2012/8/8
★農民中心に登録?総数157名
今回、メインに取り上げる著作物は『妙好人の真実──法然、親鸞〈信〉の系譜』(佐々木正[長野県塩尻市・万福寺住職]著、春秋社刊)、前回から引き続き未知との遭遇、今回は 〈妙好人〉とは?。佐々木住職(以下、佐々木正住職を “住職”とだけ呼称させていただく)は「まえがき」で……。
《……我が国の浄土教の流れを汲む浄土真宗の信者の中で、江戸時代以降、在俗の「無学文盲」と呼ばれた、読み書きそろばんのできない無名の庶民の中に、篤信の念仏者が誕生した。》
この篤信の念仏者である妙好人は、その多くが農民で、全国各地にあらわれた、とされるものの、もうひとつイメージがつかめない。〈そもそも〉論から聞こう。
〈妙好人〉という言葉は、善導(613-681)の著作、『観無量寿経疏』(観経疏)の「散善義」に、念仏者を讃えた文章として登場する。
《もしよく相続して念仏するものは、この人はなはだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。ゆゑに芬陀利を引きて喩へとなすことを明かす。「芬陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。》──文中の「芬陀利」とは?──《「妙好」とは、もともと、梵音で「芬陀利華」と記され、元来は「白蓮華」を意味すると言われている》と、住職。
妙好人が内外に知られるようになったさきがけは、《西本願寺派の仰誓という僧が…略…天保13年(1842)に、はじめて『妙好人伝』を刊行します。》──教団内部で知られ、伝えられていた情報が仰誓によって丹念に収集され、ここで初めて外部に広められた──さらに《安政年間に、それまでの『妙好人伝』を一括、全六編一二冊の『妙好人伝』が刊行されたことで、その集大成がなされます。》──この刊行物に鈴木大拙や柳宗悦ら外部の知識人らが反応、一般に紹介され、広められ、今日に至っている。
妙好人の地域別職業別分布をみると……
〈総数〉157名、〈出身国〉石見国11名を筆頭に、美濃、越後、摂津、能登、豊後、陸奥など42の国名が記されている、〈職業〉農民64名、商人27名、漁師1名、武士10名、幼児10名、医師4名、坊守および尼6名、乞がい者と賎民3名、遊女2名、その他10名、不詳16名──物乞いや賎民、遊女などが含まれているのはいかにも浄土教ならでは、であろうが、〈幼児〉ってなんのこっちゃ?
★熱心な聞法の末悟りひらく?
次にどのようにして在俗・妙好人が誕生するのか、2例を住職の書から。まずは略歴。
例1(因幡の源左)《江戸末期に因幡国…略…の紙漉きを生業とする農家に生まれる。十八歳の夏、突然に父親を失うが遺言「親様をたのめ」を手がかりに、寺に通って聴聞に励む。三十歳の頃、刈った草の束を牛の背に載せたとき、阿弥陀仏の慈悲を感得。それ以降、念仏を申す身となって妙好人と呼ばれるようになった。》
例2(六連島のお軽)《山口県下関の沖合に浮かぶ六連島に生まれたお軽は、農家の一人娘で婿を取った。途中、夫の浮気で悩み、島にただ一つある寺に通って、仏法を聴聞する生活がはじまった。三十五歳の頃に風邪をこじらせて肺炎となり、生死の境をさまよう。奇跡的に回復した直後に、これまで聞いていた教えが、はじめて胸に落ちた。以後は、島の人たちから妙好人として慕われる、篤信の念仏者となっていた。》
苦多貼家が引いた傍線部分に着目してほしい。これは、熱心な聞法の末、なんらかのキッカケによって、悟りのごとき〈気づき〉の時がやってきたのであろう。他のケースもほとんど、心にわだかまる何事かのトラウマ的イベントを抱え、聞法によって〈解〉を求めるうちに、〈気づき〉の時がやってくるのである。
住職は、次の7つの柱を設け、それぞれに該当する事例をまとめている。@他者・家族への慈愛A生き物への眼差しB無碍の生活C一切衆生の救い(悪人・凡夫の表明)D生きる歓び(感謝と報恩)E死についてF未来と希望(浄土往生)──である。この7分類は浄土教の教えの主要ポイントであろう。
