2013/12/18

秀歌(22)荷風の短歌  秀歌読みましょう

12月がどんどん過ぎていくけれど今日は荷風の歌を二首。
永井荷風は勿論小説家として多大な作品を残し、その日記も日記文学として世に残ることを考えて書かれた。モーパッサンに憧れてフランスに渡り、仏詩の翻訳歌集『珊瑚集』も出した。他の文学者と同じように俳句を嗜み句集もある。しかし彼の和歌短歌を私は知らなかった。私は大学の卒論に荷風を選び、曲りなりに全集(中央公論版)も読み通した。(その全集も家の立て直しの時に古本屋に払ってしまった。)もううん十年前のことだし、覚えているわけもないが、当時を振り返ってもあれっと思った記憶もない。
先日「NHK短歌」のテキストを見返していて、10月号の秀歌に一首載っているのを見てアッと思ったのだ。高野公彦さんの解説によると「断腸亭日常」の記述の中にあると言う。この日記はかなりな量があって、当時の私は日記の中の物の値段が記されているのに大層興味があったことと、戦争中ぎりぎりまで麻布から都電に乗って銀座に通うさまを目に追っていたと思う。
その荷風のお歌は

雨の日は人の来ぬこそ嬉しけれ昼も昔の夢に遊べば  永井荷風

「断腸亭日常」昭和24年10月25日の記事中とあるから、戦後のもう物の書ける時代であったろう。しかし荷風は市川に住み浅草に遊んで小文は書いても、代表作は戦前のもので、戦争中の物資不足は彼をいためつけ少なからず偏屈風狂老人になっていたと私は思う。戦後戦中に発表できなかった花柳界や売春宿の話など、発表の場を得、お金もどんどん入ってきても、家族と言えるものもなく、孤独な老人だった。上のお歌は荷風らしい品の良さで、雨の日の無聊を昔の本を取り出してフランスの素晴らしい青春を思い起こしている歌で洒脱な歌と思うが、現実は裏返しの老残だった。ちょっと調べ直したら、こんな狂歌が目にとまった。

世に立つは苦しかりけり腰屏風まがりなりには折りかがめども                       荷風
これが何時の作だか分らないが、荷風なりのうまい作りで食えない奴という感じがする。
こんな風に書いているが、私は荷風が好きでたまらない。女性の扱いも性格もとても悪いじじいだけど。久しぶりに荷風について書いていたら学生時代の風が吹いているような錯覚をおぼえた。
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2013/12/14

「そののち歌会」12月  「そののち歌会」

今月も「そののち歌会」前半に参加しました。
やはり師走のせいか、疲れて物思うのもわずらわしいような気持になったり、裏腹に騒いでみたりという中で、歌も生の言葉のままではいけないが、シンプルイズベストという気持ちで出来たりんごの歌を出せたことは自分ではこれでいいと言う思いがありました。今回のゲスト東郷雄二さんは言語学者で京大の先生、現代短歌の評論家としても知られる方なので、そんな方が読んでらっしゃることは意識の外に置くことにしました。
お題「料理」私の歌です

薔薇色に煮込むりんごのコンポート土曜の昼はシナモン香る
                        多香子
コメント一つ、お点も一点でしたが、この歌は自分では納得している歌ですからそれほどへこみません。読み手としては、お題「料理」にもっとおいしい歌が並ぶかと期待したのですが、私からするとそれほどでなかったのが残念でした。

(私式の手抜きコンポートの作り方)
私も母もお酒が駄目なので、ワインは使いません。まず半切りのりんご(紅玉)の皮をむいて、その皮を平ためのお鍋に敷き詰めます。水をひたひたに入れて、ひと煮立ちした上に(これは皮から紅い色を出すため)イチョウに切ったりんごを乗せて、中火で3分ほど煮たところで皮を取り出します。水分はピンク色になっているので、これでお砂糖をたっぷり入れ(量はお好み)煮込みます。5分ぐらいでりんごが透明になってきたらシナモンをふって、そっとかきまわして火を止めます。私は一回にりんご1,5〜2個を煮て保存容器に入れ冷めたら冷蔵庫に保存して、パンに添えて食べたりします。
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2013/12/10

帰る家は(江戸川橋)  短歌

久々に母の事を書こうかと思う。母は書くことが憚られるような色々な事をしてくれるようになったので、私の歌も美しく夢見心地なものになってくるのは、日常生活の裏返しとおもう。
認知症でなくても人は年を取るごとに子供の頃が思い出されたり、もうなくなった家が懐かしく思われることだろう。しかし認知症の人は子供返りをするので、今いる環境がどうしても自分のものではないと思うらしい。私の母も月に一度か二度「帰りたい」が激しくなり「帰らなくては」「すぐそこだから」という騒ぎを繰り返す。

母が生まれて育った家は旧牛込区(今は新宿区)の山吹町という江戸川橋の近くだった。母が子供の頃神田川は護岸ではなく土の土手で上流には滝があったと言う。川の向こう側には細川さんのお屋敷があり(今の江戸川公園や永青文庫)その上の関口台はお屋敷ばかり、反対に母の居た側は下町の商店街だった。大通りは早稲田通りといって高田の馬場から早稲田大学への道だったから、母の生れた家は学生下宿を兼ねた旅館であった。小学校はその早稲田通り沿いにあって、戦後高校に転用され今は建て替えられて山吹高校となっている。その校舎が取り壊しの前にお友達と二人たずねて、懐かしさに涙したことも本人は忘れている。
昔よく買い物をしたと言う地蔵横丁という商店街は残っていて、入り口かどの「子育て地蔵」のお堂もきれいにして守られている。何年か前に母を連れて行ったが、商店街の道もカラー舗装され店もきれいになって賑わっているのに、母にしたら何の記憶の糸口にもならないらしく、私達もがっかりしたことがある。ヘルパーさんには「もうずっと江戸川橋には行ってない」と言っていたが(実は年に三回は連れて行っていた)この頃はそれも言わなくなったし、私達も連れて行くのをあきらめてしまった。
山吹町の家は戦災で焼けてしまい、一家は世田谷に疎開の後荻窪から上野へ出た。母の一番懐かしい家は、江戸川橋の家である。認知症のはじめの頃は、「帰りたい」といっても「焼けてしまってないでしょ」というと分かったのだが、このごろは「焼けたけれど、建て直した」とか「すぐそこにあって、お父さんお母さんが待っている」と言い張ったりする。そして「帰りたいけどいけないと言われた」と泣いても五分ぐらいで忘れてしまい、それを一日何回も繰り返す日が月に一回ぐらいあって、周りは大層苦労する。

私は幸いなことに高校の友達がみな介護経験者(現在の人も)なので、電話でいろいろ話せるのだが、みんな年を取ると「帰りた」くなるらしい。よく話に出てくるのは、私達もいずれそう言う時が来て、その時帰りたい家は何処なのだろうという事だが、今の生活に追われていると、果たして自分の心のふるさとは何処なのだろうと思わずにいられない。

帰る家はどこかと心たずねてもすすき野原に狐よぶのみ  多香子
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