2021/5/16
「『ダイヤモンド・プリンセス号』からの生還」その後
「隔離終了直後 大黒埠頭にて」
(A)大波を泳ぎながら周囲を見渡せば
(4)
私はふたたび振り出しに連れもどされてしまう。振り出しとは、あの夫を失ったご婦人についてである。
前にほんのわずかにふれた2020年8月5日の朝日新聞の記事では、このご夫妻についてが紹介されている。しかしこの記事には不思議なことが書かれていたのだった。記事のその部分を紹介しよう。
「政府の専門家会議は、欧米と比較して感染者や死亡者が少ない要因と
して『ダイヤモンド・プリンセス号への対応の経験がいかされたこと 』を
挙げた。女性は声を詰まらせる。『私たちは実験台にされたんだと思う。
どうして感染が拡大する船内にとめおかれたのか』
クルーズ船運航会社の日本支社であるカーニバル・ジャパンの対応にも
不信を募らせる。7月中旬に社員が自宅を訪れたが、慰謝料や対応につい
て尋ねても、『すみません、不測のことで免責になります』と答えるば
かりだったという。」
私が不思議なことというのは、カーニバル・ジャパン社員の応え「不測のことで免責になる」という言葉だった。推測するに、船主プリンセス・クルーズ(社)にとって「不測のこと(感染症爆発)」には責任がとれない、という意味なのだろうか?では「不測のこと」とは船主にとって厳密に、どこから、どこまでを言うのだろう?感染それ自体のことか?では感染にたいする対応はどうなのか?何かの法として定められていることなのか。
私は、とりあえずダイヤモンド・プリンセス号の「旅客運送約款」(注12)から調べ始めてみた。すると意外にもすぐさま、社員の言う意味と思われる文言は発見できたのだった。
約款の第15条「運送人の責任制限、補償」の(B)がこの件に該当すると思われた。長くなるが全文記してみよう。
「運送人の支配を超える事由、不可抗力 運送人は、天災、伝染病、パ
ンデミック、感染症の集団発生、公衆衛生の危機、自然災害、燃料及び/
又は食糧の調達不能、港湾及び/又は空港の閉鎖、民政又は軍事当局の行
為、政府の行為、規制又は法律、政府の命令又は規則、戦争、騒乱、労働
紛争、テロ、犯罪、その他潜在的な害悪の原因、政府干渉、海難、火災、
船舶の拿捕又は差押え、医療救助その他の援助の必要、その他の運送人の
排他的支配を超える事由、又はその他の運送人の過失によって引き起こさ
れたとは判断されない作為又は不作為によって引き起こされた一切の死亡
、傷害、病気、又は損失、遅延、その他の人身又は損害の賠償する責任を
負いません。」
考えられ得るかぎりの、自分の意思の及ばない範囲のものを、天から降ってきた災厄としてこれでもかと挙げている。100歩ゆずって、「運送人(プリンセス・クルーズ⦅社⦆)」の言うことはもっともだとしよう。しかし、それでもまだ問題は残るのだ。船内において「感染症の集団発生」を起こした原因として考えられている、乗客に感染患者が出たという告知が遅れたこと、レストラン閉鎖やイベント中止などをすぐ決めなかったこと、乗客に部屋に閉じこもる勧告をすぐしなかったこと、食事配膳において感染対策を徹底できなかったこと、それらの理由はなぜなのか、本当に「運送人の支配を超える事由、不可抗力」であるのか、「運送人の過失」にはあたらないのか、問題はいくつも出てくるのだ。
ことほど左様に、ダイヤモンド・プリンセス号でおきた事案を、この約款だけで判断することは不完全である。「運送人の排他的支配を超える事由」「運送人の過失によって引き起こされたとは判断されない作為又は不作為」とは一つ一つの事案を、さまざまな証言に照らし合わせることをしないでは、決められないのではないか。
私は気になって、日本のクルーズ船の約款をしらべてみた。
たとえば「飛鳥U」、日本郵船のグループ会社である郵船クルーズ株式会社の所有している船である。この会社の「郵船クルーズ株式会社 クルーズ船旅客運送約款」(注13)、第5章賠償責任 第13条(当社の賠償責任)ではこう書かれている。
「1 当社は、旅客が本船の船長又は当社の係員の指示に従い、乗
船港において乗船手続きを完了し、本船の舷門に達した時から下船港
において本船の舷門を離れた時までの間に、その生命又は身体を害し
た場合は、これにより生じた損害について責任を負います。
2 前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する場合は、適用
しません。
(1)船舶に構造上の欠陥及び機能の障害がなく、かつ当社及びその
使用人が当該損害を防止するために必要な措置をとったか、又は不可
抗力などの理由によりその措置をとることができなかった場合
(2)旅客又は第三者の故意若しくは過失により、又は旅客がこの運
送約款を守らなかったことにより当該損害が生じた場合」
プリンセス・クルーズ(社)の約款は運送人(船)の責任を何ら言わず、責任にならない事柄だけを並べたてている。これに反して郵船クルーズのほうは何らかの損害が起きた場合は、まず船社が責任を負うことが明記されている。この責任範囲にたいして例外規定を設けている。両者の考え方は、まるきり逆を向いたものだ。乗客にとっては、後者の方がどれほど安全かはすぐ分かるだろう。
つぎに医療に関する項目を念のためにみてみよう。そこにはつぎのように書かれてある。
「第13条 健康、医療その他の個人的なサービス
海上を航海し種々の港に寄港する性質上、医療機関の利用が制限され
又は遅れが生じ、本船の航行地からは緊急医療救助を受けることができ
ない事態が発生する可能性があります。貴殿の本クルーズに関連する全
ての健康、医療、その他の個人的なサービスは、これらサービスの費用
を負担するゲストの便宜のために提供されます。貴殿は、貴殿のリスク
と費用で、運送人に一切責任を負わせることなく、本船及びその他の場
所で利用可能な医薬品、医療処置、その他個人的なサービスを受け又は
利用し、貴殿のために発生した一切の医療費、救助費用、その他費用に
ついて運送人に補償することに同意します。運送人は医療の提供者では
ありませんので、医師、看護師、その他の医療関係者又は職員は、直接
ゲストのために働くのであり、運送人の管理又は監督のもとで行動して
いるとはみなされません。運送人は、かかる医療従事者の医学の専門医
術を監督するものではなく、医師又は看護師が貴殿に対して検査、助言、
診断、投薬、治療、予後又はその他の専門的サービスを提供し又は提供
しないことによって生じた結果について責任を負いません。
