2018/12/20
越田秀男●族≠ニしての柿本個≠ニしての人麻呂
──折口が捉えた万葉人の自意識
★★★
櫻井幸男●父の肖像
堺谷光孝●試練の日々
★★★
小柳 剛●憲法九条を考える――極私的情況論の指針のために
皆川 勤●情況的言語の空虚さについて
★★★
櫻井幸男●映画の手帳 第十三回
★★★
小柳 剛●桐山襲のラストメッセージ――「未葬の時」をめぐって
久保 隆●『西部田村事件』という物語――つげ義春の世界《二》
永田眞一郎●表紙デザイン
※2018年12月20日発行、発売中
※A5判・124P・税込定価800円(本体741円+税)
※発行・『風の森』発行所(燈書房編集室気付)
※発売・JCA出版
★書店注文される方は、「JCA出版発売・『風の森』第2次第7号」と伝えて注文取り寄せでお願いします。
★当方へ、直接注文ご希望の方は、郵便振替で、00150-3-64543(口座名・燈書房)で代金800円(送料は当方負担、ただし振り込み手数料はご負担いただきます)をお振り込みいただければ、入金確認次第、直ぐにお送りいたします。

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2018/5/29
古歌謡が、ヤポネ列島の言葉の土壌でいかに生長し開花していったか、その過程を示した論考が吉本隆明の『初期歌謡論』である。この中には、文献時代以前の和語のイメージを記した箇所がある。古事記などに嵌め込まれているその残影と思しき類例を幾つか引っ張り出つつ──☆神代記・国産み:鹽しほ許々袁々呂々こをろこをろ邇に畫かき鳴而なして/☆神代記・三貴子の分治:母由良爾もゆらに取とり由良迦志而ゆらかして/☆神代記・須佐之男追放:神夜良比かむやらひ夜良比岐やらひき──などの畳句だ。
《和語は大陸の漢語にくらべて遙かに地を這うような未開の言語であった。いいかえれば具体的な〈物〉を離れてあまり抽象的な概念をあらわすことができなかった。その代りに、語の〈畳み重ね〉によって、それに近傍(あるいは同一対象についての異った言葉)の概念を〈重ね〉て、わりに自在で、ひろい対象の〈空間〉を指す語をつくりうる言葉であった。》
吉本の言う〈畳み重ね〉を畳句≠ニしたのは、以下の折口信夫の論考によってである。吉本のイメージはこの論考に影響を受けてつくられたに違いない。
《畳句は不整頓な対句であつて、対句は鮮やかに相等を感ぜさせる畳句である。其起りは神憑ツきの狂乱時の言語にあることは、他に言うた。気分に於て、ほゞ思考の向きは知れて居ても、発想するまでに熟せない時に、何がなしに語ことばをつけると言ふ律文の根本出発点からして、此句法を用ゐることがやはり便利に感ぜられて来る。対照して言ふ中に、段々考への中核に入り込んで行くからである。元々其意識なしに行ひながら、自然あちら側こちら側と言ふ風に、言ひかへて見る訣になるのであるから。同義語を盛んに用ゐる必要のある処から、言語の微細な区別を考へることに進んで来た。》(『日本文章の発想法の起り』初出:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店、昭和4年4月25日=大正15年1月草稿)
両者とも、言葉の畳み重ねが初期的な言葉の生長に関与している、とみた。そして折口はさらに突っ込んで、シャーマン的世界(神憑き)が言葉とリズムを生み出す源泉(律文の出発点)であるとも言っている。
本稿は折口信夫の初期論考『わかしとおゆと』(初出:「同窓 第九号」明治41年6月)を解説したものである。タイトルに漢字を嵌めると「若しと老ゆ」であり、若・老は対をなしているものの、言葉の性格から、形容詞である前者は動詞にしにくいし、動詞である後者は形容詞にしづらい。そんな対語を突き合わせて折口はなにを解こうとしているのか。畳句・対句が律文の根本出発点だから?。安藤礼二は彼の著書『折口信夫』(講談社)で、折口の言語観を次のようにまとめている──
《折口信夫の国語学、折口信夫の文法学は、名詞、動詞、形容詞、副詞といった品詞による区分を撤廃してしまう。言葉の起源として根源には、潜在的に無限の音と意味の組み合わせを秘めた言語の「根」が孕まれている。その「根」から、さまざまな茎や枝や葉や花が生み出されてくるように、「語根」が活用することで、あらゆる品詞が生み出されてくる。》 ──折口はひたすら遡る。たわわに実った果実をもぎ取り枝葉を払い幹までちょん切って根絶やし? いや根だけにする。この『わかしとおゆと』も根¥への探求なのであった。
なお、解説文の後半にフロイトの言語観にもふれた。洋の東西の、分野の違う第一級思想家・研究者が、それぞれの地域における、古語にみえる同様のおもしろい現象に着目し、それぞれ推論を下している。言葉≠熏ェ処にまで遡ると一元%Iな顔を覗かせるのであろう。
*以下の本文はブログには掲載しませんが、PDF版を用意しておりますので、ご希望の方は無料でお送りします。住所・氏名、e-mail addressを明記して、次のe-mail addressにご連絡ください=hideo.koshida@softbank.ne.ja

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2018/1/11
歴代天皇の一覧をボンヤリ眺めていると奇妙なことに気づく。歴代天皇のうち、女性天皇は全部で10代8柱(2柱は重祚チョウソ)。そのうち徳川政権下の109代明正(在位1629〜43)と117代後桜町(在位1762〜70)を除くと、残りの8代6柱は全て、33代推古天皇(即位554年?)〜48代称徳天皇(770年没)の二百十数年の間に集中している。
称徳天皇以降、女性天皇が途絶えたことは、まあ、どなたかの検討に委ねるとして、問題は、推古以前、神武以来、女性天皇が一人も見当たらないのは変じゃないか、という素朴な疑問である。この件で一定の説得力をもって説明してくれたのは折口信夫である。古代の日本の国家は、ある歴史段階において、〈政〉と〈祀〉が並立し、政を大王が、祀を女王が担っていた──このことを今から約100年前に見出し、戦後間もなくの論考で再度強調した。日本に母型制社会をベースとした母権制国家があったことは、今や常識に類することなのかもしれないが、欧州の文献を使わずに独自に掘り下げ、構造にまで立ち入った論述はいまでもディープインパクト!
ただ、ならばどうして突然女帝に天皇号がくっついて、その後続々と天皇号がくっつき、突然途絶えたのか、そのナゾは相変わらず残る。あの恐ろしい、夫の仲哀天皇を呪い殺し、朝鮮半島への進撃を陣頭指揮した天皇以上の権力者、神功ジングウ皇后(おい!記紀にそんなこと一言も書いてないぞ!)だって、皇后でしかなかった。このナゾを見事に解いてくれたのが、網際ネットを通じて無償で論考を提供してくれている塚田敬章(東亜古代史研究所)。またお終いに、森田勇造の論考の一部をほんのチョット紹介し、古代天皇制の基礎構造を“実感”してもらう。まずは折口の『女帝考』(安藤礼二編『折口信夫天皇論集』(講談社文芸文庫)、初出:1946/10「思索」3号))から。
◆飯豊王は世継ぎの指名権を持っていた?
