀬雄にともなわれ室生犀星を訪問、8月には室生に連れられて、堀文学の中心舞台となる軽井沢に初めて訪れている。そして9月1日、天国から地獄、明から暗、夏と秋が衝突した。
翌年には、村松みね子(片山廣子)を、芥川龍之介を介して知る。村松は『ルウべンスの偽画』に登場する人物のモデルとされているが、彼女はもっと大切なものを堀にもたらしている。堀に直接語ってもらう──《「更科日記」は私の少年の日からの愛読書であつた。いまだ夢多くして、異国の文学にのみ心を奪われておつたその頃の私に、或日この古い押し花のにほいのするやうな奥ゆかしい日記の話をしてくだすつたのは松村みね子さんであつた。》(『姨捨記』、「文学界」1941/07=S16)
おそらく古い押し花のにほい≠ヘ、母の追慕の念を強く揺さぶったに違いない。大正14年、東京帝大に入学。石丸重治が中心となり小林秀雄らが参加する「山繭」に加わるとともに、中野重治、窪川鶴次郎らと「驢馬」の創刊に参加した。「山繭」には、『甘栗』(「山繭」1925/9=T14、文末に5月作とある)が掲載された。これまで、詩を中心とした創作活動が、ここで小説に転じた。
『甘栗』において母への愛を存分に吐露できた堀は、一方で震災の光景が心の沼底に沈潜していた。これに加え結核の発症、堀を生理的表現に向かわせた要因だ。こうした秋≠フ要素に対し、一方の夏≠ヘ、室生犀星 芥川龍之介 松村みね子──芥川には、手紙で「わたしの書架にある本で読みたい本があれば御使ひ下さい その外遠慮しちやいけません 又わたしに遠慮を要求してもいけません」と言わしめた。これで舞い上がらないはずはない!?。
堀多恵子は『堀辰雄の周辺』で次のように記述している──「大正十四年の夏、貧乏学生の身で軽井沢に約三カ月骨董屋の二階を借りて滞在した。我儘な手紙を父親に送り、金銭や石油コンロや下駄まで送って貰いたいとたのんでいる。」──福永武彦の『内的独白』によっても、母の一周忌にも関わらず、すっかり失念して舞い上がっていたごとくに言うのだが、堀辰雄に極めて親(近)しい二人の記述ではあるものの、本当にそうだったのか……。
堀の母親が震災で亡くなった後、小梅町の家にはてい子さんという女性が入ってきて、父(上條松吉)の世話を焼き始めた。ハルウララの親子三人暮らしが、知らないお母さんとの三人暮らしに一変して、家屋も狭く暑苦しい、避暑! 避暑!
長逗留は、8月から芥川 室生 松村が鶴屋旅館に次々にやってくるのを前にして、その一か月前から、下準備の勉学に勤(いそ)しもうということで、
その経費はモチロン全て自費。鶴屋では費用が掛かりすぎるので、近くにある、夏だけ店開きする骨董屋の2階を借りて、険しく下宿する算段だった
父と子はその金策を巡って事前の打ち合わせをしたはずだ。だから、7月9日付から9月6日までの父への23通に及ぶ手紙の内容は、ほとんどが金策か日常生活用品の調達に関するものばかりである。なぜこんな、頻繁なやりとりをしなければならなかったのか。不幸にも骨董屋の主人が病に斃れるというハプニングがあり、食事の世話をしてもらうつもりが、7月中はほとんど空き家に一人暮らし、自炊も不能、これが23通に及んだ理由だ。一時は一旦帰ろうかと思ったほどなのである。今のように、コンビニやファストフード店があるはずはなく、陸の孤島に置き去りにされた辰雄なのであった。
★☆辰雄には3人も父がいた??
