2011/6/13
リアリティ
あるシンポジウムに参加した。
東日本大震災被災地への医療支援活動の報告があった。
休憩時間に、トイレでこんな会話をする医師たちがいた。
「実際に行ってないから、自分には実感がわかない」
確かに、被災地へ入りたいと思っても、仕事の都合で行けない医師たちも多い。
実感がわかないというのは本音であろう。
しかし、何事も自分で経験しなければリアリティを感じられないということでいいのか。
医師からこんな言葉が発せられることがある。
「自分が入院してはじめて、入院患者の気持ちがわかった」
これも本音だろう。
医師という人たちは素直なんだろうと思う。しかし、人と人との関係のなかで仕事をする以上、経験のあるなしにかかわらず、どう共感するのかという部分がリアリティを生み出していくのだということをわかってほしいと感じる。
これは患者側にも同様のことが言える。自分の要求だけをつきつけるのではなく、医師への共感を持つことで、診療にリアリティが出てくる。
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東日本大震災被災地への医療支援活動の報告があった。
休憩時間に、トイレでこんな会話をする医師たちがいた。
「実際に行ってないから、自分には実感がわかない」
確かに、被災地へ入りたいと思っても、仕事の都合で行けない医師たちも多い。
実感がわかないというのは本音であろう。
しかし、何事も自分で経験しなければリアリティを感じられないということでいいのか。
医師からこんな言葉が発せられることがある。
「自分が入院してはじめて、入院患者の気持ちがわかった」
これも本音だろう。
医師という人たちは素直なんだろうと思う。しかし、人と人との関係のなかで仕事をする以上、経験のあるなしにかかわらず、どう共感するのかという部分がリアリティを生み出していくのだということをわかってほしいと感じる。
これは患者側にも同様のことが言える。自分の要求だけをつきつけるのではなく、医師への共感を持つことで、診療にリアリティが出てくる。

2011/6/10
3ヵ月
東日本大震災から3ヵ月が経過しようとしている。
仙台で地震に遭遇し、避難所生活をしたことが、あまりにも深く心に刻まれすぎている。
この3ヵ月、実際に被災地への支援ができていないことにジレンマを感じながら、日々暮らしてきた。わずかであるが、募金をし続ける程度だ。しかし、義捐金が被災者にまだ渡らない現実に、いら立ちを覚える。
横浜にいて何ができるのかを模索するなかで、ボランティア団体に登録したものの、具体的には活動ができていない。実際にボランティアにかかわる人たちは、アクティブな方ばかり。
今、私にできること・・・この大震災の後、なにか支援をしたいがなかなかできないでいる多くの市民の意識をしぼませることなく、具体化させることをやらなければならない。
小さな試みかもしれないが、ある市民活動家と知り合い、彼の思いに協力していくことにした。
今月25日には、横浜市中区とコラボしてシンポジウム&ワールドカフェを開催する。
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仙台で地震に遭遇し、避難所生活をしたことが、あまりにも深く心に刻まれすぎている。
この3ヵ月、実際に被災地への支援ができていないことにジレンマを感じながら、日々暮らしてきた。わずかであるが、募金をし続ける程度だ。しかし、義捐金が被災者にまだ渡らない現実に、いら立ちを覚える。
横浜にいて何ができるのかを模索するなかで、ボランティア団体に登録したものの、具体的には活動ができていない。実際にボランティアにかかわる人たちは、アクティブな方ばかり。
今、私にできること・・・この大震災の後、なにか支援をしたいがなかなかできないでいる多くの市民の意識をしぼませることなく、具体化させることをやらなければならない。
小さな試みかもしれないが、ある市民活動家と知り合い、彼の思いに協力していくことにした。
今月25日には、横浜市中区とコラボしてシンポジウム&ワールドカフェを開催する。

2011/5/6
長期支援
昨日、「かながわ東日本大震災ボランティアステーション」のボランティア説明会に参加してきた。
大震災発生後、神奈川県内に設置された一時避難所に滞在する被災者を支えることを目的に、3月下旬に「県内一時避難所ボランティア説明会」が開催され、約700人が参加した。4月には、県立武道館での一時避難所支援に117人をはじめ、支援物資仕分け、現地に入っての「思い出探し隊」という活動など、約300人がボランティア参加した。
さらに、情報が重要ということで、情報ボランティアの整備が進んでいる。
今はまだ市民の意識も高く、なにか支援できることはないかという思いが強い。
しかし、だんだんとそれは薄れていき、ボランティア参加する人数も減ってくると予測される。
恐らく5年、10年という長さで支援は必要とされるはずだ。
そう考えたとき、どういうスタンスで支援に関わり続けられるかが課題だろう。
現地に入るというのは、なかなか難しいという人が多いなかで、情報ボランティア活動への参加が求められる。
与えられる作業、自ら生み出していく作業・・・さまざまあるなかで、自分としてできることからスタートしていきたい。