同様に、これに限定されませんが、全てのスパ職員、インストラクタ
ー、ゲスト講師、エン ターティナー、その他のサービス職員は、直接
ゲストのために働く独立した業者であるとみなされるものとします。」
私は約款を書き写していて、はじめて隔離中に抱いた疑問の一部が氷解した、と同時にとんでもない約款だと思わざるをえなかった。どうしてあの不幸に見舞われ、亡くなった夫は部屋に放置されたのか、どうして感染者が隔離もされず、ふたたび家族あるいは友人のいる部屋に戻されたのか、どうして病室の前に患者が長蛇の列をつくり順番を待たなければならなかったのか、これらはすべて船主(プリンセス・クルーズ⦅社⦆)の責任ではなく、サービスを提供する業者である医師の責任であるというのだ。
しかし、2,3名(この人数は想像である)しかいなかったであろう医師が、2千名もの乗客を相手にできるわけがない。では救援のメディカルスタッフの手配はどちらの責任なのか、船主か業者である医師側か?社長のジャン・スワーツが隔離中、「緊急アシスタントチームを発動した」だの「日本へ上級幹部を多数派遣」だのといいながら、医療の救援チームを手配しなかったのは、あのような緊急時になっても「運送人」にとっては責任外であるからなのか?それは書かれてはいない。あるいは、これ以上の医療責任は隔離をした厚労省にあるのだろうか?しかし長崎のコスタ・アトランチカ号では、隔離をされながらも、船社の救援チーム4名が乗船しているのだ。
この「旅客運送約款」なるものを、私はネット検索で発見し、17ページにも亘る内容を読み、了解するか否かは別として、この時期になってようやく理解した。しかしこのような約款とは別に、私の記憶にこびりついていたのは、旅行案内パンフに写真入りで載っていた、メディカル・センター(医務室)医師二人の微笑んでいる顔であった。あの写真によってこそ、診療費用がクルーズ料金とは別立てだとしても、安全のために船社によって、船社の責任で、医師は乗船していると、乗客が理解してしまうことは当然ではないだろうか。
私たち夫婦は、旅行代理店が企画するどんな団体旅行にも属さず、しかし旅行代理店をつうじてチケットを買い、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船した。渡されたチケットとともに、このような膨大な「旅客運送約款」なるものを渡されたか否かは、すでに忘却の彼方である。もし渡されたとしても、ちゃんと読みこんだかどうかもわからない。
しかしもし読み込んで、理解していたなら、乗船しただろうか。読み終わった現在なら、けっしてできないだろう。それほどこの約款にはもしもの時の危険が満載されていると思った。さらに、あのご夫婦の悲劇が、このような約款ととうてい釣り合うものではないことも、当然すぎるほど当然なのだ。
もしもの時にはすべてが自己責任で対処しなければならない、そのような危険な約款について、国交省は知らないわけがない。あるいはそんなことは、船主と乗客、当事者同士の問題で第三者が口をだすことではないし、また些事として問題にすらならない、そう考えているのかもしれない。しかし、観光立国の名のもとにこのような安全対策を二の次にし、巨大クルーズ船(巨大グローバル企業)を呼びこむ先兵となっている国交省とは、どのような組織なのか。
私はすこし想像をたくましくしてみる。
このような観光の構造は、IR(統合型リゾート)構想とどこか似ているのではないかと思ってしまうのだ。IRもさまざまな問題、危険を指摘されながらも、観光立国のため、巨大な外資を呼びこもうとしている点ではクルーズ観光事業と相似形である。クルーズ業界では各地港湾が大型船呼び込みに名乗りをあげているように、IRも各地主要都市が名乗りをあげている。しかしこちらは計画が明確化、現実化するまえに、すでにもう利権政治家が摘発され、裁判になってしまっているありさまだ。
なぜこのような例を書きだすか、その理由は、国交省が地方港湾と手を組み外国のクルーズ船を誘致するという裏側には、利権にまみれた政治家がいるのではないか、IRと同じではないかということだ。
政府が「GoToトラベル事業」を、感染が地方に広がるようなエヴィデンスはない、などと寝言を言いながら強行し、昨年の暮れ見事第三派感染蔓延をまねいてしまったこと、それは記憶にあたらしい。このような醜態のうらには、観光族議員がいるだろうことは国民のだれもが想像していることだった。
同様に、観光族議員が国交省、地方の港湾と手を結び、あるいは人事権によって官僚や地方行政を“指導・指示”しながら、外国クルーズ船主の先兵となって動いていることは想像可能なのだ。断っておくが、これはすべてのクルーズ船主の問題ではもはやなく、繰りかえすが利権にまみれた日本の政治家が手を下している統治構造の問題なのである。
(続く)
※続きは『風の森』第2次第10号(12月発行)にて掲載。
注12:プリンセス・クルーズ旅客運送約款
Passage_Contract_ja_2020_updated (princesscruises.jp)
https://www.princesscruises.jp/pdf/Passage_Contract_ja.pdf
13:郵船クルーズ株式会社:クルーズ船旅客運送約款
provision011.pdf (amazonaws.com)
https://asuka-web.s3.ap-northeast-1.amazonaws.com/wp-content/uploads/2017/01/11174948/provision011.pdf

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2021/5/9
「『ダイヤモンド・プリンセス号』からの生還」その後
「隔離終了直後 大黒埠頭にて」
(A)大波を泳ぎながら周囲を見渡せば
(3)
ダイヤモンド・プリンセス号の感染爆発が終息してから約一か月半後、4月19日(第一回目の緊急事態宣言真っ最中の時期)、長崎市の帰国者・接触者相談センターに、三菱重工長崎造船所香焼(こうやぎ)工場に接岸したクルーズ船コスタ・アトランチカ号より、船員クルー4名の発熱についての相談がよせられた。これがコスタ・アトランチカ号の大規模感染クラスターの始まりだった。同船はイタリアの船籍であり、コスタ・クロチェーレS.p.Aというイタリアの会社が運航している。そしてこの会社も、カーニバル・コーポレーション傘下の会社である。