ここで話を転じ、掘の父が上條姓であること、即ち実父は松吉ではなかった、という、堀辰雄ファンにとっては自明のことなのだが、重要事項なので、父・子の関係を簡単に紹介しておく。
辰雄は 1904/12/28=M37麹町平河町で生まれた。実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京し、東京地方裁判所の監督書記を務める。妻・こう は病身で広島にとどまり、子がない。そこで浜之助は西村志気(しげ)を赴任地妻とし、辰雄が生まれ、堀家の嫡子となった。ところが二年後1906=M39本妻・こうが上京することになり、志気は子を取られてはなるまい、と家を出、本所・向島小梅町の妹夫婦の家に身を寄せ、後に志気・辰雄・志気の母の三人で向島土手下で煙草などを商う。
1908=M41志気は辰雄を連れ向島須崎町の彫金師・上條松吉に嫁ぐ──「曳舟通りに近い、狭い路地の奥で暮らすようになった」、生活は「ひどく窮乏していた」(多恵子)。嫁ぐまでのイキサツを福永武彦は──「彫金を手職とする遊び好きの男が小唄の師匠といい仲になつて、一緒に世帯を持つ。ところがその女が内弟子と出来てしまひ、気の弱い主人はその二人を添はせてやり、自分はやけ酒を飲みながらもとの家に残る。はたから見れば、松さんも人はいいけれどあれではどうも先の見込みはないやね、といふところである。」──落語の世界のようでもあるが、そこに志気が子連れでやってきた──「しかるにその男のところに勿体ないやうな女が所帯道具もちで嫁に来る。決して惚れた腫れたといふものではない、ただ子供が一人あつて、その子を育てるためには、かういふ貧乏で気の弱い男の謂はば後添であることの方が恩を着せられてよいといふ、つまり計算づくなのである。」
現代でも母子家庭は、熊男による子殺しやDV、けっして暮らすのによい環境がつくられていない。ましてや百年前においてをや、である。辰雄の母は母としての強靱さに加え、子と共に生きる術(すべ)をこころえていた。
1910=M43「一家は向島小梅町に移り、細工場を建て」、松吉も「仕事に精を出し」(多恵子)はじめた。母は子育てばかりでなく、遊び人をまっとうな夫に変身させた。ただ松吉は、自宅で花札賭博を開帳し警察のご厄介になったという逸話もあるが。
そして同年4月、実父・浜之助が死んだ。ただし、辰雄が掘家の嫡男であるということが消えてなくなったワケではない。1914=T4妻・こう死去。こうが受給していた恩給を辰雄が成人に達するまで受けることとなった。
こんな経緯をたどりながらも、辰雄は、実の父が、上條松吉でないことを知らなかった、しかも知ったのは松吉が死んだ(1938=S13)後である! 上條の家の子として育ちながら、なぜ自分だけ堀姓なのか、疑問に思った時期はあったようだが、深掘りすることなく時が過ぎてしまった。母があまりにも母だったため、そんな疑惑はどうでもよかった。母が死んだ時が知る好機だったかもしれない。母が財政から防衛まで、全てをコーディネートして、安定した家庭環境を維持してきた上條家、その全権を掌握してきた母を失ったということは、上條家の財政が裸になったということでもある。上條家は貧乏だった! 母の巧みな差配で若殿様で居られたのであった。だから、なぜ、この貧乏な家で余分なことを考えずに学業に専念し得たことを、チョットだけ掘り込めば、解が得られたはずだった。
だが、そんな詮索の方に向かう余裕はなかった──「夏の終わり頃より体の具合が悪く、医者に転地をすすめられていた矢先の大震災で、母を失った精神的打撃と罹災後の肉体的過労から肋膜炎を起してしまい、冬の初めから休学する」(堀多恵子)
話を父への23通の手紙に戻すと、松吉が後添えを得たことはこの手紙のやりとりの中でわかる。『内的独白』でも紹介されているが、7月中の混乱が収束して、9月はじめ、小梅町に帰る段階で、その前に松吉に軽井沢に来るかどうかを打診している。9月3日付《お父さん達はきますか》では、軽井沢では旅館が3軒しかなくいずれも宿代が高いことをしらせている。6日付《お父さん達が来るのか、来ないのか。来るにしても、何時来るのか》──どうもあまり来て欲しくなさそうだが、いずれも「お父さん達」である。父との関係は険悪というほどではなさそうで、手紙のやりとりのなかで、松吉の俳句の添削をしている。また、長逗留で父に散財させてしまったことに対して8月20日付──《来年からは避暑はやめてもいい。自分で金をもうけたら、行くことにしよう。今年だけは我慢して貰ひたい。》──多少は責任を感じてる、謙虚……