多くの紹介事例の中から、先に取り上げた因幡の源左と六連島のお軽について7つの柱に照応する事例をピックアップする。
@【他者・家族への慈愛】=◆源左《母親から芋を掘ってきてくれと頼まれ、畑へ行くと見知らぬ男が掘っている。源左はそれを見て、そのまま家に戻ってきた。母親が「あんた、芋はどがなこったいのう」とたずねると、「ああ、今日はおら家の掘らん番だっていのう」と答えた。》
◆軽《お軽が近所の子供に饅頭を与えている。それを陰から見ていると、自分の子供には小さいものをやり、他人の子供には大きいのを与えていた。》
A【生き物への眼差し】=◆源左《ある日、源左が家路を急いでいると、見知らぬ馬子が馬を源左の大豆畑に入れて、食べさせている。それをみた源左は「馬子さんや、そこのは出来が悪いから、もっと奥のやつを食べさせてやれや」というと馬子は驚き、逃げるように去って行った。》
◆軽《殺生を禁じる信仰心の篤い六連島でも5月5日の節句の日だけは魚介類が解禁され海辺はにぎわう。その日、お軽も負けずに潮干狩りに夢中になった。それを見た村人の中には、念仏者が殺生するとは、と陰口をたたく者がいた。ところがお軽は夜中、貝の砂出しのための海水を取りにいくふりをして、捕った貝をみな海に放してしまった。》
B【無碍の生活】=◆源左《夕立ちでびしょ濡れになって帰ってきた源左に住職が「爺さん、よう濡れたのう」と労うと、源左「有難うござんす。御院家さん、鼻が下を向いとるで有難いぞなあ」。》──有難がったのは、労いの言葉ではなく、鼻が下を向いていたことであった。
C【一切衆生の救い】=◆源左《ある婦人が源左に「なんぼ(説法を)聞かせてもらっても、この心はええもんにならんがやあ」とたずねると、源左「この心が喜ばれぬ奴が、喜ばれるようになったり、愚痴の起るのが起こらんようになったり、腹の立つのやあになってしまったら、そがあになれたら、何ぼう助けてもらいたあても、助けてむらはれんだけのう」。》
◆軽《♪見れば見事な敬いぶりや信のないのが玉にきず》《♪ときならぬみごとな花を見るにつけ我が身のほどが思いしらるる》
D【生きる歓び】=◆源左《「おらにや苦があって苦がないだけのう」。》
◆軽《♪ありがたや心のうちに咲く花はみやま桜で人はしらねど》
E【死について】=◆軽《(病で生死をさまよった後、癒えた直後に口をついて出た言葉)♪聞いてみなんせまことの道を無理なおしえじゃないわいな》《♪まこと聞くのがお前はいやかなにがのぞみであるぞいな》
F【未来と希望】=◆源左《ある人が源左の病床を見舞ったとき、「お爺さん、えらかろうがやあ」。源左「えらいこたあないだいや、蓮の花の上に寝させて貰っとるけのう」》
◆軽《(お軽は聞法のためには対岸の北九州や下関まで、小舟を漕いで出向いた。その姿を島民達は「きちがい婆々」とはやしたてたと伝える)♪きちがい婆々じゃといわれしもやがて浄土のはなよめに》
★〈死の受容〉という共通のテーマ
私たち平和ボケの現代人とどれだけの意識の差があるかが興味あるところであったが、お軽については結構親近感を感じるほどであった。彼女の5月5日節句の時の対応姿勢は、島民の行動から浮き上がらないように、という配慮が感じられる。夫の浮気が原因のトラウマイベントから脱却しようと必死に取り組んだ聞法は、島民の一部には異様な姿に映ったのであろう、“きちがい婆々”とののしられたらしい。自分が思う〈自分〉と他人に映る〈自分〉の姿には大きな乖離がある。このような自他のズレは現代人もいたる所で経験する。
「♪ありがたや心のうちに咲く花はみやま桜で人はしらねど」──生死の境を彷徨っていると心のうちに神々しく咲きみだれる花が現れた。「なんともありがたいことであることか! それが人知れず咲き散ってしまう深山桜であるにしても」。──孤独感はあるものの、なにかが吹っ切れたさわやかさの漂う秀歌だ。
一方の源左は、なるほど妙好人とはかくなる人か、といった感じ。C、Dなどにみられる含蓄ある言葉は、苦多貼家的なフワフワと世渡りしてきた人種からは発せられない、濃密な生活体験を背景にしている。
