2017/6/13
詩人井川博年は、市井の人間模様を主要なモチーフとし、珠玉の短編映画のような作品を創作し続けてきた本格的な抒情詩人というのが、定まった評価ではないだろうか。
私はそれを全面的に首肯しようとしたが、しかし、そのようなくくりで済ましてよいのかと自問した。作品に入り込むうちに、私の読みが足らない事に気づいた。井川博年の詩は決してそれだけでは済まないスケール感を蔵していたからだ。
最新詩集の『夢去りぬ』(思潮社)に収められた作品の多くは、自身の過去を振り返ったものであるが、同時に作者のこれまでの七十余年の人生に丸ごとぴったりと密着した日本社会のありさまが、抒情の奔流に従い、圧倒的な実感を伴って、読者の胸に迫って来る。
日本社会は、この期間、「文明」的に垂直進化してきた。現代詩は「文化」への関心と親しく、殊に「欧米文化」との比較対照が詩人に深い影響を与えてきたことは疑いようがないが、「文明」という視点では、どうだったか。
井川は設計士(それもたたきあげの)としての長いキャリアを持っている。建築設計は、まさしく文化と文明両面への視点が欠かせない。その職業的な視線が、作品の中に結晶されている。
父は汽車が好きだった。
一代で船会社を興した父は
明治人らしく新し物好きで
汽車に乗るのが大好きだった。
(中略)
母は飛行機が好きだった。
父と一緒の時は汽車に乗ったが
父が死んだ後は飛行機に乗った。
「好きな乗り物」(『夢去りぬ』)
汽車、飛行機という文明の産物に対する両親の嗜好が、簡潔に描写されている。結語で作者自身は船が好きであることを明らかにするので、上の詩行は、そのための前段として読み落としやすいが、両親の乗り物への愛着は、同時に我々日本人全般の文明享受の経験が描出されているのだ。こうした文明への目は、決して近作だけに現れるものではなく、初期詩集の中にもすでに散見される。
プラスチックで作られた普通の水道の蛇口の
二十倍も大きな蛇口が
「かすみ草」(『花屋の花 鳥屋の鳥』)
この正確な観察眼は、文明と“無私”に対峙する井川の姿勢を如実に示している。さらに、
公園にたどり着くと広大な敷地の中に
昔の民家を移築した「江戸東京たてもの園」というのが
あって
私は入園料三百円を払い財閥の三井八郎右衛門邸を見
「山林に自由存す」(『そして船は行く』)
何かが起きるかもしれない。
で、昼に吉野屋の夏の季節限定の
「うな丼」六八〇円を食べたのだが
何も起きなかった
「うな丼」(『夢去りぬ』)
なぜ、“入園料三百円”と書くのか。“「うな丼」六八〇円”などと下世話なことをわざわざ入れるのか。この解釈として、「生活派の詩人だから」というのは半分しか答えてはいない。これらの価格は、文明の記録なのである。詩人には文明を記述する責任があるのだ。井川は、決して自らが経験を結んだ通俗事象に淫して自然主義的に再現しているのではない。詩的技法や比喩では決して置き換えることができない現時点の我々の文明水準の実相を的確に汲み上げているのだ。そこには抒情的な一行も入る余地がない。
古い農家など一軒もない。
ソーラーパネルを屋根に置いた
ガレージ付の家があったり
バンガロー風の家があったり
「明るい帰郷者」(『夢去りぬ』)
帰郷者が久しぶりに見る風景に、“抒情詩人”の井川は感情移入しない。ただ文明の様態をクールに叙述するだけである。これが例えば清水昶の詩では、
いのちを吸う泥田の深みから腰をあげ
髭にまつわる陽射しをぬぐい
影の顔でふりむいた若い父
風土病から手をのばしまだ青いトマトを食べながら
声をたてずに笑っていた若い母
「少年」(『少年』)
のような、メタフォリカルに再現された故郷へのホットな抒情となる。文化を撃つ詩人の傾斜と見事な対照を成している。井川のこうした表出は、詩というよりもむしろ行替えされた散文ではないかという皮肉の声が聞こえてくる。
違うと思う。
散文においては、風景描写は物語を展開するための道具立てである。しかし、詩は一語一語がそれ自体、目的である。何の目的か。詩の実現である。だから、入園料三百円は情報ではないのだ。市井の描写だけではないのだ。
生得の抒情性と職業が要請する文明を見る眼の彫琢を以て、いつからか井川博年は、時代を狂いなく検証する詩人として、我々に現代詩の可能性を提起し続けている。
その集大成が『夢去りぬ』であることは言を俟たない。
※井川博年著『夢去りぬ』・思潮社刊・16.10.15
四六判・128頁・本体2200円
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2017/3/7
頭と心、うまくいっているうちはいいが、かみ合わなくなってくるとさあ大変。この不思議な両者の関係を、凡夫らレベルでも理解できるように説明してくれたのは三木成夫。その三木の論考に頻出する語、「波」「螺旋」「リズム」「大宇宙・小宇宙」「極性」、これらはルートヴィヒ・クラーゲス(1872-1956、ドイツ、生命科学分野の在野思想家)の思想をベースにしたものである。直接当たることで理解を深めたいと思ったものの、ドイツ人。しかも難解極まりないとの噂。あきらめかけていたところ、実に丁寧な翻訳、注釈、解説つきの、しかも彼の思想の中核的論考、さらに長文でない、というやつを見つけた。『リズムの本質』(Vom Wesen des Rhythmus、杉浦實訳 みすず書房)である。どこでもドアを開いて中へ。
◇リズムvs拍子
《リズム(Rhythmus)と拍子(Takt)は異なる由来をもち、その本質の相反性 は生命(Leben)と精神(Geist)の対立 から派生する》(太字凡夫)──リズムと拍子は由来が別? 相反する? のっけから開かずのドア。ただ一方の、生命と精神の対立、これは肉体と魂に置き換えればまあわかる。ヤポネ島民は幽体離脱など特に不思議なこととは思っていない。いずれにしてもこれを対立するものと捉え、それがリズムと拍子の相反性を惹起させているのだというのである。これが本書のTheseであり、後者の対立から派生した前者の相反性をどう止揚しうるかが、本書のテーマということで、物語を辿っていくしかない。
◇現象vs事物
〈リズム〉の定義──「リズムは[時間]的[現象]の[規則]的[分節]である」「〜〜〜 [反復]である」「〜〜〜 ある[規則]の[時間]的[現象]である」([ ]は凡夫)──なるほどね〜なんてわかったフリをしてはいけない。[ ]で括った言葉、リズムが[現象]であるとしたことはよしとして、あとの[時間][規則][分節][反復]とかの言葉は間違っているか言葉足らずなのだという。
ところがクラーゲスは、定義の問題を後回しにして〈現象〉(Erscheinung)について語り出す──《リズムが現象の世界に属するとすれば、それは事物(Ding)の世界に属さないということである。》──リズムは昆虫のようにピン留めして標本にすることはできそうにない。事物として捉えるのが厄介だから、〈現象〉そのものをキャッチしなければならない、ということか。
《現象の世界に関する学問は現象学であり、事物の世界に関する学問は事実の学、あるいは原因の学である。》──リズムの探求は現象学でいくしかない? どう違うの? その違いは〈机〉の例で紹介される。ただし、机自体ではなく、捉える人間側の状況により机の現象像が変化する様が語られる。
《わたしの書き机は(✍事物としては)つねに同一物であり、しかも、異なる時におけるわたしにとっても〜〜 他の人びと〜〜 にとっても、同一物である。》
ところが、〈私〉の感官を通した机の姿は、昼・夜、私の気分、状態、また、幼児の見る目と老人の目でも違ってくる。初めて出会った印象と馴染んだ段階での印象もまったく違ってくる。さらに対象物に馴れてしまうと存在すら気にしなくなり《世界現象に関するわたしの体験 からなにかが滑り落ち》てしまう──《現象の世界はそれゆえはてしなく続く変化と逃亡のなかにあり〜〜 事物の世界はいわば無時間的、固着的である。》
「変化と逃亡」のなかにあるのは〈私〉ばかりではない。〈机〉は、優れた職人の手で作られれば、千年もの生命を持てるだろうが、リンゴとか梨とかに入れ換えればすぐわかるように、現象する対象物も「変化と逃亡」のなかにあるのである。
現象する対象物とそれを捉える人間の体験 像がかくも可変的で、一体現象をどうやって正しく捉えられるのか。クラーゲスは、人間が外界の事象を感官によって感得する、つまり人間の〈感覚〉を〈直観(✍Anschauung)能力〉と名付け、その対象を〈直観像〉と呼んでいる。“観”は観ることに特にこだわっているわけではなく、五感を取りあえず代表してということらしい。加工したり解析する前に、直ジカに観じる、ということであろうか。「変化と逃亡」の両者(だからこそ)の出会いの場である。以下の文は、笛の音を例示した判じ物であるので、笛の音に合わせて勝手に注釈を加えた。
《直観像(聞こえてきた笛の音) が現存する(笛の音である) ためには、生命事象(発せられた笛の音) を(金太郎飴のように) 分割した時間的断片(金太郎の顔) のひとつひとつが、ほかならぬその断片系列(Reibe)の恒常性(棒飴のどの断片も皆、金太郎の顔であること) によって、すなわち、とにかく(笛の音が) 変化してゆく直観像要素の類似性(高低、強弱にかかわらず皆笛の音であること) を体験することによって、相互に連繋を保っていなければならない。》
人間は前頭葉を肥大化させてはいても地上の生命体の一種であることから抜け出せたわけではない。生命体であることと肥大化した前頭葉との接点に、現象を直に捉える〈直観〉がある、ということにしておこう。
◇加工vs造形
いよいよ拍子vsリズムに突入する。まずは〈拍子〉。
《耳をすませて振り子時計の音を聞くと、「タックタックタック」とでも表わしうるような音が聞こえるようには思わない 。「ティックタック」の言葉で音象徴化されているあの交換音がたしかに聞き分けられるのである。》
時計の振り子の音を精確に聞きとれば、ティックタックよりタックタックの方が、より実際の音に近い。それをなぜか人間はこの単調な機械音、同音の繰り返しを〈強弱〉や〈弱強〉、二拍子に翻訳、括り付けているのである。オォなんと、人間は単純な一音の繰り返しを二拍子にして音楽化に向かう! この凡夫の単純発想は、当面は棄却されてしまう。が、結語部分で拾い上げられる(揚棄)ことになる。それはさておき、欧州の哲学者達はどう捉えたか。
《ほとんどすべての研究者は拍子づけ(Taktung)のなかに〜〜 ひとつの〜〜 はたらき を認めた。この働きは、われわれの印象の分節化をたすけ、把握力によってものを洞察し〜〜〜 直観世界を内面化するのを容易たらしめてくれる。》──クラーゲスはここに欧州哲学の認識論の展開をみるとともに、その“思い上がり”を指摘する。なにを思い上がったのか。
《直観像の加工(Verarbeitung)と直観像の生産(Hervorbringung)を混同》──現象像にチョット手を加えただけのことなのに、自分達が生み出したと錯覚した──《研究者は、内面化のなかに内面化の実体である分節のはたらき(Einteilungsleistung)を認めようとせず、内面化は、形なくしてはさながら混沌たる現象世界の偶然性にまず形(Eidos)を与える、そういう造形のはたらき(Formgebungsleistung)であるとみなし、現にみなしている。》──花鳥風月は人間がいなくても美しく舞っている。
《現象世界──すなわち〜〜 自然(Natur)──は、宇宙のもっともはるかな星雲塊やうずまき星雲から、極微のバクテリアあるいは滴虫(✍繊毛虫)にいたるまで、つねに すみずみまで形のととのった姿をしている。そしてそれを混乱させ、攪乱させ、ときどきはおそらくまったくの「渾沌」状態に陥らせる仕事が人間ためにのみ残されていた!》──本論考が発表されたのは1923年、ドイツは第一次世界大戦後、ハイパーインフレのサナカである。時代状況に対する怒りが炸裂した?。
まだ説明されていない、〈リズム〉に話が言い及ぶ──《リズムは──生物として、もちろん人間も関与している──一般的生命現象であり、拍子はそれにたいして人間のなすはたらきである。リズムは、拍子が完全に欠けていても、きわめて完成された形であらわれうるが、拍子はそれにたいしてリズムの共働なくしてあらわれえない。》──拍子付けは、宇宙から滴虫まで貫く生命リズムを、人間が人間としての認識と表現に繰り入れるための作法として編み出したものだ。
クラーゲスはリズムと拍子の違いを次のように譬喩する──《もしかりにリズムが拍子と等しいとするならば、肩のこるほど正確にメトロノームにしたがって演奏する初心者の方が、メトロノームどおりに正確にはけっして演奏しない専門家よりも、詩句を韻律にしたがって朗読する子供の方が、韻律どおりにはけっして読まない朗詠家よりも〜〜〜 リズムの完全性の点において優る》──なるほど、リズムと拍子は別物である。しかし凡夫は、エ? と思いなおす。演奏も朗読も“人間のなすはたらき”ではないのか。となれば、優れた演奏家や朗読家は、なんらかの方法で拍子とリズムの相反する壁を乗り越えて、リズムの世界に踏み込み得たということになる。いやいや、まだリズムとはなにか、に辿り着いていない。リズムの話の入り口に戻ろう。
◇分節vs不断
クラーゲスはリズムの特徴を語源から当たりを付ける。ギリシャ語のrheein (流れる)に由来するところから《不断に持続的なもの》とした。振り子音は、タックとタックの間に隙間がある。拍子に変じた場合、ティックとタックの間は密着したが、つぎのティックタックとの間に依然として隙間がある。
クラーゲスは巻き尺と垣根の杭を例示する。巻き尺はズルズル延びて持続的だが、規則的間隔で引かれた線は持続性を遮る。垣根の杭もリズムっぽいが、明らかに空隙がある。ならば隙間が無ければ、リズムか、もちろんそんなバカな話はない。高みから石を落とせば、たしかに隙間無く落下していくがとてもリズムとはいえない。やはり、リズムとなれば分節がほしい、アンデュトロァ、ドドンッパ──分節あり隙間あり。《不断に持続的》でかつ《分節されていく系列の形態をとる》ものは?
そこで水波が例示される。波の運動と二拍子との比較──《抑音が揚音に続くとおなじく、波の谷は波の山に続く。両者は境界を画する働きをする打拍に相応する。ところが、その打拍は〔境界が〕明確でないのである。中間位置が無限に変移するのにあわせて、上昇運動は下降運動へ、下降運動は上昇運動へ滑らかに以降する。したがって、上部の転向点にも下部の転向点にも切れ目が生じない。そのかわりに、弧線のなかにまさしく認められる分節 によって、細分できない運動の持続性 が直観的 にはっきり現れてみえる。すなわち、交互に反対方向に揺れる持続的交換運動の結果、その持続性が静止位置によってあきらかにされる。》(〔 〕は訳者の書き加え=以下同、太字は凡夫)
なんとも精緻すぎる記述だが、波が拍子と違って、文節的持続性を直観像として提供しているサマを理解すればよし。
《拍子にはいずれも初めと終わりがあるが、波には初めも終わりもない》──波は寄せたり引いたりするが始まったり終わったりはしない。波も確かに分節がある。しかしそれは《ふつうの性質の境界ではなく、波の事象それ自体において区別されうる方向の対立である》
波の事例の付録として心臓の挙動も凡夫が勝手に加えてみる。その持続性──死ぬまで搏動し続ける。方向の対立──血液を送るための拡張と収縮。直観像──ドックン、ドックン、あれ? なんか隙間があるみたい? でも波も浜辺や岩場では砕ける!?。
◇覚醒vs睡眠
《西洋哲学は〜〜〜 生命と精神の混同の上に築かれている。》──西洋哲学は凡夫にとって遠い世界の話であるばかりでなく、〈生命〉とか〈精神〉とか、まじめに、何ぞや、なんて考えてみたこともなかった。
《われわれの肉体のあらゆる細胞がたしかに生きている(leben)ということは、細胞はまた生得(体験)している(erleben)のである。》──60兆個と言われていたヒトの細胞数は、最近の学説では37兆個ともされたらしいが、どちらの数にせよ、その一つ一つが生命体として体験 をし続けている?!