推古前後に段差がないと主張するためには、推古前に女性“天皇”を号しなくても、それに匹敵する女王がたくさんいなくてはならない。折口は2例を記紀から引き出す。その1例は上述の神功皇后ということで、もう一例の忍海オシノミノ飯豊青イヒトヨアヲノ尊ミコトに着目する。
折口は、本居宣長「古事記伝」の飯豊王に関する注釈にイチャモンをつける。清寧記の問題部分──〈故 天皇崩後 無可治天下之王也 於是問日継所知之王也 市辺忍歯別王之妹 忍海郎女 亦名飯豊王 坐葛城忍海之高木角刺宮也〉(太字凡夫)──一般的な教科書には、太字の「也」はなく、このことがキーポイントとなる。
この部分の宣長の古訓(原文にカナふりしたもの)を、折口は読み下し文にする──〈故カレ、天皇崩りまして後、天下治すべき王ミコましまさず。是ココに、日継ヒツギしろしめさむ王を問ふに、市邊忍齒別王の妹忍海ノ郎女、亦の名飯豊ノ王、葛城ノ忍海の高木タカキノ角刺ツヌサシノ宮に坐しましき。〉(太字凡夫)──つまり、宣長は「也」を「〜に」と訓ヨんだ。
『古事記伝』での宣長の解説──〈さて如此此カクノ皇女の、此ノ宮に坐スことを云るは、此ノ時天津日嗣 所知看シロシメスべき王ミコを尋ネ求むるに、すべて男王ヒコミコは存坐マサずて、唯此ノ女王ヒメミコ一柱のみ世に存坐マセるよしにて、又殊に其ノ宮をしも挙ゲ云ることは、此ノ宮に坐々マシマシて、暫く天ノ下所知看シロシメシつる意を含めたる文コトバなり、抑ソモソモ此ノ時、此ノ姫尊を除オキ奉リては、王奉サざれば、天下の臣連、八十伴トモノ緒ヲ、おのづから君キミと戴き仰ぎ奉りけむ。〉(『本居宣長全集第12巻』筑摩書房版、太字凡夫)──宮には男王の後継者がおらず、女王が一柱いるだけなので、天下の臣連や八十伴緒はこの女王を君主として戴くところとなった。
そうした宣長の解釈に従ってか、次田真幸は次のように訳している(『古事記(下)全訳注』講談社学術文庫)。宣長解説文の太字部分に着目!──〈それで、天皇が亡くなられた後、天下をお治めになるべき王がおいでにならなかった。そこで皇位を継ぐ主を尋ね求めたところ〜〜〜〉(太字凡夫)──太字部分、宣長の解説と一致し、飯豊王が次の天皇の中継ぎ登板となったと解釈した。ただ中継ぎと解釈したのは次田であり、宣長がそう解釈したわけではない。
ついでに古事記説話のその後の展開も簡単に紹介しておく──播磨国の長官の任にあった山部連小楯オダテが、志自牟シジムという者の新室ニヒムロの宴に出席した時、兄弟の若者に出会う。宴たけなわで舞いが始まり、兄が舞いと歌を披露、その歌のなかで身の上を明かした。なんと、イギヒワケの天皇(17代履中天皇)の御子、市辺イチベの押歯王オシハノミコの子孫であった。小楯は早速早馬使いを送る。委細を知った飯豊王は大いに喜び、二皇子を播磨から角刺宮に上らせた。
以上を基礎知識として、折口のイチャモンを聞こう。折口は《まだ断定する勇気はないが》と断りつつも、太字「也」の解釈について──《ここは何としても「〜〜〜問ふに」と訓むべき文脈ではない。「〜〜〜問ひき」と過去に訓みきるべき所である。》
つまり、後継者をどうするのかを従者達が誰かに“問うた”のであり、問う相手無しに問うわけはない。その相手は、後継者を指名しうる地位を有する飯豊王に他ならない──折口はそう解釈した。指名権を飯豊王が有する! また、「也」のないテクストのほうが普通とみれば、なおさら我が意を得たりで《「ここに治さらむ王(─のこと)を〜〜〜忍海部郎女に問ふ〜〜〜」。こう言うふうに訓むことができる。》というわけだ。ただ、一言付け加えておくと、宣長は「也」がないテクストがあることを知っており、注釈に〈真福寺本(✍国宝)には也ノ字なし、なくても可ヨし〉、つまり解釈に影響はなし、と言っている。
宣長の解釈は、飯豊王が短期間であれ即位したともとれるし、いや中継ぎ、事務代行かも、といった曖昧さを残している。一方の折口の解釈は、もともと男王に対して女王は世継ぎの指名権を持つなど男王(政権)に匹敵する役割(祀権)を担っていたとみたのである。
つまり、飯豊王は従者の問いに答えるべく高木角刺宮において、神を帰ヨせたまわり、新室の宴における奇跡を起こさせた? このような世継ぎの告知の例としては、《此後のことだが、泊瀬部皇子(崇峻天皇)・田村皇子(舒明天皇)を啓示せられた、推古天皇の告知によっても知られる。》
なお日本紀は筋立てが違う──清寧天皇が崩御すると、皇太子の億計が位を固持し、弟の弘計王と譲り合う。このため飯豊皇女が忍海角刺宮で〈臨朝秉政〉(朝政の執行に臨んだ)、とある。飯豊王は自ら忍海飯豊青尊と名乗り、朝政を執ったのである。ただ、一年に満たないうちにみまかる。
ところで、飯豊王はどのような血族環境にいた女帝なのであろうか──《応神・履中・反正・允恭・安康・雄略の諸天子、御母は悉く葛城氏の出の母君を持たせられた。其上、飯豊王は固より、顕宗・仁賢の両天皇も又、葛城氏の出の母君を持たせられた、而も市辺押羽皇子も、清寧天皇も、皆亦、葛城氏の母の胎に出られた。》
つまり葛城氏は、15代応神天皇以来、24代仁賢天皇まで、天皇を産み出す、文字どおりの“母胎”となっていたのである。ちなみに応神の母は神功皇后、その母が葛城高顙ヌカ媛(紀)。折口が挙げた天皇の中で記載のない16代仁徳天皇の母は品陀ホムダノ真若マワカノ王の女・仲姫ナカツヒメノ命(紀)、五百城イホキノ人彦イリヒコノ皇子の孫とされる。皇后の磐之媛イハノヒメノ命(紀)は葛城襲津彦ソツヒコの娘で、後の履中、反正、允恭の各天皇を生んでいる。なお、磐之媛命は記では石之日売命、大后オホキサキと号され、御名代として葛城部が設けられた、と記述されている。
母型制社会、妻問婚を背景とした宮廷を囲い込むがごとき、キングメーカーシステムは、その後の蘇我氏や藤原氏の支配システムのひな形ともいえる。そんな血筋のど真ん中に飯豊王はいたのであるが、旦那さんは?
紀:清寧天皇三年秋七月の記事──〈飯豊皇女、於角刺宮与夫初交、謂人曰「一知女道、又安可異。終不願交於男。」〉(飯豊皇女、角刺宮にて、夫と初交マグハヒしたまいき。人に語りて「一ヒトハシ女の道を知りぬ。またいづくんぞ異ならむ。終ツイに、男と交ひを願はじ」とのたまひき。)──昔、男とやったことあるけど、なんてこともなかったワ、二度とやろうなんて思うもんですか──なんのこっちゃ。
この記事に対して折口は『女帝考』で《宣長はよしもない記述のように評しているが、高巫としての位置を示す資料である。〜〜〜古註に、「此曰有夫未詳也」と見えるが、祭司の上の結婚で、決して家庭をなしてのものではなかったであろう》と、注釈している。まあ、朝政を執るに十二分な“格”を備えていたと言いたかったのだろう。
◆万葉集の中皇命って誰のこと?
折口は、男王と女王が同格であることの証明を別の角度からアプローチする。万葉集巻1の歌の題詞に現れている “中皇命”に着目──3、4番〈天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌〉、10〜12番〈中皇命徃于紀温泉之時御歌〉(太字凡夫)
太字の「中皇命」は、どういう地位の人につける尊称で、だれに対してつけたのか。折口が若い頃。はじめてこれを目にして、なんじゃこれは、と思った頃の訓み方は、「中皇女ナカチヒメミコ」、つまり、「命」を「女」として訓んでいた。「命」は「女」の間違えとする説があり、それが流布していたのであるが、万葉集の初っぱなの方の記述であり、簡単に間違えるはずはない。
このナゾを喜田貞吉(1871-1939)が解いた(『中天皇考』、「芸文」6の1)と折口はいう──《続日本紀の宣命に、元正天皇を中ツ天皇としたものがあること、又、天智天皇の皇后、倭姫女王と推察出来る御方を仲天皇と記した記録(大安寺資財帳)があること》──これらがエビデンスデータとなり、中皇女なんかではなく、中天皇もしくは中皇命、訓みかたは「ナカツスメラミコト」と相成ったのである。
天皇、もしくは天皇に匹敵する位の御方につける尊称、ということになった。とすれば、万葉集の中皇命ってだれ? 3、4と10〜12はいずれもアウトドアの宴で詠まれたものであることは題詞でわかる。前者は舒明天皇主催、後者は斉明天皇主催とされている。舒明朝で一番エライ女性は舒明帝の皇后、すなわり後の皇極斉明天皇である。一方、斉明朝で一番エライ女性は自分自身、つまりどちらも皇極斉明天皇というわけである。
で、中とか仲とかってどういう意味? 喜田は“中継ぎ”と解釈した。なんで中継ぎ? 飯豊王中継ぎ論の再燃?!──《倭姫女王の場合は〜〜〜皇后を、太后天皇と書いた文献(懐風藻)によって、天武即位前に、一時位に即かれたコトがある》ことを論拠にしたようで、元正天皇の場合も聖武天皇への中継ぎと言えなくもない。しかし、皇極斉明天皇の例ではとても通用しそうにない。中継ぎにあらず、君臨である。そこで折口は独自の説をもちだす──“中”の意味を《天皇と、何かほかとの間にいられる御方》という意味に捉える。なんでそんな意味になるの?