幸いにしてこのクルーズ船は長崎造船所のドックに入渠し修繕中だったため、乗客は乗っておらず、船員クルーのみ623名(後に救援のメディカルスタッフ4名が乗船し最終人数は627名)が乗船しており、このうち感染者148名、重症者11名の発生となった。この感染事件は7月9日、入院した最後の一人が退院し、定期便で帰国することで終了している。また船の方は5月31日、長崎造船所を出港した。
ダイヤモンド・プリンセス号の大きな感染事件に隠れて、あまり世の中の人々の注意を惹かなかったが、この感染クラスター爆発も地方にとっては、行政、医療機関、市民を揺るがすような出来事であった。
私は今、長崎県・長崎市が作った「クルーズ船『コスタ・アトランチカ号』における新型コロナウイルス感染症クラスター発生事案 検証報告書」(注7)なる文書を見ながら、上記のような情報を基としながらこの原稿を書いている。わざわざこのようなことを書く理由は、私はこの100ページにもなる膨大な報告書に出会ったとき、新型コロナウイルス感染爆発にみまわれた大型船をめぐっての、最良の報告書に出会ったと思ったからだ。
少なくともダイヤモンド・プリンセス号の感染症爆発・隔離事件についての、厚労省の「現地対策本部報告書」や、国交省作成の「クルーズの安全・安心の確保に係る中間とりまとめ」(注8)などの報告書とは、比較にならない、レベルのちがうものだと思っている。
なぜなら、この報告書は感染現場で何が起こり、誰が係わり、その関係者はどのように動き、何をしたのか、その結果はどうだったのか、それらは漏らさず報告されており、以後の同じようなケースが起きた場合の具体的提案にまで結びついているからである。
想像するに、何人もの県、市職員、あるいは三菱重工の社員が現場を追いかけ、問題点を洗い出し、それらを詳細に記録していったのではないか、そのような行為がなければ、これほどの報告書は作ることはできないと思わせる内容のものだ。
一方、たとえば国交省作成の「中間とりまとめ」なる報告書を視るなら、ダイヤモンド・プリンセス号の事件については、わずか2ページにまとめられ、その内容はおそらく現場をわずかでも視、検証したことのない人間が、机上でまとめたものに過ぎないことが理解されるのである。ダイヤモンド・プリンセス号の感染拡大では、以下のような内容が指摘され、書きつけられている。
「・初期段階で乗客に症状が表れたのが1月22日、23日の時点と
されているが、イベントの中止、乗客の個室管理等の対策が
とられたのは横浜到着後検疫からの指摘を受けた後であった。
・共用の施設や設備、共通のイベントを通じ感染が拡大した可
能性がある。
・ビュッフェ等において多数のものが接触する物を通じた接触
感染の可能性がある。」
この文書には「令和2年9月18日」という日付が記されている。その時期にこのようなもうすでに判明し、世の中に周知されていることについて、わざわざそれも「可能性」としか書けない報告書とはいったい何なのか。しかも感染拡大の原因については、上記3項目しか挙げられないのである。
参考までに、前述したNHKスペシャル番組での船内調査、つまりウイルスが船内のどのような所に付着していたか、ウイルスの飛散とはどのようなものか、などについては、すでに5月に放送されていたことを記しておく。
ここでは、私たちは現在の官僚の質がこのようなものであること、それを確認するだけしかできず、後は怒りのなかで黙るしかないのだ。
長崎県・長崎市の報告書にもどろう。
コスタ・アトランチカ号での感染クラスター事件で、発生した費用内訳は以下のようなものだった。
@長崎県負担経費 28,873千円
上記内訳は
・自衛隊の活動費 3,558千円
・DMAT等医療支援チームの活動費19,544千円
・防護資材費 1,000千円
・クルーズ船対策本部の運営費 4,425千円
・その他 346千円
A長崎市負担経費 24,891千円
上記の内訳は
・感染症患者の入院費(6人)21,954千円
・PCR検査(行政検査)(630件)2,125千円
・クルーズ船対策本部の運営費812千円
これらの金額については但し書きがつけられている。県の負担した費用(28,873千円)は、すべてコスタ社に費用請求を行っており、コスタ社は支払い手続き中と、記されている。
一方、市の負担分(24,891千円)は、運営費(812千円)はコスタ社に費用請求をおこない、残りの入院費、検査費は感染法に基づき国と市の負担となる。もう少しくわしく述べるなら、入院費はそれぞれ国4分の3、市は4分の1の負担、検査費は国と市2分の1ずつ負担。さらに市の負担費用の8割は、特別交付税として国から市に予算交付される。
額はまったく異なるが、ダイヤモンド・プリンセス号の感染事件で要した、医療費用2億8,843万円の費用負担の問題が当然ながらここでも出てきている。
この事例にたいして、長崎県市長会議は以下のような決議をした。
「船籍に関わらず大型クルーズ船の乗員、乗客は、数千人にも
なり、ひとたび船内で集団感染が発生すれば、マンパワーが限ら
れる地域の保健所では対応が困難であると思慮される。また、検
査費用及び入院患者の医療費についても、感染症法に基づき、
地方自治体が費用の一部を負担することとなり、交付税措置はあ
るもののかなりの財政負担を強いられる。
よって、検疫法による検疫を終え入港した外国籍クルーズ船に
おいて感染症の集団感染が発生した場合の対応及び費用負担に
ついて、国が責任を持って対応するよう必要な法整備や体制整備
を行うこと。」
要求されていることは、日本の寄港地で集団感染が発生した場合そこで発生した費用は、船籍のある国に支払ってもらうよう国際間の交渉や医療体制整備を行えということだ。これが長崎県・市による数多くにのぼる提案のうち、基本をなすものと考えてよいだろう。
さて提案の骨格の説明に入る前に、このコスタ・アトランチカ号でおきた事件の全体像のおおよそを掴むために、予備的な情報を記しておこう。
まず同船の船員クルー623名の国籍は、フィリピン206名(33%)、インド104名(17%)、インドネシア84名(14%)、中国82名(13%)、イタリア40名(6%)、その他107名(17%)。
私は、ダイヤモンド・プリンセス号のクルーが、東南アジアを中心とした期間雇用のクルーがほとんど、というように書いたが、それはこのような統計からも類推されるはずだ。同時に、このような言葉のちがう多国籍の船員クルーにたいしては、緊急時訓練、ここでは感染症にたいする前もっての教育・訓練という課題は、必須であることが理解されるだろう。