クラーゲスは滴虫を例にとる──《滴虫には視覚も聴覚も臭覚も味覚も、人間におけるような触覚もない。それゆえ、たしかにものを知覚する能力をもたない。それにもかかわらず、滴虫は刺激にたいして自在に適応し、逃げたり、求めたりする運動で示すごとく、たとえば、触覚的障害物を置いてみたり、照明を強めたり弱めたり、温度を上げたり下げたり、棲息空間の化学的環境を変えてみたり、さらにあれやこれやの刺激を与えると、それに反応する。》 ──この滴虫の挙動からクラーゲスは《体験の無意識性》を引き出す。
今では誰でも知っているが、20世紀にはいり医療の分野で抗生物質が見出され、結核をはじめ様々な感染症治療に朗報をもたらした。が、やがて耐性菌との闘いが始まってしまった。病原菌もウイルスも、もちろん滴虫も、種としての存続がかかっている。かれらは無意識下で体験を通じて自己革新し続けているからこそ、今がある。
〈無意識〉を裏返す。人間固有の精神の首座に鎮座しているのは〈意識〉(Bewußtsein)に他ならない。意識とは?──《意識はとりわけ回想能力であり、回想能力はとりわけ判断能力である。》──回想能力や判断能力とは、環界の事物や自分自身を対象化し、区別・認識する能力であり、それ自体は確かに生命活動である。しかし──《判断があるかぎり、生命がある》とは言えても、《生命があるかぎり判断がある、という命題は妥当しない。》
凡夫らは、一日の約1/3〜1/4睡眠状態にある。この最中、判断能力を休止させている。しかし生命体としての活動は休止しない。特に三木成夫いうところの内臓系は休みが無い。血流が止まったら死がまっている。経 験は覚醒時にしか重ねることはできないが、体 験は覚醒時・睡眠時を通貫して重ねられている──《覚醒と睡眠の時間的交替は生命のリズムの交替に根ざすのであり〜〜〜 持続的な〔生命体験の〕流れの中絶に根ざすものではない。》
覚醒と睡眠の波は精神(拍子)と生命(リズム)の波でもある。この両者の和解(止揚)についてクラーゲスは言及しはじめる。そこでは〈緊張〉と〈解放(弛緩)〉という言葉が代入される──《リズムに 拍子を感得するひとは、つねに新たにはじまる活動状態のなかにいる。》??──生きるための仕事が仕事のための命に転倒してしまっている企業戦士は、息を吸うことばかりに気を取られて、吐き出すことを忘れている。睡眠不足ですよ。エ? 不眠症? それで酒? かえって睡眠障害に! 浜辺の波打つ音を聞きに行きましょう──《波の動きを目で追うと、まもなく緊張が解けて、夢心地になり、状況しだいではついに眠りこんでしまう。》
「生きること」と「眠ること」とはおなじようなもの? いやいや、そういうことを言わんとしているのではない! 「リズムに拍子を感得する意識の世界」、この日常世界を転倒させ、意識の世界からリズムの世界へと回帰する道があるはず、ということ。
《浜辺の日没とか、恋人の姿とか、ベートーベンの交響曲とか、とくに自分の心 を襲い、捉え、感動させた例を各自選んでみるがよい。》──ロックやジャズやじょんがら三味線。眠りは誘わないが、忘我状況にはなる。
◇揺籃vs列車
《拍子体験は〔われわれを〕覚醒させ、その覚醒を保ち、リズム体験は緊張を解いて夢心地にさせ、ついにおそらくまったく寝入りさせてしまう。》──リズム体験の典型はゆりかご、列車・電車で眠りに誘われるのもこの揺籃効果にちがいない。しかし、昔の鉄道には機械的な拍子音がつきもの──ガッタンコットン、ガタゴトガタゴト。ところがこの拍子音自体《なにげなく聞いていて夢見心地になり、ついうとうとしてしまう》──覚醒とは反対の夢心地現象が拍子に内在している?
クラーゲスは、リズムカルな揺さぶり運動に着目し、フィンランドの「ルーネ歌」を紹介する。文章で紹介されてもワケワカメだが、まあ、感じが掴めれば──《二人のルーネ歌人がたがいに向かいあって坐り、たがいの手をとり、上体を前後交互にゆさぶり、ゆさぶり運動のリズムにあわせて歌を作りはじめる。そのとき、正歌人が伝承されたやり方に従って歌節を始め、随伴歌人がそれをくりかえして歌を閉じる。》──ヤポネ島の歌垣を想像すれば、大差はないと思われるが、ゆさぶり運動、というのがミソだろう。
《リズムと拍子が、本質的に異なる発生源をもつにもかかわらず、人間 のなかでたがいに融合しうる》接点が、このゆさぶり運動に所在する、というのである。
◇反復vs更新
段々拍子とリズムの融合点に近づきつつあるが、クラーゲスは両者の違いをもう少し突き詰めていく。
拍子が間欠的な〈精神〉の産物なのに対して、リズムは連続的な自然現象。両者の共通項は繰り返しにあるが、その繰り返しにも大きな差異がある。振り子時計は、反復する振り子の〈等時性〉に着目したものだ。一方の浜辺の波は、寄せては砕け散る動作を繰り返すが、波は次々と新たにつくられ更新していく──同一者の反復vs類似者の再帰、反復vs更新。
クラーゲスは、波のごとく《境界はけっして明確ではないが、おそらく明確に近い状態の中間時(Zwischennzeit)に交換するものとして》無数の〈リズム〉を例示する。それは宇宙、生命がリズムという現象に覆われていることを明示している。いや、宇宙、生命はリズムによって成り立っている、とすら言いうるものだ。
《明暗、潮の干満、月相、季節、植物界の諸形象》、身体においても《覚醒と睡眠、爽快と疲労、空腹と満腹、空腹と満腹、渇と水分嫌悪》、波状運動は海ばかりではなく《森や穀物畠や異動砂丘も風の影響で〜〜 》、再び身体にかえって《脈拍、呼吸、女性の月経〜〜 》。
人間も自然界の一部としてリズムを生きている。そして、このリズムを括り付ける、智慧を見出し、今日の“物的”反映を誇っている。しかしクラーゲスは次のように言う──
《反復は計算しうる(berechenbar)が、更新は評価しうる(berechenbar)のみである。》──智慧の実を食べて計算能力は巨大化したが、更新に手を加えることはできない。なぜなら人間もまた自然物であり、自然物が自然を従えることはできないのである。人間が死ななくなったとき、それはもはや生命体とは言えない。
古代への憧憬──《〔古代人によれば〕死者は生まれ出て来たところへ、母体のなかへ、すなわち、大地へ戻る、と考えられ、こうして、個体はすべて生命の隠蔽状態から、顕示状態を経て、隠蔽状態に戻るという円運動を意味し、円上の次の生命はすべて更新を意味した。》──母胎への回帰という点でクラーゲスの思想はフロイトに近似している。そう、クラーゲス現象学は“更新的”〈回帰思想〉なのである。
《細心に注意を集中してタクトを振る新米の機械的演奏と、完成の域に達した音楽家のリズムに乗った演奏とを区別するものは何か 、をわれわれはいまや知っている。後者の場合には、旋律の動きがあらゆる小節にはりつめ、生気ある震動で休止を満たしている。前者の場合には、ただ感じうる程度にすぎない〜〜 》──新米指揮者は楽譜を追うのが精一杯、カラヤンや佐渡裕のオケは拍子の隙間が消え失せて川のせせらぎや鳥のさえずり、時には風神雷神に同化している。
優れた芸術作品は皆、拍子からリズムへ、作り物から自然物へと向かう。職人芸もしかり、城の石垣を見よ!──《きわめて様々な継ぎ目の線によって織りなされる魅力的な多様性が壁面に生命を与える》──クラーゲスは中世の荒削り石の建築物を指していっているのだが、日本の中世の城の石垣だってそうだワイ。
◇空間vs時間
さて、リズム論はこれまで音楽や波や心拍など、時間で捉えられる例が中心だったが、城の石垣にリズムを感じたり尾形光琳の『燕子花図屏風』や『紅白梅図屏風』にリズムを感じるとなってくると、冒頭にあったリズムの定義に[時間]だけが結びつけられているのも、なるほどちょっと待てよ、ということになってくる。人間の「筆跡」や「樹皮の紋様」「クルミの殻の筋」「樹皮の裏側の木喰い虫の削り跡」にいたるまで、リズムは空間にも拡張されていく。
アンモナイト、星雲、恵方巻、蛇のとぐろ巻、ゼンマイ、時計の? いや植物の薇。なにも芸術家や一級職人を登場させるまでもなく、生命体自身が織りなすリズムの空間的表現が無数にある──《時間的であって、同時に空間的でない現象、または、空間的であって、同時に時間的でない現象は存在しない。》──時・空はコインの表裏なのである。
言語表現においても、時・空の入れ替わりは自由だ。空間現象の時間表現──〈道〉の例では「とおっている」「つうじている」「走っている」「曲がりくねっている」など。時間現象の空間表現──〈波〉の例では、波形として図解化され、「狭い・広い」「高い・低い」「強い・弱い」などと表現される。これら表現を〈喩〉と理解して間違いではないが、ただその役割は文章の〈装飾〉にあるのではなく、環界の諸現象を把握する〈認識〉に貢献していることを理解すべきだ。
そしてつぎのように要約される──《空間と時間は現実の現象において分かちがたく結びついた両極である。その結果、聴覚像においては、空間極は時間極に依存し、視覚像においては、逆に時間極が空間極に依存する。したがって、現象的には、空間的分節を伴わない時間的分節はないが、また同様に、時間的分節を伴わない空間的分節もない。》
先に、螺旋・渦巻きもリズムであると紹介したが、シンメトリー(symmetrie:相称)も空間的なリズムであるという。植物の葉や人間を含めた動物の身体(目・耳・鼻(の穴)・手・足)。やはり波と同じようにファジーで、まったくの対称ではなく、顔などにつなぎ目はない。顔を半分に分け、それぞれ鏡像をつくって繋ぐと、合成された二枚は別人のごとくになる、とTVでやっていた。
蜘蛛の巣の幾何学模様もケッコウ歪んでいる。しかし非生命体では正確な幾何学模様が現出する。雪の結晶。分子レベルでは、左右鏡像の形で結合している光学異性体。一方をR体、他方をS体と呼んでいる。医薬品のサリドマイドがよく知られており、R体に睡眠作用、S体に催奇形性がある。だから分離してR体だけで薬にしたらということで試みられ、分離技術も開発された、などというお話を昔承ったが、その後どうなったかは興味ある方は各自おしらべ下さい……脱線、されに続く。
文学表現におけるシンメトリーは〈対句〉である。折口信夫は〈対句〉の前駆体に〈畳句〉があることを教えてくれた。類同語、近接語、あるいは尊称語を重ねる。「夕やけこやけ」は対句というより畳句に近い。
話を戻すと、リズムは拍子を受け付けない、これがなんらかの条件、状況において、解消する場面がある。どんな場面か、最後のステージの直前──《自然現象には受容者の心の中にリズムの振動をひきおこす疑う余地のない力があり、その力がいかなる拍子をも暗示せしめない。》──しかし拍子からリズムへの道は“条件付で”拓かれる──《われわれがそのリズム価を拍子との対立性から展開させてきたあの二つの現象の特性を具えるかぎり、まさにそのかぎりにおいてのみ、人間の恣意的な拍子づけ作業もリズムの振動をおこしうるのである。》──二つの特性とは? 類似者の更新であること、文節的持続性をもつことだと、訳者は注記しているが……
◇生成vs消滅
《論がここに至れば、いまいきなり「リズムは対極的持続性 (polarisierte Stetigkeit)である」と、あえて結論的規定を試みてよかろう。》──極とはなにか。
《「極」(Pol)はもともと「旋回点」を意味し、つぎに、見かけ上球状をなしている宇宙の「回転軸の両端」の意味に用いられ、最後に、主として同時に現われるときにのみとかく反対の作用をおよぼしあう「ふたつの力」の意味に転じた。》
ところが当時、物理学の隆盛から“極性”(polarität)という言葉が一人歩きして、関係のない世界にまで流れ込んだ。+と−で世界が全て測れる! ロマン主義は世界両極論(Weltpolarismus)を展開したそうだ。
《すべての有機生命体の現象は〜〜〜 両極性の観点から、両極に対しては全体がそれゆえ第三者であるような、そういう両極性の観点から捉えられねばならないことを論証しうることによって、ロマン主義の哲学は太古の三数(Dreizahl)の神聖さの、これぞ決定的と思われるような起因を探り当てた。》──三数? 取りあえず、あなたと私とその他大勢、とでもしておこう。ロマン主義が探り当てた両極性の決定的な起因とは?──《ふたつの極は〜〜 おのずから、おのおのがみずからの存在のためにみずからを補う他の存在を必要とするところの、ふたつの交換不可能な異種の関係である》
しかし実際の生命の世界はそんなにキレイに分けられないので補足修正される──《ふたつの極の勢力はけっして均一化することなく、やはり必然的に差があり~~》──例示されるとわかりやすくなる──《たとえば、中枢神経系統と自律神経系統は対極的であると考えられているが、この考えが「頭」(Kopf)と「心」(Hert)の民間での区別に深遠な解釈を与えた。》──決算期で頭が痛い、不用意な言葉でヤツの心を傷つけた、これ民間での区分け。三木成夫の区分けは体壁系と内臓系。解剖学と発生学をベースに、両者の複雑な関係を、凡夫らレベルでも理解できるように説明してくれた。
ロマン主義は、ある枠組みでしか成立しない概念を無制限に拡張しようとした。それにも関わらず、大切なことを我々に指し示してくれた、とクラーゲスはみる──《──バハオーフェン(1815-1887、スイスの人類学者、文化史家、古代神話や象徴をロマン主義的に解釈、多くの資料に基づいて母権制を立証した=訳者註)いらい〜〜 古代や先史時代と一致した象徴語を使って──昼と夜、明と暗、夏と冬、生長と衰弱、生誕と死亡、貯蔵と分配、逗留と放浪、拘束と放逐、のリズム的交替のなかに、おなじく、天と地、太陽と太陰、火と水、男と女、上と下、前と後、右と左のリズム的交互性の中にも少なからず、生成と消滅 へと対極化する万象の姿を明らかに見出そうとした。》(太字凡夫)──リズム的交替においては──《類似した期間において類似した新しいものが生じるためには更新したものが消滅しなければならない。これが〜〜〜 リズムの名を帯することを要求しうるあらゆる前後(✍時間)関係ならびに並列(✍空間)関係の真意 である。》
クラーゲスは重ねてリズム存立の急所を強調する──《まず、分割されざる(✍持続する)運動状態が不可欠であり、つぎに、できるだけ類似したものができるだけ類似して再帰(✍反復ではなく更新)することが不可欠である。》
これで、リズムの本質は理解できた。だが、対立するリズムと拍子、生命と精神の止揚はなお可能性として語られているだけだ──《原則的にはただつぎのように答えうる のみである。拍子の名を冠する規則現象はなんらかの特質においてリズムとかかわりあうにちがいない。したがって、もし精神が生命に関与 すると確信しうるならば、規則現象は同時に、対立する力の結合点を意味するにちがいない。》──両者の結合点とは?