さて翌年1926=T15 S1は、病の再発も無く堀辰雄の大学時代にとってもっとも安定して活力の充実した一年ではなかったろうか。4月には中野重治や窪川鶴次郎らと『驢馬』を創刊。国文学科にありながら仏文の講義を受講するなど精力的。この年、避暑計画はなかったが、「八月末、犀星よりまねきの手紙を貰い、数日軽井沢に滞在する」(多恵子)。犀星は辰雄の3人目の父!。
次の年、1927= S2の前半も『ルーベンスの戯画』前編をはじめ、多くの成果物が収穫され、文人としての自立の道を踏み固めていた。が、7月24日未明、芥川龍之介自裁。舞台は暗転する。

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2020/4/12
★☆生理的感覚を像化した表現
大震災前と後との表現の転換をお復習いする。堀が震災前に発表したものとして確定できる詩作は、筑摩書房の全集では、前回紹介した『仏蘭西人形』のみだ。ただ、翌年発表された「病夢」「映画館」「銀座喫茶店」「離愁」の四作品をまとめた『青つぽい詩稿』(「校友会雑誌」1924)は、作品の最後に《僕云ふ、全て震災以前の旧作である。今に及んでこれを発表しようとする気持ちはすつかり原稿を焼いた僕が亡き日へのはかない思慕としてやつと記憶しているこれらの詩稿を残して置きたいのである。》と書かれている。
この中で『映画館』を紹介する──▶黒い空気の下に おびただしい心臓がうごめいてるようで 気味がわるい/群衆の瞳だまが/たえず動いてる映画の青つぽい思想を見まもつて居るのだ◀(太字強調は凡夫)──確かに気味が悪い? この映画館の暗闇空間は、若き堀の心的空間の風景を重ねたもののようでもある。いずれにしろ『仏蘭西人形』と同様、若者特有の屈曲した〈自意識〉だ。詩文中の青っぽい≠ヘ自身の青っぽさを客観視しているの図とも受け取れる。
その屈折自意識が「亡き日へのはかない思慕」へと変転してしまった。前回紹介した詩稿『帆前船』はこの変転を象徴するものであった。そしてさらに、堀は詩から小説へと流れていく。すなわち、直接&\現から間接&\現への移行である。その象徴がプレオリジナル『風景』であった。以降、昭和2年(芥川龍之介の自死)までのおもな小説作品を見てみよう。いずれも、筑摩書房刊の全集第6巻(プレオリジナル)からの紹介。
『土曜日──即興』(「山繭」1926/06/07=T15)──松村みね子(堀との関係は後に記述する)とその娘をモデルにした『ルウベンスの偽画』に先行する、日本橋丸善界隈を舞台にした、主人公と母娘よる、保護者付きデートのconteといったところ。注目すべきは冒頭での、主人公が路上靴磨きに靴を磨かせている時の板囲いの中の風景──《板囲の中は、そつくり二年前の震災後のまんま、瓦や煉瓦のかけらで埋まり焼けた自転車の骨がいくつも放り出されてゐる。》──デートに臨んでピカピカにした靴に、大震災の残影を引き摺らせたのである。この時期、震災に触れた作品はこの一作のみ。しかも残影をチョコッと。
『ルウベンスの偽画』(第一稿「山繭」1927/02/01=S2)──避暑地での少年と少女の出会い、少女コミックスのごとく? いや──《彼は声をかけようとして何故だか躊躇してしまつた。すると彼はきふに変な気持になつた。そして彼はすべてのものを水の中でのやうに空気の中で感じだした。魚のやうなものが彼の靴の底をあぶなかしく逃げて行く。》──はにかんで声を掛け難い、というような少年の気持ちからはずいぶんとかけ離れた、白日夢の中に紛れ込んでしまったかのような記述だ。このような生理感覚を画像化したような表現は、この時期の作品には随所に見られる。
『即興』(「驢馬」1928/02/01=S3、文末に「昭和2年3月」と付記)──大学の講義を受けにいった私──《正門にはひつて行くと、私の鼻先にふと何か匂ひ出したものがあつた。それはあのレモンを切るときに感じられる匂によく似てゐた。》──教室にはいると既に講義は始まっていた。すると頭重感がやってくる──《私の頭を重くさせたのは私の頭蓋骨そのものではなく、私の頭の中の空隙を一ぱいみたしてきた倦怠といふ得体のしれない気体であった。》──講義が終わり、友人と落ち合うため喫茶店に入る。頭重感、倦怠感を引き摺りながらレモンティーを飲むうちに──《私の想像力はちやうど頭の中のその辺にぢつと羽をやすめてゐる一匹のレモン色の蝶を描くのであった。》──頭重感や倦怠感に対してレモンや蝶のイメージは折り合い難い。それが物語の流れに中に投げ込まれると、読者は歪んだ奇妙な時空に引き込まれてしまう。