ただ、数多く残されている、生活の具体的場面での言葉やエピソードは、私たち現代人の価値観からだいぶ離れてしまっているようにも思われる。芋畑の話も、大豆畑の話も、盗人への寛容さは度を超えている?。
おもしろいことに、盗人に寛容な話は他の妙好人のエピソードにもかなり多くみかけられ、浄土真宗の教えと深いつながりが感じられもする。
これについての住職の見解は、論考の終わりの方で、やはり盗人に寛容すぎる事例として、梅原猛の養父のエピソードを紹介し、この寛容さは浄土真宗に限るものではなく、聖徳太子以来の仏教の慈悲の教えが広く伝わり、生活の中にしみ込んだ結果、だとする。
ただ、この寛容すぎる姿勢は、政治的・社会的なかかわりの面では無批判で体制順応に過ぎる、と批判する声も上がっているという。その典型例として豊前国の新蔵に係る逸話が紹介されている。
《……あるとき見すぼらしい身なりで、相撲見物に出かけた。たまたま大男が小兵の男に投げ飛ばされて大怪我をした。相撲取り達は「かかる恐ろしき怪我のできしは、定めて見物の中に穢れの者が居るならん」と見物客を見渡したら、汚い身なりの新蔵を見つけた。「この男こそ、穢多ならん、打てよたたけよ」と新蔵を袋叩きにした。帰宅した新蔵は女房に向かい「この世にては、穢多と見違えられる我が身を、浄土にて仏になる身と知りながら、うとうとしき故に、かかるご意見を下されたと思えば、喜ばずにはおれようか」と語ると、女房ともども歓喜踊躍した。》
新蔵は、非人のごとくに扱われ、ボコボコにされたのにもかかわらず、それが西方浄土からの叱咤激励だったと、逆境を逆転させて弥陀のはからいであるとして受容する。身に降りかかった災難をも弥陀のおぼしめしによるものと、〈感謝〉してしまう感性は、進歩的文化人の方々(いまやそんな人いないか)には批判精神の欠如した保守の権化とうつるかもしれない。しかも〈穢多〉なんていう差別用語・放送禁止用語が飛び出してしまったからなおマズイ。
このような批判に対して、住職は“時代認識を欠いていませんか? 今の価値観を適用しても無意味ですよ”と忠告する。
《幕藩体制のもと身分制度を受け入れて、その中で日々、生活の哀感を味わっていたのが、大部分の庶民の日暮らしでした。…略…妙好人はすべてを「如来のおぼしめし」と受けとめています。どのような苦難をも、感謝の言葉と共に包みとっていたのです。》
妙好人でもうひとつ注目すべきは、妙好人と呼ばれるようになった人々が念仏の教えに出会い聞法に踏み出すきっかけとなった事象は、ほとんどが親・児・連れ合いとの早すぎる死別がからんでいることである。
妙好人が死について語っていることに耳を澄まそう。大阪・堺の物種吉兵衛。
《この世界で人がいちばん嫌がることは何かというと、死ぬることである。死ぬることを思うと、している仕事も手につかぬという。また死ぬことを聞くのもいや、知らずに暮らしているほうが余程よい。仏法を聞くと死ぬ話ばかりやと思う人がいる。それは大きな間違いや。死ぬことを思うたゆえ、また死ぬことを聞いたゆえ、早く死ぬではなし、聞かずにいたら長生きするのでない。本当に死ぬことがしれたら、毎日勇んで日が送れるのや。》
──死の受容に係る現代でも通じる、説得力ある〈解〉の一つであろう。
★人間の精神が振舞う最初の観念
話を突然、平安末期、鎌倉初期に移す。宗教思想の巨人達がごろごろ現れた、空前絶後の時代であろう。この時代、自然災害の多発や戦乱により生じた、行き倒れ、餓死者が累々と河原や道端に山を築き、〈生〉の世界が〈苦〉であり、〈死〉の世界が〈楽〉である、といった転倒した世界観が実感を伴って信じられたのではあるまいか。
吉本隆明は笠原芳光との対談を収録・編集した『思想とはなにか』(春秋社刊)で、主に法然の思想の影響下にあった念仏者の法談を集めた『一言芳談』を、次のように絶賛している。
《……日本の古典のなかで思想的な問題でこれを抜かしたら問題にならない「一言芳談」というのがあるんです。…略…それはすごいもので、つまりこの世よりあの世のほうがいいんだと公然といっている。これは日本の思想史上でピカイチのものです……》《……法然から一遍に至るまで、露骨にといったらいいのか、率直にといったらいいのか、もうこの世はだめだから浄土にいかないといけないとか、そのためにわざわざ食べないで死んでしまう坊さんもいる。……》