◇無拍子vs二拍子
両者の結合点を解明すべく、クラーゲスは無史民族に目を向けた。無史民族とは書き言葉(文献)を持たない民族。聞き慣れないので以下失礼ながら未開人と記述する。
《解明のすえ、期待したとおり、多かれ少なかれ未開人の全生活はいわば持続的リズムに振動していることをわれわれは知った。かれらは踊りながら神々の礼拝式を挙げ、踊りながらお祭りを祝い、踊りながら相手を嘲弄する歌をうたって喧嘩に決着をつけ、踊りながら戦争にでかけ、踊りながら合唱歌の拍子に合わせて重労働をする。》
では、未開人の歌・踊りにおいて、リズムと拍子はいかなる葛藤を繰り広げるのか。ベルリン「心理学研究所」の録音調査──《しばしばおこる不純な発声法、すべるような声の上げ下げ、なめらかな声の接続、数価をもたない息継ぎ〜〜〜 めずらしい音階とひじょうに狭い音程の使用〜〜〜 》──ここら辺は想定内だが──《研究者は少なからぬ場合に拍子に合ったメロディーの分節をまったく断念しなければならなかった〜〜〜 部分的にかろうじて補足しうるほどの大きな量をもった拍節群のほとんど間断のない交替によってのみメロディーの拍子的分節が満足されえた〜〜〜 しばしば三度の音程からのみ成り立つこれらの歌のなかでは、四拍子、三拍子、七拍子がさまざまな配列で続いたり、三拍子と五拍子、六拍子と七拍子、五拍子と四拍子などというふうな、拍子の組み合わせ形式がたえず交替して〜〜〜 》──前衛音楽?
クラーゲスはこの後、やや角度を変えて論を展開するが、そのスキに乗じて、最初の方で凡夫が呈した疑問をここで再び持ち出す。振り子の二拍子括り付け。振り子音は機械音であり、非リズム音だ。それをほぼ無意識に二拍子に括り付けることは、リズムとは言えないが波の上下動に重なる。これを反リズムと呼ぶとすれば、その内実は非リズムより反リズムの方が、よりリズムに親密と考えていいのではないか。イヤよイヤよも好きのうち? 正と非は突き合わせてもなにも生まれないが、正と反は合の道がありそうだ。
クラーゲスは凡夫らでも知っている生物の挙動、例えば、みかんの木をわざと痩せた土地で育てると甘みを増す、といった事例を紹介する──《障害あるいは欠乏〜〜〜 によってそれに遭遇する生命事象が高められるという事実〜〜〜 湿地ではわずか指ほどの長さしか根をはらない植物が、砂漠の砂のなかでは数メートルの深さの地下にまで根を伸ばし〜〜〜 》
多くの事例は不要だろう。植物をリズム、土壌を拍子に置き換えると、リズムに砂漠のような拍子を与えると、かえってリズムが躍動する、というふうになることもある。クラーゲスはさらに韻律の話を持ち出す。こちらの方が一段と説得力がある。
ニーチェは詩作について「鎖につながれたまま踊ること」と述べたそうだ。そうするとかえって自由になれる! マゾヒスト? 歌人や俳人に問えばよい。三十一文字や五七五・季語は鎖? 鎖があるからこそ豊かな表現が可能になる、と答えるだろう。狭いながらも楽しいわが家。
話はさらに散文へ。散文に韻律はない。アホな作家は小説に韻律を持ち込もうとする。しかしそれは於渋谷ハロウィン乱痴気作品になるしかない。韻律で物語はつくれるが、小説はつくれない。高度な小説は拍子(韻律)のないリズム(メロディー)を奏でる。それはちょうど拍子を拾い上げることのできない未開人の歌・踊りに符合する。
相当煮詰まっては来たものの、相変わらず拍子とリズムの接合点は朧月夜だ。クラーゲスは再び振り子の二拍子に話を戻す。なぜ単調な無拍子を二拍子に加工するのか──《二拍子にはただの精神だけでなく、それ以外になおなにかほかのものが関与しているにちがいない~~》──ほかのもの、といってもあるのは精神に対峙する生命、リズムしかない。二拍子に生命を吹き込む仲人はなにか。クラーゲスはウルトラC技(いまは死語だ!)を繰り出す、それは〈搏動〉だ、と。
《境界づけする精神行為に脈搏の往復運動がともに作動する》──二拍子の拍子付け加工作業には脈搏が加担する?──《ほんとうの脈搏はもちろん、韻律的なティックタックとはほど遠く、〔むしろ〕急に上昇し砕けて落下する波に似ている。》
フロイト的説明を加えよう。胎児は羊水という海の中で、誕生まで母の搏動(波音)を聞き続ける。二拍子は拍子の基本形であるとともにリズムの基本形でもある。街中で、三拍子で歩くヒトを見つけるのは大変だ。
しかし、それならなぜ未開人の歌は前衛音楽のようなのか。それは、多種多様な精霊に包まれたアニミズムの世界を模写しているからだろうか。それでもベースにあるのは二拍子なのである。未開人の舞踏会──《舞踏会に居合わせる幸運にかつて恵まれた人なら、たえずくりかえされる釜形太鼓の鈍い響きや、貝をぶらさげたタンブリンの明るい顫音や、そのうえきっと、踊り子たちの腕輪が動いてカチャカチャ鳴る拍子よい音さえも、どんな魅惑的な旋律 よりもはるかにわれわれの血をわきたたせ、意識を麻痺させるものか、を確信するであろう。》(太字凡夫)
魅惑的な旋律に選ばれしは、真夏チロチロと鳴くコオロギ、暗がりのヒキガエル、夕暮れ時の蛙──枕草子の趣。
さらに、川のなめらかな水音、瀑布の単調な落水音、バラつく雨の音、海の砕け散る波の音──これらの音に共通する秘められた振動(verborgene Oszillationen)のなかに、未開人の舞踏の伴奏音、非常にはやい顫動を伴う音との共通性が見いだせると述べる。舞踏の振動音は《あらゆる部分印象に息を吹きかけて、それを嵐のようなリズムの波のうねりに吸収してしまう。》
◇原始vs文明
《あらゆる自然造形物ならびにあらゆる芸術作品の直観的 価値はそのリズム価の内容と一致し、リズムにおいて万事片がつく。》(太字凡夫)──これが本論考の結論である。〈表現〉の、夾雑物を排除した裸の価値は、人工的〈拍子〉を止揚した〈リズム〉にあるということである。
ほんのチョット疑問を抱えながらも、大いに賛同できる結論が提示された、と思いきや、疑問がムクムクと持ち上がってきた。クラーゲスがさらに進もうとする道に、である。ほんのチョットした疑問はここにあった。
《「美学」上、伝統的にもっとも重要とみなされている問題、すなわち、リズムの「喜び」はなにに基づくか》──クラーゲスはここ(喜び)に進もうとする。喜怒哀楽の喜楽がリズムの本懐であり怒哀ではない、とする。変だ。勿論、こうした反論を予想して《いわゆる美学全〜〜 体からみて「喜び」(Vergnügen)という言葉はふさわしくない、ということばは別として》──と付け加えている。怒哀は棚上げされてしまった!
リズム体験の基礎に感動があり、さらにその根元に抑圧からの解放がある、とする。その証拠に、例えばダンスにおいて、怒る人と朗らかな人、老人と若者、シラフの人とほろ酔いの人、どちらがリズムカル? 確かに、後者がよりリズムカルではあろう。また、自己解放、忘我という観点からも後者に軍配が上がる。しかし自然のリズムは全てリズムカルであろうか。雷はリズムカルであろうか。地震や台風はリズムカルであろうか。地震は波動、台風は渦巻きの典型だ。
確かにこれらは生命体が生み出すリズムではない。しかし生命体が地球の表面ヅラの環境から生み出されたとするならば、生命体はこの表面ヅラと連続したものであるはずだ。で、あるからには、なにもリズムを「喜び」に括り付ける必要もないのではないか。そもそも喜怒哀楽は人間の側の感受性であり、それは肥大した前頭葉と心との乖離、葛藤から生み出されたものではないのか。リズムは宇宙リズム(地球リズム)を根柢として、表面ヅラリズム、生命体リズム、そしてそれらのコンプレックスにより成り立っている。ただし、生命体や地球表皮がどうあろうと、地球本体にとってはあずかり知らぬことであり、水爆が地表に何百発打ち込まれようとも、生命体が絶滅しようとも、地球は我関せず、自身の寿命を全うするだけである。
かなり脱線したが、勿論リズム喜び論によってクラーゲスの思想が揺らぐわけではない。クラーゲスの喜び論へのこだわりは、簡単に言ってしまえば、これまでの欧州思想が、文明側が未開側を見下すことに終始し、〈美〉の価値は、人間様が見出し、文明によって拡張し高次化してきたと錯覚してきた。このことを覆えさんがための所作であったに違いない。
クラーゲスは、未開人について、次のように記述する──《未開人とか自然民族とか呼ばれているいずれの種族でも、じっさいはそれぞれの文化 を所有しているのである。〜〜〜 かれらがいわゆる文化人と区別されるのは、文化を持たないことによるのではけっしてなく、たえず自己革新を行っているにもかかわらず、ここでは黙過してもさしつかえないような原因によって、かれらの文化が幾千年を通じておなじ状態にとどまっていることによるものである。》──黙過してもいいような些細な原因とは、地理的条件などで他の文明と接触する機会がなかったということであろう。
◇韻文vs散文
クラーゲスの思想がものすごく凡夫らにインパクトを与えているのは、人間の〈認識と表現〉を成り立たせるオオモトのプリミティブな形を示したことだ。もうおわかりのように、無拍子の現象を二拍子に括り付ける、加工することである。この作業を凡夫らはほとんど無意識に行っている。チクタクばかりではない、汽車はシュシュポッポ、電車はガタゴトガタゴト、雀はチュンチュン、小鳥はピーチクパーチク、蛙はケケケケケケケケクァックァックァッ。人間の認識と表現がそんな単純なことから始まっている? と、怪訝に思われる方には、コンピュータがスイッチのON OFFから始まっていることを思い起こしていただければよろしい。
この二拍子への拍子付けを言語表現へ結び着けたのもクラーゲスだ。拍子付けにより、リズムの時間的現象である波は〈韻律〉として表出され、言語表現のバックボーンとなり、空間的現象であるシンメトリーは畳句・対句として表出され、環界の事物の類同性や相称・対称・対偶性を吸収しながら言語の血肉を形成していった。
これは余談だが、クラーゲスが、非常に文学に精通していることを、散文に対する見解が示している──《完全な散文は完全な韻文作品と同じほど完全なリズムを持つ。しかし、韻文作品に拍子──が与えているような助力 を要求せずとも、完全な散文は完全なリズムを持ちうるのである。》(太字凡夫)
「助力」とは訳者が注釈している通り韻律を指す。つまり小説は、詩を土台としつつ成長し(伊勢物語)、もはや助力を不要とした段階(土佐日記、竹取物語)で、生み出されたものである。よくお母さん方が、子供の作文の指導として「お話するように書きなさいね」などと教えているが、あまりやくだたない。園児や学童が文章を“書く”ことに難渋する理由は、散文が“足場”のない(足場が海底に沈んで見えない)文であるからだ。
◇把握vs指示
さて「認識と表現」において、次は〈認識〉。例えばリンゴを、梨でもトマトでもないリンゴと認識しうる判断は、どう行われるのであろうか。
《あらゆる概念はふたつの種類の判断、すなわち、把握的判断(das begreifende Urteil)と指示的判断(das hinweisende Urteil)の基礎となりうる、と答えてよかろう。一方〔の判断〕は思考対象(Gedankendinge)に、他方は直観 世界(Anschauungswelt)に関連する。》(太字凡夫)──対象物がなんであるかを判断するためには、事物の概念を獲得しなければならない。その概念にもとづく判断には二種類あるのだという。
その前に概念とは? 辞書を引こう。『岩波小辞典 哲学』(粟田賢三・古在由重/編)──「通俗には事物の概略的知識の意味に誤用 されることがあるが、概念は事物の本質的な特徴(徴表)をとらえる思考形式である。」(太字凡夫)──日常、凡夫らはリンゴをその本質的特徴を捉えてリンゴと判断しているわけではない。すなわちこのような思考形式は、日常生活にはまったく役立たないということにもなる。
クラーゲスの提示した二つの判断とは何?──《概念は、判断において、あるときにはより把握的に、あるときはより指示的に働く。把握的〔判断の〕役割は数(量)概念 においてきわめて支配的であり、指示的なそれは質概念 において支配的である。》(太字凡夫)
「数概念」とは抽象的な把握を意味し、例えば赤と青の違いは、それぞれの光の波長を捉え、赤は610nm〜750nm、青は435nm〜480nmと把握する──《しかし、そのさい前提とされる赤と青の現象は把握されえない 。》──赤と青を日常的に判別するのは「質概念」による指示性、すなわち〈直観〉によってである。直観においては紫外線も赤外線も現象しない。
《持続的なもの(✍リズム)の現象 は理解力にとっては到達不可能な体験内実である。》──こう言われて凡夫ら素人は早合点して、人間は数概念に先立って質概念を獲得して、それを土台として数概念が築かれる、と考えてしまう。具象から抽象へ、である。
ところが、必ずしもそうではない。三木成夫がご子息を観察したところでは、数概念が現れる時期は「どうして」より先行して満2歳ごろとしている。「どうして」が始まる2歳半には三木さんのお子さんは1から9まで数えるようになったという。つまり、幼児は質概念と数概念を並行して取り込んでいくようなのである。
本論考においてクラーゲスはそのことに言及していない。ただ、〈リズム〉と〈極〉概念を合体させたクラーゲス理論においては、チックタックという人間の括り付け行為自体、両価的(アンヴィバレント)であるはずだ。つまり括り付け行為自体にリズムと拍子が並存している、ということになる。すなわち、概念構築という、他の動物では見られない“優秀”な行為も、三木の言葉を借りれば、質概念→内臓系、数概念→体壁系に還元される。両価的ということで、フロイト思想に大変親しい。
質概念を捉える〈直観〉は、生命たるリズムに依拠し、滴虫から人間までを貫く生物、さらには宇宙までの〈連続的〉通路をもっている。一方の数概念は、生物の多くが地球表皮の環境を因として、海に見放され、地にすがるなど、生の存亡にかかる宿命をもととしている。〈屈曲的〉階梯を踏み今日がある。
種の存続へと逃亡の末、前頭葉を肥大化させることでヒトへと流れ着いた人間は、慢心して、自然を我がものにできると思い込み、しっぺ返しをうけつづけている。前頭葉の肥大化はキリンの首や象の鼻と同じくらいに誇れるし、その程度のことでもある。せいぜい、人間がやれたことといったら、これまで、全生命体が潜在的に持っていた認識と表現を顕在化させたことぐらい。
巷では利権漁りが繰り返され、ここ掘れワンワン、八億円のゴミの山! 幼稚園児に教育勅語を歌わせて、アッキード首相万歳! カジノ大統領万歳! 鯨やイルカは海に帰ったが、人間は海には帰れない。
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2016/12/20
遠矢徹彦●さらばミラボー橋
櫻井幸男●レクイエム 鎮魂歌
堺谷光孝●夢の浮橋
越田秀男●『精神分析入門』――古代言語の光景
★★★
野崎守英●鷲田清一『折々のことば』をめぐり
★★★
【追悼・遠矢徹彦】
遠矢和美●思い出すこと
小川哲生●遠矢さんから学んだこと
塙 輝隆●遠矢さんから託されたこと
宮坂英一●『アンタレス』とのささやかな関わり
越田秀男●利一、犀星と遠矢さん
堺谷光孝●遠矢さんの思い出
櫻井幸男●遠矢徹彦さんの作品を読んで
下沼英由●『お』と『う』のあいだで
皆川 勤●〈声〉が聞こえてくる――遠矢作品に潜在する思念のほうへ
★★★
櫻井幸男●映画の手帳 第十回
久保 隆●吉本隆明『全南島論』考――幻の共同性・幻の国家
永田眞一郎●表紙デザイン
※2016年12月20日発行、発売中
※A5判・164P・税込定価800円(本体741円+税)
※発行・『風の森』発行所(燈書房編集室気付)
※発売・JCA出版
★書店注文される方は、「JCA出版発売・『風の森』第2次第5号」と伝えて注文取り寄せでお願いします。
★当方へ、直接注文ご希望の方は、郵便振替で、00150-3-64543(口座名・燈書房)で代金800円(送料は当方負担、ただし振り込み手数料はご負担いただきます)をお振り込みいただければ、入金確認次第、直ぐに送本いたします。
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2016/12/1
折口信夫の「国文学の発生」を中心とする論考は、文学の生成過程の動態を指し示してくれている。今回は「叙事詩から叙景詩へ」というのがテーマ。叙事詩(神話・英雄譚)から叙景詩発生への道のりは、自我形成における幼児期から少年期への成長過程に似ている。既に叙事詩についてはあれこれと紹介してきているが、叙景詩の発生まで連続的に捉えるため、まずは、叙事詩成立の復習を、何度目になるか、折口の「國文學の發生(第一稿)呪言と敍事詩と」を教本にして、重ね重ね概括する。なお、引用歌の尻に☆印がついているものは、折口の論考から引いたもの。