『眠り』(「詩と詩論」1930/03/22=S5、文末に「1927年」とある)──《「眠りは我々の命令通りにはなりません。それは深い底からあがつてくる盲の魚です。それは我々の上に飛びかかる小鳥です。/私はその魚が限界の外で円を描きながら泳いでゐるのを感じました。小鳥は翼をやすめて眠りの縁にとまりながら、首をまはしたり、羽を滑らかにしたり、あしぶみしたりしてゐます。しかし中へは這入つて来ません」》──と、主人公に語らせたあと──《ふいに私の前のまつくらな空虚のなかを、何か冷たく透明な水のようなものが、すばらしい速力で流れでました。》──不眠症のための浅い眠りに現れた映像の実況中継である。
これらの中で、当時の堀の機動力を欠いた心のアリサマを説明した箇所が『即興』に見つけられる。講義を聴こうとして襲ってきた倦怠≠ヘ、受講の時に限らず、カノジョとのデートの時でも、小説を書こうとしている時でも襲ってくる、そしてその正体を自己分析する──《生活するには十分過ぎるくらいゐに豊かな力と情熱とを持ち合わせながら、私はまだその力と情熱とを十分に使用しうるやうな生活を始めてゐないからなのである。》──蓄積されたパワーが吐き出せない──《変に持て余された情熱》、《この情熱を一つの小説の中で使ひ尽くすやうな方法》、《この力のある腕で一人の少女を抱きしめてやる機会が来さへすれば》──大学入学後の五月病にしては異様だ。主人公は、自分に溜め込まれた澱のごときものが、なにごとかに塞き止められ、出口を見失っていたのである。
★☆しまい込まれた光景と溢れ出た心情
大震災後の作品をここまで紹介してきて、おそらく堀ファンは、震災後に発表された重要な作品を一つお忘れではないか、と言われるだろう。そう、後回しにしていた作品が一つある。それは、『風景』等の作品が、ストレス障害患者のように、震災体験を吐き出したいのに吐き出せない、せめぎ合いになっているのに対して、後回しにした作品は、それらの作品に先立って発表されたもので、全く逆に、思いの丈が表されている。『甘栗』(「山繭」1925/9=T14、文末に5月作とある)である。
『甘栗』は、母への濃厚な愛をナマに近い形で表現した作品だ。
主人公の〈私〉は夏休みに、海辺の近くにある友人のTの家に泊まりがけで遊びにいくことになった。お目当てはTの妹〈朝子〉であった。何やら後ろめたい気持ちでいる私に母はTの家への土産に甘栗を用意してくれた。
場面は変わり浜辺近くのTの家。遊びに来てから二、三日のつもりが十日以上も過ぎてしまった。午前中、Tと私が海水浴から帰ってくると母の姿がそこにあった。東京から偵察に来た?。
体の快い疲れでリラックスのTと私は肌を抜く──T「たっちゃんもいい色に焦げたな」、皮が剥けて赤い地肌がむき出しになっている。母は気のない笑いのあと「まあ、そんなに背なかの皮が剥げてても痛くない?」、朝子が縁側でくるりと背を向けてふくらんだ肩を揺すりながら声を潜めて笑っている。いつも朝子に背中の皮を剥かれている私は顔が赧くなりそう。そのとき母はフと思いだしたように持参した土産をほどく──甘栗であった。
皆で海辺へ行くことになり、道すがら母と子の会話──
子は煙草を銜えるも不味い。母「ほんとの田舎だね。二、三日泊って行こうと思ったんだが、そんな家も無いじゃないか」 子「だから静かでいいんだよ」 母「朝子さんって言うの?」 子「うん」 母「いくつ?」 子「十六だろう」と煙草を投げ捨てる。母「ちょいといい娘だね」 子と母「………」 母「あんま長くいちゃ、悪くないの」 子「ああ」 母「どう、私と一緒にきょう帰っちゃ」 子「もうすこし遊んでいる」 母「そう」 子「せっかく持って来てくれたんだから、甘栗を食べちゃってから一人で帰ろう」 母は明るい笑顔で「バカ!」、子と母はしばし「………」 子「もう煙草はやめちゃおうかな」 母「え?何か言ったの?」、すでに海の近くまで来ていた。
映像を、Tの家へ行く前日に巻き戻す。土産の甘栗を買い、共同便所で用足しをした私は母が重たそうに甘栗を抱えているので、それを受取ろうとすると──「お前、手を洗った?」──これが小説の冒頭のシーンなのである。堀が何をここで描きたかったのかというと、母が強度の潔癖症であるということを、である。
帰りがけ母は「なんか食べていかない? お汁粉でいい?」──普通の子なら、億劫だがまぁいいか、てな反応であろうが、〈私〉の反応は「母に連れられてお汁粉屋に入るとは何て平凡だ」──母とのデートの場は特別なところでなければならないのだ。しぶしぶ入った汁粉屋で子は気張ってアイスクリームを注文する。
