今回はちょっと趣向を変えて
歴史と霊視の話です。
邪馬台国
当時日本には文字が無く、
邪馬台国がどこにあったのか日本には記録が残っていません。
その存在は、中国にある魏志倭人伝に書かれていて、
魏志倭人伝は、邪馬台国の存在を記した唯一の書物です。
魏志倭人伝は三国志の時代に書かれた書物で、
魏の使者が、日本に来た時の記録だと言われています。
魏志倭人伝には、魏の使者が通った地名が書かれていて、
朝鮮半島から対馬、九州の地名が書かれていて、
今の小倉あたりまで来た事が確認されています。
所が、その後の記述通りに進むと、
邪馬台国の位置は現在の
フィリピン東海上あたりになってしまいます。
九州説を主張する人は魏志倭人伝から、
九州北部にあったと主張します。
畿内説を主張する人は、
魏志倭人伝に書かれている方向が間違っていて
南では無く、東と解釈すると畿内になると主張します。
邪馬台国九州説
九州説を主張する人は、鉄製品の出土が証拠だと主張します。
佐賀県吉野ケ里遺跡
吉野ケ里遺跡からは、全国初の巴型の銅器が出土しています。
吉野ケ里遺跡は、弥生時代の日本最大の集落で、
広さは東京ドーム11個分
5千4百人が居住していたと言われています。
銅剣やガラスが出土していて、
それらは卑弥呼の物では無いかと言われています。
九州説を唱える人の根拠は
1大きな茅葺の建物ある。
魏志倭人伝に書かれているのと同じ構造の集落が吉野ケ里遺跡にはある。
宮室 物見やぐら 城柵 掘り 土塁 土塁の上に柵
この時代、機内にこの様な構造の物は無い。
2二重の堀
深さ3m 角度60度 2.5Kmの長さに及ぶ堀がある。
この堀は、吉野ケ里遺跡だけの特徴。
厳重な堀があるのは高貴な人がいる証拠。
卑弥呼は厳重に警護されていると魏志倭人伝に書かれている。
3発掘された鉄製品
260点の鉄製品がが出土
ひとつの遺跡でこれほど大量に出た所は無い。
鉄は当時、日本では生産されていない。
中国との交易があった証拠。
鉄の矢じりが沢山出土(九州が圧倒的多い)していて、
矢じりは戦いで使うもので、
当時倭国大乱が記録されている。
矢じりが沢山出土する事は、
戦いの最前線があった場所である証拠。
九州で倭国大乱が起き、それは卑弥呼誕生のきっかけではないか。
邪馬台国畿内説
畿内説を唱える人は、花粉が最大の特徴だと主張。
2009年 奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡で、
卑弥呼と同じ時代の古墳が見つかりました。
纏向遺跡では、現在も発掘が続いています。
纏向遺跡では新しい発見がありました。
土器が大量に出土したのです。
纏向遺跡は、東西2キロ 南北1.5キロ、三輪山の麓が中心です。
畿内説を唱える人の根拠は
1大型の建物の遺跡が発見される。
それは卑弥呼の住居と思われ、南北19m 東西12m 高床二階建
当時日本最大の建築物で、東西に一直線に配列され規格されている。
それは、当時最先端の都市計画。
2土器
大量の土器が出土 形が豊富
山陰系 東海系 河内系、その他 四国 関東 東北と
全国各地の土器が出土した。
これは、邪馬台国が当時の都会で、全国から人が集まっていた証拠。
邪馬台国には、
30カ国の人が集まっていたと魏志倭人伝倭人伝には書かれている。
3花粉
環境考古学から花粉が語る。
当時の食生活文化水準が分かる。
その時代には見た事が無いベニバナの花粉が発見される。
当時日本にはベニバナは無かった。
ベニバナは古墳時代後期6世紀だと思われていた。
ベニバナは染料、薬として利用。
魏志倭人伝にベニバナと思われる記述がある。
その他にも、畿内に邪馬台国があった証拠がある。
箸墓(はしはか)古墳は纏向遺跡の中にあり、
卑弥呼の墓では無いかと言われている。
古墳からは土器が出土
調べてみると、
卑弥呼が亡くなった時と同じ時代の物である事が分かった。
勝山古墳も卑弥呼の墓ではないかと言われている。
3世紀の古墳で、こちらも卑弥呼の墓ではないかと言われている。