「すめらみこと」(天皇)の〈すめら〉は《最高・最貴の義の語根》、一方の〈みこと〉は「御言執ち」の義であり、神の言葉の執行者。合わせると《最高最貴の御言執ち》の義となる。そこで冠の「中」であるが、天皇と片一方のなにかのジョイント役としての「中」、その片一方とは《宮廷で尊崇し、其意を知って、政を行われようとした神であった。》──天上にいる神(発意者)と地上にいる神(執行者)の仲立ちをするのが中皇命なのであった。
《(✍女帝の出現についての)今までの考えでは、自ら男系において、時々空位に堪えねばならぬ有様に立ち到って、女帝の其間に立たれる》中継ぎ的理解がなされてきた。しかし、《スメラミコトの資格の方が世に臨まれずとも、神人中間のスメラミコトが存在せられる限りにおいて、宮廷の政は、執られて行くのである》。この男帝・女帝両立体制、《複式の宮廷「政祀」制度》こそが、ヤマト国家の《宮廷政治の原則だった》。
この喜田論文に対する折口の見解は20年以上も前の『最古日本の女性生活の根柢』(初出「女性改造」3巻9号1924/9)に簡略に記述されており、主旨はまったく変わらない──《博士の解説の様に男帝への中継ぎの天子と言ふ意でなく、宮廷神と天子との中間に立つ一種のすめらみことの意味らしくある。》──に加えて、《古事記・日本紀には天子の性別についても、古い処では判然せない点がある。さう言ふ処は、すべて男性と考へ易いのであるが、中天皇の原形なる女帝が尚多く在らせられたのではあるまいか》。
折口が“複式政祀制度”を確信したのは沖縄の神道の構成を捉えた時に違いない。『最古〜〜の根柢』では──《万葉人(✍有史以後奈良朝以前の日本人=折口の定義)の時代には以前共に携へて移動して来た同民族の落ちこぼれとして、途中の島々に定住した南島の人々を、既に異郷人と考へ出して居た。》──沖縄と内地は文化面で同一基盤に建っている──《其南島定住者の後なる沖縄諸島の人々の間の、現在亡びかけて居る民間伝承によつて、我万葉人或は其以前の生活を窺ふ事の出来るのは、実際もつけの幸とも言ふべき、日本の学者にのみ与へられた恩賚である。》──両者を突き合わせれば我がヤポネ列島の古層をより鮮明にあぶり出せるはずだ──《沖縄人は、百中の九十九までは支那人の末ではない。我々の祖先と手を分つ様になつた頃の姿を、今に多く伝へて居る。万葉人が現に生きて、琉球諸島の上に、万葉生活を、大正の今日、我々の前に再現してくれて居る訣なのだ。》──そのことは戦後の中本正智の取り組みなどが傍証するところとなる。
折口は沖縄の政祀構成について次のように記述する──《明治の前までは国王の下に、王族の女子或は寡婦が斎女王同様の為事をして、聞キコ得エ大君ウフキミ(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられる事になつたが、以前は沖縄最高の女性であつた。其下に三十三君と言うて、神事関係の女性がある。其は地方々々の神職の元締めのやうな位置に居る者であつた。其下に当るのろ(祝女)と言ふ、地方の神事官吏なる女性は今も居る。其又下に其地方の家々の神に事へる女の神人が居る。此様子は、内地の昔を髣髴させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記には其痕跡が残つて居る》。
沖縄最高の女性であつた聞得大君が皇后の下に位どられる事になった過程を、吉本隆明は古事記説話から引き出す(『共同幻想論』罪責論の項)。勿論、日本の歴史と琉球の歴史が同一であるわけはないが、“祀”が“政”から切り離されていく動態は同じである。
一つは垂仁記の沙本毘売サホヒメ説話。兄(沙本毘古王)と夫(垂仁天皇)の権力争いで、兄(複式政祀制度)につくか夫(父権制度)につくかの葛藤劇だ。結局、サホヒメは兄とともに滅びる。すなわち父権体制への移行が暗示される。
もう一つは景行記の倭武命説話。倭武は父の命令に従い身命を賭して熊曾、出雲建討伐をなし遂げると、父は休む間も与えず今度は東征を言い渡す。倭武は「父は私に死ねというのか」と伊勢大神宮の斎宮、叔母の倭比売にこぼす。すると、倭比売は倭武に草那芸剣と嚢を授ける。吉本はこの説話を、母型制を土台とした宗教的権力の終焉と読んだ。
もし古事記の編者が、自覚してか無自覚かは別として、祀権としての女王の終焉を感受していたとするならば、古事記は天武天皇が編纂を指示し、太安万侶が元明天皇に献上したとされているのであるから、持統帝や元明帝は女帝(政の王)であって女帝(祀の王)にあらず、オジさん天皇(政の王)とかわらないオバさん天皇(政の王)?
◆聖徳太子は大王だった!
この辺で、塚田敬章の論考『天皇号の成立と大王(オオキミ)、聖徳「太子」への疑問(聖徳太子は大王だった)』(2010/08/29)を紹介する。塚田は天皇号の成立について、これまでの推古朝説と天武朝説の根拠としている資料を精査し、最終的に推古朝説を支持している。エビデンスデータが凡夫らレベルでも分かるように明確に示され、説得力バツグンである。素人に賞められても嬉しくはないだろうが。
凡夫の興味は特に、もう一つの、聖徳太子は太子にあらず、大王だった! というところ。もしそうだとすれば、大王、推古天皇、大臣・蘇我馬子というトライアングルな体制は、折口が主張する複式政祀制度の典型例となりうる。
塚田は推古紀の推古二十年(612)正月七日に、宮中で大宴会が行われた際、蘇我馬子が捧げた祝いの歌を引く──〈夜酒瀰志斯 和餓於朋耆瀰能 訶句理摩須 阿摩能椰蘇河礙 異泥多々須 瀰蘇羅烏瀰禮麼 豫呂豆余珥 訶句志茂餓茂 知余珥茂 訶句志茂餓茂 訶之胡瀰弖 菟伽陪摩都羅武 烏呂餓瀰弖 菟伽陪摩都羅武 宇多豆紀摩都流〉(塚田によるかな変換:やすみしし、我が大王(古音「おほきみ」)の、隠ります、天の八十陰、出で立たす、御空を見れば、万代に、斯くしもがも、千代にも、斯くしもがも、かしこみて、仕へまつらむ、おろがみて、仕へまつらむ、歌づきまつる)
岩波古典文学大系などは、これを次のように現代語訳しているという──〈我が大君の入られる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、実に立派である。千代、万代に、こういう有様であって欲しい。そうすれば、その御殿に畏み、拝みながらお仕えしよう。今、私は慶祝の歌を献上します。〉──つまり、新室寿のひとつと解釈したのである。
塚田はまず《「天の八十陰」や「御空」を「りっぱな御殿」と意訳》していることに疑問を呈す──《「天の八十陰」とは雲のことである。額田部氏等の祖神に天御影神がみられるが、これも雲の神だ。御殿の神だとでも言うのだろうか。御空に出で立たして、雲である天の八十陰に隠れる。つまり、大王を太陽にたとえている。太陽だから、万代や千代という永遠の観念が引き出せるのである。》──大王を永遠なる“太陽”と讃えた歌で、御殿を讃える歌じゃない!
本当の歌の意味は次のごとしという──《(太陽である)我が大王がお隠れになる空の雲や、出てこられる御空を見ますれば、万代にわたってこのように、千代にもわたってこのように、恐れ多くも仕えさせていただきましょう。拝みながら仕えさせていただきましょう。歌を献上いたします。》
推古天皇がこの歌にこたえる──〈天皇和曰/摩蘇餓豫 蘇餓能古羅破 宇摩奈羅麼 譬武伽能古摩 多智奈羅麼 句禮能摩差比 宇倍之訶茂 蘇餓能古羅烏 於朋枳瀰能 菟伽破須羅志枳〉(塚田によるかな変換:真蘇我よ、蘇我の子らは、馬ならば、日向の駒、太刀ならば、呉の真さひ、うべしかも、蘇我の子らを、おほきみ(大王)の使はすらしき)──そして塚田による現代語訳──〈蘇我の首長よ、蘇我の子らは、馬にたとえれば、すぐれた日向の馬、太刀にたとえれば、中国製のするどい刀、もっともなことであるよ、蘇我の子らを大王がお使いになるのは。〉
ところがこの訳では文意がおかしいという──《蘇我の子らを使うのは自分自身であろうに。「大王がお使いになるのはうなずける」なんて人ごとのような、自分が大王ではないかのような物言いである。》
原文の〈天皇和曰〉を、凡夫の手元にある『日本書紀(下)』(宇治谷孟、講談社学術文庫)は、〈天皇が答えて歌われた〉と訳しており、凡夫もその訳を疑わなかったが、文字通りスナオに訳せば「天皇和して曰く」ではないのか。
ここをスナオに読むことで、塚田による解釈は次のようになる──《天皇は蘇我馬子の歌に返答したのではなく、唱和したのである。矢印で方向を示せば、答えるは → ← という形だが、和す(あわせる)は ← ← である。蘇我馬子が大王に永遠の忠誠を誓い、推古天皇が「大王が蘇我の一族をお使いになるのはもっともだ。」と馬子を誉めた。そして、二人のかたわらに大王がいるという構図が現れる。その大王は誰かとなると、推古天皇が政治のすべてをまかせたとされる聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子)しかありえない。》
塚田は聖徳太子を太子と呼ぶのは《実情を知らない後世の誤解またはねつ造》とみる。では推古天皇はどうして天皇に?──《政治には関与しないが、国家主権者としての推古天皇を遇するため、この時代にあらたに天皇位を設けたと推定できるのである。》
この後塚田は隋書俀国伝、および伊与国風土記逸文などを引用しながら、大王説のエビデンスを固める。大変に説得力があるもので、興味あるかたは直接当たられたい。結論部分だけを引用する。
《以上から、推古朝初期、おそらく元年に、聖徳太子が大王に就任し、就任式で蘇我馬子が永遠の忠誠を誓う歌を献じた。政治は行わないが、国家の首長としての豊御食炊屋姫(推古天皇)を遇するため、中国の文献から「天皇」という言葉をさがしだし、あらたに象徴的最高位として天皇を設けた。政治権力と精神的権威に分けられたのである。聖徳太子の死後、推古天皇が政治の世界に降りてきたため、以降は天皇が国家の政治的、精神的中心になり、オオキミは心理的に格が下がって王の読みにも使われるようになった。という歴史が浮かび上がってくる。》
◆斉明・中大兄、朝倉宮へ遷る、の顛末
聖徳622年没、馬子626年没、推古628年没、36年に及ぶ長期安定政権、推古朝は幕を閉じた。と、“祀”を司る女帝の後継が現れる。宝皇女は舒明天皇の皇后を皮切りに、30年を超えて君臨した。と、いっても、この間、皇極帝時に中大兄と中臣鎌子のクーデターがあり、蘇我入鹿が帝の御前で殺された。以後は中・中政権のお飾りだった? が、斉明帝が没するまで中大兄が天皇に就かなかった深謀遠慮は、やはり“政”に対する“祀”の重さのあらわれではなかったか。
この女帝、雨乞いに最新テクを披露した。皇極天皇即位の年の秋、家臣達が、祝部ハフリベの教えに従って雨乞いをしても一向に効き目がない、などと話をしていると、これを聞いた蘇我蝦夷大臣が、アナログじゃダメ、デジタル仏法でやるべし……小雨がチョット……。真打ち登場、〈天皇幸南淵河上 跪拜四方 仰天而祈 卽雷大雨 遂雨五日 溥潤天下〉──人工知能の勝利! しかし、上げて落とすはマスコミの常套手段。
斉明天皇重祚の時──空中に龍に乗る者現れ、青油笠を着けた唐人貌の男は葛城の嶺から生駒山へ馳せ隠れ、午時に至ると、住吉の松嶺の上から西に向かって馳せ去った。蘇我入鹿の怨霊!日本書紀編者は作り話が大好き。
そして斉明7年5月──斉明・中大兄政権は朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉町)に遷る──え? 福岡? どうして? それは後ほど。宮を作るには木が必要。朝倉社の木を切り払う、と〈神忿壤殿、亦見宮中鬼火。由是、大舍人及諸近侍病死者衆〉──あらま、大変なことに。それで天皇は寝込んでしまったのかどうか、7月にみまかってしまった。これだけの話では、朝倉社の木を切り払った祟りで……といってもパンチが弱い? と思ったのかどうか、虚構大好きな紀の編者が、この崩御の記事の前に、朝倉宮に遷った月に遣唐使が帰任してきたことの挿話(第四次遣唐使、伊吉連博徳の随行記録の引用文)が加えられ、祟りはディープインパクト!(ダブりでダジャるな!)