私はアイスクリームの冷たさが虫歯にしみて難渋しながらふと母に眼をやると、ヘンテコな顔がそこにあった。子「どうした?」 母「あんむが……」餅が入れ歯にくっついちゃった。
《ああ母は入歯だつたな。さう気づくと、すこし可笑かつた。がすぐに、いまの母の動作が起した淋しさが、そんな可笑さをつき抜いて私の中に滲み込んできた。──私は見てはいけないものを見てしまつたやうに思つた。》──子は母の老いを実感した。
場面はTの家での昼食のシーン。母はどうしても昼食に加わらない。潔癖症のため、他人の流儀では食事が摂れないのである。ごまかすため、汽車の中でとなりの女学生をまねて買ったのを食べて腹がいっぱいになった、と偽った。しかし座は和まずにぎこちない。助け舟で出まかせに、私「サンドイッチ?」 母「ああ」 私「生意気だな」……
《皆が私の悪口に応ずるやうに笑つたので食卓が漸つと賑やかになつた。それもいい。だが──母だけは緊張した眼をぢいツと私の上に据ゑたのだ。いまの出たらめな言葉の裏に私の真面目な語気を感じたのかしら。/それを確かめるため、私が母をふりむいて笑つたら、母もいつかしら微笑をしてゐる。私は思はず感傷的になつた。/まあなんと私と母とは親しいのか。そんなことを意識するのさへ不愉快な位に私達は愛しあつてゐるのだ。誰だつて私達の愛を乱すことは出来ないだらう。朝子? さうだ。朝子が好きなのもきつと母の影響だらう。》──少女への恋心が母への愛に飲み込まれてしまった!
食事の後、私は暑いのでTに再び海へいこう、と誘う。T「ま、もうすこし休もう」。私は煙草を口にくわえながら縁側にでて、マッチを擦った。すると「お前、煙草のむのかい」母の声が異常に響いた。母は子が中学受験の折、願懸けで酒も煙草も絶っている。子はまた後ろめたい気持ちが湧いてくる。そして、母と子の海辺へ行くまでの会話のラストシーンにつながる。
母が潔癖症であったことや、中学受験で願懸けして酒も煙草も絶った母の想い出を引き込みつつ、母への愛を吐露して止まない──この作品は、母の亡骸を野辺へ送る挽歌なのであった。堀多恵子によると、辰雄は母の位牌の裏に「震(なゐ)我が母を見分けぬうらみかな」と刻んだ。この作品は堀文学の原点・起点であり、ここから堀は旅たち、そしてここへと回帰していくのである。

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2020/3/13
★☆ある光景を『風景』で塗りつぶした
堀辰雄には『風景』(初出「文學」1930/03/01=S5、以下全て初出年月を記す)という、構成は整ってはいるが意味不明な作品がある。いやこの作品には、削除・改稿される以前のプレオリジナル(以下PO)『風景』(「山繭」1926/03=T15)があり、それを読めば、あぁなんだ! ということになるのであるが、取りあえず、意味不明な方から紹介しよう。《 》で括った部分は、特記以外は堀作品からの引用である。
波止場──水夫や荷揚げ人夫でごったがえす。主人公の〈僕〉は、その喧噪を避けるように歩いていくと、人気のない、ヘンテコな空間に迷い込む。僕は《人が始めて風景といふものを見たような驚き》を覚えた。三辺を高い塀に囲まれた奥に古ぼけた建物、波止場の像は消え、背景は海ばかり。その海には、額縁からはみ出すごとくに巨大な汽船が浮かんでいる。
しばらく雲の形象の面白さ、美しさに浸っていた僕は、その風景が人間のある種の表情に似ていることに気づく──《この風景は、どこからか鋭い眼でむさぼるやうに見つめられてゐるのを感じて、敏感な少女がするだらうやうに、すこぶる緊張してゐるやうに見えるのである。》
汽船の甲板で煙草を喫う水夫を目撃した僕は、自分も喫いたくなり、海風を避けるため、埃っぽい建物の壁に体を寄せる、と、古い建物なのになぜかペンキの匂いがする。マッチをいくら擦っても煙草に火がつかないでいるうちに、砂利が投げつけられるような音がして、振り向き見上げると、頭上の硝子窓が乱暴に開けられ、異人らしき男の怒った顔が出る。「こんな所へ入って煙草を喫んじゃいかん!」、にらみ返すと、男に二本の葉巻めいた口髭、どこかで見たような……、窓がしまる。さて、こんな所ってどんな所? 門まで戻って門標を探すと「××税関」、なぁんだ!あいつは税関吏のルソー(Henri Julien Félix Rousseau,1844-1910=仏の画家)じゃないか。ペンキの匂いは絵の具の匂いだった。風景が緊張してたのは、ルソーに(写生のため)見つめられて、恥ずかしがっていたのだ!