塚はなくおよそ120mあり、
勝山古墳は、魏志倭人伝に書かれている通りに合致している。
纏向(まきむく)遺跡は当初、ヤマト王権の遺跡と思われていたが、
卑弥呼の時代の物が出土し
邪馬台国では無いかと言われるようになった。
纏向遺跡は都市型遺跡で 農村では無く、都市型だった事が特徴。
魏志倭人伝誤読説 どちらでも無い説。
1 魏志倭人伝は誤読されていると主張。
魏志倭人伝を読むと、邪馬台国の場所はフィリピン東海上になり、
日本にたどり着かない。
九州説も畿内説も誤読している。
そもそも魏志倭人伝は事実を書く必要が無い。
魏志倭人伝は、当時魏に代わって晋を称える書である。
晋の都合のいい様に書かれていた。
歴史書は、誰を称えるかが肝要で、
魏志倭人伝は晋の威厳を表す為に書かれた。
それが魏志倭人伝の目的。
当時、インド北部にあった大月氏国より倭国を誇張して書いた。
大月氏より大きい倭国から貢物を受けていたと誇張。
昔の地図の日本の位置は、
朝鮮半島の南にある小さな島として描かれていた。
その為に、魏志倭人伝の通りに道のりを行くと、
現在のフィリピン東海上の位置になり、
当時の地図と合致する。
魏志倭人伝からは、北九州に邪馬台国は無いと読み解ける。
魏志倭人伝には、事実が書かれている部分もある。
魏志倭人伝に「一大卒」と書かれている。
一大卒とは、地方知事の事で、
伊都国 福岡あたりにあっと書かれている。
ゆえに九州北部に首都である邪馬台国は無いと言える。
九州北部以外のどこかにあったが、どこにあったかは不明。
魏志倭人伝には、当時の弥生人の様子が書かれています。
「日本人は盗みが少ない 訴訟も少ない 女が嫉妬しない
一夫多妻 冬でも野菜を食べる。」
など、人々が平和に暮らしていた様子が、
魏志倭人伝に書かれています。
邪馬台国がどこにあったのか、決定的に分かるとすれば、
239年に、魏から授けられた金印が出れば
そこが邪馬台国の場所だと言えます。
しかし絶対に発掘してはならない場所もあり、
解明は難しいと思われます。
以前、白藤先生との雑談の中で邪馬台国が話題になり、
その時白藤先生が「遊びの霊視」で
卑弥呼を霊視した事がありました。
その時の霊視では、
卑弥呼はふっくらした丸顔の女性で、
シャーマン
(超自然的存在と直接接触・交流・交信する役割を主に担う役職。
呪術者・巫・巫女・祈祷師)
であったと霊視されました。
恐らく当時の人々は、卑弥呼の特異な能力を崇め奉り、
社会を形成していたのでは無いかと思われます。
しかし現代人は当たり前ですが、
誰も実際に卑弥呼を見た事が無く、
それを証明する術はありません。
でも、卑弥呼が実際に居た事は間違え無いようです。
機会があれば白藤先生に、
邪馬台国がどこにあったのか
霊視して頂ければと思うのですが、
もし場所が霊視で判明し、その裏付けが取れれば、
歴史的大発見になるに違いありません。
でも、邪馬台国がどこにあろうと、
どこかにあったのは確かな事で、
それは歴史ロマンとして、
私たちを楽しませてくれるミステリーとして
取っておきたいと思います。
橿原考古学研究所付属博物館(奈良県橿原市)では、
http://www.kashikoken.jp/museum/
10月7日から11月26日までの間、
天理市の黒塚古墳(3世紀後半〜4世紀始め)で見つかった
33面の三角碧神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
などの出土品計151点の重要文化財が一般公開されます。
これらは古代史解明につながる貴重な資料で、
刀剣を含めた出土品を一括公開するのは初めてだそうです。
博物館では
「全ての三角緑神獣鏡を見られるのは貴重な機会」
としています。
中々無い事なので、
機会があれば、是非見たいと思います。
白藤先生がこれらの展示物を霊視したら、
どんな世界が見られるのか、
霊能者がちょっとうらやましく思えます。
にほんブログ村
にほんブログ村
スピリチュアル ブログランキングへ
霊視 ブログランキングへ

22