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大震災発生後、神奈川県内に設置された一時避難所に滞在する被災者を支えることを目的に、3月下旬に「県内一時避難所ボランティア説明会」が開催され、約700人が参加した。4月には、県立武道館での一時避難所支援に117人をはじめ、支援物資仕分け、現地に入っての「思い出探し隊」という活動など、約300人がボランティア参加した。
さらに、情報が重要ということで、情報ボランティアの整備が進んでいる。
今はまだ市民の意識も高く、なにか支援できることはないかという思いが強い。
しかし、だんだんとそれは薄れていき、ボランティア参加する人数も減ってくると予測される。
恐らく5年、10年という長さで支援は必要とされるはずだ。
そう考えたとき、どういうスタンスで支援に関わり続けられるかが課題だろう。
現地に入るというのは、なかなか難しいという人が多いなかで、情報ボランティア活動への参加が求められる。
与えられる作業、自ら生み出していく作業・・・さまざまあるなかで、自分としてできることからスタートしていきたい。

2011/5/2
東日本大震災
あっという間に5月
震災報告しようと思いながら、書かずにいた。
もう書くのはやめた・・・
先週の土曜日、横浜で「被災地ボランティア報告会&ワールドカフェ」が開催されたので、参加してきた。
かなり少ない参加者で、ちょっと拍子抜けしたが、その分、ただ聞くだけの会ではなく、情報交換や意見交換などができて、有意義なものだった。
ボランティアで被災地に入った学生3人からの報告は、特に目新しい情報はなかったが、実際の現場の感覚がよく伝わってきた。一つ大変参考になったのは、彼らは被災者のニーズを聞き出す調査ボランティアで、同様の調査をする団体がたくさんあったということ。「今日何回目だよ」と言われ、鬱陶しがられた話は、非常に示唆的であった。
実際に現地に入ることだけが支援ではない。横浜にいて何ができるのか。
被災地へ入るボランティアの後方支援はできそうだ。
また、多くの人が何かしたいと思っていても、何をしたらいいかわからない。どんな支援活動が行われているのかもわからない。つまり、情報がまとまっていないのが現実だ。
横浜だけでも情報プラットフォームが必要だと感じた。
さて、どうやって作っていくのか、いろいろ相談しながら実現できたらいいなと思う。
それは、今回の大震災のためだけでなく、横浜のコミュニティづくりへの貢献でもある。
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震災報告しようと思いながら、書かずにいた。
もう書くのはやめた・・・
先週の土曜日、横浜で「被災地ボランティア報告会&ワールドカフェ」が開催されたので、参加してきた。
かなり少ない参加者で、ちょっと拍子抜けしたが、その分、ただ聞くだけの会ではなく、情報交換や意見交換などができて、有意義なものだった。
ボランティアで被災地に入った学生3人からの報告は、特に目新しい情報はなかったが、実際の現場の感覚がよく伝わってきた。一つ大変参考になったのは、彼らは被災者のニーズを聞き出す調査ボランティアで、同様の調査をする団体がたくさんあったということ。「今日何回目だよ」と言われ、鬱陶しがられた話は、非常に示唆的であった。
実際に現地に入ることだけが支援ではない。横浜にいて何ができるのか。
被災地へ入るボランティアの後方支援はできそうだ。
また、多くの人が何かしたいと思っていても、何をしたらいいかわからない。どんな支援活動が行われているのかもわからない。つまり、情報がまとまっていないのが現実だ。
横浜だけでも情報プラットフォームが必要だと感じた。
さて、どうやって作っていくのか、いろいろ相談しながら実現できたらいいなと思う。
それは、今回の大震災のためだけでなく、横浜のコミュニティづくりへの貢献でもある。

2011/3/26
東日本大震災@
1ヵ月以上ぶりのブログ更新となってしまった。
3月11日(金)の午後2時46分。
私は仙台駅前にいた。取材で東北大学病院を訪れるためだ。日帰り取材だったので、先にお土産でも買おうと、仙台朝市モールへ行こうとしていた。
古いビルの脇を通るとすぐ朝市モールがある。おいしそうな魚があるかなとか考えながら歩いていたときに、突然の大揺れ。
地面が波打ち、悲鳴がする。
立っているのがやっと。ビル壁が落ちてくるととっさに思って、ビルの入口につかまっていた。やはり、バラバラと壁面が降ってきた。それほど多くはなかったが、頭に当たれば確実にけがをしそうではあった。
どれくらい時間が経過したかはわからないが、大きな揺れが収まったところで、バスロータリーへ。車が走り出していたので、もう大丈夫かと思った。余震は頻繁に続く。
とりあえずバスに乗って、東北大学病院へ。
病院は取材どころではなかった。待合ロビーは患者の応急処置場となっていた。職員も緊急態勢。取材するはずだった医師とも会うことはかなわなかった。
そのときはまだ、今回の地震が大災害を引き起こしていることなど知る由もなく、駅まで戻ることにした。しばらくすれば新幹線も動くだろうとたかをくくっていたのだ。
しかし仙台駅方面へのバスは動かない、タクシーは客を乗せない、そんな状況で歩くことにした。かなりの距離である。しかも冷たい雪がかなりの量降り出した。
何とか駅までいくと、駅は完全閉鎖状態。もちろんケータイも利用不能。
あまりの寒さで、どこかに入るにも開いているところがない。駅前のメトロポリタンホテルのロビーに人だかり。中に入ったがもちろん停電。風をよけるだけでもいいかと中で立っていた。
さて、この後どうする?