本船に乗船していた医師は1名、看護師は2名だった。
つぎにこの感染事件で県・市から応援、出動要請された組織、人間、機材については以下の通りである。
・長崎大学(役割は623名全員に対するPCR検査、感染者入院治療引き受け。参考までに入院受け入れの医療機関は長崎大学病院、長崎みなとメディカルセンター。またPCR検査は、事案の発生した翌日20日に市の保健所が4件、残りの619件はこの長崎大学が4日間で実施している。)
・厚労省(10名)・国交省支援職員(12名)(ダイヤモンド・プリンセス号事件の経験者、国立感染症研究所(3名)、DMAT事務局(4名)、船舶港湾関係担当者)
・外務省(各国クルースタッフの帰国する際のチャーター機の運航、PCR検査実施方法、受け入れ国との調整、折衝)
・自衛隊(検体採取、医療支援、CT診断車派遣、尚CT車は岸壁に設置された)
・県保有のレントゲン車(これも岸壁に設置)
・県内(74名)、県外(16名)DMAT(災害派遣医療チーム。このチームにプラスDMATロジスティックチーム3名)
・COVID-19JMAT(日本医師会災害医療チーム)プラスCOVID-19JMATジャパンハート(計21名)(発展途上国を中心に活動する日本の国際医療ボランティア団体 NPO法人)
・ピースウインズ・ジャパン(9名)(広島県に本部を置き、国内外で自然災害、紛争や貧困などで危機にさらされた人々を支援する国際協力NGO)
・国境なき医師団(4名)(医療・人道援助活動を行う民間・非営利の国際NGO)
・DPAT(1名)(災害派遣精神医療チーム)
・DHEAT(1名)(災害時健康危機管理支援チーム:船内外のゾーニング指導、衛生環境指導、ごみ処理に関する県・市との連絡、調整)
・長崎県薬剤師会
・長崎県栄養士会(船員クルーに対する栄養指導、ケータリング紹介)
・帰国のため空港までのバス事業社4社
船が係留されていた香焼岸壁には、船外医療支援活動のためコンテナハウス50棟が建てられた。さらには、事件概要を市民に理解してもらい、不安解消のために、地元自治会、商工会、小中学校、幼稚園、子供関連施設、三菱重工社員、福祉施設等へチラシが配布され、説明会が開かれている。
一旦感染が発生すると、その防御対策は一船内に留まらず、驚くほど広範囲にわたる。報告書は30ページ以上に亘って、事件経験に基づいたさまざまな提案をしているのだが、その全体を紹介することは困難である、骨格だけをここに記しておこう。
提案は政府や地方自治体、港湾関係者、船舶所有者、船舶運航者、その他関係機関に対するものである。
@第一になされた提案は、前述した大規模クラスターで発生した費用は、どこが責任を持つかということだ。同時にこの問題は、政府、寄港地、船国籍、船舶所有者、船会社(運航会社)などの責任範囲の明確化であり、このための国際的ルール策定の問題である。この問題について未対応のまま、地方の港湾施設が巨大クルーズ船誘致をするならば、どのような混乱や危険にみまわれるか、ダイヤモンド・プリンセス号の事件を思いかえすなら想像はつくことだ。
Aクルーズ船や大型船舶では、今回の新型コロナ感染にかぎらず、今までO157やノロウイルスなどに見舞われたことはあるはずである。それどころか、船のなかでの生活とは、伝染病との闘いの歴史と言っていい。このためにかならず、感染症の予防ガイドラインなるものは作られているだろう。しかしこのガイドラインが完全な内容であり、完全に実行されているかは別問題である。
国や県、関係団体があらためて、船内での生活様式ふくめこのガイドラインを検証し、再作成し、感染予防対策を徹底すること。と同時にクルーズ船入港の要件として、ガイドラインが守られているかどうか、その確認をせよというものだ。
Bクルーズ船が入港するにあたり、大規模な感染事件を経験したあとの各地の港湾管理者にとって、船内の感染に対する管理体制、入港地域の感染流行状態、医療体制のひっ迫度など、それらの情報と入港許可基準が必要となっている。地方の状況によっては、入港予定あるいは入港したクルーズ船を他の地域に移動するよう、要請できる仕組みが必要である。
このため国には広域的に受容れ港を調整する仕組み作り、地方自治体には船の感染管理体制、地域の感染流行状況、医療体制のひっ迫度によりクルーズ船の受け入れや、他港への移動を要請するための具体的な運用方法の作成、港湾管理者にたいしては、船舶に対して上記のような要請ができるよう県港湾管理条例の改正検討を提案している。
C船内で集団感染が発生した場合、医療機関をのぞいてどのような機関、組織が関係しなければならないのだろうか。まず国では厚労省、国交省、外務省、県では港湾管理部門、感染症担当部門、市では保健所、消防署、ほかに船舶代理店、自衛隊、その他CIQと言われる税関(Customs)、出入国管理(Immigration)、検疫(Quarantine)などである。これらは緊急事態発生時に対応するためには、相互の情報共有が必要となってくる。その仕組み連携体制の構築が必要である。
同時に医療体制の広域的な確保が必要となる。ダイヤモンド・プリンセス号の感染事件で実証されたように、感染者は神奈川県だけでの受け入れは不十分で、中部地方、中京地方は言うにおよばず、東北、関西地方にまで運ばれた。つまり、どうしても広域的な体制整備が必要となり、メディカルスタッフの不足している現在、人材育成、研究、検査体制の整備は必須である。もっともこれらは、クルーズ船対応にかぎらず、日本医療体制全体の問題ではあるのだが。
細かい提言をあげるなら、まだまだ数多くあるがここら辺で切り上げよう。
ここにはすでに感染対策とは船の内部だけに限らず、いやそれ以上に観光クルーズ船と日本の社会がいかに深くかかわらなければならぬか、そのことが問題にされていることがよく分かる。
ここに私たちはどのような問題をみるべきなのか。世界を広域的に動きまわるクルーズ船(船内は日本ではない外国で、船主の国の法が適用される)が持ってしまう危険と、その危険を制御しなければならない一国の統治システムとのすれ違い、矛盾についてだろうか。もっと簡単にいうなら、グローバル企業をいかに一国の規則、法で規制するかの問題だろうか。
たしかにそうなのだが、問題はもっと錯綜して、日本政府・社会自体のあり方に食い込んでいるようである。たとえば統治しなければならない主体としての日本についてみると、省庁横断的に行わなければ実現しない政策なのだが、困難はその横断的ということにある。これらの問題にかかわらなければならない組織は、前述した省庁やその下の組織、その他これらの組織に属さないさまざまな独立法人、NPO、NGO・・・数え上げるならこれも無数といっていいほどになるだろう。