神語
リズムをベースにした律文(歌)を生み出した動機、リビドーはイヅコにあったのか──《私は、其を「かみごと」(神語)にあると信じて居る》──叙事詩の初原は神話ではなく神語であった! なぜ神話が神語からスタートしたのか。単純だからか。折口は「複雑から単純へ」といつも言っている!?。
《敍事詩の發達に就て、焦點を据ゑねばならぬのは、人稱の問題である》──まんが日本むかし話を思い出そう──《日本紀の一部分と、古事記の中、語部カタリベ の口うつしに近い箇所は、敍事として自然な描寫法と思はれる三人稱に從うて居る》──語部は市原悦子と常田富士男──《時々は、一人稱であるべき抒情部分にすら、三人稱の立ち場からの物言ひをまじへて居る。「八千矛ノ神と妻妾との間の唱和*」などが其である》──ところが、この三人称は錯覚なのだという。
*[神代記・大国主神]【此この八千矛神やちほこのかみ 、將婚よばはむとして 高志國之こしのくにの 沼河比賣ぬなかはひめを 、幸行之時いでましとき 、到いたりて 其沼河比賣之家そのぬなかはひめのいへに 、歌曰うたひていはく 、「夜知富許能やちほこの 迦微能美許登波かみのみことは 〜〜〜 阿麻波勢豆加比あまはせづかひ 許登能ことの 加多理其登母かたりごとも 許遠婆こをば 」。爾其ここにその 沼河比賣ぬなかはひめ 、未開戸いまだとをあかずて 、自內歌曰うちよりうたひていはく 、「夜知富許能やちほこの 迦微能美許等かみのみこと 奴延久佐能ぬえくさの 〜〜〜 」】──漢文でできた回転寿司的皿にヤマト歌を盛っていくことで、一人称が三人称に切り替わる。
ただ、作為によるものではない──《此は、敍事詩としてのある程度の進歩を經ると、起り勝ちの錯亂である。ところが間々、文章の地層に、意義の無理解から、傳誦せられ、記録せられした時代々々の、人稱飜譯に洩れた一人稱描寫の化石の、包含せられて居る事がある》──化石のごとくに一人称が埋もれていることを折口は発見したのである。
この化石もすでに紹介しているが、凡夫レベルで理解するには、わざわざ化石を探すまでもない。幼児期に月光仮面や仮面ライダーになりきって飛び跳ねる図を想像すればよい。なりきりの一人称。舞台や映画の俳優が、演じる人物に化ける、憑く、これも一人称だ。何を演じても高倉健、という名優もいるが。すべてはシャーマンの神憑りが発端である。
《一人稱式に發想する敍事詩は、神の獨り言である。神、人に憑カヽ つて、自身の來歴を述べ、種族の歴史・土地の由緒などを陳べる。皆、巫覡の恍惚時の空想には過ぎない。併し、種族の意向の上に立つての空想である。而も種族の記憶の下積みが、突然復活する事もあつた事は、勿論である。》──あくまでも「種族の意向」であり、共同の観念に則った“恍惚”であり、勝手な自涜行為ではない。これが幼児と似て非なるところである。吉本隆明の〈共同幻想〉という概念に重なる。
《其等の「本縁」を語る文章は、勿論、巫覡の口を衝いて出る口語文である。さうして其口は十分な律文要素が加つて居た。全體、狂亂時・變態時の心理の表現は、左右相稱を保ちながら進む、生活の根本拍子が急迫するからの、律動なのである》──「左右相称」とは、対句を生み出す原動力である。
この神憑りの律動はやがて繰り返され、固定化し様式化され、歌や舞踊へと転じていく──《叫びのごとき言葉や動作を、正氣で居ても繰り返す所から、舞踊は生れて來る。此際、神の物語る話は、日常の語とは、樣子の變つたものである。神自身から見た一元描寫であるから、不自然でも不完全でもあるが、とにかくに發想は一人稱に依る樣になる》。
そして言語の初期的構造化が始まる──《昂ぶつた内律の現れとして、疊語・對句・文意轉換などが盛んに行はれる。〜〜〜 傳誦せられる間に、無意識の修辭が加る。口拍子から來る記憶の錯亂もまじる。併しながら、「神語」としては、段々完成して來るのである》。
律語より音律の方が先輩格──《文章としての律要素よりも、聲樂としての律要素の方が、實は此「神語」の上に、深くはたらきかけて居た。律語の體をなさぬ文も、語る上には曲節をつける事が出來る。此曲節に乘つて、幾種類もあつた「神語」が巫覡の口に傳つて、其相當の祭り・儀式などに、常例として使はれて來た。つまりは、團體生活が熟して來て、臨時よりも、習慣を重んずる事になつたからなのだ》
自我の成立は自己対象化、そのための自己分離を前提としている。この神語を生み出した当初は、まだ自我は共同の観念の中に埋もれていた。最初に自我を内胎したのはシャーマンである。シャーマンは自己分離の初原をも意味している。
片哥
託宣において《神の意思は多く、譬喩或は象徴風に現はれる》──意味不明だから翻訳の専門職、審神者さには が登場する。水晶玉占い(スクライング)で、「〜〜〜 が見えてきました(象徴)これは〜〜〜 の萌しです(翻訳)」ってやつだ。
《中には人間の問ひに對して、一言を以て答へる、一言主ヒトコトヌシ ノ神(✍雄略記)》も。こうしだ「神語」の樣式が、《神に對しての設問にも、利用せられる樣になつた。》
神が一方的に語る〈神語〉から神との対話へ移行していく。それがやがて〈片哥〉に行き着いたと折口はみる──《私は「片哥」と言ふ形が、此から進んだものと考へる。旋頭歌の不具なる物故と思はれて居る名の片哥は、古くは必、問答態を採る。「神武天皇・大久米命の問答*」・「酒折ノ宮の唱和**」などを見ると、旋頭歌發生の意義は知れる。片哥で問ひ、片哥で答へる神事の言語が、一對で完成するものとの意識を深めて、一つ樣式となつたのである。併し、問答態以前に、神意を宣るだけの片哥の時代があつた事は、考へねばならぬ》。
*[神武記・伊須気余理比売]【「あめつつ ちどりましとと などさけるとめ」(あま鳥・つつ・ちどり・しととのように、どうして目じりに入墨をして、鋭い目をしているのですか─次田真幸・訳)/「おとめに ただにあはむと わがさけるとめ」(お嬢さんにじかにお逢いしたいと思って、私は入墨をしてこんなに鋭い目をしているのです─次田真幸・訳)】
次田の訳(一般的な訳)を信じれば単なる男女の問答歌のようにしか思えないが、倉野憲司によると橘守部(1781-1849)は『稜威道別』で、この歌を「天地の間に、仙人にも勝る人とありて、などて世の並々の軍士のように裂利目は着けたるぞ〜〜〜 」と解釈しているのだそうだ。ヘンテコな解釈だが、「あま鳥・つつ・ちどり・しとと」も輪を掛けてヘンテコだ。「阿米都都」を「胡鷰子鶺鴒」と苦しくあてている。もともと独立歌だったとすれば、橘の解釈も結構有力になる。意味不明な叙事詩の断片だった、ということで。
**[景行記・倭建命東征]【〜〜 甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌曰ひたまはく、「にいばり つくばをすぎて いくよかねつる」(常陸の新治や筑波の地を過ぎてから、幾夜旅寝をしたことだろうか─次田真幸・訳)。ここにその御火焼の老人、御歌に続きて歌ひて曰はく、「かがなべて よにはここのよ ひにはとをかを」(日数を重ねて、夜は九夜、日では十日になります─次田真幸・訳)。ここを以ちてそのおきなを誉めて、即ち東国造を給ひき。】
この歌は、連歌の祖とされており、なんとも単純な掛け合いの歌としか思えない。しかし折口はまったく違った捉え方をしている。
《今日殘つて居る片哥・旋頭歌は、形の頗整頓したものである。》──577/577、と、すこぶる整頓! 複雑から単純へ!──《我々の想像以前の時代の、此端的な「神言」は、片哥・旋頭歌には近いだらうが、もつと整はぬものであつたらう。なぜなら、此二つの形は、敍事詩がある發達を遂げた後に、固定した音脚をとりこんだものらしく思はれるからである。〜〜〜 片哥を以て、日本歌謠の原始的な樣式と考へ易いが、かうした反省が大事である。》──大いに反省します。
時代鑑定
国であった村々が郡に格下げになると、叙事詩も、神人から没落した語り部の手に渡り、信仰心が薄くなってその分、芸術化してくる。叙事詩から叙景詩へと変転する様は、片哥・旋頭歌に仄見えてきた。そこでここからは「叙景詩の発生」をテキストに、万葉の世界まで進んでいく。
折口は、ます叙景歌として次の歌を引用する。
[神武記・伊須気余理比売]「佐韋サヰ 川よ 霧立ちわたり、畝傍山ウネビヤマ 木コ の葉ハ さやぎぬ。風吹かむとす」☆「畝傍山 昼は雲と居ヰ 、夕来サ れば、風吹かむとぞ 木の葉さやげる」☆
そして次のように評する──《文献のまゝを信じてよければ、開国第一・第二の天皇の頃にも、既にかうした描写能力――寧むしろ、人間の対立物なる自然を静かに心に持ち湛へて居ることの出来たのに驚かねばならない。たとひ、此が継子の皇子の異図を諷したものと言ふ本文の見解を、其儘そのまま にうけとつても、観照態度が確立して居なければ、此隠喩を含んだ叙景詩の姿の出来るはずはないと思ふ。》──短歌形式の叙景詩であり、時代的には相当新しい。それが神武記に嵌め込まれている。ところが、その後に嵌め込まれた歌はみな幼稚なものばかりで、仁徳天皇まできてやっと歌らしい歌に巡り会う。
《論より証拠、其後、遥かに降つた時代の物と言ふ、仁徳天皇が吉備のくろ媛にうたひかけられた歌、「山料地ヤマガタ に蒔ける菘菜アヲナ も 吉備キビ びとゝ共にしつめば、愉タヌ しくもあるか」の出て来るまでは、叙景にも、自然描写にも、外界に目を向けた歌を見出すことが出来ないばかりか、歌の詞すら却つて段々古めいて、意味が辿りにくゝなるのである。》
神武天皇ならまだしも神代記に嵌め込まれた歌にも真新しいものが見られる──《すさのをの命の「やくもたつ」の歌の形の、後世風に整ひ、表現の適確なのと、其点同様で、疑ひもなく、飛鳥の都時代以後の攙入ざんにゅう 或は、擬作と思はれるものである。畝傍山の辺の風物の不安を帯びて居る歌の意味から、寓意の存在を感じて、綏靖即位前の伝説に附会して、織り込んだものと思はれる。》──「やくもたつ」が歌われたのは飛鳥時代以降! 驚くべき歌の時代鑑定である。
《仁徳の菘菜の御製の方は、叙景の部分は僅かであるが、此方は自然に興味を持つた初期のものと見てもよい程、単純で、印象を強く出して居る。此も寧、抒情詩の一部であるが、畝傍山の歌よりは却つて古いものと思はれる。》──記紀の歌は歴史の順番通りに掲載されているわけではない。いまでは当たり前の常識が、当時は「やくもたつ」は須佐之男命作、「菘菜」は仁徳天皇作と思い込まれていた。
道行き
叙景詩の生成過程を知るには、詩の様式や内容を動態として把握・吟味していくしかない。もう一つ、重要な基軸がある。〈神語〉から〈人語〉への移行を捉えることである。折口は多くの叙景詩を紹介したあと、話をいきなり浄瑠璃や歌舞伎などの〈道行き〉に転じる。
《江戸の浄瑠璃類の初期には、必須条件として、一曲の中に必一場は欠かれなかつた――時としては二場・三場すら含むものもあつた――道行き景事ケイゴト は、中期には芸術化して、此部分ばかりを小謡同様に語ると言ふ流行さへ起した。さうして末期には、振はなくなつたけれども、曲中の要処とする習はしは固定して残つた。芝居には、末期ほど盛んになつたが、初期は簡単な海道上下の振事フリゴト 、或は異風男の寛濶な歩きぶりを見せるに過ぎなかつた。》──一体、この〈道行き〉とは何ものなのか。折口は歴史を遡行する。
《歌舞妓以前の芸能にも、道行きぶりの所作は、古く延年舞・田楽・曲舞などにも行はれて居た。「風流フリウ 」の如きは、道行きぶりを主とする仮装行列である。日本の芸能に道行きぶりの含まれて来た事は、極めて古くからの事と思はれる。私は此を、遠処の神の、時を定めて、邑落の生活を見舞うた古代の神事の神群行の形式が残つて、演劇にも、叙事詩にも、旅行者の風姿をうつす風が固定したものと考へて居る。記・紀の歌謡を見ても、道行きぶりの文章の極めて多いのは、神事に絡んで発達した為で、人間の時代を語る物も、道行きぶりが到る処に顔を出す事になつたのである。》──〈道行き〉とは神が他界からこちらにやってくる、道行きだったのだ! と、驚くのはまだ早い。折口はこの〈道行き〉を歌の構造面での過程的な姿だとみた。
《だが今一方に、発想法の上から来る理由がある。其は、古代の律文が予め計画を以て発想せられるのでなく、行き当りばつたりに語をつけて、ある長さの文章をはこぶうちに、気分が統一し、主題に到着すると言つた態度のものばかりであつた事から起る。目のあたりにあるものは、或感覚に触れるものからまづ語を起して、決して予期を以てする表現ではなかつたのである。》──その代表例として……
[神武記・久米歌]「神風の 伊勢の海の大石オヒシ に 這ひ廻モトホ ろふ細螺シタダミ の い這ハ ひ廻モトホ り、伐ちてしやまむ」☆
そして次のように解釈する──《主題の「伐ちてしやまむ」に達する為に、修辞効果を予想して、細螺シタヾミ の様を序歌にしたのではなく、伊勢の海を言ひ、海岸の巌を言ふ中に「はひ廻モトホ ろふ」と言ふ、主題に接近した文句に逢着した処から、急転直下して「いはひもとほる」動作を自分等の中に見出して、そこから「伐ちてし止まむ」に到着したのである。》
口承時代、語る時間性に添ってしか語られなかった時代、すなわち、言葉を行きつ戻りつ練り上げることのできない時代の作物、とみたのである。次の歌もやはり口承時代のものであろうか。
[神代記・八千矛神]「〜〜〜 群鳥の わが群れ行イ なば 引け鳥の 我が牽け行イ なば、哭かじとは 汝は云ふとも、山門ヤマト の一本薄ヒトモトスヽキ 頸ウナ 傾カブ し 汝が哭かさまく、朝雨の さ霧に彷彿タタ むぞ。〜〜〜 」☆
折口の解釈──《群鳥のわたるを仰いで、群れ行かうとする事を言ひ、其間に次の発想が考へ浮ばないから、ゆとりを持つ為に、対句として引け鳥を据ゑて、誘ひ立てられて、行かうとする事を述べ、やつと別れた後の女の悲しみに想到して、気強く寂しさに堪へようと云ふ女に反省させる様な心持ちを続けて来てゐる。そして目前の山門ヤマト の薄の穂のあり様を半分叙述するかしない中に、うなだれて泣く別後の女の様を考へ、それから其穂を垂らす朝雨に注意が移つて、其細かな粒の霧となつて立ち亘つて居る状を言ひ進める中に、立つと言ふ語ことばから転じて幻の浮ぶと言ふ意のたつに結びつけたのである。此などは、予期から出た技巧として見ると、なかなか容易に出来さうではないが、尻とり文句風に言うて居る中に、段々纏つて行つたものである。》
歌垣などで修練が積まれたのだろうか、対句や喩など、修辞法の進展があり、〈叙景〉に寄せた〈抒情〉も手の内にいれて、《時代の進んで居ることが見える》。話が進み過ぎているので、〈叙事〉の時代を色濃く残存させている歌に舞い戻ろう。
[武烈即位前紀・影媛]「石上イスノカミ 布留を過ぎて、薦枕コモマクラ 高橋過ぎ、物さはに 大宅オホヤケ 過ぎ、春日ハルヒ の 春日カスガ を過ぎ、つまごもる 小佐保ヲサホ を過ぎ、」☆
折口の解釈──《平群ヘグリノ 鮪シビ の愛人かげ媛が、鮪の伐たれたのを悲しんで作つた歌の大部分をなして居るこれだけの文章は、主題に入らないで、経過した道筋を述べたてゝゐるだけである。さうしてやつと眼目の考へが熟して来て、「たま(つゞき)笥ケ には飯さへ盛り、たま盌モヒ に水さへ盛り、」と対句でぐづぐづして後、「哭きそぼち行くも。かげ媛 あはれ」と、極めて簡単な解決に落着してゐる。この中の「かげ媛あはれ」は、囃し語として這入つたもので、元来の文句は「哭きそぼち行くも」で終つて居るのである。》
勿論、影媛の自作であるはずがない──《平群氏に関聯した叙事詩の中の断篇か、或は他の人の唯の葬式の歌かゞ、かうした伝説を伴ふやうになつたのであらう。ともかくも、口に任せて述べて行く歌の極端な一例である。似た例がいはの媛にもある。》
[仁徳記・八田若郎女]「つぎねふや 山城川を 宮のぼり 我が溯れば、あをによし 奈良を過ぎ、をだて 倭邑ヤマト を過ぎ、我が見が欲ホ し国は、葛城カツラギ 高宮 我家ワギ ヘのあたり」☆
《前と違ふ点は、叙事に終止しないで、抒情に落してゐる所だけである。おなじ時に出来たと言ふ今一首は、道行きぶりの中に、稍複雑味が加つて居る。》
[前出同]「つぎねふや 山城川を 川溯り 我がのぼれば、川の辺に生ひ立てる烏草樹サシブ を。烏草樹サシブ の樹 其シ が下シタ に生ひ立てる葉広五百ユ つ真椿マツバキ 。其シ が花の 照りいまし 其シ が葉の 張ヒロ りいますは 大君ろかも」☆
《此歌は、日本紀の方の伝へは、断篇である。此古事記の方で見ると、道行きぶりから転化して物尽しに入つて居る。道行きぶりも畢竟は地名を並べる物尽しに過ぎない。併し既に言うたとほり尚、神群行の神歌の影響が加つて、物尽しの外に日本の歌謡の一つの型を作つたのである。》──物尽しの最高形態は枕草子?