〈正月二十五日、越州に還り到く。四月一日越州を発ち東に帰る。七日檉岸山の南に到り行く。八日鶏鳴く時、西南の風に順い大海に船を放つ。海中途に迷い、漂蕩し辛苦する。九日八夜、やっと耽羅の島(✍済州島)に到る。島の王子阿波伎ら九人を船に招きもてなし、船に乗船させて、帝へ献じる擬えものとした。五月二十三日、朝倉の朝廷に進奉し、この時から耽羅の入朝が始まった。〉──ここまでは紀の編者が同時期のエピソードを加えただけにすぎないが──〈また、智興(✍遣唐使の一人)の供人、足嶋に讒言され、使人らは唐の政府から寵命を戴くことが適わなかった。使人らの怨みは上天の神に通じて、震死足嶋は落雷で震死した。時の人は「倭の天の報いのはやいことよ」と言い称えた。〉──この足嶋が加わることで、祟りじゃ〜! 祟りじゃ〜!
斉明朝期は朝鮮半島をめぐり深刻な事態が招来していた。半島に接する大陸の巨大モンスターが本格的な脅威となってきたのである。危機意識が高句麗・百済連合を生む。と、ならば新羅は高宗を戴く唐にすり寄るしかない。660年、唐が13万、新羅5万の兵が百済に押し寄せ、百済はあえなく滅亡。第四次遣唐使はこの戦でしばらく抑留されるなど、命辛々の旅となった。百済は半島南端に位置しているから、ヤマトの目前まで唐がやってきたわけだ。しかもヤマトは百済と親密な外交関係にあった。再興をめざす百済遺臣の動きに、ヤマト斉明・中大兄政権は呼応して翌661年、斉明7年5月、居を朝倉宮に遷し、唐・新羅と対峙するところとなった。
そして、ヤマトは白村江の戦い(663)において大敗を喫し、朝廷の存立までも危うくする事態となった。塚田敬章は次のように記述する──《天智年間に二度、中国へ遣使しているが、それは敗戦処理交渉のためと思われる。/天智天皇八年(669)に、「この年…大唐は郭務悰等二千余人を遣した。」という記述があり、十年(671)十一月十日には、「使者の郭務悰等六百人と送使、沙宅孫登等一千四百人、合わせて二千人が四十七隻の船で比知島まで来ているが、数が多く、驚かすといけないので、先に通知する。」という予告を受け取った。連絡役は、沙門道久、筑紫君薩野馬(白村江の戦い時の捕虜)等の四人で、唐から来たと記されているから、ほぼ二年近くをかけて日本の目前まで来たようである(天智紀)。この大人数を饗応しなければならず、嫌がらせと言うしかない。それ以前に病を発していた天智天皇は、翌月の十二月三日に崩じる。他意はないと言われても、いつでも軍事侵攻が可能であることを示された。この使者が衝撃を与えたことは明らかである。──云々》
この恐怖の残影は平安朝まで──《枕草子も「唐土の帝、この国の帝を、いかで謀りてこの国討ちとらんとて、つねにこころみごとをし云々」と記すくらいで、平安時代にまで尾を引くほどの恐怖であった。歴史書にはこんなことは一切書かれていないが、物語の形をとって伝承されていたのである。》──紀貫之が古今集仮名序や土佐日記でヤマト歌が漢詩に比肩しうると胸を張っているのも、この恐怖の残影が加わってのことなのかもしれない。
斉明−天智−天武−持統期にこれだけの国際的大乱があり、ヤマトの存立をも揺るがせたとするならば、672年の壬申の乱や藤原不比等らによる律令制度の構築などは、もう一度このような背景と突き合わせて捉え直して見る必要が出てくるだろう。また、この稿の主題である“女帝”については、律令制定下で“政・祀”体制は急速に様式化が進んだと考えられる。不比等から藤原姓を名告ると共に、従来の中臣姓は神祇官として祭祀を司ることが制度的に確立され、女帝は持統−元明−元正―孝謙まで頑張ったものの、途絶えるところとなった。しかし、“政・祀”の“祀”は様式化されても形骸化したわけではなく、天皇は“最高最貴の御言執ち”でありつづけ、21世紀においても象徴としてのオシゴトをし続けている。
ただ、天皇制の生命力は天皇制自体にあるわけではなく、天皇制を生み出した母系制社会、そのさらに奥の古代信仰にある。この古代遺制的感性をわがヤポネシア土民はまだ手放していない、功罪は別として。そして手放していないことに案外無自覚なのだ。とても素朴とは思えない戦略的な歌をたくさんつくった紀貫之でさえ《花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。》と、麻薬のごとき言霊の祟りに畏れおののいている。
◆アジア稲作文化にみる母系社会の構造
折口の言う、宮廷政治原則である“複式政祀制度”の“もと”の形らしきものを、森田勇造の論考からみつけた(『アジア稲作文化紀行 女たちの祈りと祀りの日々』雄山閣出版)。カシ族(インド東北部のメガラヤ州)の家父長制ならぬ、“家母長制”大家族で、以下のような特徴を有する。
〔婚姻〕婿入り婚。婿には婿入りした家での成員権はなく、里帰りするのは男。同居している場合でも離婚したり、女が死んだ場合は、実家にもどされる。離婚はごく普通のこと。男の求愛に娘が同意すると、まず娘は「おじ」に相談し、おじが男を診断し、よし、となると男側の「おじ」との話し合いになる。相互の「おじ」がOKとなると、カップルは娘の母を訪ね、最終承諾をもらう。同族婚の禁止は“母系”親等で四親等まで。
〔財産〕家母長が財産権を有し、相続は末娘に。財産の管理監督は家母長の兄弟が行う。
土地は個人、村、部族の所有が混在するが、個人所有に関しては2年放置していると自動的に所有権を失う。個人使用の土地の利用は「おじ」の判断により家母長の決済を得て行われる。
〔農産〕自給自足。余剰生産はしない。農作物の種類や面積は、家母長の兄弟・息子が判断し家母長が決定する。
〔 殯 〕人が死ぬと、まずジャングルの中の樹上につくった棚の上に座るような形で安置する(風葬)。その後火葬するが、数日後〜何か月後〜何年後とケースバイケース。火葬後、第一の墓地(マウスヤ)に安置。5〜10年後に再度火葬され第二の墓地(モバ)で永眠。これは女の場合で、男の場合は生家がもらい受けて再々度火葬され祖先の大地に安置される。
以上、婿入り婚のカシ族は、天照大神と素戔嗚尊のごときに、姉(妹)が決定権を有し、弟(兄)がコーディネーター役となり、母系大家族が運営される。また離婚が多く生涯連れ添うことがわずかなのは、男女関係がルーズだからなんて思うのは大間違いで、男女一対をもととする“家族”という考えがいまだ希薄だからである。母系こそが関係の枢要部分なのだ。
注目すべきは喪葬行事を重ねて行うことで、森田の論考では中国南部の壮族チュワンや、インドネシアのトラジャ族の例も紹介している──《壮族は、死後の肉体は土に還るが、魂は子孫へと伝わるので永遠だと信じてきた。》──この信仰は天皇の継承の根拠思想とほとんど同じである。
折口は日本でも喪葬を重ねる風習があったことを指摘している(『日琉語族論』)──《今日尚日本民俗の上に痕跡の歴然としてゐる両墓制は、二つ或は二つ以上の喪葬行事を経なければ、完全な喪事を営んだといふ満足感の起らなかつた古代の民俗印象を、ある点まで伝へてゐるものと言うてよい。》
塚田敬章は『魏志倭人伝』や『随書─東夷 俀國』などの原文・和訳・解説も公開していて、凡夫らアマチュアは大変助かっている。その中で『随書─東夷 俀國』に喪葬の記述がある──〈死者歛以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬置屍舩上陸地牽之或以小轝〉(塚田訳:死者は棺、槨に収める。親戚や親しい客は屍に付き従って歌ったり舞ったりする。妻子や兄弟は白い布で(喪)服をつくる。貴人は三年の間、外でかりもがりする。庶民は(良い)日を占って埋める。埋葬の時には屍を船の上に置き陸地でこれを引いたり、小さな輿に乗せたりする。」〉
随書だけに依存すれば、こうした長期にわたる殯は貴人だけに対する特別の行事であるように理解してしまうが、森田の論考に照らすと、村落共同体の信仰に根ざしており、この風習は時代も万年単位で遡れそうな気がしてくる。
一見、非常に完成度の高いヤマト古代王朝も、その外装を引きはがしてしまえば、骨格は農耕と祖霊信仰を土台とした母型制社会の姿そのものに見えてくる。ただ、母型制共同体と母権国家の違いは、一方の前国家的村落共同体が母なる大地の恵みによって建てられているのに対して、母権国家は血で血を洗う抗争を抜きにしては語れない。つまり、母権国家もその後の父権国家と同様、血で血を洗う、“国家”システムであることに違いはない。そして残念ながら、現代において、自由民主を標榜する、自ら先進国家と思い込んでいる国家達も、大同小異であることを知るべきである。民主主義が議会制民主主義にしか存在せず、しかもそれは、政権交代の時、死人を出さないためのシステムにすぎない、と言っていたのは、確か滝村隆一だと思うが、もはや耄碌していて資料にあたる気力もない。

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2017/12/30
越田秀男 ● 折口信夫の方法
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櫻井幸男 ● ミレイの夢
堺谷光孝 ● 十年目の分岐点
遠矢徹彦 ● クロンシュタットの霧[遺稿]
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下沼英由 ● 私たちは?