波止場の喧噪を避けるように辿り着いたところがルソーの絵であった。ルソーの絵を小説仕立てにした? なんのこっちゃ? ヒントめいた言葉が末尾に──《この思ひがけない結論がすつかり僕を快活にした。僕の中でたえず明るさと暗さとが戦つてゐるやうに。それは何處かで夏と秋とが戦ひだしたやうな或日のことである。》──〈僕〉は実はうち沈んでいたのであった。それが解消された。結構なことではあるが、明るさと暗さ? 夏と秋? さっぱり解らん!
ところが、T15発表の方は、この楽屋裏を作品の前半部分で明らかにしている。つまり、のちにそれが削られちゃった。夏と秋の戦いの中身が明かされる。
《僕は大概一週間に一度くらゐは憂鬱になる》──これがPO『風景』の書き出し。憂鬱は垢のようなもので、溜め込んではならない。こすり落とすためには、スポンジでは軟弱だからタワシ=「野蛮的な風景」でこする。荒削りな草木やいきいきした空気──しかし、都会生まれの私は、自然の原始性になれていないため、気に入った風景がいつのまにか薄気味悪いものに変わってしまうこともある。そんな時は、高級煙草を一服すれば解消できる。風景探索にロードバイロンの携帯は不可欠だ。
ところが、毎日あまりにも軽快過ぎる生活が続いた時期があった。それはちょっと落としようもないほどの垢を溜め込んでしまったことでもあった。
《何処かで秋が夏と戦ひだしたやうな或る日の午後、突然僕を襲ひ出した憂鬱を、これまでに経験したことのないやうな重苦しさで感じずにはゐられなかつたのだ。》──夏と秋の間! これはまさしく関東大震災(1923/09/01=T12、AM11:58)!
この体験がトラウマ化し、時にこのような発作が起きるものと想像して間違いない。おそらく堀は、忌まわしい風景がせり出してくるのを抑え込むために「野蛮的な風景」を対峙させたのである。PO『風景』ではこの並はずれた重苦しい憂鬱を抑え込むために彷徨い、ある港町に辿り着く。その後の記述は両方の『風景』ともほぼ同じである。
なぜS5の『風景』が大震災を暗示する部分を切り取ってしまったのかは、おそらく自分自身の顔がもろに露出しているように思えたからだろうが、切り取ることで、さらに意味不明となってしまった。それにしても震災から7年も経過していながら、未熟な完成度を正すための改作ならわかるが、ますます意味不明に仕立ててしまったのである。そして、堀が真正面から震災体験を小説にぶつけ得たのはさらに数年を要した──S7『麦藁帽子』。S9『挿話』など。しまい込まれた記憶が再構成され、ようやく表に出てきた。もちろん、リアリズムではなく、シンボリズムで。
★☆『古足袋』から『冬の日』へ
次の二つの詩の対比も、堀が震災の衝撃から遠ざかろうとする意識の振れを反映している──『古足袋』(「校友会雑誌」1924=T13)、『冬の日』(「驢馬」1926/05=T15)──後者は前者を改作したものであり、改作によってその意味内容が不明となる。太字(凡夫による強調)部分が、特に重要な改変である。
『古足袋』▶怠惰な布団にもぐりこんで/突風にひつぱだかれてる もの臭さうな窓そとの景色をゆめんで居ると/だいぶ古ぼけてしまつた追想の家の あかるい内部がぽつかり映つてきて/その障子紙の日だまりに 椽先に洗つて乾し出された古足袋の影があつた//それとなく見詰めてゐると/どうやら怠惰にぬくもつた 僕のここちよい情感が/その濡れそぼちた古足袋のなかへ あぶあぶと泳いでいつちやつて/(病気じみた生活をまき散らす)木枯らしの奴に/ぐるぐる ぐるぐる こころ細く揺すぶられだした◀
『冬の日』▶風にひつぱだかれている/窓外のくろずんだ風景を嫌ひながら/あつたかい布団にもぐりこみ/まだ見たこともない何処かの家の/あかるい内部を夢むでゐると/そこの障子の日だまりに/五つ六つ古足袋の影が映つてゐる/軒下に吊されてあるのだらう/ふとそれに見入つてゐると/どうしたのか/やつと怠惰にぬくもつて快くなつた僕の生活がそれにずんずん吸ひとられていつて/小石を吹きつける 木枯らしの奴に…(✍以下『古足袋』と同)》◀