ほかひ
〈道行き〉が信仰と深く結びつき、歌が生成していく過程的構造にまで関係していることを学んだ。もう一つ折口は、古来から家屋と信仰が深く結びついていること、これも歌の生成に深く関与していることを指摘する。落語には新築見舞いを題材にした「牛ほめ」というのがある。それよりもなによりも、風・水・地・火の害は21世紀になっても止まるところをしらない。恩恵と害の鬩ぎ合い、信仰と深く結びつくのは当然である。
《寿詞ヨゴト の中、重要なものは、家に関するものである。新室ほかひ或は、在来の建て物に対しても行はれて、建て物と、主人の生命・健康とを聯絡させて、両方を同時に祝福する口頭の文章である。〜〜〜 だから、天子崩御前の歌に、建て物の棟から垂れた綱を以て、直に命の長いしるしと見る寿詞の考へ方に慣れて、屋の棟を見ると、綱の垂れて居る如く、天子の生命も「天たらしたり」と祝言する様な変な表現をしてゐる。天智の御代のことである。》
[万葉巻2-147倭媛皇后]「天の原 ふり放サ け見れば、大君の御命ミイノチ は長く、天たらしたり」☆
このような寿詞から、喩法や象徴表現が発達したと折口はみる──《寿詞は、常に譬喩風に家のあるじの健康をほぐが、同時に建て物のほぎ言ともなるのである。かうした不思議な発想法から、象徴式の表現法も生れ、隠喩も発生した。勿論直喩法も発達した。併し、概して言へば直喩法は、後飛鳥期にもあつたが、藤原期の柿本人麻呂の力が、主としてはたらいて、完成した様である。》
信仰から発した寿詞はやがて宴会風享楽に俗化していった──《顕宗天皇の伝説で見ても、室寿詞が一面享楽的な文章を派生してゐる様子が見える。神に扮した人が、神の資格に於て、自らも然う信じて新室に臨んだ風が、段々忘れられて、飛鳥朝の大和辺では、其家よりも高い階級と見られる人が賓客マレビト として迎へられ、舞人の舞を見、謡を聞く事は勿論、舞人なる処女を一夜の妻に所望して、その家に泊つた事は、允恭紀に見える事実である。新室のほかひ(ほぎ――祝福)が、段々「宴ウタゲ 」と言ふ習俗を分化した元となつた事は、此ほか万葉集などを見ても知れる。》
[万葉巻11-2352柿本人麻呂歌集]「新むろを踏フム 静子シヅメコ (?ママ )が 手玉ならすも。玉の如ゴト 照りたる君を 内にと、まをせ」☆
[万葉巻11-2351柿本人麻呂歌集]「新室の壁草刈りに、いましたまはね。草の如 嫋ヨラ へる処女は、君がまにまに」☆
《此旋頭歌は、もはや厳粛一方でなく、ほかひの後に、直会ナホラヒ 風のくづれの享楽の歌が即座に、謡はれた姿を留めて居るものではないか。歌垣のかけあひに練り上げた頓才から、室の内外の模様に出任せに語をつけて、家あるじの祝福、賓客マレビト の讃美などの、類型式ながら、其場の興を呼ぶ事の出来る文句が謡はれる風が出来て来た。其が家を離れない間は、単なる叙景詩の芽生えに過ぎないといふ点では、道行きぶりや、矚目発想法や、物尽しから大タイ して離れることが出来ないばかりか、性的な興味を中心にする傾向に向ひさへしたらう。》
こうした“俗化”は文化のキャパシティの拡大、裾野の拡大をも意味していた。飛鳥時代前後の漢文化の大量流入は、咀嚼仕切れずに消化不良を起こしたことは間違いない。そんな中で、いや、そんな中においてこそ、ヤポネ文学にも〈自我〉が顔を出してきた。
大化
《日本に於て、最危い支那化の熱の昂まつてゐたのは、飛鳥時代の前後を通じての事で、殊に末に行く程激しさを加へた。中途に調和者の姿をとられた天武天皇*(✍在位:673-686)も、実はやはり時代病から超越出来なかつた。唯其が内面に向うて行つた為に、反動運動者には歓ばれ、世間の文化も実際に高まつて来た。だから、此天子の世の文化施設の細やかな所まで、手の届いて居る事も、基く所を思はせて、有効でありさうな事に、着実な方針が秩序立つて現れて居る。》
*[万葉巻1-25天武天皇]「み吉野の 耳我みみが の峰に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零ふ りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隈くま もおちず 思ひつつぞ来し その山道を」
──そして藤原京の時代へ。
《藤原の都(✍694-710)は、国力の充実せぬのに、先進国から見くびられまいと努める表向きの繕ひや、文化の敷き写しに力を籠めてゐた時である。而も、今までの粗野で、寂しい、狭い量見を持ち合うてゐた世間観が改まつて、急に明るみへ出た様に、民族性がはなやかに張つて来て、広い心を持つて、強く歩く事を知つて来た時の様である。〜〜〜 だから、持統天皇**(✍在位:690 -697)及び其周囲の豪華な生活が、俄かに、国の生活に張り合ひを感じさせ、案外に良い結果が来た。》
**[万葉巻1-28持統天皇]「春過ぎて夏来きた るらし白妙しろたへ の衣乾ころもほ したり天の香具山」
《大抵、さうした場合、一等其利益を受けるのは芸術である。此時期に、人麻呂が出たのも不思議はない。》──柿本人麻呂、彗星のごとく立ち現る。
《彼が宮廷詩人として、宮廷の人々の意志を代表し、皇族の儀式の為の詞曲を委託せられて製作した痕は、此人の作と伝へられる万葉集の多くの歌に現れてゐる。作者自身の感激を叫びあげたにしては、技巧の上に新味は出して居ても、結局類型を脱せないものが多い。吉野の離宮の行幸に従うて詠じた歌や、近江の旧都を過ぎた時の感動を謡うた歌の類の、伝習的に高い値を打たれた物の多くが、大抵は、作者独自の心の動きと見るよりも、宮廷人の群衆に普遍する様な安易な讃美であり、悲歎である。》──宮廷詩人の宿命ではなかったか。しかし──
《けれども人麻呂は、様式から云へば、古来の修辞法を極端に発展させて、斬新な印象を音律から導き出して来る事に成功した。譬喩や、枕詞・序歌の上にも、最近の流行となつてゐるものを敏感に拾ひ上げて、其を更に洗ひ上げて見せた。形の上で言へば、後飛鳥期の生き生きした客観力のある譬喩法を利用して、新らしい幾多の長短の詞曲を、提供した。同時に生を享けた人々は、其歌垣のかけあひにも、或は宴席の即興にも類型を追ふばかりであつた。才に餓ゑ、智にかつゑ、情味に渇いて居た時代の仰望は、待ち設けた以上に満されたであらう。》──同時代歌人とは比べようのない突出した天才が出現したのである。
人麻呂の歌に見える枕詞の数は約140余種、そのうち半数は人麻呂作とされる(沢瀉久孝「枕詞を通して見たる人麻呂の独創性」)。枕詞は神語の断片を取り込んだものであり、意味不明なものが多いのもそのためであるが、一方の人麻呂は〈喩〉や〈象徴〉として意図して用いている。
反歌
《天才の飛躍性は、後世の芸論に合ふ合はぬよりは、まづ先代から当代に亘つて、社会の行くてに仄めく暗示を掴むことであり、或は又新らしい暗示を世の中に問題として残す力を言ふのである。人麻呂は其をした。ある点、後生が育てる筈の芽・枝までも、自分で伸ばし、同時に摘み枯らした傾きがある。だから長歌は、厳格な鑑賞の上から言へば、人麻呂で完成し、同時に其生命を奪はれた。》
記紀や万葉集に現れている長歌の主題はあれこれであるが、その中で挽歌や行幸従駕歌は格式高いセレモニーにおいて歌われるから、古来の様式を踏まえることにもなる。もともと歌は東歌を含めて宴で歌われたものばかり。それにもかかわらず、人麻呂は歌に「仄めく暗示」を籠めることができたというのである。
人麻呂の長歌で、折口が第一等に挙げたのは「妻死にし後に、泣血きふけつ 哀慟あいどう して作る歌二首 并せて短歌」(巻2・207〜209)であり、叙景と抒情の溶け合いを高く評価している。しかし、それ以上に評価するのは長歌のお尻についている短歌・反歌であった──《人麻呂の長歌――代作と推定せられるものでも――についた反歌は、長歌其ものより、いつも遥かに優れて居て、さすがに天才の同化力・直観力に思ひ到らされる物が多い。》
[万葉巻2-207]「天飛ぶや 軽かる の路みち は 吾妹子わぎもこ が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多おほ み 数多まね く行かば 人知りぬべみ 狭根葛さなかづら 後のち も逢はむと 大船おほふね の 思ひ憑たの みて 玉かぎる 磐垣淵いはかきふち の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるが如 照る月の 雲隠る如ごと 沖つ藻の 靡なび きし妹いも は 黄葉もみちば の 過ぎて去い にきと 玉梓たまづさ の 使つかひ の言へば 梓弓あづさゆみ 声おと に聞きて〔一ある は云はく、声(おと)のみ聞きて〕 言はむ術すべ 為せ むすべ知らに 声おと のみを 聞きてあり得ねば わが恋ふる 千重ちへ の一重ひとへ も 慰なぐさ もる 情こころ もありやと 吾妹子わぎもこ が 止まず出で見し 軽の市いち に わが立ち聞けば 玉襷たまだすき 畝傍うねび の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾たまぼこ の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚よびて 袖そ振りつる〔或る本に「名のみ聞きて あり得ねば」といへる句あり〕」──皇族方に対する挽歌や行幸従駕歌と違い、人麻呂の直の悲しみが溢れ出ている。
[万葉巻2-209]「もみぢ葉の散り行くなべに、たまづさの使を見れば、会ひし日思ほゆ」☆
人麻呂の評──《黄葉の散るのを目にしてゐる。其時に、自分の脇を通つて遠ざかつて行く杖部ハセツカヒベ (✍=たまづさの使)―─官用の飛脚の様なもの――を見ると「わが家へも、ひが呼びに来たことがある。あのまだ生きて会うた日のことが一々思ひ出される」と言ふので、沈潜といふより、事件の興味で優れてゐる歌だが、此も叙事に流れず、主題の新しく外的に展ひろがつて行つた道筋がよく見える。調子も、落ちついて、寂々と落葉を足に踏みながら過ぎる杖部の姿が、耳から目に感覚を移して来る。それが、すつぽりと、悲しい独りになつた自覚に沈んでゐる内界と、よく調和してゐる。》
このように人麻呂の歌を高く評価する一方──《純抒情の歌は、やはり少し劣る様である。まだ抒情態度は完全に発生して居ない。》──反対側から言えば、ヤポネ文学は抒情歌を引き込む直前に達した、人麻呂はそういう段階にまで抒情歌を引き寄せた、ということにもなる。
そして折口は次の一歩を踏み出した歌人に高市黒人を挙げた。叙情歌を完成? そうではなくどこからみても叙景歌の塊!、なんて歌がでてくる。
叙景
[万葉巻3・283]「住吉スミノエ の榎津エナツ に立ちて、見わたせば、武庫の泊りゆ 出づる船びと」☆
[万葉巻3・272]「磯齒津シハツ 山 うち越え来れば、笠縫の島漕ぎ隠る棚なし小舟」☆
《殆どすけつち 風の写生である。かうした初歩の写生は、詩歌の上には値うちの低いものであるが、藤原ノ都の時代に、かうした主観を離れて了うた様な態度に入る事の出来たのは、此人の発明の才能が思はれる。情景相伴ふのは、日本の短歌の常になつては居るが、其が発生したのは、古代の詩の表現法をひた押しに押し進めたゞけであつて、天分の豊かな人が此上に、自分の詩境を拓いたのに過ぎない。歴史的に不純な物の多い宴歌の形を、殆ど純粋といふ処まで推し進めたのは、驚いてよい事だ。》──「初歩の写生」とは、神語のたすけを借りずに叙景しうる段階にはいったということだろう。あくまでも古代の詩の蓄積が生み出したのであり、突然天才が出現したわけではない。
人麻呂と黒人を並べて評しているところがあり、共に壬申の乱(672年)の舞台となった志賀の旧都(667-672)に思いを寄せた歌2首ずつ。
[万葉巻1・30反歌、人麻呂]「漣サヽナミ の滋賀の辛崎、幸サキ くあれど、大宮人の船待ちかねつ」☆
[万葉巻1・31反歌、人麻呂]「漣の滋賀の大曲オホワダ 、澱ヨド むとも、昔の人に復マタ も遭はめやも」☆
[万葉巻1・32、黒人]「古イニシヘ の人に我あれや、漣の古き宮処ミヤコ を見れば 悲しも」☆
[万葉巻1・33、黒人]「漣の国クニ つ御神ミカミ の心荒ウラサ びて、荒れたる宮処ミヤコ 見れば 悲しも」☆
そして折口の評──《黒人の歌は、伝統を脱した考へ方を対象から抽き出してゐる。後の方は叙事風に見えるが、誰もまだ歌にした事のない時に、静かな心で、史実に対して、非難も讃美も顕さないで、歌ひこなして居る。没主観の芸道を会得してゐた様である。一・二句などは、誇張や、事実の興味に踏みこみ易い処を平気で述べてゐる。主観を没した様な表現で、而も底に湛へた抒情力が見られる。此が今の「写生」の本髄である。
第一首は、これに比べると調子づいては居るが、此はもつと強い感動だからである。併し、人麻呂の場合の様に、如何にも宴歌の様な、濶達な調子で、荘重に歌ひ上げる様な事はして居ない。人麻呂のには、悲しみよりは、地物の上に、慰安詞をかけてゐる様な処が見えるのは、滋賀の旧都の精霊の心をなだめると言ふ応用的の動機が窺はれる。よい方に属する歌であるが、調子と心境とそぐはない処がある。》
詳細に踏み込んだ評だが、細かすぎると大局が見えなくなる。週刊誌的に理解しよう。天武-持統ファミリーと人麻呂がいかに深く関係していたか(歌という関係だけだろうが)は、凡夫レベルでも万葉集の並び順でわかる。25〜27天武、28持統、29〜31人麻呂、32・33黒人、32・33人麻呂、34川島皇子(天智天皇の第二皇子)、35阿閉皇女(天智天皇の第四皇女)、36〜42人麻呂。
28番の持統天皇の歌はほんとに彼女が作ったの?と邪推したくなるほど有名すぎる歌。この女帝は、歴史的な歌を遺す一方、政治面では大宝律令を制定させた(詔の発令は天武帝)鉄腕、辣腕。歴史の結節点ではスーパー怪女、イヤ快女が飛び出す。