皆川 勤 ●〈情況〉へ相渉るとは
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櫻井幸男 ● 映画の手帳 第十二回
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小柳 剛 ●「社会化した私」という反復
―小林秀雄・吉本隆明の大衆をめぐる思考
久保 隆 ●『沼』という作品―つげ義春の世界《一》
永田眞一郎 ● 表紙デザイン
※2017年12月20日発行、発売中
※A5判・152P・税込定価800円(本体741円+税)
※発行・『風の森』発行所(燈書房編集室気付)
※発売・JCA出版
★書店注文される方は、「JCA出版発売・『風の森』第2次第6号」と伝えて注文取り寄せでお願いします。
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下記にて、『風の森』を販売しています。
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2017/8/8
折口信夫の『叙景詩の発生』は、日本の古代歌謡が叙事詩から叙景詩に転じていく様をダイナミックに描いている。それは、徐々に原始宗教的要素を脱ぎ捨てていきながら、古歌謡のなかに自我が浮き彫りにされていく過程であった。また、この生成過程でなぜか抒情ではなく叙景へ偏重していく様も、日本人独特の感性の有り様として指摘された。
ところで、この文芸の世界の対極に位置する“法制”において、やはり原始宗教的要素を脱皮していく過程を動的に捉えた論考がある。石母田正の『古代法の成立について』(「石母田正著作集」第8巻所収、岩波書店、初出:『歴史学研究』229/1957)である。律令時代を日本の法制史の7合目ぐらいだとすると、その前段階、5~6合目、この大化前代を解剖することで、7合目にどう至ったのかを、論究している。5→7合目というわずかな歴史展開ではあるが、ひっくり返すと、収束する地点、すなわち法の発生地点を眺望できるかもしれない。また、この歴史展開を論究していけば、日本独特の法制の構造を覗けるかもしれない、と思ったが、しかし石母田の論考はその手前で閉じられている。そこでこの稿では、吉本隆明『共同幻想論』の「祭儀論」を接ぎ木することで、今なお日本国憲法の上空に鎮座する天皇制の構造を覗いた。
★クガタチの二つの顔
石母田は律令時代の諸史料から、既に《大化前代の族長が重要な法的機能を果たしていた》とみる。律令によって郡司の裁判権は《大幅に削減され》たものの、その前段階において、族長は各自の司法権とそのシステムを掌握していた、という見解に立つ。
石母田はまず、応神紀9年条*1や允恭紀4年条*2に登場する“盟神探湯(クガタチ)”に着目する。被疑者の手を、熱湯に浸けさせて黒白コクビャクをつける、神判制度。盟神探湯という漢語にあてられたクガタチという和語の意味が理解し難い。諸説あるようだが、松岡静雄は「クガはケガ(罪穢)と同語で、タチは断の義」と解釈しているそうで、禊や祓に接続しうる。つまり、この制度は拷問的な刑罰である一方、禊・祓といった原始宗教的な顔も有しているのである。
*1[応神紀9年条]主人公は、武内宿禰。〈監察百姓〉の任で筑紫に赴くと、弟の甘見内ウマシウチの宿禰はチャンスとばかりに、兄が天下取りを画策していると讒言ザンゲン。天皇は真に受けて殺害を命じる。武内宿禰は窮地に陥るも救いの神──彼ソックリの男(真根子マネコ:壱岐直イキのアタイの祖先)が現れ、どうせ死ぬのなら黒心無きことを証してからにせよ、と身代わり自殺する。宿禰は嘆き悲しむも真根子の遺訓を体し密かに筑紫を脱出。舟で南海を廻り紀の港に泊まるなどして京に辿り着き、身の潔白を直訴。天皇はふたりを相対させるも決着がつかず、礒城シキの川のほとりで探湯をさせた……。
*2[允恭紀4年条]これは二者対決ではない。世の秩序が乱れ、姓カバネを失ったり、故意に高い氏ウジを名乗る者も出てきた。天皇はこれを憂い、諸々の氏姓に「齊戒沐浴して盟神探湯せよ」と命じる。甘橿アマガシの丘の辭禍戸𥑐コトのマガヘのサキに瓮モタヒが据えられ、諸人はおのおの木綿手繦ユフタスキをかけて探湯に臨んだ……。
応神紀と允恭紀の記事は〈探湯〉繋がりだけではない。允恭紀の〈甘橿丘〉には甘橿神社があり、湯起請ユキショウの神と伝えられているし、また武内宿禰を祀っていたという伝承もある。さらに、皇極紀3年条に蘇我入鹿がその邸宅を甘橿丘に造築したとの記事があること、などから推して《クガタチという神判制度を執行する主体は、大和国の諸族長(✍この場合蘇我氏)であって、そこにおける法慣行が素材とされ》たとみる。
また、族長支配を論証する確かな根拠として〈木綿手繦〉に着目する──《この木綿手繦が古代の祭祀儀礼、とくに祓除の儀式と不可分の関係にある〜〜〜すなわちクガタチという神判制度は、祓除の儀式を中心とした古代の祭祀儀礼をもとにする一定の宗教的・社会的集団を基礎とする裁判制度であって、大化前代においてはすでに地方族長の政治的支配の一側面として、法的機能を表現する一制度として伝承されていたものと思われる。》
★古代の刑罰と市
小国家(部族)同士が接触するポイントは、クロスロードの衢チマタであることを西郷信綱の論考を引きつつかつて紹介した。ここに“市”が立ち、この衢において、“食”の交換、“性”の交換、多様な交換が(武力の激突も含めて)行われていた。以下は古代法と市との関係に係る石母田の見解。
《律令法でも大罪人の死刑は市で執行され(獄令)、平安時代の著鈦政チャクダのマツリゴト(=✍罪人に首枷を嵌める公開儀式)にみられるように、古代の刑罰と市は密接な関係にあった。》──ただこれらの例は《中国古代法の継受》とみられてもしかたなく、大化前代に及ばない。そこで石母田は日本紀の記事*3を引く。
*3[敏達紀13〜14年条]仏法の導入を図る蘇我馬子とそれを阻止しようとする物部弓削守屋大連モノノベのユゲのモリヤのオオムラジや中臣勝海太夫ナカトミのカツミのマエツキミとの確執が描かれる。馬子は、播磨に住む還俗の僧を師として迎え入れたり、3人の女を仏法に帰依させ尼としてあがめ尊んだり、石川(奈良県橿原市石川町)の家に仏殿をつくるなど、仏法導入を精力的に推進する。そして14年春、(仏舎利)塔を大野丘(橿原市和田町)に建立。しかしまもなく病に臥してから事態は一変する。このとき国内では疫病が蔓延、多くの民が死んだ。この機に乗じ、守屋と勝海は、疫病は仏法を広めたことが原因、と奏上、天皇はこれを受け入れ、仏法はやめよ、と詔した。お墨付きを得て守屋は自ら寺に赴き塔を切り倒し、火をつけ、さらに仏像や仏殿も焼き払い、焼け残った仏像を集めて、難波の堀江にすてさせた。〈是日、無雲風雨〉(訳:この日、雲がないのに、雨風が)。これでおさまることはなかった。守屋は馬子や僧侶を取り押さえ、叱責し辱めた。それでもたりず、尼らを呼び出すよう命じ、馬子は抵抗できず歎き泣き叫びながら応じた。〈有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭〉(訳:役人はすばやく尼らの三衣サンエを奪い素っ裸にして拘束し、ツバキ市の駅舎で鞭打った)
こうした例から石母田は《国々の市というのは、領域内の人民間の社会的分業および交換の自然発生的な所産としてよりは、むしろ族長=王に支配される国々の相互間における共同体的な分業または交換を基礎として成立》してきたものであり、《その地域=国の宗教的儀礼の一つの中心であるとともに、族長の裁判や処刑等の法生活の一つの中心にもなりえたものとおもう》──上部構造の交換にも注視せよ!。
★天津罪・国津罪
《大化前代の古代法の成立の一つの基盤が、族長層の領域内の人民にたいする法的支配にあるとすれば、この観点から古代法の内容をしめす根本史料である天津罪・国津罪*4を分析することがつぎの問題となる。》
*4[『延喜式』巻八祝詞:大祓詞]〈〜〜〜安国と平けく所知食む国中に 成出む天の益人等が 過犯けむ雑々クサグサの罪事は 天津罪と 畦放アゼハナチ 溝埋ミゾウメ 樋放ヒハナチ 頻蒔シキマキ 串刺クシサシ 生剥イキハギ 逆剥サカハギ 屎戸クソヘ 許々太久ココダクの罪を天津罪と法別て 国津罪と 生膚断イキハダタチ 死膚断シニハダタチ 白人シロヒト 胡久美コクミ 己が母犯罪オカせるツミ 己が子犯罪 母と子と犯罪 子と母と犯罪 畜ケモノ犯罪 昆虫ハふムシの災ワザワヒ 高津神の災 高津鳥の災 畜仆タフし蟲物マジモノ為セる罪 許々太久の罪出でむ〜〜〜〉(太字凡夫)
平安中期に編纂された『延喜式』の大祓詞、まず、天津罪と国津罪はなぜいかに区分けされたのか。諸説あるようだが、石母田は《本質的な意義はない》とする。その証拠に古事記・仲哀条の大祓の記事*5には区分けが存在しない。
*5[仲哀記]仲哀天皇が筑紫の地で熊曾國を撃つべく、神託を乞うため、天皇は神おろしの琴を弾き、武内宿禰が沙庭サニハ(=斎場)でお告げを聞こうとしていた。すると大后オホキサキ(神功皇后)が神憑りとなり、「西方に国あり。その国には金銀をはじめ、まばゆいばかりの珍宝がたくさんある。従えて授けよう」と告げる。しかし天皇は「高台に昇って望み見たがそんな国土は見えない。大海があるばかり」、詐りを言う神だ、と琴を押し退けて黙座。すると大后に憑いた神はひどく怒って「およそこの天下は汝の知らすべき国にあらず、あの世へとっとといきやがれ!」。武内宿禰はあわてふためき、天皇に琴を再び弾くよう懇願。天皇はしぶしぶ弾き出すも、まもなく琴の音は絶えた。火を点して見ると天皇はすでに亡くなっていた。驚き恐れて、遺体を殯宮アラキのミヤに移し──〈更取國之大奴佐ヌサ而、種種求生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚之罪類、爲國之大祓而、亦建內宿禰居於沙庭、請神之命。〉(訳:さらに国の大幣を取り寄せて……など種々の罪の類いを求め、国の大祓を行い、また建內宿禰が沙庭で神託を請うた。太字凡夫)
古事記編纂時点で区分けが無かったとすれば、なぜ延喜式や皇大神宮儀式帳*6において区分けが行われたのか──《大祓詞に天津罪としてかかげられている罪は、神代史の物語におけるスサノヲの命の犯した罪*7》であり、そのため天津罪として一括した。なんとも単純?!。後に罪の中身を覗くことにする。