背景情報無しに後者の『冬の日』を解釈する──「外の寒風に我関せずで、ぬくぬくと気持ちよく布団の中に潜り込んで外の景色を眺めていたら、見知らぬ家の障子に、寒風に吹きさらされてクルクル回る古足袋の影が映っており、それに見入った僕はその回転の渦の中に引き込まれ、木枯らしにあたかも吹きさらされるように心を揺さぶられた」とでもなるのだろう。古足袋の像が作者になんらかの焦燥感をもたらし、ぬくぬくとばかりしては居られない、そんな気持ちを表したように思えてくる。ただ古足袋≠フ像が何を象徴しているのか、比喩しているのか、読み取ることはできない。古足袋だから、過去のなにかではあろうが。
ところが『古足袋』においては、この古足袋が、未知ではなく過去≠フ、しかもそう遠くない過去の、〈追想〉された家の縁先にある。この時間と場所の設定により、その表徴しているものが俄然鮮明になり出す。作者の背景を知らなくても、安逸な気分に浸っていた作者がある過去の光景に突如引き込まれて吹き荒ぶ木枯らしにさらされるがごとく、身も心も冷え冷えとしてくる感じが伝わってくる。
そしてこれに作者の背景を加えると事態がハッキリする。この作品が発表された前年、堀は関東大震災に遭遇し母を失う──「火にまかれて逃げるとき、父母と離ればなれになり、母は隅田川で水死、自分も九死に一生を得た。父と共に三日三晩、夜は提灯をつけて、隅田川の土堤に並ぶ水死体の中から、母の遺体を捜し出し、大八車で運んだという話を晩年になって語っていた。」(『堀辰雄の周辺』[堀辰雄の生涯─年譜風に]堀多恵子)
この震災前に体調を崩していた堀は重い肋膜炎に陥り、年末には大学の休学を余儀なくされた。詩はおそらく病から寛解した状況で作られた。だから、焼失した近所の光景であろう〈古足袋〉の影は、詩作の動機を象徴していた。そして改変により、〈古足袋〉は切り捨てられることはなかったものの、見知らぬ風景に置かれることによって、象徴性が減じられ、タイトルも〈冬の日〉へ変更された。忌まわしい風景がしまい込まれ、ままならない生活復帰への焦燥感が強調されるところとなった。
★☆『仏蘭西人形』から『帆前船』へ
震災前と後につくられた詩作品も比べてみよう。『仏蘭西人形』(「橄欖の森」1923/07)と、前出の『古足袋』と一緒に発表された『帆前船』。
その前に、『仏蘭西人形』を中野重治の『あかるい娘ら』(「裸像」1926/01=T15)と比較するのも一興である。
『仏蘭西人形』▶たまらなくたのしい四月のひろい野原だ/物倦くだまつて一匹の牛が青いろの草をたべてゐる/空にはおよいでゐる白い雲 入道雲/柔らかな曲線をすべつて小鳥たちは微笑しながら/ああ なんと気持ちのいい のびのびした静かさだらう//若い女達のはなやかな言葉も退屈なので/もの言わぬ 仏蘭西からきた娘の人形を抱きながら/私はひとりで しづかな情欲をたのしんでゐた/そつと唇に胸さきに鼻に足くびにからまつてくる/あかるいたんぽぽ すみれの匂ひ/匂ひはかろく仏蘭西人形を夢にいざなひ/ゆれる微風に薫つて小鳥たちをすこし酔はせながら/ああ ひろい四月の野原は微笑でいつぱいだ◀
『あかるい娘ら』▶わたしの心はかなしいのに/ひろい運動場(うんどうば)には白い線がひかれ/あかるい娘たちがとびはねてゐる/わたしの心はかなしいのに/娘たちはみなふつくらと肥えてゐて/手足の色は/白くあるひはあはあはしい栗色(くりいろ)をしてゐる/そのきやしやな踵(かかと)なぞは/ちやうど鹿のやうだ◀
両作品とも、若者の、誰でも経験する、異性に対する屈曲した感情を表したものだが、中野の率直に流れるコトバに対して、辰雄のは何とひん曲がったことか! 若い女達は退屈でフランス人形は情欲的だと? この変態メ!