そして人麻呂や黒人に旧都を慰撫する歌を献上するよう命じたのも持統帝に違いない。壬申の乱で政権奪取を果たしたのが天武帝、つまり大友皇子を亡き者にし旧都を廃した張本人。25番の歌のうら悲しさはその時の思いとの解釈も。その奥方が旧都を慰撫せよというのだから歌う方は大変だ。大友皇子をはじめ敵側の兵も含めた霊を慰めつつも、変に余分な憐れみや悲しみを込めすぎてもいけない。人麻呂は、かつての都や大宮人は帰ってこないと歌いつつも、折口が言うように「宴歌の様な」軽みで逃げている。一方の黒人は得意の「写生力」で叙景に抒情を滲ませるに止めている。
ただ折口は、黒人が自己の資質だけで簡単に人麻呂を乗り越えたとも思ってはいない。むしろ、人麻呂が拓いた路を黒人が踏み固めたとみる。まず黒人の歌──
[万葉巻1-58]「何処イヅク にか 船泊てすらむ。安礼アレノ 崎 漕ぎ廻タ み行きし棚なし小舟」☆
折口の評──《黒人の此しなやかさの、人麻呂から来てゐる事は、明らかである。叙事詩や歌垣の謡や、ほかひ人の流布して歩いた物語歌の断篇やら、騒がしいものばかりの中に、どうしてこんなよい心境が、歌の上に現れたのであらう。》──と言いながらも、ほかひ人の歌の積み重ねこそ〈しなやかさ〉を生み出した源泉だと言い直す──《此は、恐らく、悲しい恋に沈む男女や、つれない世の中に小さくなつて、遠国に露命を繋ぐ貴種の流離物語や、ますら雄といふ意識に生きる、純で、素直な貴種の人が、色々な艱難を経た果が報いられずして、異郷で死ぬる悲しい事蹟などを語る叙事詩が、ほかひ人の手で撒き散らされて、しなやかな物のあはれに思ひしむ心を展開させたのである。其が様式の上には、豊かな語彙を齎もたらし、内容の方面では、しなやかで弾力のある言語情調を、発生させたのである。》──叙事詩の歴史的蓄積なしに人麻呂も黒人も生まれなかった、ということだ。吉本隆明の〈自己表出〉という概念と重なるように思える。次に人麻呂の歌──
[万葉巻3-253覊旅歌]「印南野イナミヌ も行き過ぎ不敢カテニ 思へれば、心恋コホ しき加古カコ の川口ミナト 見ゆ」☆
[万葉巻2-133(石見国の里にのこしてきた妻を恋うる歌の反歌)]「笹の葉はみ山もさやに騒サヤ げども、我は妹思ふ。別れ来ぬれば」☆
2首とも枕詞もなにもない。折口の評──《内外の現象生活がぴつたり相叶うてゐる。日本の短歌に宿命的の抒情味の失せないのは、人麻呂がこんな手本を沢山に残したからである。》
人麻呂の出現、いや人麻呂に象徴される〈自我〉の出現をもって、我がヤポネ島文学も叙景詩、抒情詩を自在に織ることのできる段階に跳躍したのである。近代的自我に対して、大化的自我と呼ぼう。両者の間には、科学・技術の超をいくつつけても足りない隔たりがある一方、〈自我〉に関しては、せいぜい1歩か2歩程度の歩みしかないように思える。相変わらず小説のネタは嫉妬、三角関係であり(この繰り返しは有意義であるが)、正義の名の下による殺戮(この繰り返しは生命体の種・類中、最低)は止まない。
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2016/3/24
折口信夫の戦後に発表された『日琉語族論』(初出「民族学研究15巻2号」1950/11)は、日本語に僅かだが立ち現れる“逆語序”を論じたもので、琉球語と付き合わせることで、両言語が同族であることの、一つのエビデンスになり得ることを説いた。戦前の論考でもチラと見受けられる立論であり、いわば言いそびれた懸案事項をキチンとしとおこうという企図だったようだ。ただ、折口は《私のこの論述は、単に日本と沖縄との言語の親縁関係ばかりを説く為の計画から発足したものではなかつた。》と記述しているように、思いは“南方諸語族”にまで馳せていて、その《下準備》とも言っている。折口においてその作業は行われなかったものの、戦後、作業を引き継ぐかのような研究を進めた男がいた。中本正智なかもとまさちえ (沖縄出身の言語学者1936-1994)である。しかも南方、北方、という論の立て方自体に疑義ありとする。今回は『日琉語族論』を前置き的に紹介し、これを下地として中本の『日本語の系譜』(青土社1985刊)を覗いてみることにする。
第1章 逆語序論
折口の、言語・文化の地底へ降りていく作業の、特徴の一つは、神が称とな えた言葉や神を称たた えた言葉(以下、神語)に着目して、文献の限界を延長させたことだ。文献に現れた神語は文献以前の時代を最も残存させている、それ故最も意味不明ということにもなるが、この解明を通じて最良のエビデンスが得られる。『日琉語族論』もクライマックスはこの神語の解読で、そして読者がもっとも難渋するところでもある。幸い同論考は凡夫レベルでも入りやすい、日常語や人の名前なども導入部で例示されているから、この部分だけで分かった気になってみよう。
“逆語序”例──@靴下は昔「したぐつ」と言った(「二綾フタアヤ 下沓」万葉16-3791)。A片岡さん、片山さん、岡や山の景色に目がいってしまうが、片側に岡や山がある、下の平地や麓の土地をさす言葉だった。B「天橋立あまのはしだて 」──「かけはし」とか「桟橋さんばし 」のように、「タテハシ」と言うべき、第一なんで立ってるの? 天に掛けるんだから立てるしかないでしょ!──ブリッジの「ハシ」はハシゴの「ハシ」だった。ハシゴのゴは愛称の「子」。《「神の秀倉ホクラ も、梯立ハシダテ のまゝに」(垂仁紀)とあるはしだて は、倉の上屋階アチツク に鎮安する神霊に奉仕する為のはし(梯)であつたのだ。》 C殯(もがり)とは、本葬の前の仮の喪、「仮モ」の逆語序だったのだ! この殯において「重言」が発生する。
《二つ或は二つ以上の喪葬行事を経なければ、完全な喪事を営んだといふ満足感の起らなかつた古代》人の心根によって、《喪葬の行事の重複から、仮葬と言つた気味あひを表現したがる傾向が現れて、もがりと言つた上に、更にかりもがり と言ふ「重言」のやうな表現が出来たのであつた》──「仮・喪仮」である。
次の例も逆語序・重言である。逆語序論者金沢庄三郎(1872-1967言語学)は「裸(はだか)」は「赤肌(あかはだ)」が反転したものと説いたそうだ。アカハダ→(が反転して)ハダアカ→(アが脱落して)ハダカ。そして赤を重ねて「赤・肌赤」である。折口はこの同じ意味の語を重ねる「重言」(✍和歌の枕詞に多く存在する)現象について《語序転換には、重言過程を経てゐるとも言へるし、日本における重言の成立には、語序の変化が原因となつてゐる点があると見ねばならぬ。》と述べる。つまり、語序転換の過程に現れる現象と捉えたのである。
この折口の逆語序・重言説に強く感応したのが吉本隆明で、『初期歌謡論』を展開するキッカケとなった。同書における枕詞論はこの折口説を古代歌謡の成立過程に重ね合わせたものだ。またまた長くなりそうなので、もっと簡単な逆語序の例を紹介して切り上げることにする。
《琉球系統の言語では、語尾につく小グワア が、まづ人の注意を惹く》──ヤポネ語では子 猫とか子 犬とか、夕焼け小 焼けの「子」「小」であり、《琉球の方で言ふと、犬ぐわあ (犬小)が「小犬」であり、橋小ハシグワア が「小橋」であることを通例としてゐる》
折口も指摘しているが、昭和時代までの婦女子は、花子・春子・と、子の付く名が多かった。これらも逆語序の一種というわけである。春子は正語序にすると小春。《東北方言における「橋こ」「犬こ」》も逆語序。なお、子猫の場合、「ネコ」自体が「ネ子」であったかもしれない、「にゃんこ」というように。とすると子猫は「子・ニャン子」で重言?
この子・小の用法は、愛称やモノの大小を超えて広がる。大政・小 政、大錦・小 錦、の小は小さいワケではないし愛称ともいえない。風神雷神、飛車角と同様な意である。「賢さか しい」は才智ある、の意だったがだんだん才智をひけらかすのごとき意味にシフトしてきて、小 賢しいとなると、生意気な! ってなことになる。汚い、にわざわざ小を付けて、小 汚たねぇ。小悪魔は男にとって危ない女の子。小姑は姑よりやっかいだ。語は、高度な抽象概念へ飛翔するばかりに思ってはならない。地平に広がっていこうとするのもまた言語だ。
話が脱線した。〆に、折口の論考の末尾を引く──《私が語序論を書くに到つた悲しみは、永劫に贖はれないものであらうか。》──“永劫に贖はれない悲しみ”──折口が戦後の沖縄に寄せた思いである。♪ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ(寺島尚彦作詞・作曲)
第2章 日本語の故郷
中本正智の『日本語の系譜』の結論部分を先に示す──《日本語のふるさとは、アジア古層語を育てたアジア大陸の地であったとみることができ、東シナ海沿岸域に広がったときに、日本語の特徴の根幹的な構造をもったと推測される》。この唐突とも思える結論にどうして至ったのか。その研究の出発点と展開は次の文章が示している。
《琉球列島に広がる六〇に近い島々をめぐり、古老たちからその言葉を聞きとり記述してきた。これら琉球語は、日本語と同系とされていながらほとんど通じなくなってしまった言語である。琉球語の内部には、互いに通じないほど隔たった五つの大方言群がよこたわっている。その隔たりは東北と九州以上である。/その調査した語について、一枚一枚、言語分布図をえがいてみると、そこに過去の琉球王国の発展と、その言語の発達が投影されていて、琉球列島の歴史を語ってくれることが明らかとなってきた。/文献資料が戦火に燃えてしまい、その歴史を究めることに絶望を抱いていた心に、このことは希望の灯をともしてくれた。文脈が失われていても歴史を再構できる方法を体験的に知ったのであった。》──その精華が『図説琉球語辞典』として結実する。そしてこの精華と獲得した方法をアジア全域に拡張しようという試みが展開された。その一端と方法を提示したのが本書である。
《アジア諸言語が変化し、あるいは消えてなくなる前に早急に資料を揃えて解明しなければならない〜〜〜 /アジア各地の言語状況をみると、変化と消滅の波にさらされている。そこには諸言語について深い研究が完了してからなどという余裕はない。》──生まれ育ち、その地を研究対象とした、タダ中で感じる切実な思いであろう。
中本の「方法」の特徴の一つは言語の時間的な変化を捉えるために、文献データを前提としつつも、方言を徹底追究したところにある。アジア全域への拡張が可能になったのは琉球語研究の成果によるもので、文献時代以前の言語の古層を突き止める有力な武器となった。
言語の変化にはどのような要素があるのか。中本は四つに分けて説明する。
(1)語の交換:卵(古語「カヒ甲 ゴ甲 」⇒現代語「タマゴ」)
(2)意味のずれ:カシラ(頭⇒首領)/アタマ(脳天⇒頭)
(3)音韻の変化:笑っちゃった(@ワラピテシマピタリ⇒Aワラフィテシマフィタリ⇒Bワラヒテシマヒタリ⇒Cワライテシマイタリ⇒Dワラッテシマッタ⇒Eワラッチマッタ⇒Fワラッチャッタ)──最初の方は文献だけでは捉えられない発音で、方言や周辺言語の追究で解明された。D以降は私達の現在の音韻変化である。
(4)語の配列や関係のありかたの変化:syntax(構文)の変化など。日本語では係結法はすでに消滅しているが、沖縄では現存している(✍@終止形=dʒi: hakun[字を書く]A係結ru・ ru=dʒi: ru haku:ru[字ぞ書く]B係結ga・ ra=dʒi: ga haku:ra[字を書いているのだろうか]。また 《インドイラニッシュという言語は、本来、ヨーロッパ語族に属しているにもかかわらず、その語順は〜〜〜 むしろ日本語のようになっているという。永い歴史過程の中で語順もまったく異なってしまうことがありうるということだ。》
言語の系統研究、それは言語の源流を突き止める研究である──《言語の系統の解明は〜〜 これら〜〜 変化のすべての側面を明らかにしていかないと解明できない〜〜〜 しかるに、これまでの系統論は、音韻法則だけが強調されてきた 〜〜〜 単純に一語だけを対比して法則化しようとしてはならない〜〜〜 語の比較は、類義語のグループ全体について、多対多で行わなければならない》(下線凡夫)
なぜこれまでの系統論は「音韻法則だけが強調されてきた」のか。
《日本語の系統論は、十九世紀のヨーロッパ言語学の比較方法をとり入れてなされていた。この方法は印欧語族の親縁関係を証明してみせた輝かしい実績をもっていただけに、日本語の系統を解明する唯一の方法として行なわれ現在にいたっている。にもかかわらず日本語の系統を明らかにできないのはなぜか。印欧言語族の証明には紀元前十世紀をはるかにさかのぼる有力な比較資料が残されているのに、日本語にはわずかに八世紀からの文献しか残されていないということ、またアジアにおける言語の発生段階がヨーロッパと異なっているということなど、原因はいろいろあろう。なかでも大きな原因は、日本語をあつかうとき、印欧語と日本語のこのようなちがいを念頭に置いて比較方法に修正と工夫を加えることができなかった硬直化した研究方法にあると考える。》──まったく経路が違う言語の成り立ちなのに、欧州の方法論をそのまま援用しているのでは……。
《比較方法の中で、音韻法則が言語の親縁関係の証明に有効だということは疑う余地がない。ただ、悠久の歴史の中でさまざまな文化の波及をこうむった言語同士を考えたとき、しかもこれをつなぐ中間の文献資料の乏しい言語間で、どこまでそれが有効か、疑ってみるべきだったのではないだろうか。顔の類似はせいぜい二世代ぐらいまでで、代を重ねた子々孫々では覚つかなくなっているのに似ている。》
印欧語と “東シナ海沿岸域言語”とはどんな違いがあるのか──
《印欧語族はローマ帝国の崩壊とともにその支配力が低下し、それぞれの環境に応じて言語が分化していった。たとえば「十」を表す語は──dix(フランス語)dieci(イタリア語)detz(プロヴァンス語)deu(カタラン語)diez(スペイン語)dez(ポルトガル語)──のように分化した。これらはラテン語のdicemが、ほぼ二千年かけて変異したものである。》