*6[皇大神宮儀式帳]延暦23年(804年、桓武天皇)に伊勢太神宮司より神祇官に撰進された伊勢内外宮の儀式帳。共に両宮の祭祀、恒例の規式について撰録したもの。儀式帳における天津罪・国津罪=■天津罪:敷蒔・畦放・溝埋・樋放・串刺・生剥・屎戸 ■国津罪:生秦断・死秦断・母犯罪・己子犯罪・畜犯罪・白人・古久𣃥・川入・火焼罪(註:川入・火焼罪は記紀及び大祓には見られない)
*7[神代記「天の石屋戸」、及び神代紀「天の岩屋」、同一書(1〜3)から“罪”を抽出]
記:離阿・埋溝・屎散・逆剥
紀:重播種子・毀畔・放駒・放屎・剥駒
紀一書1:逆剥
紀一書2:塡渠毀畔・冒以絡繩・生剥
紀一書3:廢渠槽ヒハガツ及埋溝・毀畔・重播種子、捶籤クシザシ・伏馬
石母田は、応神紀や允恭紀の盟神探湯の記事が蘇我氏の伝承をベースにした可能性を指摘したように、仲哀記の大祓の記事が、その内容から筑紫国の伝承が吸い上げられて“国之大祓”に仕立てられたと推測し、さらに延喜式の大祓はクニグニに存在していたもので、それを基礎にしている、とみる。
この国之大祓の詳細は天武紀*8に記されている。
*8[天武紀5年8月条]〈詔曰「四方爲大解除オオハラエ、用物則國別國造輸。秡柱、馬一匹・布一常。以外郡司、各刀一口・鹿皮一張・钁一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稻一束。且毎戸、麻一條。」〉(訳:詔して「国々で大解除をしよう。供物は国ごとに国造は……郡司はそれぞれ……また家ごとに……」といわれた)
石母田は記事中の「毎戸麻一條」に着目する。この麻一條は《「皇太神宮儀式帳」等の「奴佐麻」》だという。仲哀記の大祓の引用文中(*5)にもみられる“奴佐”で、幣のこと。ここで麻一條が重要なのは、毎戸参加による“共同の行為”であるという点である。これも引用した允恭紀の盟神探湯記事(*2)で、諸人が木綿手繦をするのも、同様な“共同の行為”を示すものだ。
そしてこの《戸ごとに麻を祓物として出すという習慣は》やがて《貢租コウソの意味をもつ》ようになり、平安の世になると《『貞観ジョウガン儀式』(=✍平安前期につくられたとされる宮廷儀式書)や『延喜式』等にはみえ》なくなってしまう。
地方族長が主体となって各戸総出で営まれていた大祓が、大和朝廷へ主体が移ると定式化、様式化され、その実質を失っていった。そこで石母田は一転して、大化前代の段階から逆向きにその奥を覗こうとする。
★太古之遺法
スサノヲの命の乱暴と追放の物語において《書紀の一書*9は蓑笠を着て他人の家にはいるものを祓除する方法を、「太古之遺法」であるとのべているが、この「遺法」という表現は、大化前代においてすでに、かれらの時代に先行する一段階前の法の時代があったことが意識されていたことをしめしている。》
*9[神代紀・天岩戸・一書(第3)]天岩戸が開かれた後、取り押さえられた命ミコトは、手足の爪を抜かれ、罪の贖アガナいをさせられ、さらに神々に「速やかに“底根之国”に行け」と罵られ葦原中國から追放の憂き目。運悪く霖雨リンウ。スサノヲの命は青草を編んで蓑笠にしてしのぎ、神々に宿を乞うた。しかし神々は「自分の行いが濁惡ヂョクアクで追われ責められているのに、どうして宿を乞うことなど許されようか」とにべもない。風雨甚だしく、留まり休むこともかなわず、辛苦しつつ降っていった。〈自爾以來、世諱著笠蓑以入他人屋內、又諱負束草以入他人家內。有犯此者必債解除、此太古之遺法也〉(訳:これ以後、蓑笠をきて他人の家の中に入るのを諱イむのである。また束ねた草を背負って他人の家の中に入るのを諱むのである。もしこれを犯す者があると、必ず解除ハラエのバツを債オわされる。これは大昔の遺法である)
凡夫等の週刊誌的興味は、爪を剥ぐという拷問的刑法罰に向いてしまうが、それは当時においては“いま”の刑法罰にすぎない。石母田の注目点は、後代からみれば罰に相当しないような禁制、それを一書の記述者が「太古之遺法」と表現しているところであった。石母田はもう一つ太古之遺法に相当するものを紹介する。日本紀、大己貴命の項*10である。
*10[神代紀・上]〈夫大己貴命與少彥名命、戮力一心、經營天下。復、爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方。又、爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。是以、百姓至今、咸蒙恩頼〉(訳:さて、オオナムチの命とスクナヒコナの命は、力を合せ心を一つにして天下を経営オサめた。また地上の人間と家畜のためには、病の療法を定めた。また鳥・獣・虫の災を攘ハラうため、禁厭マジナイの法を定めた。このため百姓オオミタカラは今に至るまで恩をうけている)
《「鳥獸昆蟲之災異」は〜〜〜国津罪のひとつであり、それを解除する「禁厭之法」の最初の制定者としてオオナムチの命》を象徴化させた。「禁厭之法」は、大化前代においてもすでに《法的規範としての現実性をもたず、宗教的儀礼として記憶されていたにすぎない》ものの、《先行する段階においては、生ける法として機能した》──神話だけど神話じゃない。
★農耕社会以前、以後
石母田は、天津罪・国津罪を内容に添って仕分けし直す──@農業関係の罪(畦放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺等)A近親姦・獣姦B動物関する罪(生剥・逆剥・畜仆し等)C身体の穢や病に関すること(生膚断・死膚断・コクミ等)D災や穢(昆虫の災・高津神の災・屎戸)、と分別した。
この分類で罪の内容が一番理解しやすいのは@の農業関係で、石母田の論考の焦点でもあるが、先にA以下を覗こう。これらは原始の時代、「罪・穢・災」の区別されない時代と接続する。このうちAの近親姦は、現代においても母胎保護法により規制されているが、古代では獣姦と同列に考えられていたのをフロイト先生はどう説明なさるつもりか。Bはヒトと他の生命体が連続的につながっていると看做された、アニミズム、トーテム時代と接続する、現在の動物愛護法に繋がる? Cはよく解らないが、生膚断は殺人や傷害罪? 死膚断は死体損壊罪? コクミはせむし? くる病? 白人もこの中に入ってきそうだが、アルビノのこと? いずれにせよ、肉体の損壊も身体異常も、先天的なものも後天的なものも人為的なものも、同列にしか考えない、そういう認識の段階からの禁制である。Dは自然災害や疫病の類いだ。石母田がこの中に屎戸を入れたのはなぜだろうか。穢キタナいが自然災害ではない。分類の中に入らないから、その他扱い? この屎戸は、糞尿がつい最近まで農作の重要な肥料であったことから、@に分類する説も有力だ。
さて、この@の農業関係とそれ以外を別けているのは、それ以外が農耕のシステムが確立しなくても存在しうる規範であるのに対して、一方の@はどんなに遡っても、農耕が一定程度確立しない限り存在し得ない。個別にみると、畦放は、畦を壊してしまうこと、溝埋の溝とは、田に水を引き込むために掘った溝、水路である。樋放の樋も水を引くための設備で壊されてはたまらない。頻蒔は種を蒔いた所に重ねて蒔いて作物の生育を妨害する。
残る串刺、バーベキュー? 諸説あるようだが、石母田は『常陸風土記』や『播磨風土記』の記述等を根拠に、土地に杭を立てて、自分の土地だと勝手に主張する行為であると説明する。ようするに竹島にハタめく韓国国旗。石母田はこの串刺を特に注視すべきものとして俎上にのせた。大祓詞や儀式帳にあるこの串刺、実は記紀においては、日本紀・天の石屋戸のところで、一書の三番目で「捶籤」という漢字を当てて唯一登場する(*7)、農業関係の中では一番新しい罪と考えられる。
石母田はこの第三の一書について、《もっとも増補された後代的な伝承をしめすものであるが、それによって大化前代の古代人の理解の仕方が知られる。それによればアマテラスは天の安田、天の平田、天の邑井田という良田をもち、スサノヲは天の樴田、天の川依田、天の口鋭田等の悪田をもっていたので、姉の良田を妬んで種々の罪を犯すことになっているが、かかる物語に発展させられることは〜〜〜(✍これらの罪の記述から推して)すでに田地を永続的に経営し占有する共同体成員間の相互の権利侵害であり、私的な紛争であったこと》(太字凡夫)を示すものであると、指摘する。すなわち、土地の私的占有が大化前代において既に定着していた、ということである。大化の改新最大の柱の一つである公地公民制は、当時の実態と乖離した旗印だったのである。
★私犯と公犯の同居
石母田は、「後代的な伝承」の中に「大化前代の古代人の理解の仕方」を、旧と新が同居する過渡的な姿があったことを捉えた。
《天津罪における一つの基本的特徴は、私人相互間の不法行為や罪、すなわち私犯delictumが、共同体の神々にたいする他のさまざまな罪や穢悪と同一の系列をなす罪としてあらわれること、いいかえれば共同体にたいする罪、すなわち公犯crimenとして存在するということにある。》─私犯と公犯の二重性─《それらの罪は、その内容と性質からいえば、私犯であり、かつ穢悪や災禍と質を異にし、より発展した社会構成を反映した罪であるにかかわらず、国之大祓という社会集団の公共の宗教儀礼によって祓除されるというその形式からいえば、共同体全体またはその神々にたいする宗教的な罪sinとして、すなわち公犯として存在しているのである。》
石母田は7合目の律令段階に対し、大化前代を5合目、6合目の2段階に別ける。7号目は《私犯がそのままの形で私犯としてあらわれ、一切の宗教的外皮はとりのぞかれ、社会的な儀礼によってではなく、法と官僚の権威によって解決される》そういう段階である、とした。この考え方には若干の疑問を呈したいのであるが、とりあえずは石母田の論に添っていこう。
5合目は、《個別農業による田地の永続的な経営と占有が成立し、したがって土地に関する犯罪や不法行為が私犯として発生しながらも、まだその罪が宗教的罪として意識され、その解除は族長にひきいられた共同体の宗教的儀礼によっておこなわれるという段階》である。では、その中間の6合目とは?