さらに問題は、これらどの組織が音頭をとって条約策定、安全管理、各組織連携システムづくりをやるのか、いやもっと目線を低くして国交省の姿勢についてだけでもよい。
新型コロナウイルス感染蔓延以前の日本は、インバウンドで湧きかえっていた。経済的に疲弊しつつあった地方自治体は、内外の観光客を呼び寄せるため、あの手この手の策を考えていた。クルーズ船招致はその策の中でも、もっとも効果的な方法の一つだったのではないか。招致のための港湾整備を各地方が急いだのは当然のことだった。
たとえば2019年4月に国交省港湾局は「新たに下関港と那覇港を国際旅客船拠点形成港湾に指定〜官民連携による国際クルーズ拠点の形成に向けて〜」(注9)なるプレスリリースを発表している。内容は、クルーズ船受入れ環境の整備のため、これまで国交省は7港(横浜港、清水港、佐世保港、八代港、本部港⦅沖縄本島⦆、平良港⦅宮古島⦆、鹿児島港)を指定していた、この7港に加えて、さらに2港、下関港と那覇港を指定したという告知だった。
文書にはつぎのような注目すべき事柄が書かれている。
「現在、国土交通省は、クルーズ船の受入環境の整備の取組の一環として、クルーズ船社による旅客施設等に対する投資と国や港湾管理者に受入環境整備を組み合わせ、短期間で効果的な国際クルーズ拠点の形成を図るため、国土交通大臣が指定する港湾において、旅客ターミナルビル等に投資を行うクルーズ船社に岸壁の優先的な使用を認める制度により、これまでに7港を指定しています。」(傍線引用者)
つまり、私たちの暮らしの安心・安全を考えるとき、一面では危うい産業となりかねない“観光立国”などというものをめざして、グローバル企業の投資を呼びこみ、代わりにそれら企業に日本の施設を優先的に使用させるということが書かれている。なんならここに、地元住民そっちのけで、という文言をつけ加えても良い。
国交省は地方の港湾とともに、いや先頭に立ってクルーズ船誘致をしており、もっというなら、国交省にとっても、クルーズ船社は大事な“お客様”となってしまっていたのではないか。
文書公表の翌年、つまり去年、ダイヤモンド・プリンセス号とコスタ・アトランチカ号の事件はおきた。長崎県・市の提案を、国交省は進められるのだろうか。クルーズ船を管理・監督し、それを寄港の条件と出来るのだろうか。そのような動きはあるのだろうか。少なくとも現在までその気配はまったくないし、それどころかまったく反対の動きさえしているのだ。その典型的な二つの例を記しておこう。
2019年3月13日、衆議院の国土交通委員会での共産党宮本岳志議員の国交省にたいする質問、題して「クルーズ船問題」というものだ。具体的には奄美大島への大型クルーズ船誘致問題についてであり、「赤旗」の記事(注10)をそのまま紹介しよう。
「宮本氏は今年3月13日の衆院国土交通委員会で、鹿児島県奄美大島へ
の大型クルーズ船誘致問題を追及しました。人口三十数名の同島瀬戸内
町西古見地区に世界最大22万トン、乗員乗客7000人の超大型クルーズ船
の寄港地をつくる計画が進んでいました。
宮本氏は、同省港湾局が、米大手クルーズ会社『ロイヤル・カリビア
ン・クルーズ』社の要望を受け、寄港地候補を調査していたことを暴露。
『いつから港湾局は大手クルーズ船運営会社の下請け機関に成り下がっ
たのかと情けなくなる』と喝破。『ロイヤル・カリビアン・クルーズ社
から、クルーズ振興に関する指導を期待していると言われれば、たちま
ちその意向に沿って、奄美・徳之島に寄港候補地を選定する』と批判し
ました。
計画の背景には、政府目標『2020年までにクルーズ旅客500万人』にあ
う新たな寄港地の開発があります。」
みじかい説明を加えておけば、わずかの島民だけが住む奄美の瀬戸内町に22万トン寄港可能な港を造ること、しかも港はクルーズ船優先使用、何よりもこのような“振る舞い”は自然破壊の象徴であり、町民無視であり、そのことに国交省が率先して手を貸している暴挙に宮本議員は噛みついている。ついでにもう一言つけ加えるなら、ダイヤモンド・プリンセス号は約11万5千トン、この船はその約2倍、船の巨大さと誘致企画の無謀さが想像できるというものだ。
奄美大島は2020年にむけて世界自然遺産登録をしようとしていた、また瀬戸内町の住民はこの国交省の計画を知らされていなかったようだ。もっともこの登録計画はコロナ感染症蔓延の影響で延期になったのだが、しかしコロナ感染が終息すれば、国交省はほかの場所で同じことをやるだろう。
もちろんこの出来事は、ダイヤモンド・プリンセス号事件以前に起きているのだが、底流にある国交省の姿勢は変わっていないはずだ。二番目の例はそのことを示している。
今年の3月20日下関の港湾局は「下関港クルーズセミナー2021〜クルーズの魅力と安全性〜」(注11)と題されたセミナーを開催した。主催は下関市港湾局振興課クルーズ振興室、共催は下関港湾協会、下関市、山口県、後援として国土交通省九州地方整備局、国土交通省九州運輸局、下関海の日協賛会、瀬戸内海・海の路ネットワーク推進協議会、みなとオアシス全国協議会と案内チラシには記されている。
前述のように、クルーズ船受入れのための拠点港に指定された下関港が、国交省と組んでクルーズ船社を招いたイベントと理解すればよい。
セミナーはクルーズ業界関係者2人の講演と、クルーズ船社4人によるパネルディスカッションという内容。会場には国交省の官僚たちも参加していると紹介されていた*。
私が興味をもったのは、4人のクルーズ船社の責任者たちによるパネルディスカッションについてだった。4人のなかにはカーニバル・ジャパンの代表取締役も加わっていたからだ。
ダイヤモンド・プリンセス号の事件が生々しく残っている時期、下関港、国交省の音頭でこのイベントを開催するかぎり、またセミナーのサブタイトルで“安全性”などと謳うかぎり、船社、港湾、地方自治体が連携した安全対策が討議されるのかと思っていた。
しかし期待する方が無理だったのである。話題はクルーズ船寄港地、下関の魅力、ここを拠点とした観光の可能性、そして4船社それぞれ船内だけでの、ごく普通の安全対策に終始していた。カーニバル・ジャパンの代表取締役にいたっては、前年の事件に具体的に触れることもなく、“あの不幸によって、私たちの安全対策がより深まった”などと言ってのけていた。私はこのような言葉を、多くの犠牲を出しながら平気で吐く人間に思わずカッときた、と同時に彼らが日本でどれほど横暴な“振る舞い”をしても、許されると考えているのではないか、一瞬そんな考えがよぎった。