吉本の次のような宗教観は、戦後民主主義やヒューマニズムとは千里も径庭があることを示すものだ──《……宗教なるものは人を殺していいということはみんな書いているのです。聖書にもありますしね。みんなそれくらいのことはいっているのです。本当は怖いものなんです。》
この発言は、オウム真理教事件に対する村上春樹の姿勢を批判した中のもので、引用文の前段では、村上が被害者側の取材に精を出して大いなる共感を得ていることに対して、《だけどそれだったら始めからオウム真理教はどういうもので、どこが悪かったのか、悪くないのか……》、まずやるべきことを違えている、回避していると言っているのである。
一方、真正面から対峙し、マスコミ等から指弾された吉本であるが、その結末はどうだったか──同書では『一言芳談』を絶賛したあと──《これ(一言芳談)は麻原彰晃みたいなサリンを撒いて見知らぬ人も死んでしまうことがあったら、マントラ(mantra:真言。仏に対する祈りの言葉)を唱えたら解消するとかそんなのんきな考え方とちがいます。》──吞気な殺戮者は御免蒙。
吉本は “宗教とは何か”を語る。
《(宗教は)あらゆる人間の精神が振舞う最初の観念ですね…略…そういう意味あいでは宗教というのは滅ぼしようがないといえる。宗教をその意味で無視したら、あらゆる思想、イデオロギー、国家は全部なくなる、成り立たなくなる。》──と、人間の精神活動の最初の段階としての宗教を捉えている。生命の発生段階に譬えればES細胞のごとくか。
《宗教から国家の法、国法の問題から国家自体の存在の問題になっていくという宗教思想発展の仕方があって、それは宗教思想は思想としてどんどん進化したり多様性を帯びて行くんだと考えると、それは時代によって変化していく部分は民族国家の理念、思想という形まで変わってきてしまっている。》──もはやもとがなんだったか分からないまでに高度化した姿になっている。一方……
《もうひとつは宗教としてそのままの形で延長、展開している面があって、キリスト教、仏教、儒教、そのうえに自然宗教は各地域にあるというふうに二つにわかれているとおもいます。》──この二つに分枝した〈宗教〉をどう統一的に捉えるのかが、なお現代の思想的課題だとするのである。
《宗教思想を根源として現在起こっている両端の問題──外見的にまったく宗教ではないような国家の問題になってしまっている問題と、様々な形で教義もちがうし、やり方もちがうし、相互の確執、闘争もあり得る宗教の問題──を同じように解いていくという課題が人類にとってあるんじゃないか…略…それをどこかでもって統一的に扱える場所を見つけ出さないといけないと考えるべきではないか。》
ふたつのとてつもなく乖離した時空間を結びうる通風口はあるのか。
吉本は同書の末尾において、笠原が振り向けた〈転向〉の問題について、《変るということは倫理の問題ではなくて、人間の歴史をどう考え、どう把握するかだとおもっています。自分自身の課題を集約すると、人間が類人猿からわかれたときから現在まで通路をとおしたいですね。》──1960〜70年代に論争となった〈転向〉問題は、吉本においては、ここまで拡張・普遍化された。吉本は、マルクスが提示した「アジア的」段階に対して、晩年、さらにその前に「アフリカ的」段階を設定したものの、《それだって大した先行形態にならないわけです。》──追究心はどこまでも──《……夢のまた夢ですね……》。
★思想の往路と復路
吉本は親鸞の思想を語る形をとりながら己が思想を紡ぐ独自の〈方法〉を重ねる。
《人間には往きの姿と還りの姿とある》《往きの姿だと…略…偶然が入ってきちゃうんです。》──行き倒れの人に遭遇したとき、往きでは仮に助けることが出来たとしても、それは偶然にしかすぎない。ところが《還りがけになってくると、偶然が入ってこない必然だけで、その人を助けるだけで大勢を助けることと同じになるんだと。行きがけの駄賃と還りがけでは人間の考えが違ってくることのひとつの証拠になるんです。》