宗教的外皮は、いかに脱ぎ捨てられたか、が焦点となる。この外皮とは、族長率いる古代小国家を国家ならしめている結合織である。また、一方、脱皮できていないとなれば、《律令法は地方に浸透する前提条件が欠けていることになろう。》──ディレンマ?
★デスポティック法制
ただ、族長の世界が明らかに5合目から一歩を踏み出している状況は、日本紀の「太古之遺法」(*9)といった認識や、「禁厭之法」(*10)を法以前の法と看做す認識など、旧時代の法制を振り返った記述から明らかだ。
石母田はさらに、その傍証として、『隋書』倭国伝を引く。飛鳥時代前後の刑法的な罰の有り様が概括されている。日本の外から日本がどう観察されたか。
《その要点は、@殺人・強姦・姦通は死刑、A盗は贓ゾウを量って物を酬いしめる、財なければ身を没して奴婢となす、B罪の軽重によって流と杖の刑罰あり、C獄訴・訊究において承引せざるものには、木を以て膝を圧し、強弓の弓を以て項ウナを鋸キョする、また小石を沸湯中に於いて競者を以て探らしめ、蛇を瓮の中において取らしめる、D争訟まれに盗賊少なし、等々である。》
天津罪・国津罪に入っていない罪があれこれあって、しかも皆オハライではなく、実刑が科せられる。Dの「争訟まれに盗賊少なし」はホッとする記述だが、実際どうだったか……。石母田はこの中でCに着目する。はじめの方で引いたクガタチ、神判制度(*1 *2)、ここでは獄訴・訊究とあるから、今で言う、留置所での取り調べ。石母田はこれに類するものを日本紀*11から引っ張り出す。
[継体紀24年9月条]任那に派遣された近江臣毛野ケヌの傍若無人な振る舞いを記述したもので、任那の使が奏上した言葉として「毛野臣はクシムラに居を構え2年、政務を怠り、日本人と任那人の間に生まれた子の帰属をめぐる訴訟でも裁定能力が無く、誓湯ウケヒユ(=探湯)で裁き、死んでしまう例も多く……」などと記されている。すでに探湯は神判の意を失い、自白強要の拷問。
また、石母田は『旧唐書』東夷伝*12も引き、《訴訟にさいして「匍匐而前」というようなところにあらわれている国家権力の専制的な権威》のあらわれと指摘する。
*12[『旧唐書』東夷伝]〈其王姓阿毎氏置一大率檢察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前〉(訳:其の王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これに畏附す。官を設くる十二等あり。訴える者は、匍匐して前に進み出る)
すでに、大化前代において、祓や禊の原始法制の中にいつの間にかデスポティックな族長支配の法制が染み込んできて、とってかわられてしまっていたのだ。
《大化前代の国造的族長層には、二つの側面の法的機能があったとみられる。一つは国之大祓等の宗教的儀式の主体となることによって、領内におこった種々の罪を解除するような機能であり、一つは族長権の一部をなしている検断権によって領内の人民の犯罪を断罪する機能である。》──族長のデスポティックな検断権は単純な垂直構造で検討不要だが、注目点は大祓等儀式での族長の位置づけである。
《族長は〜〜〜執行する主体には違いないが〜〜〜族長自身をさえ超越したところの共同的集団の宗教的・法的慣行に従属することによって、その法的機能を果たしているのである。》(太字凡夫)──ここでの重要な指摘は、族長自身さえ“超越”“従属”する宗教的・法的慣行である。
石母田は族長が率いる古代国家の内部構造に目を転じる──《族長の支配領域内部における小共同体間の紛争、その成員間の犯罪や不法行為や紛争の処罰および調停は、共同体の存立のために必要な法的機能であり、その機能を果たす制度が共同体の人民的制度として成立し得なかった古代日本の条件のもとにおいては、それは多かれ少なかれ共同体を超えた族長権力の機能として存在せざるを得なかったとみられる。》(太字凡夫)
太字に注目されたい。古代欧州にあって古代日本にないもの、それは小国家’sを先導し支配するリーディング国家に、その方法となる制度的バックボーンがなかった、と石母田はみた。ならばなにをもって小国家’sを隷属せしめたのか。それが「族長自身をさえ超越したところの共同的集団」だとするのである。
石母田はこのような関係の典型として出雲国造の例や、大化前代においては既に体制内に組み入れられ消滅した県主制度に言及するが、石母田から学ぶべき言葉は次のところであろう。
《国之大祓的なものは、現実には法的機能を果たさない儀式的・形式的なものではあっても、そのような共同体的な法習慣を集団的儀式を継承することによってのみ、デスポットの支配は現実には存在している。そこから解放される面もデスポットの特徴であるが、同時にそれに拘束される面も忘れてはならない》──国之大祓的なものが傍目からは形骸化されチョンチョリンコ程度にしか見えなかろうとも、それがデスポット体制を支えるカナメなのであり、また支配者側はこのチョンチョリンコの護持を廃棄できないどころか、日々刻々遺漏なきよう守護しなければならない義務が課せられたのである。
《律令の規定には、天皇の統治権についてはなんら明確な規定がない。これは律令制における天皇の法的地位をそのまま反映するものではもちろんないが、その特徴の一つを表現しているものではある。》──もう一つ意味を取りにくいが、ここは勝手に、天皇は法の上空に位置し制空権を掌握しているというふうに解釈したい。制空権は一見実質がないようで、実際は強大な力となっていた。
★〈死後〉譚と〈生誕〉譚
さて、大化後の姿、《私犯がそのままの形で私犯としてあらわれ、一切の宗教的外皮はとりのぞかれ、社会的な儀礼によってではなく、法と官僚の権威によって解決される》に対する若干の疑問、いや大いなる疑問であるが、たしかに「一切の宗教的外皮はとりのぞかれ」たかもしれないが、それは外見される各戸こぞっての集団祭儀などのことであり、様式化され短絡化された原始祭儀は、世襲王権のなかにしっかりと秘宝のごとくに、“現代”まで温存されてきたのである。以下は吉本隆明の祭儀論。
吉本の共同幻想論はエビデンスデータの多くを柳田国男の『遠野物語』と『古事記』に集中化しており、特に古事記については、凡夫などは、神話の読み方はなるほどこのように読むべきものなんだ、と教わったりもした。「祭議論」の項では、イザナギが、死んだイザナミを追って死後の世界へいく説話と、海の神の娘、豊玉姫の出産の説話がまず対比される。いずれも女が「覗かないで」と言ってるのに、男が覗いてしまった、説話によくある筋立て。
《この〈死後〉譚と〈生誕〉譚とはパターンがおなじで〜〜〜男が女の変身にたいして〈恐怖〉感として疎外され、女が一方では〈他界〉の、一方では「本国の形(✍鰐)」の共同幻想の表象に変身するというパターンで同一のものである。》(『共同幻想論』河出書房版、以下同、「祭儀論」、太字凡夫)
男が共同幻想の外に投げ出され、女が共同幻想の表象に変身する。かくなる観念のもとで排除されたイザナギは必死で逃げ帰る他なかったし、豊玉姫は故郷の海に帰ってしまった。この二つの説話、「アラ見てたのネ〜」的説話はどんな時代を象徴しているのか。それは狩猟、漁猟、採取的生活の段階から、つまり自然に働きかけ自然を我がものにする度合いのいまだ低い段階から、農耕という明らかに共同の力をもって、自然へ組織的に働きかける段階への、過渡的な時代に合致している。
吉本は同書の「起源論」で、逃げ帰ったイザナギが清祓を行ったシーンにおいて、〈醜悪な穢れ〉を祓うことの背景を捉える──《人間のあらゆる共同性が、家族の〈性〉的な共同性からはじまって社会の共同性にいたるまで〈醜悪な穢れ〉であるとかんがえられるとすれば、未開の種族にとってそれは〈自然〉から離れたことの畏怖に発祥している。》
自然からの乖離の距離はそのまま自然からのしっぺ返しの強さを表す。もちろん、自然がしっぺ返しをするはずはないので、そのような仮象を呈するということだ。解りやすい譬喩を使えば、千年に一度の津波で破壊された原発。120%人災なのに天のしっぺ返しのような仮象を呈する。
★五穀の起源説話
前に戻って、では、採取経済から農耕経済への移行期において、ご先祖様たちは天のしっぺ返しの仮象をどのようにすり抜けようとしたのか。
《男のほうが〈死〉の場面においても〈生誕〉の場面においても場面の総体からまったくはじきだされる存在となる度合いは、女のほうが〈性〉を基盤とする本来的な対幻想の対象から、共同幻想の表象へと変容する度合いに対応している。『古事記』のこのような説話の段階では、〈死〉も〈生誕〉も、女性が共同幻想の表象に転化することだという位相でとらえられている。》