ロビーは、雨漏りがしている。余震は続く。
状況がまったくわからないので、しばらくしてまた駅まで行ってみた。
公衆電話は長蛇の列。
それでも、夜には新幹線も復旧するかもしれないなどと、のんきに構えていた。
そう思ったのは、とくに倒壊する建物もなく、停電はしているが、普通に車は走っていたからだ。
駅員に聞くと、鉄道の復旧の見込みはわからないとのこと。
そうこうしているうちに、どこからか、○○小学校と××中学校が避難所となっているというアナウンスが流れた。どこにあるかもわからないし、避難所へ行くという人について歩き始めた。
しかし・・・
途中ではぐれてしまった。
なんとなく人の流れに乗って歩き続けたが、それはみな家路を徒歩で急ぐ人たちだった。
真っ暗でよく見えない道路を歩いていったが、それらしい避難所には出会わない。聞いてもよくわからないという返事ばかり。
おそらく30分くらい歩いていったとき川があり、橋を超えたことろで、さすがに引き返すことにした。その川の下流が津波にあっていることなど、当然知らない。
来た道を引き返していくと、偶然だが、避難所の小学校に出くわした。さっき通った道沿いにあったのだ。夏ならいざしらず、この寒さのなかでの野宿は危険きわまりない。
そして避難所生活が始まった。
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3月11日(金)の午後2時46分。
私は仙台駅前にいた。取材で東北大学病院を訪れるためだ。日帰り取材だったので、先にお土産でも買おうと、仙台朝市モールへ行こうとしていた。
古いビルの脇を通るとすぐ朝市モールがある。おいしそうな魚があるかなとか考えながら歩いていたときに、突然の大揺れ。
地面が波打ち、悲鳴がする。
立っているのがやっと。ビル壁が落ちてくるととっさに思って、ビルの入口につかまっていた。やはり、バラバラと壁面が降ってきた。それほど多くはなかったが、頭に当たれば確実にけがをしそうではあった。
どれくらい時間が経過したかはわからないが、大きな揺れが収まったところで、バスロータリーへ。車が走り出していたので、もう大丈夫かと思った。余震は頻繁に続く。
とりあえずバスに乗って、東北大学病院へ。
病院は取材どころではなかった。待合ロビーは患者の応急処置場となっていた。職員も緊急態勢。取材するはずだった医師とも会うことはかなわなかった。
そのときはまだ、今回の地震が大災害を引き起こしていることなど知る由もなく、駅まで戻ることにした。しばらくすれば新幹線も動くだろうとたかをくくっていたのだ。
しかし仙台駅方面へのバスは動かない、タクシーは客を乗せない、そんな状況で歩くことにした。かなりの距離である。しかも冷たい雪がかなりの量降り出した。
何とか駅までいくと、駅は完全閉鎖状態。もちろんケータイも利用不能。
あまりの寒さで、どこかに入るにも開いているところがない。駅前のメトロポリタンホテルのロビーに人だかり。中に入ったがもちろん停電。風をよけるだけでもいいかと中で立っていた。
さて、この後どうする?
ロビーは、雨漏りがしている。余震は続く。
状況がまったくわからないので、しばらくしてまた駅まで行ってみた。
公衆電話は長蛇の列。
それでも、夜には新幹線も復旧するかもしれないなどと、のんきに構えていた。
そう思ったのは、とくに倒壊する建物もなく、停電はしているが、普通に車は走っていたからだ。
駅員に聞くと、鉄道の復旧の見込みはわからないとのこと。
そうこうしているうちに、どこからか、○○小学校と××中学校が避難所となっているというアナウンスが流れた。どこにあるかもわからないし、避難所へ行くという人について歩き始めた。
しかし・・・
途中ではぐれてしまった。
なんとなく人の流れに乗って歩き続けたが、それはみな家路を徒歩で急ぐ人たちだった。
真っ暗でよく見えない道路を歩いていったが、それらしい避難所には出会わない。聞いてもよくわからないという返事ばかり。
おそらく30分くらい歩いていったとき川があり、橋を超えたことろで、さすがに引き返すことにした。その川の下流が津波にあっていることなど、当然知らない。
来た道を引き返していくと、偶然だが、避難所の小学校に出くわした。さっき通った道沿いにあったのだ。夏ならいざしらず、この寒さのなかでの野宿は危険きわまりない。
そして避難所生活が始まった。