地方港にとって、何千人もの観光客を一挙に運んでくるクルーズ船は願ってもない大切な“お客様”である。おそらく、安全対策への注文、指導などはこの“お客様”にたいして、できないことは明らかである。しかし各地港湾の後ろ側にいる国交省は、話は別なのではないか。残念ながら少なくとも現在まで、ダイヤモンド・プリンセス号の悲惨な事件は、国交省にとっては、なかったことのようにして物事は進められている。
(続く)
*セミナーはYOU-TUBE LIVEで視聴可能で、私もLIVEで視聴した。しばらくの間TOU-TUBE「下関港」のサイトでもこの様子がUPされていたが、なぜかその後消去されてしまった。
注7:長崎県・長崎市による令和2年10月作成「クルーズ船『コスタ・アトランチカ号』における新型コロナウイルス感染症クラスター発生事案検証報告書
1602051145.pdf (nagasaki.lg.jp)
https://www.city.nagasaki.lg.jp/bousai/210000/p035404_d/fil/1602051145.pdf
8:以下の報告書は6部構成になっている。日付は令和2年9月18日付。
@「クルーズの安全・安心の確保に係る検討・中間とりまとめ」の表紙になる。
報道発表資料:「クルーズの安全・安心の確保に係る検討・中間とりまとめ」を公表します - 国土交通省 (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/report/press/kaiji02_hh_000250.html
A次が「報道発表資料」(プレスリリース) 001363829.pdf (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001363829.pdf
B「クルーズの安全・安心の確保に係る検討・中間とりまとめ」の概要
001363830.pdf (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001363830.pdf
C「クルーズの安全・安心の確保に係る検討・中間とりまとめ」(本文)
001363831.pdf (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001363831.pdf
D「(別添1)ご意見を伺った専門家について(敬称略)」001363832.pdf (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001363832.pdf
E「(別添2)外航クルーズ船事業者の新型コロナウイルス感染予防対策ガイドライン」
001363833.pdf (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001363833.pdf
F「(別添3)クルーズ船が寄港する旅客ターミナル等における感染拡大予防ガイドライン」 001363884.pdf (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001363884.pdf
9:「新たに下関港と那覇港を国際旅客船拠点形成港湾に指定
〜官民連携による国際クルーズ拠点の形成に向けて〜 」
平成31年4月19日港湾局産業港湾課 発表
<4D6963726F736F667420576F7264202D2081738D4C95F189DB8F4390B3817430312095F193B994AD955C8E9197BF2E646F63> (mlit.go.jp)
https://www.mlit.go.jp/common/001286442.pdf
10:2019年5月23日国会質問データ 198-衆-国土交通委員会(2019/3/13)
「クルーズ船問題指摘」というタイトルで、共産党宮本岳志議員が国交省に質問をしている。
198-衆-国土交通委員会(2019/3/13) | 宮本たけし 前衆議院議員 <公式ページ> (miyamoto-net.net)
http://miyamoto-net.net/parliament/1875
11:「下関港クルーズセミナー2021〜クルーズの魅力と安全性〜」案内チラシ
cruiseseminar.pdf (shimonoseki.lg.jp)
http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1613434061090/files/cruiseseminar.pdf

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2021/4/25
「『ダイヤモンド・プリンセス号』からの生還」その後
「隔離終了直後 大黒埠頭にて」
2020年2月20日、つまりこの文章を書きだしたほぼ1年前、私たち夫婦はダイヤモンド・プリンセス号での17日間の隔離を終え、ようやく横浜大黒埠頭に降り立つことができた。この後、公共の交通機関を使い自宅に帰ることになるのだが、そこで解放ということにはならず、さらに14日間の自宅蟄居(隔離)、そして二度目のPCR検査を経てようやく解放という運びになった。
しかし解放は本当の解放であったのか。私たちに残されたのは、解放とはほど遠い、とつぜんの隔離にたいする怒りといくつかの疑問だった。どこにも持っていきようのない怒りは時間とともにさすがに小さくはなるのだが、疑問は消えることはなく、逆にますます大きくなっていった。
解放と思われた私たちをとりまく情況は、しかし思いもかけない方向にころがっていった。個人の小さな体験や疑問をあざけ笑うかのように、新型コロナウイルスによる感染の大波が日本の社会に押しよせ、しかもこの大波は日本の政治あるいは統治機構の無残さ、無能さを、国民にいやというほど見せつけたのだ。
政治的無残さの姿は「アベノマスク」や、自分の言葉をもたず、国民の視線のとどかない裏側で恫喝の方法しかもたない菅総理大臣(スガーリン)の姿が、その象徴であるだろう。彼らは、緊急事態宣言という国民への「自粛」を呼びかけるだけで、政府自らはデータに基づいた合理的などのような施策も、感染症予防策も打ち出せなかった。“これほどまでにひどいか!”と私たちは呆れ、嘆息するしかなかった。