死と生誕が対立するものではなく、循環するものとごく自然に認識されていた時代において、女性の〈性〉が共同幻想の表象へ変容するということは、実際的にいかなることを意味するのか。それは実に単純といえば単純な話で、子の誕生が五穀の収穫と同置されたのである。そこで大変なことが起こる。
吉本は古事記から五穀の起源の説話を引く。高天原から追放されてハラ減らしのスサノヲは食物をオホゲスヒメに乞う。するとヒメはカヒガヒシク食材を調達し料理してくれたのであるが、調達先はなんと鼻口尻! スサノヲ「穢汚キッタネ〜」とヒメを殺してしまった。するとヒメの頭から蚕が生ナり、目耳鼻陰ホト尻に稲種粟小豆麦大豆が生ったとさ。
五穀を生み出すための肥コエは穢い? 穀類の生死の循環に人間の生死の循環を無理矢理に同置!? 生贄の始まり? まあ、作り話だから、と思ってたら、吉本は文献から実際例を引っ張り出してきた。石田英一郎の『古代メキシコの母子神』に記述された古代メキシコのトウモロコシ儀礼、吉本は次のように紹介する。
《古代メキシコの「箒の祭」では部落から択ばれた一人の女性を穀母トシ=テテオイナンの盛装をつけさせ殺害する。そして身体の皮を剥いで穀母の息子であるトウモロコシの神に扮した若者の頭から額にかけて、彼女のももの皮をかぶせる。若者は太陽神の神像の前で〈性〉行為を象徴的に演じ懐胎し、また新たに生まれ出るとされている。》
採種から農耕への飛躍は、もうひとつ酷たらしい風習を生んだ。それは姨捨である。
“しじま”を破った人類は、生死循環に対して時間概念を獲得したに違いない。というよりも、生命体の生死は時間によって律せられているはずである。にもかかわらず、現代においても、他界、すなわち死後の世界を、彼岸という空間的に捉えることが凡夫らに存するのはなぜだろうか。
吉本は、この時間の空間化という変換が、経済の土台を農耕にシフトすることにより虚構され、姨捨という慣習が生み出されたとみた。
《ほんらい村落のひとびとに対しては時間性であるべき〈他界〉が、村外れの土地に場所的に設定されたのは、きっと農耕民の特質によっている。土地に執着しそこに対幻想の基盤である〈家〉を定着させ、穀物を栽培したという生活が、かれらの時間認識を空間へとさしむけたのである。》(前出同書「他界論」)
★奥能登の新嘗祭礼
話を「祭儀論」に戻そう。穀母神に模された女を殺して豊作の約束を取り付けるという原始社会が生み出した酷たらしい祭儀から、ステップアップした、整った祭儀の姿として、吉本は池上広正『田の神行事』を引く。奥能登での、新嘗の祭礼(アエノコト)である。
この儀礼を概観すると、12月5日夕に田の神を家に迎え、入浴(神の禊)させてから宴を催すが、料理は二膳用意され、「二匹腹合わせ」の魚や大根が据えられる。また、種籾入りの俵(タネ様)が並べ置かれる。そして明くる年の2月9日に同様のもてなしをする。翌10日に「若木迎えの日」と称し、山へ向かい枝振りの良い松を選んで豊作を祈り、その枝を刈って持ち帰る。さらに翌11日は「田打ち」(鍬はじめ)。苗代田へ行き東方に向かって松の枝を立て、豊作を祈願する。
吉本はこの祭礼を次のように解く。まず料理が二膳用意されるのは、田の神が男女ペアで来訪するということ。そして腹合わせの魚や大根は《一対の男女の〈性〉的な行為》の象徴。さらに2か月間の逗留において、田の神が死に《かわりに〈子〉が〈生誕〉》する。若木(松の枝)は《おそらくは穀神のうみだした〈子〉を象徴する。》
凡夫の勝手な感想を挟ませていただくと、一見、この奥能登の一農家の祭礼は、古式ゆかしいようでもあるが、実際は凡夫らが、正月に松飾りをするのと地続きのようにも思える。もし原始社会での祭礼であるならば、神と民は憑いたり憑かれたり相互干渉が起こり、その極端な例が「箒の祭」であろうが、奥能登の例は神と民の間に、祭壇とこちら側のごとくに一線が画され、受胎・出産・死は神のみの中で展開され、相互の干渉はない。あえて原始性を遺しているところと言えば、2か月にも及ぶ受胎・出産・死のための“時間”であろう。
★大嘗祭を解体する
吉本はここでこの古式ゆかしい農村の祭礼と天皇の大嘗祭を突き合わせる。そして次のような問いかけと、結論を出す。
問い:《いま、この奥能登の農耕祭儀にしめされるような民族的な農耕祭儀を、〈空間〉性と〈時間〉性について〈抽象〉するとき、どういう場面が出現するであろうか?》、答え《この問題が農耕社会の支配層として、しかも農耕社会の支配層としてのみ、わが列島をせきけんした大和朝廷の支配者の世襲大嘗祭の本質を語るものにほかならない。》
ここで吉本は、大和朝廷が、ヤポネ列島の土着信仰から迫り上がってきた国家だといっているわけではない。その政と祭を形作る根幹が牧畜社会でも騎馬民族でもなく、“農耕”にほかならないことを強調しているだけである。
論点は〈抽象〉にある。石母田は大化後を「一切の宗教的外皮がとりのぞかれ」た段階と本当に見ていたかどうかは、彼の論考を精査しないとわからないが、問題は外皮は剥けたが、心臓部になんか残ってるぞ、ということである。
《天皇の世襲大嘗祭では、民族的な農耕祭儀の〈田神迎え〉〜〜と〈田神送り〉〜〜とのあいだの祭儀時間は、共時的に圧縮されて、一夜のうちに行われる悠紀ユキ殿と主基スキ殿におけるおなじ祭儀の繰り返しに転化される。》
悠紀殿?主基殿? 神に供える稲を収穫する齋田イツキタは、大嘗祭が行われるごとに2か所、卜定される。ちなみに今上天皇の時は秋田県(羽後)と大分県(豊後)。そこから取り寄せられた稲はそれぞれ悠紀殿、主基殿、に供えられた。なんで2か所に?卜定して?
折口信夫の解説、昭和天皇即位の時の講演録──《大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて〜〜〜古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。》(『大嘗祭の本義』)
大先生が知らないのに凡夫が知るはずが無い。吉本はこれを〈田神迎え〉と〈田神送り〉であると解釈したのである。なかなか説得力がある。ただ、卜定するなどして、周辺国からわざわざ取り寄せる仕儀となるは、周辺国との絆を堅固なものにするための策だったのか、直轄田拡張策だったのか。
《民族的な農耕祭儀は、すくなくとも形式的には〈田神迎え〉と〈田神送り〉の模倣行為を主体としているが、世襲大嘗祭では、その祭儀空間と時間とが極度に〈抽象化〉されているために〈田神〉という土地耕作につきまとう観念自体が無意味なものとなる。》──宗教的な外皮が剥がれ落ちてしまった、が──《そこで天皇は祭司であると同時に、みずからを民族祭儀における〈田神〉とおなじように〈神〉に擬定する。かれの人格は司祭と、擬定された〈神〉とに二重化する。》
この“二重化”の論述については、折口が非常に類似した表現を『大嘗祭の本義』で行っている。
《大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。》
おそらく吉本は折口から大ヒントを得たのであろう。次の吉本の文章は折口から得たヒントと、奥能登の祭儀を合体させたものだ。
《悠紀、主基殿の内部にもうけられた〈神座〉にはひとりの〈神〉がやってきて、天皇とさしむかいで食事する。民族的な農耕祭儀では〈田神〉は一対の男・女神であった。大嘗祭で一対の男女神を演ずるのは、あきらかにひとりの〈神〉とみずからを異性の〈神〉に擬定した天皇である。》
悠紀・主基両殿に寝所が設けられていることも『大嘗祭の本義』で記述されている──《大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐シキネ・衾フスマがある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である。》──折口によると、鎮魂とは魂をしずめることを意味しない。魂を挿入することである。吉本はそこで次のように解釈した。
《悠紀、主基殿の内部には寝具がしかれており、かけ布団と、さか枕がもうけられている。おそらくはこれは〈性〉行為の模擬的な表象であるとともになにものかの〈死〉となにものかの〈生誕〉を象徴するものといえる。》
天皇制の中核部分に古代信仰が抽象化されて現代まで鎮座している。数年後に大嘗祭が行われる方向にあり、大嘗祭が先か凡夫の棺桶が先かはわからぬが、ここでも情報公開がどこまで進むのか見物だ。

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