2014/5/17

「そののち歌会」5月  「そののち歌会」

五月は「うるわし五月」というくらい緑の美しい気持ちの良い月であるのに、年一回の病院月であるため五月と思うと心せわしくなります。今年はお祭りが陰の年なので、そちらの面倒はないのですが穏やかな風に揺られていたいと思う希望はかなうはずもありません。そのような時のネット歌会はありがたいものです。リアル歌会では感情を出すまいと苦しいだろうし(よく知っている友達同士でも気分を害することがあるのだから)尤も母は、ちっとも目を離せない状態になっているからリアル歌会とか、講演批評会なども無縁な生活でいます。

五月前半の「そののち歌会」は、お題「家、建物」で広がりのあるお題だったけど、私はいつもほど何首も詠まずにこれと決めてしまいました。今回のゲストは「塔」編集長の松村正直さん。23首のお歌が集まって、力作が多い印象だったのですが、難解な歌は多くなく選は結局は好みになるので選に迷う気持ちでした。私の歌は

焼け残る古き洋館子供らは二十面相のアジトと噂す

この洋館は昔上野にいたころ近くにあったもので、古くて不気味なものでした。私は空想癖の怖がりな子供だったから、何かしら悪者や閉じ込められたお姫様がいるのではと恐れたものです。小学校に上がるころにはなくなっていたような気がしますが、私も越してしまったのでその後は知りません。この歌を作る時に過去形で詠おうと苦心してみたのですが、どうにも音や数がうまくなく、現在形でおさめてしまいました。それについての指摘はなく、「三丁目の夕日」のような捉え方をしていただけたのがありがたかったです。現在残っているこのような洋館は、細川さんの「永世文庫」でしょうか。7点頂きました。天(2点)をお二人つけてくださって嬉しかったです。

ゲストの松村さま、選ではないものにも寸評をくださって、私の歌にも
「懐かしい感じのする歌ですね。少し道具立てを揃え過ぎたかもしれません。」という評をいただきました。ありがとうございます。
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2014/5/13

「緑はるかに」  短歌

私が子供の頃、新聞に絵物語つまり今のストーリー漫画のようなものが連載になっていて、子供向けに「少年ケニア」などは大人気であった。そういう絵物語の一つに「緑はるかに」という少女物兼少年探偵団みたいな話が読売新聞に連載され楽しく読んでいた。
今調べると北条誠原作中原淳一挿絵で、中原淳一は戦後も「ソレイユ」で洋服デザインなどとても人気があったから、この物語も人気があったのだろう連載後日活で映画化された。その主人公の目の大きな女の子の役として選ばれた浅丘ルリ子(当時14歳)がデビューしている。

私の住んでいる神田〜御茶ノ水周辺に昔は映画館が五、六軒あってどこの映画会社の直営もあったから、小学校の映画会と言うのはその映画館に生徒が出掛けていくと言うぜいたくなものだった。尤もそれ以外にも東映のサード館で三本立てと言う所も近かったので、毎週見に行っていたのだけれど。(「笛吹き童子」や「紅孔雀」などは学校では連れて行かなかったから。)その映画会で「緑はるかに」を見に行った記憶がある。
その当時は誰も噂をしなかったし、浅丘ルリ子はかわいいと言われるだけで、今川中学に在学中の中学生だということを(学区が違うので)誰も知らなかったと思う。ただ本名が浅井信子で役名の「ルリコ」を芸名にとったという話は聞いていた。話の筋はたいして覚えていないが、オルゴールに秘密が隠されていてということだけ覚えている。1955年だから戦後十年、少し物が出回ってきてオルゴールと言うのは女の子の憧れの小箱であった。私もそれより大分あとで誕生日に買ってもらったオルゴール函をまだ持っている。
私が高校生のころに、すぐ近所のひとから「浅丘ルリ子のお姉さんは家に住んで洋裁をしていたのよ」と聞いたので、女優として売り出していても姉妹の人はそんなものなのだろうかと思ったりした。その頃でも洋服の仕立てをして生計を立てていた女性は多く、ただ神田のこのあたりは紳士服の仕立て屋が多くて、婦人服はお店をもたずにやっているひとが殆どだった。須田町に行くと生地屋や材料屋が並んでいたが、いまでは家の方はスポーツ屋街、須田町は普通のオフィス街になってしまった。
ウィキペデイァによると浅丘ルリ子の一家は館山の引揚者寮から神田鍛冶町に家を借りて越してきたとある。そのお姉さんが居た家も奥さんが館山出身だったから、何らかの縁があったのかもしれない。
私達が学校から「緑はるかに」を見に行った日活館も、銀映座もシネマパレスも南明座もみんななくなってしまっている。

ユリの樹よ緑はるかに時は過ぎあのオルゴールはどこへ行ったの                         多香子
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2014/5/9

秀歌(30)宮柊二B『日本挽歌』  秀歌読みましょう

『日本挽歌』は昭和28年刊行の第五歌集で、昭和25年(柊二38歳)〜昭和28年(40歳)の作品を集め題名は折口信夫。折口は丁度この歌集が刊行された年に亡くなっている。柊二は師と仰ぐ白秋にしても折口信夫にしても思いがけなくと言うように亡くしているが、それを上回る多くの事を受けてきていて、それは彼の幸運というものではないだろうか。
この歌集の頃柊二は勤めていた富士製鉄の工場から本社勤務となり、高井戸の社宅に移り住んで生活も少し安定してきていた。昭和26年といえば杉並区などまだまだ田舎風景で、柊二の筆にも家のまわりの自然や鳥などの描写が出てくるようになった。落ち着いてあたりを見回す心の余裕のようなものもありながら、昭和25年勃発した朝鮮戦争への懸念も詠っている。「戦争」は柊二の心を終生離れなかっただろう。

子も妻もわれより遠くおもはれて野分する午後家いでてきつ

一人来てわたらむとすも夜の電車とどろき去りて暗き踏切

山鳩の来啼く竹群(たかむら)このゆふべものをおもへとしずまりはてぬ

公然と再軍備論なすものを憎み卑しみ悶ゆとうつたふ

新しきとしのひかりの檻に射し像や駱駝はなにおもふらむ

軒下を猫鳴いてゆく夜の厨つめたき酒をふふめば噎せぶ

みずからを偽るまいとおもふとき体ほてりて夜の闇にをり

おとうさまと書き添へて肖像画貼られあり何といふ吾が鼻のひらたき

決したる心に揺ぐ寂しさを孤(ひとり)のものと我は堪へたり

蝋燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代過ぎぬ

家族の描き方が今の時代と違って、柊二でさえ日本男子である。妻の英子さんがどの時もそれを不審とせずついていくのは、やはり時代に生きている女性だからだろう。柊二は自分を時に卑下し道化てみせる。我こそが宮柊二という歌が出てくるのはもっと年を経てからで、十首目の蝋燭の炎の歌のように、40にして若き時代が終わったと歌っているのは不惑と言う年であるとともに、次の年に出発する「コスモス」というものへの新たなステップを感じているからではないかと思われる。
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