往・復という視点に立つと、戦後民主主義はどう映るか──《……一人の人を気遣ったり、親しくしたりすることと、民衆全部と等しくすることとは同じだという、これができていることが還相です。》《いまの日本の民主主義は…略…完全に片道だというのが大きな特徴です。》
往きの姿を〈往相〉、還りの姿を〈還相〉。これは仏教語であり、往相は「浄土に往生すること」、還相は「往生して仏になり、再びこの世にかえり教えを広めること」を意味する。もちろん吉本はそのような意味で使っていない。また、人生の往路、復路という意味で使っているわけでもない。いわば〈思想〉を紡ぐための構え方を言っているのである。
この「行き倒れの人を救う」という部分を「大衆の原像を捉える」に入れ替えれば、次のような文章に変換される。
《……大衆のあるがままの存在の原像は、わたしたちが多少でも知的な存在であろうとするとき思想が離陸してゆくべき最初の対象となる。そして離陸に際しては、反動として砂塵をまきあげざるを得ないように、大衆は政治的に啓蒙されるべき存在にみえ、知識を注ぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人…略…の発想のカテゴリーである。》《大衆がその存在様式の原像から、知識人の政治集団のほうへ知的に上昇してゆく過程は、レーニンやトロツキーの考察とはちがって、じつはたんなる自然過程にしかすぎない。》《もし、知識人の政治の集団を有意義集団として設定したいとすれば、その思想的課題は、かれらとは逆に大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰込んでゆくことにもとめるほかはない。》(『情況とはなにかT─知識人と大衆』──徳間書店刊『自立の思想的拠点』所収)
“知識人の知的上昇過程”を往相と読み替えれば、その過程において、仮に成果を得ることがあっても個別的な偶然の実現にすぎない、ということになる。そして“大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰込んでゆく”ことは、還相への折り返しに相応する。
この論考は1967年に発表されたもので、その後40年以上の時が経過し吉本思想も時代情況を吸収しながら進んで(変化して)きたが、その思想的基本骨格は不動であった。
★愚痴の法然と愚禿の親鸞
なお吉本は『情況とはなにか』において、知識人が知的上昇によって“大衆は政治的に啓蒙されるべき存在”に見えてくる──俗に言えば、上から目線、になってくると書いているが、この目線を徹底して下降させようとしたのが、親鸞に先行する法然であったとされる。愚者に還れ、“還愚痴”とつねに誡め、自らも“愚痴の法然”“十悪の法然”と称していたという。
「法然上人の晩年の思想を端的に示したもの」(大橋俊雄)とされる『一枚起請文』には次のような記述がある。
《念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、尼入道ノ無ちノともがらニ同しテ、ちしやノふるまいヲせずして只一からに念仏すべし。》
この記述を佐々木住職は次のように捉える。
《たとえ智慧や学問を身につけたとしても、「一文不知の愚鈍の身となして」です。「なして」とは、積極的にその身になるということです。知恵や学問をいちど身につけてしまえば、それらを取り除くことは不可能です。だからこそ、「尼入道の無智のともがら」の仲間に加わり、「智者のふるまいをせず」にです。学問や知恵があることをふり捨てて、みずから進んで「愚者の身になる」ことを、要求しているといってよいでしょう。この法語に法然が「愚痴」「十悪」を名のった理由が明瞭に示されています。》
この“愚痴の法然”であるが、法然は最初からそう名乗っていたわけでない、法然には思想的な転換点がある、というのである。浄土教は万民救済──凡夫、女人、悪人すら西方浄土に往生できると謳う。ところがそのための念仏行の質量・深度は、聖道門の行に匹敵していた。法然はその不合理さを解決するため、「南無阿弥陀仏」の〈称名念仏〉を、本願の唯一の行とすることを唱えた。