これに対して《日本語の置かれている環境はどうか。「十」を表す日本語はトーであるが、周辺には──wan(pe)(アイヌ語)təsət(朝鮮語)puro(台湾アミ語)folo(マダガスカル島)〜〜〜 sepuluh(インドネシア語)──のような語が広がっている。これをみても日本語の親縁関係の証明が印欧語間に比べていかに困難であるか想像される。これまでの系統論は学者の好みによってさまざまな言語と比較し、そのたびに音韻法則を引き出してきたのだが、これら恣意的に集積された音韻法則が、日本語の発達過程を語るための一つの体系化された法則たりうるか、きわめて疑問である。》
ただ、この文のなかでの考えだが、印欧語は言語の分岐はわかるものの、遡っていくとローマ帝国が終点で、ローマ帝国を引っ剥がさない限りそれ以上奥を見ることができない。それに対し、古代遺制的で一見しただけではバラバラにしかみえない“東シナ海沿岸域言語”は、何らかの方法論さえ見出せば、もしかしたら共通の岩盤に突き当たるかもしれない。
言語を地理的な存在として、その分布を観察する、これが中本の系統研究の方法だ。その中に強文化圏・弱文化域という概念が出てくる。
《言語を地理的な存在としてみたとき〜〜〜 すべての言語は地域のちがいに応じて、大小さまざまな差を示している〜〜〜 世界には三千とも、四千ともいわれる言語があるが、まだまだ社会的に統一された(✍民族とか国家といった)わくにはまらない言語も多い〜〜〜 系統を明らかにするための言語の比較は、複数の周辺言語の地理的広がりの中で行うべき〜〜〜 》
《言語の地理的な分布は、文化圏の広がりと密接にかかわっている。いわゆる文化は、強文化圏から弱文化域に流れ、言語もこの方面と平行して流れる。》──ローマ帝国然り。アジアでは中国が圧倒的な強であるが、ただ、こうした古代巨大帝国ばかりでなく、ヤポネ島や琉球の内部でも強・弱が現れる。この現象は系統の探求において大変重要となる。
例えばAという強文化圏があり、その影響下にB、Cという文化域があったとする。Aがトンボのことをアキヅと呼んでいると、それがB、Cに波及して両地域ともアキヅを方言化して呼ぶようになる。この例ではB、Cが遠く離れた文化域であっても、である。ということは、B、Cの文化域は接触なしで、アキヅを獲得するようになるのである。そのため、B、Cだけを付き合わせて、類同性がみられるから、同族である、とは言えなくなるわけだ。さらにややこしいのは、強文化のAがアキヅをやめてトンボと呼ぶようになる。ところがB、Cはアキヅのまま。こんな現象が実際に起こるのである。「言語を地理的な存在として、その分布を観察する」ことなしに系統研究は成り立たないのである。
さらに複雑化してくるのは、上記の例は奈良時代前後の話にすぎず、もっと古層のほうで、B、Cが文化を接触させていたことがありうるのである。文献時代を遡り、さらに奥へいくためには、このような強文化の影響を引っ剥がさない限り奥が見えてこない。
ところがところが、である。この外部環境要因を外しても、即問題解決とはならない。中本は音韻法則のたてにくい原因に《アジアの言語が悠久の歴史過程をたどったために、それぞれの言語に内部変化が深まったことにある》ことをあげる。はじめの方の引用文に「琉球語の内部には、互いに通じないほど隔たった五つの大方言群がよこたわっている。その隔たりは東北と九州以上である」とある。なぜこんな隔たりができてしまうのか。
《与那国島では、アギダン(とんぼ)、カイク゚(卵)、ッティー(月)、ンニ(舟)という。これが日本語かと疑うほどの変わりようだ。よくみると、アギダンは「とんぼ」が現れる以前の奈良時代の「あきづ」と同系であり、カイク゚はタマゴが現れる以前の奈良時代の「かひご」と同系である。ッティーとンニは、tukiとpuneが変化した形である。》──réidiòu (radio)がrazio(ラジオ)となり、kǽmr(camera)がkamera(カメラ)となる??
内部変化を捉えて同系を見つけるのは容易なことではない──《系統論のなかで、日本語の類型的な特徴として、母音や音節、そして子音が引き合いに出されることが多い。しかし、日本語は内部的な変容が大きく、その比較は系統の証明にあまり役立たない〜〜〜 》
[母音]《母音は時代的に変化し、また地域的にみても、東京や京都は五母音、新島は四母音、奄美大島は七母音、首里は五母音、与那国は三母音〜〜〜 日本語の単語は開音節(✍母音で終わる音節)で終わるという特徴が系統論で言われる〜〜〜 しか〜〜〜 し鹿児島方言のkut(口)kat(柿)〜〜〜 閉音節〜〜〜 この現象は五島列島や琉球に広がっている。》
[子音]《沖縄伊江島では、ʔuʃi(牛/✍「ʔ」=声門破裂音)とʔusiにおいて、ʃとsが対立しているし、宮古ではfi:(呉れ)とか、vi:(売れ)とか、tul(鳥)など、f、v、l、が日常会話で用いられている。》
東国語《歴史をさかのぼると、東国語が「いは」(家いえ )、「み」(妻め )、「おめほど」(思へど)などといっていて、現代方言に劣らず中央語から隔たっていた〜〜〜 》
ところが、というより、つまり、の方がいいかもしれないが、この内部変化の構造を頭に叩き込むと、無縁のごとくに思えた周辺言語が相互に繋がってくるのである。
琉球語・アイヌ語《琉球語で髪をカラジというが、もう一つ古い形にカントゥがある。カンは「かみ」の変化形であるけれど、後接のトゥはなんだろうか。もしかしてアイヌ語のetop(髪)と同系の要素かも知れない。アイヌ語のpok(女陰)は、古代日本語のホト、琉球語のホーと同系のようにみえる。そしてアイヌ語の ’uká’un(性交する)は、沖縄南部のウカユン(性交する)の語幹に似ている。》
アイヌ語・日本語《tek(手)kiputur(額)setur(背中)’0sor(尻)kap(皮)mim(魚の身)──などがあり、助詞の使い方も──huciおばあさん anakは nisatraあした kusur釧路 unへ arpa行く kunakと ye.言う ──のように似ている。いったい、日本語とアイヌ語間にあるこのような類似は何を語っているだろうか。》
日・琉・アイヌの相互関係《琉球語と中央日本語は、すでに同系であることが証明されている。にもかかわらず、琉球語の中にアイヌ語とつながる語があるとすれば、中央日本語の成立前として共通の基盤の語が広がっていたことを推察させてくれる。アイヌ語が北方から入り、その足跡は東北に濃厚に残されているとされているけれど、実際に列島のどこらあたりまで広がっていたのか、再検討を迫られる。》
朝鮮語《朝鮮語は日本語と親縁関係の可能性が大きい言語とみられている。語順をはじめ、形態的に近い関係にあって、これらが日本語をウラル・アルタイ語族に含めようとする重要な特徴となっている。》
台湾《プユマ語〜〜〜 語順のちがいが大きい〜〜〜 類似語〜〜 virvir(唇)varava(肋あばら )〜〜〜 台湾から南はプユマ語をはじめアウストロネシア系の言語である。与那国島までは原日本語系の言語〜〜〜 大きな断層〜〜〜 地理的にわずか一二〇キロメートルしか離れていない。》
中国の辺境部や南方の島々にも日本語と類似する語をもつ言語が広がっている──チベット語《(✍文章の並びでは)修飾語は後にくるが、主部と述部の位置は日本語にいている。類似語〜〜 sna(鼻)ka-ba(皮)》、パプア湾沿岸諸語《〜〜 palo(腹)pina(鼻)kape(皮)》、インド・ドラヴィダ語《最近、ドラヴィダ語の中に日本語と類似する語が多いことが指摘され、世間の耳目を集めた。〜〜〜 文のつくり方も日本語によく似ている》
なぜ広域に類似語が広がっているのか──《日本語の中に、朝鮮語やチベット・ビルマ語、はては南方諸語からインドのドラヴィダ語と、北方系の言語とも南方系の言語とも類似する語や要素が認められるということは、アジアという広い地域における、長い年代にわたる強文化の波及の結果であり、類似する現象は、周辺部の言語に古層が残っているのであって、日本語もアジアに広がった古層につながる言語の一つに数えられよう。》
中本は日本語の成立に係る要件を二つに整理する──《一つは、日本語が日本列島という地理的に閉鎖された地域で永い歴史を営んできたために、孤立性を強め、大陸や半島など、四周との関係が連続せず、言語的に隔たりが大きくなった〜〜〜 /二つは、断続的に周辺諸国から永い年月をかけて多くの語をとり入れ、これが融和して多層性をもつ日本語を成立させている〜〜〜 日本列島の言語を単一言語の発達だけで説明することはできない。日本語に及ぼした漢語の影響を想起するだけでもこのことが理解されよう。》
そして、北方系、南方系の正体が曝かれる──《かつて、北方系とか、南方系とかいわれていた語が、視野を広げれば、実はアジアの古層語としてアジア全域に広がったものであり、中国大陸の強文化圏の周辺域に残る語形であって、かならずしも、北方とか、南方とかに限定して存在する語ではない》
となると、アイヌ語にまつわるイメージも変更しならない──《日本列島の東北部だけにとどまって居住した民族のものではなく、アジアの古層語をとどめる周辺域の言語として残存〜〜〜 語によって、太平洋諸島の言語など、周辺の弱文化域の言語とつながりを示すのはそのため》
以上から、日本語の系統・系譜は次のように集約される──《日本語は、東シナ海沿岸域で形成された言語であり、さらにその源流をたどれば、アジア大陸で話されていたアジア古層語とつながる》
アジア古層語のオオモトはなにか──《中国大陸の言語の発達は、中国語が強文化圏の一つであり、その発達の影に隠れている古層の言語は、日本語と深くかかわってくる。従来、中国語を異系統の言語として単純にかたづけてしまったために、この方面の研究がおろそかになっていたのではないだろうか。》
中国大陸の古層言語こそが東シナ海沿岸域で形成された言語の基盤なのであり、そこに届くためには、中国強文化の皮を引っ剥がさなくてはならない。これが系統研究の明日であるが、中本はすでに彼岸にいってしまった。
★☆音楽の地理的分布☆★
これで、『日本語の系譜』紹介の前半戦を終了するが、文化といっても、その内容によって波及の仕方、分布・速度が違う例を、中本が示しているので紹介しておく。人種の分布と言語の系統分布が違うのは、言語が以上のように独特な波及の仕方をするからに他ならないが、反対に音楽の音階はなぜか人種の分布に重なっている。
《音楽は民族の心を表し、人種と比較的に密接につながる文化現象である。たとえば琉球の音楽で、あの哀調を含んだメロディーは独特のもので、民謡音階と区別され、とくに琉球音階はド、ミ、ファ、ソ、ド、からなっているのだが、これに類似した音階はチベット、ネパール、ブータン、ビルマ、ジャワ、ミンダナオ、などがあり、ほぼ人種の分布と重なり合っている。》
中本が言うように音楽が民族の“心”だとするならば、言語は民族の“頭”か。三木成夫の言葉を借りれば、言語はより、体育会系、いや体壁系であり、音楽はよりナンパ形、いや内臓系ということなのかもしれない。ただ両者は表裏の関係で、しかも内臓系が土台をなしている。つまり、音楽は、生命体のありようにほぼ合致しているが、言語はそこから突出した“なにか”、はみ出し部分を抱えているということにもなる。強文化、弱文化という概念はそのこともよく言いあらわしているのではないか。
第3章 神の言葉
後半は中本が掘り出した古層語のなかから、信仰にかかわる語を紹介する。信仰にかかわる語は強文化の風圧に耐えてきているので、まさに古層を伝えるものだ。「土」という語から紹介していく。
【土】
奈良時代も「土」は「ツチ」だった。ツチカウ(培う)はツチ(土)カウ(養う)で農耕の言葉。万葉に現れたツチ。
[万葉5-800]〜〜〜 阿米弊あめへ 由迦婆ゆかば 奈何なが 麻尓麻尓まにまに 都智つち 奈良婆ならば 大王おほきみ 伊摩周います 〜〜〜 (天へ行くならお前の思うままにするがいいが、この大地の土 は大君が治めておいでになる:訳・中本、下線凡夫、以下同)
「ツチ」の複合語──「アメ乙 ツチ」天地、東国では「アメ乙 ツシ」/「クニツチ」国土/「オホツチツカサ」大地官、地主神/「ハニツチ」赤土/「マナゴツチ」細かい砂地/「ヒ甲 タツチ」地べた、直地。
ところがこの「ツチ」は、中国の強文化から波及してきた語(中国語の土地t‘uti、土はt‘o)であり、日本語ばかりでなく、朝鮮語(t’aŋ)インドネシア語(tanah)アイヌ語(toy)ヴェトナム語(dat)インドシナ半島のモン語(te)など同系と見なされる。つまり地層ならぬ語層としては最も新しい層で、これをもって同族などとは言えないのである。
奈良時代には、より古層の語として、「ニ」があった。併存時代を経てやがて「ニ」は「ツチ」に駆逐されたのである。
[万葉1-80]青丹 吉あをによし 寧樂乃ならの 家尓者いえには 万代尓よろずよに 吾母われも 将通かよはむ 忘跡わすると 念勿おもふな (奈良の家には万代まで私も通うつもりです。忘れるなどと思わないでください)
中本は奈良に係る枕詞の「青丹吉」を「草木の茂ったうるわしい国土」と解釈する。すなわち「丹」は「土」、ただし物質的な土ではなく、土地柄を表したもの。
「ニ」の複合語──◇「ニヌリ」丹塗り、赤く塗ったもの◇「ニノ乙 ホ」丹穂、赤い色の目立つこと、美しいものの形容◇「ニツラフ」赤く照り映える、美しい色をしている◇「ニグロシ」土黒し、黒い。
《ニが顔料として建築に欠かせない文化的に重要なものであったことを、これらの語は語ってくれる。》──「ニ」は色つながり?
「ニオイ」のニもオオモトは土で、臭いとか香しいとかのニオイではなく、「ニオウ」は「色づく」という意味だった! うそ〜!? 証拠をみせろ!