屏風絵で詠うような『仏蘭西人形』に現れた自意識は、震災後の作品では後退し、心の内奥の生理感覚のようなものが浮上してくる。
『帆前船』▶よごれた古本屋街に/ぼくの思想を ぽかぽか温めてくれる 日向のやうな書物はないかと/一軒一軒 むだに尋ね倦ぐねて おろおろに草臥れてしまつた/ふいにその時 僕は帆前船が欲しくなつた//子供部屋でたびたび見かける あの小型の帆前船が どこかに無いか/港にはとほい ここら辺の/オモチャ店の見世先にでも 気まぐれに碇泊してゐはしないか……(以下略)◀──小説『風景』のベースとなった詩ではなかろうか。冷え切った想念を回復させてくれるかもしれない帆前船≠ノ対して、憂鬱をこすり落としてくれる野蛮的な風景>氛气gラウマ化した心的・生理的ストレスを、とりあえず症状だけでも抑えてくれる頓服薬を求めているのが共通している。
【追記】ところで堀辰雄ファンの皆さん、『風景』のルソーの自画像なんですが、堀の記憶の奥にチョコンと鎮座している誰かさんだ、と思いませんか。おそらく、堀自身がそうと思ってこの小説を作ったのではなく、無意識が結びつけたものだと思います。回答は、この連載が続く限り、どこかで紹介することになります。ヒント:森下仁丹商標、ほとんど答えみたい。

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2019/12/20
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久保 隆●映画『灰とダイヤモンド』論――〈生〉のための共同性へ
永田眞一郎●表紙デザイン
※2019年12月20日発行、発売中
※A5判・144P・税込定価850円(本体773円+税)
※発行・『風の森』発行所(燈書房編集室気付)
※発売・JCA出版
★書店注文される方は、「JCA出版発売・『風の森』第2次第8号」と伝えて注文取り寄せでお願いします。
★当方へ、直接注文ご希望の方は、郵便振替で、00150-3-64543(口座名・燈書房)で代金850円(送料は当方負担、ただし振り込み手数料はご負担いただきます)をお振り込みいただければ、入金確認次第、直ぐにお送りいたします。

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2019/9/3
澤畑吉和さんに捧ぐ
《一切を吸い尽くす工業化は、河川に毒を注ぎ、幾万の魚類を死滅させ〜〜〜アフリカの大野獣群は、やがてはその生き残りを自然保存公園や動物園に求め〜〜〜地上の喬木林は滅びつつ〜〜〜地下水は沈下して、砂漠化〜〜〜人類がその終末を意味するような戦争の危険に耐えずおびやかされていることは言うまでもない》──冒頭から3択問題(@1913年A1965年B2011年)──誰が書いたかが伏せられ、何時書かれた作文かを問われれば、私(凡夫)なら、躊躇なくAを選んだろう。1957年秋、小学4年生だった凡夫は、父親の勤め先の関係で新宿・市谷加賀町から、中央区晴海に移り住み、埠頭から狭い海を眺めるのが日課となった。埠頭の近くの空き地では、海苔や魚を干す光景を記憶している。が、それは束の間の夢のごとしで、クラゲが大量に発生、死の海と化した。夢の島の自然発火による火災(1965年)は、黒煙が風に乗って晴海にも舞い降り、草木は瞬時に枯れた。隅田川はポンポン船で暮らす人もいなくなり、勝鬨橋の開閉も無くなり、巨大なドブ川と化した。月島の町工場では、薬品で頭を冒されるという労働災害が発生。そう! 横光利一の『機械』の実録版だ!
さて、正解は@。冒頭の引用文はルートヴィッヒ・クラーゲス『意識の本質について』(千谷七郎訳、勁草書房)──第4版手引きの前書き(1955年6月)からのものだが、クラーゲスによると、引いた部分は、同内容の訴えを第一次大戦直前(1913年)に行ったものの再現であるという。その後40年余の《不気味な成り行き》に《何処が狂っているのか》と、問う。そしてこの稿を書き終えた次の月、日本では広島と長崎に原爆が投下された。
選択肢B2011年はご存知の通り東日本大震災と福島第一原発事故、後者は人災≠ナある。安全神話は悪魔の囁きだった。第一次世界大戦から一世紀をこえた。その間、何が変わり、依然として何が変わらないのか。クラーゲスはエコロジストでも反戦活動家でもない。形而上学をもって、哲学・科学のもつ本質的な歪みに対して警鐘を鳴らし続けたのである。
以下本文は長大であるため、「風の森通信」としては掲載せず、ご希望の方には、全文収載のPDF版をメールにて無償でお送りします。その際はご面倒でも、氏名、住所、メールアドレスを記載の上、越田のメールアドレス(koshida@i.117.cx)までお知らせください。

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