また厚生労働省(以下・厚労省)の無能は日本の閉塞や停滞の象徴と見えた。どうしてPCR検査は増えないのか(増やさないのか)という疑問からはじまり、検査が増えないことからとうぜん帰結する無症状感染者の野放し、病床数世界一だと誇っていた日本の医療機関が、アメリカやヨーロッパよりはるかに少ないコロナ感染者に対応できず、「医療崩壊」という言葉を何度も聞かされるという悪夢、そもそもメディカルスタッフの絶対数が足りないという現実、さらにはかつてワクチンの先進国であった日本がなぜ自前のワクチンすら作れなくなっているのか、海外ワクチンの接種のようやくはじまった現在、自前ワクチンの影も形もなくなった現状に残ったのは、さざ波のようなあきらめだけなのである。
繰りかえすのだが、私たち日本人は、あらためて日本の社会がこんなにも脆弱で、なさけない状態にあったのかと驚くばかりだった。安全保障といえば、条件反射のように軍事しか思い浮かべられない、日本の単細胞的政治とはいったい何であるのか。軍事よりも感染症対策や医療・食料確保は、もっと身近で日々の安全保障の範疇ではないのか。
逆説的にいうなら、新型コロナウイルス感染の爆発が、日本の病巣をこれでもかというようにさらけ出し、目のまえにならべてくれた。身も蓋もないいいかたをあえてするなら、この意味では感染爆発は天恵だったと言えさえする。
言葉を変えれば、現在の政治は個人あるいは集団の「利権」だけで動き、その範疇からはずれた問題は解決不能であることを、否応なく教えてくれたのだ。いずれ現政権の利権政治屋たちは表舞台からきえていくだろう。だが私は、ほんとうの問題は、表層でうごめく利権政治よりもっと深い場所にあり、本質はそこにあるのではないか、と思うようになっていた。
問題を具体的にしぼり、たとえば感染症対策だけに注視してみよう。ここ十数年世界で連続する深刻な新興感染症(SARS、MARS、新型インフルエンザ⦅豚インフルエンザ⦆、高病原性鳥インフルエンザ等々)だけにかぎっても、日本政府が今までしめしてきた脆弱さ無能さは、感染症対策が一部の人々によって現実に則した発想・解決策をもてず、恣意的に動かされていることからの結果だ、という疑念はかねてよりあった。この疑念が新型コロナウイルスによって、いっそう明確な形として社会の表面に浮かびあがってきたのだ。
社会の表にでない利権グループが「原子力ムラ」としてあるように、「感染症ムラ」は上昌広医師の言うようにたしかにあるのだろう。しかしこの「ムラ」はなぜできあがり、なぜ恣意的な活動しかできないのか、その恣意性とは具体的にどのようなことなのか、「ムラ」はどのような日本の暗部や歴史の流れから浮かび上がってきたのか、このように連続する“なぜ?”を問いかけたとたん、疑問は千々に細分化し、ふたたび闇の中に入ってしまうのである。
私はこれから、日本社会に漂っている新型コロナウイルスが浮かび上がらせた、嫌悪すべき問題の一つ一つを剥がしながら、「感染症ムラ」にまつわる問題を、手さぐりでその起源までたどってみたいと考えている。
しかしこの問題を、学問があつかうように客観的に記述して、客観的に問題点を洗い出すという方法は、とらないことにしたいし、またとれないだろうと思っている。なぜなら、「隔離」というきわめて個人的な経験をどこまでも延長し、そこで抱いた疑問をひきのばしていくと、必然的に「ムラ」にたどり着いてしまい、このことは客観的な学問などとは、ほど遠い範疇のことと思えるからだ。
つまり、きわめて個人的な経験、痛みや怖れをともなった皮膚感覚から出発して、遠方にあるだろう起源、社会的無意識のなかにあるだろう起源にまでたどり着いてみたいのだ。心すべきは痛みや怖れという出発点を手放さないこと、この心掛けになるのだろうか。
まずは、ふたたび出発点であったダイヤモンド・プリンセス号にもどってみよう。
(A)大波を泳ぎながら周囲を見渡せば
(1)
ダイヤモンド・プリンセス号における新型コロナウイルス感染症の爆発は、乗客・クルー含め3,711人中、最終的に、感染者723人、死亡者13人という大きな犠牲を出して終わった。厚労省が2月11日に設置した「ダイヤモンド・プリンセス号現地対策本部」は、3月1日に船長以下、乗員・乗客すべてが下船したことによって、現地での常駐任務は終わった、対策本部の報告書にはそう書かれている(厚労省による、この「対策本部報告書」はのちほど触れることにする)。
2月に横浜港に入港してから、全員下船、および全室内消毒を終え、船は約3か月後の5月16日にマレーシアにむけて出港した。また、この船を所有しているプリンセス・クルーズ(社)の日本法人(株)カーニバル・ジャパン(注1)は同社の社員24名を6月30日付で解雇した。とうぜんのことながら、24名は不当解雇だとして連合ユニオンに訴え出ている。
さらには、11月10日付の共同通信社の記事によって、外国人感染者342人の医療費が2億8843万円に上り、すべてが国と自治体の公費で賄われていることが報道された。これは新型コロナウイルス感染症が指定感染症のため、日本人、外国人含め公費で賄われることのためである。そしてこのようなクルーズ船における、巨大な感染症事件についての国際的な取り決めは何らなされておらず、今後の国際的法整備が必要とされるのは当然のこととなった。
ダイヤモンド・プリンセス号は以上のような大きな傷跡、難題を残して去っていったのだった。しかし私はここで一旦、立ち止まってしまう。
「大きな傷跡、難題」、このように書きながら、それは私にとって表面的で、無関係なニュース、情報にしかすぎず、何かが乖離をおこしているのではないかという疑問をもってしまうのである。問題はもっとべつのところにあると。
たしかにこれらは事実なのだが、私たちが経験した17日間の怯えや怖れ、焦燥とはまるで無関係で別世界の事柄としてその後の事は進み、蓋は何事もなかったように閉じられてしまい、物事はもとにもどってしまったかのようなのだ。私たちはあの混乱した船の中にたしかに乗っていた、そして今もその船は消え去ってはおらず、現にあるのだ、そう何度も自分に言い聞かせなければならなかった。
しかし、私たち夫婦も条件次第では同じ道をたどったに違いない、大きな悲嘆は上記の客観的情報と錯綜して、私の前にいつの間にか現れていた。このような悲しみこそが、どこにも持っていきようのない、私が抱いた怒りの一端ではないか、そこにこそ真の問題の在処はある、徐々にそう気づいていくのである。