その結果、法然の専修念仏はまたたく間に階級を選ばず浸透するところとなったものの、このシンプルな思想に疑念を呈する者が出てきた。──熊谷の入道や津戸三郎(いずれも武者で法然に感化されて出家)は無智のものであるからこそ法然は余行を勧めず念仏ばかりを勧めたのでは──というものだ。「無智ゆえ……」と言われた津戸は真偽を確かめるため法然に手紙をしたためた。
この指摘で法然は自分の思想に矛盾があることに気付いた。住職は黒田に住する上人宛の消息(通称「小消息」)を引用する。
《本願に乗ずる事は、信心のふかきによるべし。うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心をおこして、はなれがたき輪廻のさとをはなれて、生まれがたき浄土に往生せんことは、よろこびの中のよろこびなり。つみは十悪五逆のもの、なお生まると信じて、少罪をもおかさじとおもうべし。罪人なお生まる、いかにいわんや善人をや。行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間に修すべし。一念なお生まる、いかにいわんや多念をや。》──下線部分、裏返すと〈悪人正機説〉になる。
住職はこの「小消息」の問題点を次のように指摘する──《……言葉のはしばしに「自力」のにおいが漂うことです。たとえば「信心」が深い・浅いで計られる部分、あるいは「道心」を起こすことがプラス価値と見なされていること、罪人よりも善人を推奨していること。また一念ではなく多年を勧めるなどなど……》
住職はこの「小消息」と先の「一枚起請文」とを突き合わせて、法然の思想的転換を浮き彫りにさせ、前者を〈前期・法然〉、後者を〈後期・法然〉と呼称している。そして法然の思想は《法然の没後、残された有力門弟の大部分は、〈前期・法然〉を正しい法然の教義であると公認、その教えを広めることに、力を尽したように見受けられます。》
この後期・法然、還愚痴の思想をキチンと引き継いだのが親鸞であった、と住職。「一枚起請文」に凝縮された思想の真の後継者は親鸞であるとしている。そして親鸞最晩年の和讃を引用する。
《♪よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり》
傍線部分はまさしく在俗村落共同体内和製妙好人を生んだ母胎のイメージそのものであろう。
住職は《妙好人は、江戸時代に突然に生まれたのではなく、すでに法然上人の弟子たちのなかに、その原型が素朴な姿を現しています。》と、いずれも武者からの転進で、法然に帰依した、熊谷直実、津戸三郎、薗田太郎らを紹介している。いわば妙好人の前駆体、ただし村落共同体に育まれたのではなく、新興武士階級の過酷な状況が生んだ妙好人ということか。
ジャックの豆の木のごとくどこまでも天に向け伸びて行く〈知〉の通路に対して、法然は〈愚痴〉の復路を敷設した。その結果、日本仏教がこれまで片道切符のため背を向けてきた、救いを求める様々な階層の民と、正面から顔を合しうる姿勢をつくることができたのである。そしてこの復路の思想は、愚痴の法然から愚禿の親鸞に引継がれた。吉本との対談で笠原芳光は吉本の〈非知〉の概念を確認しながら、親鸞は晩年に至って「本願他力」や悪人正機説すら〈知〉にすぎない、というところまで突き詰めた、と述べている。
親鸞の〈非僧非俗〉は、流罪の身の上を逆手にとって、思想的立場としての意味に変換したものと理解されるが、この〈非僧非俗〉、具象化すると江戸時代の妙好人の姿に重ならないか。
本来、〈民〉〈大衆〉の原像は、深山桜のごとく人目に触れることはないが、法然─親鸞によって、〈妙好人〉という姿をとって私たちに垣間見せてくれた。

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投稿者: 苦多貼家四寧(越田秀男)
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