[万葉17-3985]〜〜〜 波流波奈乃はるはなの 佐家流左加利尓さけるさかりに 安吉能葉乃あきのはの 尓保敝流 等伎尓にほへるときに 出立氐いでたちて 布里佐氣見礼婆ふりさけみれば 〜〜〜 (春の花の咲く盛りに秋の黄葉の色づく 時に出て立って振り仰いで見やると〜〜〜 )
さらに「ベニ」(紅)の「ニ」も。「ベ」は頬、唇で、化粧の「ベニ」。「ハニ」は瓦や陶器の原材料となる土。千葉県印旛沼では現在でも赤土を指す。「ハニワ」(埴輪)の「ハニ」はハニを原材料とした素焼きの土器の意味に転じて、古墳のまわりに輪をなして並べたので「埴輪」。
「クニ」(国)の「ニ」も土地を表す。一方の「ク」は《ある限定された地域や場所を表す〜〜〜 イヅク(何処)の「ク」〜〜〜 ココ(此処)、ソコ(其処)、アソコ(彼処)のコや、オクカ(奥まったところ)のカと同源である。ku,ko,ka,が地域や場所を表す語として派生発達した》
ところで、この「ニ」、ヤポネ語以外で探すと、上海語(nani)広東語(nai)、表層の一枚下の層でつながっている。
「ナ」も土、地を表す語であり、さらに列島方言を精査するとヌ、ノ、も“土”関連がみられる、という。また古層への探求は、日本列島の文献では、「ニ」が遡ることのできる終点であるものの、沖縄列島の方言分布をみると、どうも「ミ」に行き着く、とする。これは、沖縄列島が日本列島と違って「ミ」なのだ、というのではなく、日本列島の「ニ」をさらに遡ると「ミ」に行き着く、ということなのである。以下は、『図説琉球語辞典』から土を表す語を拾い上げたもの。
「ミタmita」、「ミターmita」奄美大島・喜界島・与論島・沖縄北部・八重山/「ムタmta」宮古島/「ンチャntʃa」首里を中心とする沖縄本島中南部・徳之島/「ジナdʒina」八重山西表島租納そない 。
《琉球列島の文化の中心地である首里周円はンチャ系であり、首里からいって、南にも、北にも遠いところにミタ系がある。この分布のしかたから判断すると、ミタ系が古く、ンチャ系が新しい。》
かつて琉球列島全体がミタ系で覆われていたのに、中心部に変化が起き、周縁部が取り残された、の図である。「おもろさうし」には「みちやぎり」(土斬り)という語が現れている。15世紀のころまで首里では「みちや」といっていた、と中本は推測する。これを変化の中間段階とすれば中心地の変化は──mita→mitʃa→nitʃa→ntʃa──と推定される。
ただ、これだけでは琉球列島の古層であっても日本列島の古層というわけにはいかない。そこで中本は日本列島の方言例を示す。
「ツチミザ」地面:佐渡・長野・土間・長野県上田/「ミザ」地表:八丈島/「ミジャ」地、土間:八丈島/「ミタ」苗代田の外の水田、本田:茨城県稲敷郡──ヤポネ語の断層面に最古層が露出している。
「ミ」から「ニ」への変化について、中本は《i母音にひかれてm→n》となったと説明する。「ニワ」(庭)の「ニ」も土を意味する。『おもろさうし』ではこれも「ミヤ」と記述されている。「ミ」とつながる琉球・ヤポネ以外の地はあるのか。中国少数民族のロロ語(mi)ビルマ語(miyei)。
【ニライカナイ】
このミ→ニに係る調査で、中本は琉球信仰の最重要語の一つ、「ニライカナイ」の成り立ちを解明した。《ニライカナイは、海の彼方の楽土とされているところであり、この世にあらゆる存在物と豊穣をもたらす源郷》とされている。ところが……
《柳田国男氏は、ニライのニを根と考えておられて、現在でもこの説の流れをくむニ(根)ラ(所)イ(方)の語源説(✍外間守善)が行なわれている。》──柳田の卓越した語“勘”をもととした説であろう。中本はこれを誤りであるとする。
《『おもしろさうし』の語形をみると「みるや、かなや」が対語としてあり、これがニライカナイの古形であると判断される。》──「みるやかなや」「にらいかない」、凡夫レベルでもなんとなく似てる、とは思うが、これをエビデンスベースで古形と確定診断したのである。発音の変化の過程──
◇mirojaミロヤ →mirujaミルヤ →nirajiニラヰ →niraiニライ (ミロヤはミルヤのさらに古形。「ミ→ニ」は「土」を意味する。「ロ→ル→ラ」は連体助詞。「ヤ→イ」は「屋」の意。
◇kanajaカナヤ →kanajaカナヤ →kanajiカナヰ →kanaiカナイ (カナヤの「カ」は「太陽」「日」の意。現代語でも「二日」「三日」の「日」は「カ」と発音する。「ナ」は連体助詞。「ヤ」は「屋」)
「みるや、かなや」の「や」はなぜ「屋」とされるのか?──《『おもろさうし』をみると、琉球の創世神を/あまみきよ /しねりきよ /といい、その居所を/あまみや /しねりや /といっている。》──「キョ」は「子」(愛称・尊称)、「ヤ」は居所の「屋」ということである。
なお、連体助詞は名詞同士の接着剤で、「ノ」とか「ナ」は現代人にもなじむ。中本が引いた奈良時代の用例──
◇ノ:ヒノ ミコ(天皇、日の御子)/ヒノ グレ(夕方、日の暮)
◇ナ:タナ ウラ(手のひら、手の裏)/ミナ モト(水源、水の元)
しかし、「ロ」や「ラ」となると……でも、例示されると、なるほど、と思える──
◇ロ:ヲロ チ(大蛇、尾の霊チ)/スメロ キ(天皇、統スメの男性キ)
◇ラ:スメラ ミコト(天皇、統スメの命ミコト)
「ミルヤカナヤ」⇒「ニライカナイ」は「土の屋、日の屋」であった──《それは、朝に現れ、夕に隠れる太陽神の居所であり〜〜 地の中にある〜〜 太陽の安息の居所〜〜〜 万物の存在を可能にしてくれる〜〜 火や雨の自然物や五穀をもたらす〜〜 害虫などを聖化してくれる〜〜 万物の根源〜〜 》
太陽が地の中に居る??──《テダガアナ(太陽の穴)、マコチアナ(真東風穴)、マハエアナ(真南風穴)という、おもろ時代の言葉は、これをよく示している。》──ところが、海と太陽と珊瑚礁の琉球列島、“地の穴”なんてイメージが吹き飛んでしまって、太陽は海の彼方から昇るものと意識されるように転換してしまった。
以上の解析結果から中本はつぎのように結論づける──
《ニライカナイは琉球列島だけのものではなく、天照大神のおかくれになった天の岩屋と思想的につながるものである。/そればかりではない。〜〜〜 土を表すミ系の語は、かつてアジア全域に広がった古層の語である〜〜〜 ニライカナイは、アジア大陸に広がる太陽神の信仰と深くかかわってくる》
「土」の兄弟、「泥」──《奈良時代に、泥を表すヒ甲 ヂがあった。『古事記』上巻の神世七代の中に──宇比地邇ウヒヂニ 上 ノ 神カミ 妹イモ 須比智邇スヒヂニ 去 ノ 神カミ ──のようなペアをくんだ二神が現れている。ウヒヂニは泥を神格化したもので、その妹のスヒヂニは砂を神格化したものである。》
一対の神様の名をバラバラに分解すると次のようになる。
◇ウヒヂニ:ウ(水)+ヒヂ(泥)+ニ(土)
◇スヒヂニ:ス(洲)+ヒヂ(泥)+ニ(土)
「ヒヂ」もヒとヂに分解できそうであるらしく、まさしく我がヤポネ語は裸形の言語、裸子植物の類いであるようだ。「赤・肌赤」で中がよく見える。いずれにしても、水や土の関連語が重ねられ、ペアとなり、生活の基本中の基本を司る神様が表されたのである。中本はこの「ヒヂ」を新たな起点にして、朝鮮語、満州語、モンゴル語、インドネシア語、琉球語、アイヌ語と突き合わせ、以下の結語に導く──
《人類が生きていくためのもっとも基本的な土に関する語が、古層においてアジア共通の基盤をもっていたということは、アジアの言語、ひいては日本語の系統を考える上から無視できない重要な言語的現実のように思われてならない。》
【神】
《古代人たちは自然物に神秘的な力をみて、これを恐れ、信仰の対象とした》──まずは苦しい時の〈神〉頼み──
[万葉15-3682]安米都知能あめつちの 可未 乎許比都々かみをこひつつ 安礼麻多武あれまたむ 波夜伎万世伎美はやきませきみ 麻多婆久流思母またばくるしも (天地の神 に祈りつづけて私は待っておりましょう。早く帰って来て下さい。あなた。お待ちするのが苦しゅうございます)
山も鹿も狼も雷も神様──
[万葉16-3884]伊夜彦いやひこ 神 乃布本かみのふもとに 今日良毛加けふらもか 鹿乃伏良武しかのふすらむ 皮服著而かはころもきて 角附奈我良つのつきながら (伊夜彦神 の麓では、今日あたり鹿が毛皮をつけ角をつけたままでねそべっていることだろう)
[万葉16-3885]伊刀古いとこ 名兄乃君なせのきみ 居々而をりをりて 物尓伊行跡波ものにいゆくとは 韓國乃からくにの 虎神 乎とらとふかみを 生取尓いけどりに 八頭取持来やつとりもちき 其皮乎そのかはを 多々弥尓刺たたみにさし 〜〜〜 (いとしい吾が君がずっと家に居て、朝鮮の虎というカミ (猛獣)を生け捕りにしてその皮を敷物に縫って〜〜〜 )
[万葉14-3421]伊香保祢尓いかほねに 可未 奈那里曽祢かみななりそね 和我倍尓波わがへには 由恵波奈家杼母ゆゑはなけども 兒良尓与里弖曽こらによりてぞ (伊香保の嶺に雷や鳴らないでおくれ、私には何のわけも無いのだが、児らが雷を嫌うからです)
《現代語のカミナリ(雷)も、カミ(神)ナリ(鳴り)〜〜〜 /アイヌ語の神は、カムイ(kamuy)〜〜〜 従来の学者は、これを日本語からの借用とみ〜〜 た。/最近になって、梅原猛氏などが〜〜〜 信仰の重要な部分を表す語を借用するということに対する疑問を提起してくれた。》──中本の検証──
《熊のような猛獣をアイヌ語でカムイという。〜〜〜 キムンカムイkimun kamuyともいう。/狼はhorkewともいうが、hose kamuyともいう。/雷を表すアイヌ語は、カムイフムkamuy hum〜〜 フムは音を表している(✍すなわち「神音」)。借用というのは、普通、語単独に行われる〜〜 カムイが神だけを表しているのでなく、熊や雷までも表しているところをみると、単なる借用でないことを示している。》──カムイはカミを「借用」したのではなく「同源」、すなわちミナモトを同じくする言語系、と判断される。
朝鮮では?──《神をハヌニムhanunimという。古くさかのぼると、アミəmi(←kəm)といっていた。〜〜〜 熊は〜〜 コムko〜〜 m神を表す古形kəmの派生形であり、日本語のクマやカミとつながっている(✍日本語のカミkamiとクマkumaは母音はことなるが子音が一致)。》──ただし狼は《sunnjəniとか、nuktɛとか、iriとかいうが〜〜〜 つながりそうもない。》
《こうして信仰対象であるカミ(神)が、猛獣などを表す語としてはたらくのは、日本語だけでなく、アイヌ語にも朝鮮語にもあり、しかも〜〜〜 三言語はこれらを表す語形も対応している〜〜〜 /これら三言語の神や熊を表す語は、東シナ海沿岸域で接触のあった時代に受け継いだものであり、借用関係ではないということである。》
【シャーマン】
《東北で巫女ふじょ のことをイタコといい、下北の恐山などでは全国からの信奉者が集まり、今なおさかんである。死者の言葉を巫女の口をかりて語るのが特徴である。》しかし《ジャーマンは、かつて日本列島全域に広がっていた》ものの《現在では〜〜 恐山などにわずかに残(✍るだけで)〜〜 日本列島における最後のシャーマンになるだろう。》──話は琉球列島のユタ信仰にうつる──
《一連のおもろをみると、おもろ音揚がり(✍オモロ歌唱者)が、おもろの主唱者になったり、日選びをしたり、しまのユタとしてのはたらきをしていたことがわかる。しかもその霊力はタニル(にらい)から来たとしている。/おもろ時代に、ノロ(神女)のほかに、ユタ(巫女)がいて、おもろとかかわっていたことを証するものである。》
このユタは《イタコと同じく、かみがかりをして、死者の言葉を喋り、霊媒をするのが一つの役割である。》──さらに朝鮮半島へ──
《そこにはムダン(巫女)とよばれるシャーマンがいる。衣裳を着換えることによって、その神が乗り移る。何十回も衣裳をとりかえ、さまざまな神になりきる》──中本はイタコ、ユタ、ムタンを総括して言う──
《古代の文化的特徴の一つは、シャーマニズムが人々の心に息づいていた〜〜〜 これが近代科学の名のもとで軽んじられ、徐々にわれわれの心から遠退いていって〜〜〜 姿を消していった》──言葉の検証へと向かう。奈良時代の巫女を表す言葉──
[カミ乙 ナキ]巫/[カムナキ]巫/[ヲノコカムナキ]男の巫。
列島の方言──[イタコ、イチコ]巫女(北海道、青森、秋田、岩手)[オガミ]巫女(岩手県気仙郡)/[オワカ]巫女(福島県若松)/[カンバラタタキ]市子(香川県直島)/[カンピト]巫女(沖縄八重山)/[コンガラサマ]巫女(岡山県邑久郡)/[ゴミソ]巫女(青森)、占師(秋田県南秋田郡)/[ノノー]巫女(長野)/[ノロ]神女(琉球列島)/[ムスミル]物知り、巫女(沖縄八重山)/[モリコ]巫女(青森、常陸、茨城県北相馬郡)/[ユタ]巫女(琉球列島)/[ワカ]巫女(仙台、福島)/[イチンド]巫女(滋賀県栗太郡)/[ナカシトツキ]市子(八丈島)/[ワカサマ]霊媒をする巫女(栃木県塩谷郡喜連川)
滋賀県の神楽を舞うイチコ、長野県の竈払いをするイチコ、みな同系の語であろう。》──沖縄のユタも同系だとする──《沖縄ではユーヱー(祝)のように、イがユになる》
この中から、イタコと関連する語を抽出──イタコ、イチコ、イチンド、ユタ──《イタ、イチ、ユタは互いに派生形であり、これにコ(子)やンド(人、ウド)がついている。/琉球ではイワイ(祝)がユーエー(祝)となるように、語頭のイがユに対応することがある》
さて、イタやユタの語義は?──
《奈良時代に、イタ(甚)、イト(甚)、イツ(厳)、イチ(厳)、などの語があり、程度のはなはだしいことや、神聖な、尊厳な、勢いの激しいなどを表す語のあることに思いあたる。イタダキ(頂、最高部)なども関係があろう。/イタ、ユタは意味のつながりからみて、また音韻の変化のしかたからみて、これらの語と同源とみることができる。》
さらに踏み込む──《沖縄の方言~~お喋り〜〜 ユンタク〜〜 ユンの部分は喋ることを表すヨミ(読み)が変化したもの〜〜〜 タクは言葉の意〜〜〜 /そこで思い出すのは、アイヌ語にイタクitak(言葉)があることである。琉球語のユンタクの中に、かろうじて残っているイタクとつながる語である。/このように、言葉を表すイタクが琉球語にもアイヌ語にもあることを考えると、神聖な意をもつ、イタやユタは、あるいは言葉を表すイタクと派生関係にあったのではないかと考えられる。巫女の重要な役割は死者の言葉を現世の人に伝えることにあり、巫女と言葉は切り離せない関係にある。/それは、言霊信仰とも関係することである。》
ここで中本は朝鮮のムダンに話を戻す。ユタやイタコと語としては関係なさそうだが、三つ並べた。
ムダン(mu da n)ユタ(ju ta )イタコ(i ta ko)──《と並べてみると、語頭と語尾が異なっているだけで、これが変化したり、脱落したり、添加したりしたとすれば、同源(✍下線部分)とみることに無理はない。》
では、ムダンはユタやイタコのように「言葉」と縁戚関係はあるのか──《朝鮮語の言葉を表す語はマル(mal)である。その動詞、語る、話すはマルハダmalhadaである。すると、ムダンmudan(巫女)は、mal(言葉)と関係のある語であることになる。》
シャーマンに係る語においても、ヤポネ語、琉球語、アイヌ語、そして朝鮮語は同源とみなされ、みな東シナ海沿岸の古層語に含まれる、と中本は推断する。
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