たとえば感染による死者は13人だったのだが、いずれも「13」という数字だけで、とうぜんのことながら具体的な人間としては、まったく分からなかった。この13人の死者がどのような人々であり、どのような生活をされていたのか、名前は何という人なのか、どのような経路を経て死にいたったのか、それはとうぜん「13」という数字に集約しきれるものではなかった。しかし1人のご婦人が、自ら経験した悲嘆を語るために世の中にあえて現れたのだ。
私が彼女を最初に見たのはNHKスペシャル「調査報告 クルーズ船〜未知のウイルス 闘いのカギ」というドキュメンタリー番組においてだった。船のなかで彼女の夫が感染し、隔離後数日間放置された、船内医務室に何度も電話をしても診察すらしてもらえなかった、夫はなぜ放置され亡くならねばならなかったのか、彼女はそのことを知りたいために番組に出たと語っていた。残念ながら番組は、放置されたその背景にはまったく切りこめず、ただ彼女の悲しみを映し出しただけに終わっていた。
さらにこのご婦人は「新型コロナウイルス 感染者・家族 遺族の証言」というNHKのサイト(注2)と、8月5日の朝日新聞の記事に現れていた。これらの記事をまとめると以下のようになる。
ご婦人たち夫婦は70代、結婚記念のお祝いにダイヤモンド・プリンセス号に乗り、2週間かけてアジア各国をめぐる船旅に出かけた。旅の始まりは穏やかで、ワクワクしたものだった、こう書いてゆくとたしかに私たち夫婦もそうだったことを思いだす。
ご夫婦の状態がおかしくなってゆくのは2月の1日ころから、夫が風邪の症状を見せはじめた。3日には咳と胸苦しさの症状、本来なら4日の早朝には下船の予定だったが、逆に5日から船内隔離が始まる。7日に体温計が配られ、測ると38度2分、船内医務室に電話をしても軽く受け流され診てもくれない、8日自衛隊の医務官と看護師が感染の有無の検査に来たが、どんな診察もしなかった。10日、たぶんDMATであろう2人の医者が現れ、酸素濃度を測り、驚きの表情を浮かべ、すぐさま夫を病院に緊急搬送した。夫はそのままICUに直行し人工呼吸器をつけられ、24日にはECMO装着に変わる。夫人の方も感染し、夫とは別の病院に入院したのだが、さいわい症状は軽く、3週間ほどで退院できた。すぐさま夫の病院に駆けつけるが、夫にはICUのガラス越しにしか会えない。たくさんのチューブにつながれ、大きなECMOに隠れて夫の顔なんて見ることができない、そのような見舞いが何日も続いた。
3月22日、お見舞いの最後の日がやってくる。病院から緊急の呼び出しで駆けつけると、すでに夫は亡くなっていた、死亡時間は未明の2時12分。看護師さんが夫のベッドをICUを見渡せるガラス窓の傍に運んできてくれて、はじめて夫の顔を見ることができた、船から緊急搬送されて初めての対面。夫の顔は穏やかだったという。看護師さんが夫の手をガラスに当ててくれて、その手に合わせるように彼女も手を当てて、それが最後のお別れだった。夫の体温も柔らかさも何もわからないお別れ。
NHK社会部の記者に彼女は次のように話をしている。
「現実こうなんですよっていうことを伝えたいと思ったのは、彼が生きて、いきいき生きていて、それでこういう病気にかかって、苦しんで苦しんで頑張って。40日も頑張ったんだから、それも伝えたかったし。・・・
彼がクルーズをすごく楽しんで、思いがけないコロナウイルスに侵されて。そして苦しんで逝ったさまも、船の中の実態も知ってほしかったし。そういうことがあんまりテレビなんかでは出てこないし。
私の本当に一個人の経験だけれども、それを伝えたかった、知ってほしかった。だからまだまだすごい生傷が残ってて、何か血が滴るような感じがするけれども、それでもあえて話をしたいと思いました。かさぶた剥がして血が出るみたいな、そういう思いをするけれど。それでもあえて彼のために、そうしたいと思ったの。」
このような悲劇につけ加えられる言葉を、私は今でも持てないでいる。どのようにしても、第三者的にならざるをえない感情は無効であろうし、ご婦人の悲しみには届かないからだ。しかし私は、このような悲しみが誘い出してくる、いろいろな想いについて何度となく考えあぐねてきた。
私たち夫婦も、このご婦人たちと同じ場所にいて、たえまなく押しよせてくる焦燥、怒り、苛立ちをどうにかして処理していった記憶について、そして一歩間違えば彼女たちとおなじ道を歩んでいたこと、しかし私たちは無事に下船できた、その原因はなぜか?この疑問だけは今でもどうしても手放せないでいる。
このような感情を胸にしまいながら、船内でおきた事柄について少し俯瞰でながめてみる。たしかにこのような悲劇は、「検疫法」に基づく「隔離」という行為によって起きた、それは間違いはない。しかし、「隔離」によって起きた現実のさまざまな悲劇はどこに起因するのか、検疫を行った横浜検疫所(厚労省)か、あるいは悲劇の現場となったダイヤモンド・プリンセス号か、船を所有しているプリンセス・クルーズ(社)によってなのか。船内で起きた膨大な事柄を一つ一つ検証していかないと、それらの責任範疇と原因は明らかにならないのかも知れない。しかし繰りかえすが、それらは見事放置されてしまっているのだ。
その検証はなされないまま、前述したように厚労省管轄の「ダイヤモンド・プリンセス号現地対策本部」は解散し、ダイヤモンド・プリンセス号はこのような悲劇がなかったかのように、横浜港を出ていった。
前に私は、NHKのスペシャル番組が、ご婦人の悲しみの背景には、まったく切りこめていなかったと書いた。それはある理由のため仕方なかったと思うようになっていた。なぜならカーニバル・ジャパンは、日本のすべてのマスコミにたいして門戸をかたく閉ざし、無言を貫いたからだ。なぜ病人が放置されたのか、その理由を問うことすらできなかったのだ。
(続く)
注1:プリンセス・クルーズはダイヤモンド・プリンセス号はじめ約20隻のプリンセスシリーズのクルーズ船を保有している会社名。紛らわしいのでプリンセス・クルーズ(社)とする。またカーニバル・コーポレーションはプリンセス・クルーズの親会社で、日本法人が「(株)カーニバル・ジャパン」。
2:クルーズ船での新型コロナ感染 夫を失った妻が語る1か月半|NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/testimony/detail/detail_03.html
NHK社会部 山屋智香子取材記事

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